聖書日課

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10章1〜19

30

イザヤ書 10章    20〜34

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1997年9月1日(月)

ヨブ28章(12、13、28)

 人が理解できない色々な出来事や、不愉快な事柄が起こってくるとき、何が解決になるのか。それは、人の世の中からは与えられない(13)。神からのみ来るものである(28)。

私たちの人生には悩みがある。人間関係の軋轢もたまらぬだろう。私たちには数えられないほどの悩みが押し寄せてくる。

 ヨブはその解決を得るために、金塊を探すように、サファイアを求めるように求めたが、解決の道は人の中には何処にも見出されなかったという。主イエスは、人が宝物を畑の中に見つけたら、全てをなげうってその畑を買うであろうと言われた。

 私たちは生きる道の宝を見つけねばならない。私たちは、ヨブが見つけるのに困難した知恵を、主イエスの中に見出すことが出来る。

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1997年9月2日(火)

ヨブ29章(4)

 ヨブは過去の幸福な時代のことを思い返している。子供達がまわりにおり、牛乳や油は豊かに満ちていた。人々からは尊敬されていたし、多くの貧しい人に助けを与えることもできた。その上、ヨブの教えにも人々は耳を傾けた。何故こんな思い出をヨブが語っているかというと、それが神の守りと神の親しみが豊かにあったから(2,4)だと信じているからである。

 そのように愛して下さった神が、自分を苦しみに会わせられるのか。それがヨブにとっての疑問であった。人は罪の故だというのだが、愛の神を離れることは出来ない。過去を思い出しつつ、今もその神は共にいますと信じる。

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1997年9月3日(水)

ヨブ30章(24)

 昨日の幸福は、今日不幸になった。ヨブに臨む苦難は二方面からやってくる。一つは外からである。昨日までつまらない者だと言われていたような者が、今日はヨブの不幸を見てあざ笑い、笑いぐさにする(9)。そして傷口をもっと開けるようなことをする(14)。もう一つは内側からである。それはヨブ自身の中から崩れるように起こってくる数々の疑問である。

 彼はその信仰が行きつ戻りつ逡巡しながら、その解決を求める。しかし、そのような苦難の中にありながら、人々がヨブを卑しめるのは「神が」許されたからなのだと思う(11)。不屈の信仰と言うが、偉大なるヨブである。

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1997年9月4日(木)

ヨブ31章(7、8)

 ヨブは自分の正義を主張する。

@不道徳に身を汚さなかった(1−12)。

A思いやりのない生活はしなかった(13−22)。

B神の変わりに金を頼りにするようなことはしなかった(24,25)。

C偶像をしたって神を離れるようなことはしなかった(26−28)。

D不真実な行為をしない(29−40)。

これほどの正しい行為をしたヨブは素晴らしい聖徒であると言えよう。このような者を誰が有罪だと宣言することが出来ようか。彼は神の答えを待ち望んだのである。

 しかし、これほどのヨブでさえ最後には悔い改めている(四二章)。もしそうなら、私たちは何処に立てばよいのだろう。主の贖いにより頼むほかに道はないではないか。罪の許しとは、それほどにまで及ぶものなのである。

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1997年9月5日(金)

ヨブ32章(33),33章(23)

 神から遣わされた者なるエリフが、これまでの沈黙を破ってヨブに語り始める。彼はヨブの「神が正しくない」と言う態度に怒った(三二・2)。そして、三三章から本論に入る。エリフは次のように語る。

 ヨブは神の答えが欲しい。自分は正しいと主張しているが、神はじっと心を傾けるなら、語りかけておられる(13)。夢の中でも、病の床においてさえも(15,19)、そして、神の遣わされる使いを通してでも(20)。これは聖書の他の言葉を借りて言えば、自然や良心を通して、また誰かの言葉を通して、神は私たちに語りかけるのだとエリフは言うのである。

 もし、ヨブに「仲保者」がいて、正しい道に導くなら幸いだと彼は言っているが(23)、仲保者なる方に聞き従うなら、私たちは恵まれる。

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1997年9月6日(土)

ヨブ34章(12)

 エリフはヨブの言い分を二つの点にまとめて言う。

@神は罪のない者を不当に取り扱っている(5,6)

A人が神の友になっても何の益もない(9)

