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聖書日課 |
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1997年10月 |
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1 イザヤ書11章 |
2 イザヤ書12章 |
3 イザヤ書13章 |
4 イザヤ書 14章1〜23 |
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5 イザヤ書 14章24〜32 |
6 イザヤ書 15章 |
7 イザヤ書16章 |
8 イザヤ書17章 |
9 イザヤ書18章 |
10 イザヤ書19章1〜15 |
11 イザヤ書 19章16〜25 |
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12 イザヤ書20章 |
13 イザヤ書21章 |
14 イザヤ書22章1〜14 |
15 イザヤ書22章15〜25 |
16 イザヤ書23章 |
17 イザヤ書24章 |
18 イザヤ書25章 |
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19 イザヤ書26章 |
20 イザヤ書27章 |
21 イザヤ書28章1〜13 |
22 イザヤ書28章14〜29 |
23 イザヤ書29章1〜12 |
24 イザヤ書29章13〜24 |
25 イザヤ書30章1〜18 |
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26 イザヤ書30章19〜33 |
27 イザヤ書31章 |
28 イザヤ書32章 |
29 イザヤ書33章1〜16 |
30 イザヤ書33章17〜24 |
31 イザヤ書34章 |
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イザヤ書11章(12)
1〜12章は、ユダについての預言の章であり、これまでにユダの罪、及び神のさばきが語られて来た。
しかし、本章には神による回復の恵みが伝えられている。イザヤ書中の偉大な章の一つである。それはメシヤについて述べるものであって、彼の性格、彼のもたらす時代、彼の業が預言されているのである。
イザヤ書12章(2)
11,12章は第一部の結びである。ユダの罪を神は罰したが、やがて罰にかえて回復を与えるというメッセージで第一部が終わる。この時神はもはや審判の神でなく、救いの神である。これこそ新約に表わされた恵みであって、今は恵みの時、救いの日なのである(第二コリント6:2)。
私たちが何か過ちを犯すなら、すぐ災いを下す神を思うのであるが、贖いのみ業はすでに完成しているのであるから、救いの主を仰がねばならない。だから「私は主に信頼して恐れることはない」のである。
2節後半は、出エジプト15:2の言葉だと言われる。つまり、イスラエル人がかつてエジプト脱出の時、神の救いを受けて、ミリヤムと共に、大声で賛美した言葉である。私たちただ救い主なる神に感謝し、救いの井戸から尽きない恵みを毎日汲み続けたいものである。
イザヤ書13章(9)
13〜23章は、バビロンをはじめとする10カ国に余る国々への預言である。イザヤがバビロンについて語った時は、まだアッスリヤの支配の時代であった。しかし、当時の小国バビロンはやがて強大となり、アッスリヤに取って代わる。
この国がユダヤをも滅ぼすのであるが、彼は悪を行い、不義をなし、高ぶり誇る者となった(11)。それゆえ神は、このバビロンを滅ぼされる。4,5節にはバビロンを滅ぼすための軍隊が諸国から集まって来る事を描き、それらがもたらす災いが無惨である事を述べている(14〜16,18)。そしてその後は廃虚となると預言する(20〜22)。
バビロンへのさばきの理由は後にも述べられているが、神はいかなる強大な国をも、御手の中に治めておられることを示すものである。滅びの現実を思い、しかも神がその中から救われる事を感謝して受けとめたい。
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イザヤ書14章1〜23(1、14、15)