このように言うヨブの苦情に対してエリフは答えた。神は決して不義は行わない。私たちには全部を知ることは出来ないが、神は不公平なことはなさらない(10)。

それが証拠に神は今もなお世を治めておられる(17)。そこでエリフは、ヨブに、神の前にへりくだりなさいと勧めるのである。31節はヨブのことを暗に指さし、そのようなことはもはや言わぬ方がよいと教える。

 私達もどうかすると、すぐにつぶやきやすい者であるが、全くへりくだりを持って、神の前に生きる者でありたいと思う。

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1997年9月7日(日)

ヨブ35章(5)

 ヨブは、正しい者であっても苦しみに会うなら、罪を犯している者と少しも変わりない、正しい生活をするだけばからしいという(3)。

これに対してエリフは答えた。何故そのようなつぶやきごとを言って神に逆らうのか。何故暗夜にも歌を与えて下さる神を求めないのかと(10)。

神様はつぶやいたり、不満を述べ立てることで聞いて下さる方ではない(12,13)。やはり、心沈むようなときにも、へりくだって、歌うことを教えて下さる神のところに行くべきである。

「天を仰ぎ見よ。あなたの上なる高き空を見よ」と主は言われる(5)

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1997年9月8日(月)

ヨブ36章(15)

 「耳を逆境によって開かれる」。神は力ある方である。その力をもって我らを導いておられるのだから、苦難もをそのみ手の中に置いておられる、と知るべきである。

さて、主はその苦難を用いて、教えを与え、神に聞く道を示される。

 パウロは「神はいかなる患難の中にいる時でも、私達を慰めて下さり、また、私達自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることが出来る」(第2コリント1・4)と言っている。彼は苦難を通して神の慰めとは何かを知るようになったと言うのである。私達には、何が教えられるのだろうか。24節では「神のみわざをほめたたえることを忘れるな」と呼び掛けている。

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1997年9月9日(火)

ヨブ37章(15)

 神は自然を造り、これを支配される方である。稲妻も、雪も、雨も神の命令によってその秩序を守り、氷も、雲も、神のためである。これは恐らくエリフが語りつつある間に、雨が降り、稲妻が光るのを見て、神を語ったものであろう。

 彼はヨブに、あなたは神の知恵と力を知っているかと、問いかける。大雨が降るなら、獣は洞穴に入り、そこに隠れるようにされる。また雲の中にも虹を出させるように、神は苦しみの中にも希望の光を下さる方である。苦しい時にも慰めと喜びを下さる神様を仰ぐべきことをここに勧めるのである。

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1997年9月10日(水)

ヨブ38章(41)

雄大な自然の詩である。神はヨブに自然に関する質問をされる。天と地について、光と闇、雪、雨など数々の自然現象について美しい言葉をもってヨブに尋ねられた。その中でヨブは2つのことを示された。

  1. 死ぬべき人間は神の道を完全には理解しえない無知な者であること。
  2. 神の摂理のみ手は、正確で愛と知恵をもって世界を導いておられることである。

そのように偉大な神様はからすの子が鳴く時にも餌を与えなさる方である。これは主イエスの山上の説教を思い出させる。「知恵」という語が何回も出てくるが、それは神の知恵を指している。自然に対して知恵を持つ神は、まして人聞をや。

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1997年9月11日(木)

ヨブ39章(5)

 神の問いかけはなお続く。野やぎ、ろば、野牛、だちょう、馬、鷹、鷲など動物の生態を尋ねる。

「知っているか」という質問と「できるか」という質問である。ろばを自由にできるだろうか。愚かなだちょうのようなものを賢くさせられようか。ヨブだけではない。人間にはそんな事は出来ない。人間は無知であるばかりか、無カでもある。

このことによって、神はご自分のカある業を教えなさる。神は、ろばのような愚かで強情なものも解放したように、私達をも自由にして下さる。

この神の力の下に、私達は低くなるべきである。

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1997年9月12日(金)

ヨブ40章(4)

 かつてヨブは「わたしは彼の前にわたしの訴えをならべ、ロをきわめて論議する」と言った(33・4)。しかし前章において、「あなたはどれだけのことを知っているか」とか「なにが出来るか」とか問われて、人間の無知・無力を知らされたとき、ヨブは神のみ前に沈黙せざるをえなくなった。

 苦難があるのは罪の結果であると簡単に言えないし、また正しい者が苦しみに会うのはなぜなのかと、苦情と不平を神の前に一杯並べたてるのも良くない。なぜなら、人間は知らないことが多すぎるからである。パウロは、「ああ、深いかな、神の知恵と知識との富は。・・・・その道は測りがたい」(ロマ11・33)と言う。キリストを与えたもうほどの神が、私達のために最善をなさらぬはずがあろうか。

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1997年9月13日(土)

 ヨブ41章(10,11)

 本章はワニのことを美しい詩的な表現で描いている。ワニは力が強い。その歯は恐ろしいばかりに生えている(14)。その背の皮は厚く強くて、槍や矢で切ろうとしても歯がたたない(26)。だから、ヨブよ、そのようなワニを釣ったり、それと遊んだリなどしないだろう、と神は言われる(1ー5)。

 なぜこんなにワニこのことを書いているのだろうか。人間にとって、ワニのようなものでも手におえないとしたら、神の前に立って議論しようなどとはとんでもないことだというのである。前章と同様に、ヨブに「何が出来るのか」と問いかけられるのである。

私達は思い上がってはならない。苦しいことがあるとすぐ、神様がいるとかいないとか騒ぎ立てることは、こざかしい人間のごうまんさであると本書は教えている。

謙って神の業に一切を委ねることである。

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1997年9月14日(日)

 ヨブ42章(10)

 ヨブは最後に悔い改める。それは彼が何か特別な罪を悔い改めたというのではない。ヨブは苦しさの故とは言え、「罪もない者がなぜ苦しむのか」とか「神様がいるなら議論したいものだ」「罪人でも平安に生活し、義人でも苦しむのなら、正しい生活をするなどというのは馬鹿らしいことだ」などと言う態度を悔い改めたのである。

 すべてのことの裏や表を、神様のように知ってもいないのに、やたらに神様に指図でもするような口をきいてはいけない、とヨブは分かったのである。

「すべてのこと相働きて益となる」(ロマ8・28)。神様に委ねていくとき、決して間違ったことを神様はなさるはずがない。

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1997年9月15日(月)

 イザヤ書1章1〜17節(2)

列王記は預言者の活動した時代でもあるので預言書を学ぶことにする。

イザヤは、ウジヤ(アザリヤ)等の時代の預言者である。彼は第1章から神の民の罪を語っている。2〜9節は民の罪。@エジプトの生活、即ち罪の泥沼の中から救出されたのに、その神の恵みをすっかり忘れてしまっていると忘恩を嘆いているのである。Aその罪は聖者をあなどることだという。Bその結果、足の裏から頭まで傷だらけになっている。これは、心の腐敗状態を示しているのである。列王記で見たとおりである。Cついで外国による侵略が国土を荒していると述べる。D10〜17節は宗教的な堕落を述べる。他方ではバアルを拝みながら、神殿で礼拝するのを神は嫌うという。しかしこのような民をも神はきよめられる(18)。私たちは2,3節に述べられている養い、育てて下さる神に感謝の思いを忘れずに従いたい。

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1997年9月16日(火)

 イザヤ書1章18〜31節(18)

 前章に書かれていたように、神の民は、罪に満ちている。しかし神の御心は、もとのように人を作りかえることである。

神は、かつて忠信なりし者が遊女となり、公平なる者が不義なる者となったことを嘆いておられる(21)。しかし、人々をあきらめて捨ててしまうのではない。何とかして贖い、神の民らしくしたいのである。そのために18〜20節に、回復の恵みを伝えている。罪をきよめて雪のように白くし(18)、更に、混ざりものを除いて純粋なものとする(25)。神の民をそれにふさわしくするのは、罪をきよめる事から始まると主は言われる。自ら喜ぶかしの木とか、自ら選んだ園とは(29)、自分が勝手に決めた自己信頼の方法のことである。人はそれでは喜びや救いは得られない。神が罪をきよめてくださることこそ、信仰生活の原点であるとイザヤは訴えている。

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1997年9月17日(水)

 イザヤ書2章1〜5(5)