今日の箇所も、バビロンの滅亡に関する言葉である。まず1〜3節で神がイスラエルの民を回復されることを述べている。神の民のみではなく、異邦人にも祝福が与えられるのだと約束される(1)。そのような祝福を与えるため、神はバビロンをさばく。バビロンの根本的な罪は、12〜14節にある。彼は「黎明の子」と呼ばれるほどに、希望を与えるはずの者であったのに、自らを神の位置に置こうとした。バビロンは、天に昇り、いと高き神のようになろうとしたのである(13,14)。
日本もかつて神の場び自分を置こうとして滅びた。バビロンはそのゆえに滅ぼされてしまうと告げられるのである(19〜23)。神を生活の第一にし、「まず神の国と神の義を・・」と言われる。これは神を私たちの主として崇めた生活の事である。1節の選びと14,15節の滅びが対照的に見える。
イザヤ書14章1〜23(1、14、15)
24〜27節はアッシリヤに関する預言である。アッスリヤは北イスラエル国を滅ぼし、その勢いをもって南ユダを攻めようとしている。
丁度その頃イザヤはアッスリヤもやがて滅ぼされる、と預言していた。世界最強の国が滅びるなどと、誰が考えられるか。しかし、主が定められた事は必ず立つ(24)、と語られたのでイザヤはそれを信じた。そしてその通りになった。
28〜32節はペリシテに関する預言である。ペリシテを打った鞭(アッスリヤの王)が死んでも、まむし(アッスリヤの別の王)が出てきてペリシテを悩ますから、喜んだり、安心してはならないと警告する(29)。
アッスリヤにしてもバビロンにしても、またペリシテにしても神の前には強大や、弱小は問題ではない。神様の定められた事は必ず成り、その栄光は顕わされる。神は世界を治めなさる。
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イザヤ書15章(5)
15,16章はモアブに関する預言。モアブはユダの東側で死海の東にあった。イスラエルとモアブの関係は歴史的に複雑である。ある時は親密であり、ある時は敵対関係にあった。ダビデの祖母ルツはモアブ人であり、ダビデも敵に追われた時、そこにかくまってもらった事がある。
モアブ自身もアッスリヤと同盟を結んだり、敵対した事がある。この頃はアッスリヤと組んでおり、それにより安全を得ていたが、モアブはシリヤ地域のアラブにより滅ぼされた。アル、キル(1)は、モアブの大切な町であるが滅びた。ゾアル(5)という南部へ逃げても、滅びが襲った。イザヤはモアブの悲劇を嘆いている(5)。「我が心はモアブのために叫び呼ばわる」とはイザヤの異邦人への悲しみの涙である。彼らも主に呼ばわればよかったのにと願うのである。
イザヤ書16章(11)
モアブは国を失い南のエドムへ逃げた。セラ(1)はその都である。ここからエルサレムへ向けて、小羊の贈り物と共に(1)使いを送り、3,4節の頼み事をユダの王にする「相はかって事を定めよ」とか「さすらい人を隠し・・滅ぼす者から逃れさせよ」は「・・して下さい」の嘆願である。更に彼らは5節のように、ダビデの家に真の王座があるとまで告白する。しかし、ユダの者たちは、モアブの者たちの嘆願が実は偽りであると見抜く。6節には彼らが高ぶりと誇り満ちた者であり、それゆえ荒廃と滅亡が襲ってきたのだと告げる。葡萄の木が切られたとか(8)、収穫がない(10)とはその事である。だから聖所に来て祈っても効果はない(12)。11節はこんなモアブを思って心配と憐れみの心で預言者の心は琴のように泣くと言う。偽物の嘆願ではなく心を傾けた真実の祈りをしたい。滅びる者のために祈りたい。
聖書日課の目次へ戻るイザヤ書17章(10)
ダマスコ(スリヤの首都)とイスラエル国(別名エフライム(3))に関する預言。ダマスコとイスラエルとは同盟を組んででおり、ユダ国に対抗していた(7:1参照)。
しかし、これらの国もやがて滅亡しようとしている。エフライムの砦は壊れ、ダマスコは倒れてしまうと告げられる(3)。何故そうなるのか。それは神を敬わないからである。スリヤの人々ならまだしも、イスラエルの者が神を忘れる事は、あるべき事ではなかった(10)。10節の「異なる神」はスリヤの生殖の神で、切り枝をさせばすぐ成長させ収穫し得ると言われていたが、そんな神に頼んでも災いが来るのみである。かくてオリブの収穫後、2,3箇の実しか木に残らないように、イスラエルにはよい者はほとんどなくなる(6)。
12〜14節はその災いが迫ってくるのを描く。神の民は、救いの岩に心を注ぐべきである。そこに救いの道がある。
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イザヤ書18章(7)
エチオピアへのメッセージ。エチオピアは反アッスリヤの同盟軍を作ろうと、ユダに提案して来た。しかしイザヤは、神の時が来れば全てが神のみもと「シオン」に来るから(7)、同盟は不必要だと言う。確かにエチオピア人は、肌なめらかで戦いに強い国だと言われていた(2)。
しかし神が旗を立て、アッスリヤを打つ時、エチオピアの助けがなくとも滅びてしまう。丁度農夫が葡萄の実を刈り取るように(5)。神様は、時を見はからってアッスリヤ軍を倒される。作物は日光が照り、雨が降って成長するが、神様はじっと自然のなりゆきを見ておられる(4)。
時到って神は必ず手を伸ばして決着をつける。イザヤは永きにわたって支配される神を信じており、目先のエチオピアの助けを信じなかった。むしろ力強い者が、主のみ名のシオンに来るようになると確信した。活ける神を信じたい。
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イザヤ書19章1〜15節(11,14)
エジプトの混乱と再興、及び世界平和が本章のテーマである。1〜4節は国内の混乱を書く。エジプト人はエジプト人に逆らう(2)。宗教的にも混乱があり、魔術師などを求める(3)。5〜10節は自然の災害を預言する。ナイル川に異変があり、農業も漁業もだめになる。産業が荒れ果てる。
11〜15節は政治の混乱。エジプトのリーダーも収拾をとることが出来ない。ゾアンやメンピスには王や、リーダーが住んでいたが彼らは愚かとなり、エジプトを迷わせた(13)。何故そのようになったのか。14節は主が曲がった心を彼らの中に混ぜたからだと言う。こては今の世界の状況に通じるものがある。人類を絶滅させる武器を作り、いくら相談してもやめる事が出来ない。かくて遂に「国の柱」が砕かれる(10)。教会も家庭も、柱である主が砕かれては立つ事が出来ない。よろめく者を立たせるのは主である。
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イザヤ書19章16〜25節(25)
今日の箇所はエジプトの回復である。「その日」が6回も出てくるが、イザヤ書では大切な語である。それは裁きの日でもあり、恵みの回復の日でもある。古い悪が滅び、新しい命が甦る、それが「その日」である。さてエジプトではユダのことが恐れられるとある(17)。これはその民族と言うより、その神である。それ故この町に太陽の町と呼ばれる町が生まれ、主を礼拝する祭壇や柱が立てられる。それだけではなく、世界に平和が与えられる。23にエジプト、アッスリヤの間に大路ができて、平和が世界的に与えられるとあり、それだけではなく、もろともに主に仕えるときが来る、というのである。25は結論であって、エジプト、アッスリヤ、イスラエル、つまり全人類が神のものとして祝福を受ける。こんな世界の到来がイザヤの与えられた幻であった。万人が主の救いの中に来るよう祈りたい。
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イザヤ書20章(5)
アッスリヤの王サルゴンの時代(紀元前711年)ペリシテの町アシドドが占領された。このとき、イザヤは事態の急を知り、ユダの人々に警告的な予言をした。それは彼が裸、裸足で歩き人々にメッセージを伝えたことである。このようなやり方はユダヤの地方では時々予言者らのしたことであった。彼のメッセージは、このような危急の折り、エジプトやエチオピアに頼むようなことは国を滅ぼすことになる、というものである。そしてイザヤは神のみに頼っていくようにと勧めたのである。神様に信頼するということは、易しいようで難しい。それは自分の都合や、具合の良いときだけ神様に信頼するというのではないからである。すべての中で主を認めつつ、毎日の生活をすることが、主に信頼することである。
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イザヤ書21章(12)
バビロン(海の荒野)とドマ(エドムのことで死海の南の国)とアラビヤに関する預言。バビロンは強大さを誇っていたが、つむじ風が突然来るように滅びが来る(1)。それは工フライムやメデヤの軍隊による(2)。バビロンの王が酒宴をしている間にも(5)、滅びが来る。こんなことがイザヤ後の時代に来るのだが、イザヤはそのような世界情勢を、神様の御計画とにらみ合わせて、「見張りびと」のように観察せよ、と主に告げられている(6)。今のバビロンの強大さに目を奪われ、神の計画を見失ってはならぬ、との意味である。預言者には神のみ業が見えていた。ドマも悩みの夜に続いて希望の朝が来ると、神のさばきと回復が告げられる(12)。私たちは永遠の主に目を付けねばならない。目先のことに注目しつつも、永遠者に目を向けるべきである。これが見張り人の役割である。夜もあるが朝も来るのだから。