 イザヤは現在を見ると共に、未来に目を向けた人である。現在は暗黒で、背信と荒廃が続いているが、やがて神の栄光が現れる時が来る。それは終わりの日である。終わりの日はキリストが十字架にかかり、贖いが完成した時に始まり、再臨によって完成する一つの時代を指す。本章には、その終わりの日に、@神の家が確立するという。それは、神殿のことであり、即ち真の礼拝の生活が立てられる事を意味する。主により罪ゆるされ、はばからず神に近づけることは、何たる特権でありうか。A次に真の平和が与えられる。剣や槍が農機具となる、というのは平和な世界の事である。人間による誰かの提唱によって平和は来ない。主によらなければ平和はない。今日も「神の家へ行こう」と言いたい。このような礼拝と平和な生活こそ「主の光の中を歩む」事である。

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1997年9月18日(木)

 イザヤ書2章6〜22(22)

 終わりの日のことを主の日とも言う。本章前半にはこの日に神の祝福が来ると述べているが、今日の箇所には、主の日には、裁きがあるとある。低くされるとか、かがめられるとかの句が多いが、それは神の裁きのことである。神以外のものに依り頼み、それによって自らを高くしている者は低くされる。外国人に頼み(6)、彼らの持つ金銀や、軍馬によってイスラエルやユダは自分をかろうじて保っていた(7)。しかも外国人と共に持ち込んだのは、偶像と不道徳であった(8)。

要するに、22節のように、イスラエルは、「鼻から息の出入りする人に」頼ったのである。神に逆らう者はそれが何であっても、高くされているのはしばらくであって、やがてそれも低くされる。私たちは見えるものに頼り、それをあてにし易い。イザヤはそれを警告した。どうか鼻から息の出入りするものに頼らず主をあてにしたい。

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1997年9月19日(金)

 イザヤ書3章1〜12(8)

 イザヤが本章のことを述べた時、国は栄えていた。しかし、その内容は腐れ、列王記で見た状態であった。預言者は神がもたらす審判を語ったのである。それは社会的混乱である。

@食糧が不足する(1)。A勇士と軍人が取り去られるので軍事力がなくなる(2)。裁判官が除かれるので社会の秩序は低下する(2)。B預言者が取り去られるので、神の言葉は聞かれず(2)、その代わりに起こってきた占い師でさえ取り去られるの(2,3)。Cそれに代わって幼子のように無力な者が政治をする(4)。外套を持つ者とは比較的富める者のことであるが、彼らに頼んでも引き受けない(6,7)。何故そのようになるのか。イザヤは、民が主に背き、主のご威光に逆らったからであると言う(8)。即ち神が栄光を顕わし、み言葉を語っているのにそれに逆らったのである。我らは主のみ顔を仰ぎ、倒れぬようにさせてもらいたい。

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1997年9月20日(土)

 イザヤ書3章13〜26(16,17)

 3章前半のような無力で無秩序な状態をもたらしたのは、民が虚飾によって腐敗し(16〜21)、民の政治的リーダーが世の中を食い荒らしたからである(14,15)とイザヤは語る。16〜23節は虚飾の民を述べるものである。シオンの娘とは必ずしも女のみではなく、エルサレムの人々全部を指す。その人々はあたかも女性がここにある装飾品で飾りたてるように、表面的な事のみで自分をよく見せようとし、よい人であるかのように見せる。しかし実際には、内は高ぶりであり、気取りにすぎない(16)。だから神様は、隠された所をあらわし(17)、飾り物を取り去ってその真の姿をあらわす(24)、と言われるのである。表現の飾りが取り除かれて、醜悪さが出るのは耐えられない。しかし、キリストの義の衣が着せられている者(エペソ4章23、24節)に対し、それを取り去る者はいない。

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1997年9月21日(日)

 イザヤ書4章(2)

 ここに2つの「その日」があるが、1のは裁きの日であり、2のは祝福の回復の日である。裁きの日には、3章25節のように、多くの男が剣で倒れ、そのために結婚すべき男子が少なくなると言う(1)。しかし、神はこの民を回復する。@裁きの火は民の中から悪を除き去るための火であって、回復は新しい出発である(3)。A裁きはあっても、「残る者」を神は取っていて下さる(2,4)。それらは命の書に記された者である。Bこれらの民は、淋しく残る者ではなく、枝に実がなって栄えるように繁栄し(2)、また昼は雲を持って覆い、夜は火の輝きを持って導いたかつての40年の荒野の生活ように保護を与えて下さる。

 裁きのある時には反省する必要がある。しかし、同時に神様は祝福を持って待ち受けておられる事を覚えたい。栄える枝のようにしてくださる。

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1997年9月22日(月)

 イザヤ書5章1−19(1、2)

 1−7はぶどう畑の歌で、8以下には、「わざわいなるかな」を六度繰り返して民の荒廃を嘆いている。ぶどう畑はイスラエルの民のたとえである。エジプトの地から移植してカナンに植え、よい実のなる事を期待していたのに、結んだ実はすっぱく野ぶどうであった(2)。主に救われて神の子となったのに、人が食べる事のできない実しか結ばないとしたら、主は嘆かれる。何故そんなぶどうになったのか。8以下に理由が書かれている。8〜10は貪欲の罪である.家も土地も自分一人のものにしようとする。11−12は快楽の罪である。18−19には不信の罪を書いている。うそを網にして悪を引き寄せる。しかも、なるべく早くその悪が来るようにと急いでいる。よい実を結びたい。そのためには、ただ主にのみつながっている事である。そうすれば主が実を与えて下さる。

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1997年9月23日(火)

 イザヤ書5章20−30(24)

 本章後半も「わざわいなるかな」の続きで、イスラエルの民の罪と国家の滅亡を預言している。人々は悪を善と呼ぶように道徳的な堕落をし(20)、強い酒を飲んで快楽を求めている(22)。また賄賂を使って、政治も裁判も腐敗している(23)。しかも自分たちは賢いのだとうそぶくのである(21)。何故そうなったのか。それは「主の律法を捨て、イスラエルの聖者の言葉を侮ったからである」(24)。み言葉を離れ、それを捨ててはならない。必ず何か別のもので人は自分の心を満たそうとするからである。25以下にはこのような罪に対して裁きのあることを述べる。一つの国民(26)、即ちバビロンを起こし、これによってユダの民を裁くのである。神は裁くのを好むのではない。しかし悪を放置する神ではない。どうか神のみ言葉を軽んじないで、それが祝福の根源である事を覚えたい。

 

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1997年9月24日(水)

 イザヤ書6章(7、8)

 本章はイザヤの召命ときよめの証しの箇所である。彼はこれまでも宣教をしていた。しかしウジヤの死んだ時、国を思いつつ神殿で祈っていたに違いない。その時イザヤは自分自身の汚れを示された。聖なる神の前にひれ伏しきよめを求めた時、火をもってきよめられたという経験を持ったのである。火ばしできよめたとの表現は象徴的であるが、大切なのは心の内のきよめが与えられたという事である(7)。十字架の血が我等をきよめる。さてこの時、私をお遣わし下さいと献身し召命を受けた。9、10は難解な句であるが、要するに、福音を伝える人々はメッセージに対してかたくなな者だ、という意味である。イザヤが伝道の困難に絶えられたのは、きよめられた者となったからである。きよめと伝道は一体である。

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1997年9月25日(木)

 イザヤ書7章(9)

 ユダの王アハズの時、隣国スリヤとイスラエルが同盟してユダに攻めて来ようとした。その民の心は揺れ動いた(2)。(エフライムはイスラエルのこと)。イザヤはこれら同盟軍が攻めてきても、くすぶり程度の力しかないから恐れるなと励ました(4)。そこで更にアハズには神が共に在すのだから、この難局に勝つために信仰を持ち、「しるし」を求めよ、とイザヤは勧めたが(11)、アハズはさも信仰ありげに、それを求めなかった(12)。ここにインマヌエル預言があるが(14)、ここに一処女がいて誰かと結婚し、子供が生まれてやがて善悪の分かる年齢になる頃にはスリヤ、イスラエル両国は滅びる、というものである(16)。インマヌエルはイエス様によって実現する。アハズは信仰らしく言ってはいたが、裏では両国を滅ぼすアッスリヤに頼っていたのである。これは信仰ではない、「信じないなら、立つ事はできない」

 

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1997年9月26日(金)

 イザヤ書8章(8)