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イザヤ書22章1〜14節(11)
幻の谷はエルサレム近くの谷であろう。紀元前701年アッスリヤのセリナケリブはエルサレムを攻めて来た。エラムやキルの兵が傭われてアッスリヤと共に神様を信頼して戦ったので勝利を得たのである。戦いには水と食糧が必要であるが、ヒゼキヤは城壁外の泉から水を取り地下水路を作って下の池(古池)へと導いて、水を確保し戦いに耐えた(9−11)。アッスリヤの攻撃は18万余リが一夜の中に死んだため中止となりユダ国は大勝し、民は戦勝の喜びで酔っていた(2)。イザヤは林の家の武具(ソロモンの武器庫)や泉の水で勝利を得たと思って暮ぶ人々の事で悲しんだ。こんな状態だと再度襲って来るバビロンによる攻撃にはひとたまりもない(12−14)。武器や水ではなく、勝利は主から来たのだと知ってもらいたかった。主を見つめよ。
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イザヤ書22章15〜25(23)
セブナはエルサレムで王の執事であった。それは総理大臣とも言うべき地位である。ところが、彼は先の戦いに勝ったのを喜び、勝利を与えられた神に感謝せず、ただ酔いしれていた。ヒゼキヤの父アハズの頃から重く用いられていたため、いよいよごうまんになり、自分の地位を利用し、王のような生活をしていた。王のような墓を造りおごり高ぶるのを見て、イザヤは「誰の縁故でここに自分の墓を造ったのか」(16)と非難している。やがてエリヤキムが、彼の地位に取って代わる。しかしこのエリヤキムもはじめは抜けない釘のようにしっかりしていたのに(23)、後にはぐらぐらになった(25)。セブナが死んだ後には、ただ華麗な車が残ったのみであった
(18)。初期のエリヤキムのように「堅い所に打った釘」のように、しっかり主につながっていたい。
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イザヤ書23章(12)
ツロについての托宣とあるが、シドンのことも書いてあるので、これらの国フェニキヤの事を預言したものであろう。この国は前701年セリナケリブによって侵略された。1には荒廃の様子がある。彼はもともと貿易の商人であった(3)。ところがこんな侵略に遭ったので海の城(ツロ)はシドンに子を持たぬ人のように嘆け、と言う(4)。しかしタルシシ(スペイン(6))やクプロ島(12)へ渡ればまたフェニキヤ再興のチャンスもあるかも知れぬと人々は考え、ツロの冠をもう一度考えた(8)。しかしフェニキヤ人は宝を神とし、貿易による港町の罪も大きく、それゆえに神がさばいたのである(9)。だからクプロに渡っても安息はないのである(12)。何処へ行っても。真の神に帰るまでは真の安息はない。心の空虚さを何かでまぎらわせても、神様以外には満足は来ない。主を求め、主におる時、真の平安と満足が来る。
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イザヤ書24章(14,15)
24−27章には全世界への神のさばきが述べられている。23章まではユダや周辺の諸国に神の支配のあることが語られていたが、本章からは世界への神の支配である。14・15節を除いて、荒廃した状態が全体的に語られている。それは神に与えられている万人共通のおきてを破ったからである。人の良心に与えられたおきてに背いたので、世界は罪に汚れた(5)。それゆえ喜びはなく、町は混乱する(7−12)。これは今の世界の状態ではないだろうか。また17節以下には、天変地異の表現があるが、このような表現を黙示文学と言う。これはやはり世界の混乱を指す。しかしこんな中で、収穫後のわずか残ったオリブを農夫が集めるように、神に属する民が西から東から主のみもとに、喜びを持って集まって来る(14)。神様は今も、残れる民が集められる。今もこの町に救いにいれられるべき人がいる。多くの収穫を与えられたい。
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イザヤ書25章(6)
イザヤは滅びと荒廃の中にいつも希望の信仰を持っていた。それは彼の考えではなく、神からの啓示によるものであった。神の救いは「いにしえから定められた計画」によるものであり(1)、それが実現する日が来る。それは主イエスによって完成され、再臨によって完成する。6−9は私たちにとっての慰めの聖句である。大きな救いの恵みが、祝宴の形で表現されている。