 イザヤと妻(女預言者、3)の間に子が生まれアヘル・シャラル・ハシ・ハズと奇妙な名をつけた。この名はアッスリヤの侵略によって「獲物が持ちゆかれる」事を意味した。事実イスラエルとスリヤの両国は大川の水のように(7)、アッスリヤにより滅ぼされた。ところがユダ国の中にもシロアの水、即ち真の神を捨ててこれら両国になびこうとする者があった(6)。イザヤはそのような者は神の言葉を語っているようであるが、夜明けを持たず、暗黒だという(20、21)。彼は神の民は万軍の主を恐れかしこみ(13)、巫女や魔術者を求めている時、真の神を求むべきだと勧めているのである(19)。何故か。それはたといアッスリヤの侵略がユダに流れ込んでもインマヌエル(神我等と共に在す)の神は、翼を覆って我等を保護しておられるからである。困難が襲って来た時、インマヌエルの神を信じよう。

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1997年9月27日(土)

 イザヤ書9章1−7(6、7)

恵みの回復が神によって与えられるとの約束の章である。ゼブルン、ナフタリの地は北部にあり、北からの進入にまず最初に犠牲となった地域である。しかしこのガリラヤ地方にも光が与えられる。暗闇から光へと転換が来る。その理由として、神様が民の重荷と取り去られたからであると言う(4)。しかしもっと大きい理由は、支配者が代わったからである。6、7はその王について描写している。ここに男の子とあるが、それは誰か一人の人間ではなくメシヤである事は明白である。即ちイエス・キリストによって実現したのであり、6、7は主イエスをさしている。主が私達の人生のまつりごとを負って下されば安泰なのである。イザヤはその方を望み見たが、今はすでに実現している。主の肩にになわれて、私達の道を歩みたい。

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1997年9月28日(日)

 イザヤ書9章8−21(13)

北イスラエルのごうまんと頑固さを述べている。瓦が敵の進入によって崩れても、それが神の裁きと思わないので神に立ち帰ろうとはせず、自分の計画に従い、切り石で立て直そうとする(10)。イスラエルを侵略させているのは実は主だというのに(11)、イスラエルは悔改めず、自分の力にのみ頼ろうとする。13には神の嘆きの声が聞こえてくる。何故万軍の主を求めないのかと語っている。それゆえ主の裁きは続く。民の指導者は取り去られ、偽預言者さえ取り去られる(15)。その結果みなし子や、やもめさえ顧みられず、悲しみの中に置かれる(17)。マナセやエフライムは一番親しい間柄であるのに、お互いにかみくらう関係になってしまった。こんなになっても主を求めない者は最も悲惨である。神に喜ばれる人は、失敗しない人ではなく、どんな状態からでも主を呼ぶ人である。

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1997年9月29日(月)

イザヤ書10章1−9(15)

 前章に続いて1−4にはイスラエルの不義がかたられている。裁判を曲げて貧しいものの財産を奪う(2)。それ故神のさばきは来る。その裁きはアッスリヤを通してくる。神は世界の神である。だから神はアッスリヤをもしてイスラエルをうたせるのである(5)。

 イスラエルは神の選民だから神の裁きを受けることはあるまいと、たかをくくっていたが、そうではなく、裁きは誰にでも罪あるものに来る。ところがアッスリヤも、神の手の中にあるものなのに、自分が何者かでもあるかのように高ぶっている(13,14)。13,14にある要点は知恵と力の誇示である。斧であるアッスリヤは、それを使う神に向かって自分の力を誇る(15)。イスラエルもアッスリヤも、誠に譲ることをしないものである。私たちは神の器、道具に過ぎない。傲慢と誇りは神の前に捨てるべきである。

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1997年9月30日(火)

 イザヤ書10章20−34(24,25)

「残りの者」という思想がイザヤ書には強く表れている。これは昔からあり、例えばエリヤの時にバアルを拝まぬ七千人もこの思想を表している。神は多くの民の中から特に主に従う者を選び出し「残りの者」と呼ぶ。堕落と背信の民の中から神の民の真の姿と、その使命を全うする者を神がとって置かれる。アッスリヤの囚われを通過しつつ神の民の中から、かすが除かれ純粋にされる。そのものが囚われの地から帰ってくるのである。だから24,25節にはしばらくの試練の時を恐れず忍耐せよと励ます。27節以下にリンモン、アイアテ等町の名が記されているが、これは外敵の攻撃の順序である。誰もこの進軍を妨げることは出来ないが、万軍の主のみが枝を切るようにアッスリヤを止める(33)。主の許容した試練でも、やがてそれを過ぎ去らせ、神は幸いに変えて光を与えて下さる。

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