@その祝宴は神ご自身の備えられたものである。「我あだのまえで我が為に宴を設け・・・・我杯は溢るなり」(詩二三)とあるが、神の救いが表される。
A顔覆いが除かれる(7)。神との親しい交わりが与えられる。信仰生活を確立していただくことが出来る。
B死と涙とが取り去られる(8)。福音の恵みがこのように与えられるとは何という恵みであろうか。主のみ言葉と祝福を期待したい。リバイバルを信じたい。
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イザヤ書26章(3)
1−14は信頼する者への平安。15−19は死の解決。20−21は罪の裁きである。そして本章の中心は、平安を与える神である。戦争と混乱は罪と大国の横暴のゆえある。そのようなただ中で神が平安を備えて下さる。3に「全き平安」とあるが、それは平安に平安を与える、と言う意味である。この平安が堅く信頼する者の魂を守る。また7には平らかな道を正しい者のために用意して下さるともある。これも平安の道である。神様に向かって心を向けている者の人生は平らかでいられる。種々の物事が起こってくるとき、魂は平安を持つことが出来る。さらに12にも主が平安を設ける、とある。それは主が「全ての業を成し遂げられたから」である。人は恐れの心を持つとき、それがサタンからのものだと知らねばならない。平安は主のみが与えて下さるものである。
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イザヤ書27章(3)
本章には二つの「その日」がある。一つは裁きであり(1)、もう一つは恵みである(2,12)。世界を荒廃させたのはバビロンやアッスリヤではなく、その裏で働くサタンである。それをここではレビヤタン(竜)と言った。神はこのサタンに裁きをする。しかし同時に 「この日」救い をほどこされる。それはブドウ畑の例えによって表されている。
@神がブドウ畑なる神の民を保護する(3)。主イエスがヨハネ一五章で。私こそ真のブドウの木、父は農夫である、と言われたとき、本章三を心に留めておられただろう。
Aいばらの敵が来るときは、それを防ぐ(4)。
Bブドウの木は必ず根を張り実を結ぶ(6)。
Cだから神と和らぎの関係を維持せよとすすめるのである(5)。多くの実を結ばせて下さる主を信じ、熱心に励みたい。
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イザヤ書28章1−13(12)
概略的には28〜33章は主としてユダのとっている間違った態度を描いている。
まず隣国エフライム(北イスラエル)の様子を描いている(1−6)。それはしぼみゆく花であり(1)、酔いどれだと言う(3)。しかしユダも同様である(7以下)。国民は皆、酒のためによろめいている。つまり快楽のため自分の歩む人生を狂わせている。現代はこの通りであって、豊かさの故に性の快楽、金銭の汚職によって上から下まで危機の中にいる。信者でさえこの影響を受けている。9.10はイザヤへの非難であって、教訓とか規則とか言うが、それは赤ん坊への説教だと笑うのである。真の安息は主の中にあり、み言葉の教えの中にあるのに、聞こうとさえしない(12)と主は嘆かれるのである。時代がどの様に流れようとも、永遠に変わらないみ言葉の真理に従っていきたい。そこに安息がある。
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イザヤ書28章14−29(16)
「主の言葉を聞け」が二度ある(14,23)。ユダの指導者はアッスリヤの侵略に備えて、エジプトに頼った。それは愚かなことだとして、イザヤは死と契約したのだと皮肉に言った(15)。本当に頼れるのは「隅の石」(救い主)なのに(16)、エジプトに頼っている。しかしいざというとき、助けは来ない
(18)。
神に頼るなら、かつてダビデがペラジム山やギベオン谷で大勝利を得たように勝てるのに(21)、何故信頼しないのかと嘆く。23以下は神には明白な計画があると農夫の例えで教える。農夫はまず耕し(24)平らにし、種をまく(25)。そして収穫する(27)。それぞれクミン、大麦、小麦によってやり方は違うが、それぞれ一定のきまりでやっている。同様に神様も裁きや救いを法則に従ってやっておられると言うのである。エジプトと契約してはならぬように、世にどっぷりつかってはならない。隅の石に信頼する者は慌てることがない
(第一ペテロ3章6節)。
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イザヤ書29章1−12(11)
アリエルとはエルサレムの事である。これは主がもっとも愛された町である。所がこれまでにも述べたように民が罪を犯したのでアリエルを裁くと主は言われる(2)。その町のまわりには塁を築いて攻撃した(3)。これはアッスリヤの侵攻を指す(紀元前701年)。しかし悩みの中から主を呼んだとき、主はその敵を、ちりもみがらのように吹き飛ばされた(5)。かくてアリエルを悩ます者は夢のようにどこかに去ってしまった(7)。
さてその後が神の民にとって問題であった。9以下は神の愛のみ旨を悟るのに鈍い神の民のことが書いてある。イザヤやヒゼキヤ王の祈りにより、また神の助けにより敵を追い得たのに、心の目はかすみ、魂は眠りこけている(11)。
み言葉なしの信仰生活はあり得ないのに、悩みさえすぎれば、それで良しとする。み言葉を読み、それによって生活しよう。
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イザヤ書29章13−24(18)
先勝への表面的な喜びの故に、神の民は本当の信仰に立たない。
その現れは
@聖書を読まない神の民であり(12)、
A形式的な礼拝しかしない(13)。口を持って近づくとあるのは、格好は立派な儀式や信仰告白をするが、心は神から離れているということだ。
Bだから実際には心は嘘で満ちている(15)。このときユダのリーダーは敵など怖くないと言いつつ、実際はエジプトに頼っていた。事実ヒゼキヤ後の王は神を信頼していなかった。信じている格好はしていが、心ではうそをついていた。しかも神様は知るまいとうそぶいていたのである。嘘のある信仰生活は悔い改めねばならない。17−24節はこの民を変える救いが来る、と突然に書き出している。その変化は
@聖書を読む者となること(18)
A信仰の喜びが分かるものとなる(19)
B神を敬う者となる(23)。
C神の教えを悟る者となる(23)
信仰を持つなら、真の信仰を持ちたい。
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イザヤ書30章1〜18(15)
神は背く民のために嘆かれる。 何が悪なのか。それは神様に祈りながら計画を建てず(1)、エジプトに頼った事である。エジプトのゾアンまで足を運んでも、助けは来ないのに(4、5)、なおも頼る。神はそんなエジプトを「休むラハブ(竜)」と呼んだ(7)。
一方ではエジプトに頼り、他方では神様のみもとからすっかり離れ、神様の事は話さないでくれと言う(11)。人は見えるものに頼りたいものである。休んでいるラハブに心を向けたいものである。16節には、エジプトの速い馬は困った時には当てになりそうだと思うとある。こんな民に向かって、「あなたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、おだやかにして信頼しているならば力を得る」(15)といわれる。神の民はその父にまず相談すべきではないか。これが民の悪であり、それを嘆かれた。主のもとにいつも立つ者でありたい。
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イザヤ書30章19〜33(21)
アッスリアの侵略からユダを守られる神の恵みが記されている。 それは18万余の大軍を一夜の中に滅ぼされた時の事である。 これは悪の力に囲まれて戦っている私たちにもよく当てはめられる。サタンの力を打ち破り、与えて下さる祝福とは何か。 @ 主を見る事である(20).師は預言者であるが、彼を通して見るのは主である。 A 耳もとで語りかける主の声である(21)。主は「これが道だ」と語って下さる。自分の気に入る事だけ聞くのは聞かない事である。神の声は自己流の考えを捨てないと聞こえない。 B 霊肉ともに必要とするものが与えられる(23)。 C 傷ついた傷を癒して下さる(26)。 D 感謝の歌をささげるようになる(29)。多くの恵みがここに記されているが、そばにいて語って下さる主のみ声を親しく聞きながら、人生を戦い、歩ませて頂きたい。
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イザヤ書31章(5)
前章に続いて、ユダの指導者にエジプトに頼ってはならないと語る。「助けを得るためにエジプトに下りl、馬に頼るものは災いだ」。人には戦車や、馬がたのもしく見えるのである。しかし馬は霊なる神ではない(3)。軍馬は強く見えてはいても限度がある。私たちは、そのことを頭では分かっているが、果たして霊なる神に頼るだろうか。4、5節に語られている神様についてもう一度学びたい。1つは、主が獅子にたとえられている事である。それは獅子にとってどんな敵が現れても、驚かず、それに向かって戦うように主は神の民のために戦って下さる。もう1つは、鳥のたとえである。鳥が翼を広げ、その羽の中にひなを守るように、神様はその民を守られる。マタイ23章37節の主イエスの言葉は、5節の聖句に関係があるだろう。力と愛の保護のものにある事を信じて進みたい。 聖書日課の目次へ戻る
イザヤ書32章(15)
イザヤ書には時に本章のように恵みと救いをもたらす方の事が書かれている。但し9−14節には偽物の平安を述べている。安んじており、思い煩いがないのは幸いな人に見えるが(9)、実際は物事の本質を見抜けないで、表面的な平安でこと足れりとする。この人々には震え、恐れよと言い、胸を打って嘆くよう促す(13)。さて、ここに真の祝福をもたらす方がおられる。それは1人の王である(1)。彼が主イエスであることは明らかであり、彼によって1−8の恵みが来る。もう1つは、聖霊が注がれる事によってもたらされる祝福である(15)どんな荒地でも、人の心が荒廃していても、御霊の注ぎによって、肥沃な地に変えられる。伝道がもっと進むために、聖霊のお働きを祈りたい。御霊が来られる時、荒野は良き地に変えられる。
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イザヤ書33章1〜16(2)
アッスリヤのセナケリブはエルサレムを侵略しないとの保証として多くの金を受け取ったのに(列王下18・16)、それを破った。1節は欺いたアッスリヤへの非難である。その大軍は城外で囲み叫んでいる(7)。これも約束破棄である(8)。それでユダでは2節の祈りをした。主を待ち望み、朝ごとに主を求めた。多くの人はアッスリヤの大軍のゆえに縮み上がった(3)。しかし主は救いを与えられた。@神に依り頼むヒゼキヤに「あなたの世を堅く立てる」と約束した。A10節には「今私は起きよう、今立ち上がろう」と言い、12節のように敵を焼き尽くすと言われる.B遠くの者も、近くの者も、神はその大能を知らせられる(13)。頼りにしていた者に欺かれ、ユダの人々のようにあわてる事があっても、2節のように「我々はあなたを待ち望む ・ ・ ・悩みの時の救いとなって下さい」と祈る時、主は立ち上がって下さる。
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イザヤ書33章17〜24(21)
アッスリヤは大敗した。エルサレムの人々はその恐ろしかった事を思い出すのみである(18)。アッスリヤがユダをおどし降伏させるために交渉に来たが、その時の聞き取りにくく、おどす言葉も今はなくなった(19)。戦争の時、一番困るのは水である。しかもエルサレムには川がない。しかし神ご自身が水になって下さる。即ち主こそ命を守る方だと言うのである(21)。「われわれのために広い川と流れのある所となる」と主は言われる。川があっても敵の軍船など入って来ない。ひと呑みでエルサレムは滅ぼされそうであったのに、神は保護された。このような救いの業をなし、命の水を与えるのは、もはや単なる一国の王ではなく、メシヤの事を指すであろう。私たちが恐れに囲まれる時、「威厳を持っていまし、・ ・ ・広い川と流れ」となって下さる神に信仰の目を向けたいと思う。 聖書日課の目次へ戻る
イザヤ書34章(16)
本章は神のさばきの章である。神は世界をさばく神である(2)。 全ての国は神の支配の中にある。諸民族の罪のゆえにさばきが来る。従ってエドムに対しても同様である。5節以下はエドムについて述べている。エドムはイスラエルと血のつながりを持つ民で親しかるべき者なのに、いつもいやがらせをし、反逆していた。何百年の行為に報いる時が来るとの預言である。アッスリヤの剣を主の剣だと言って(5)、そのさばきを述べる。世界を治める神は、罪にせよ、善にせよ長い年月の中に報いをなさる。その原則が16節にある。神様の原則は聖書に書かれている通りで、一つも欠ける所はない。世界を治める神は、私たちの生活をも導かれる。所がもし自分の仕事の事や、子供の事になると、この信仰が何処かに行ってしまうとすれば、信仰はなきに等しくなる。欠ける事のないみ言葉の約束に立って、信仰の生活を全うしたい。 聖書日課の目次へ戻る