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聖書日課 |
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1997年11月 |
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1 イザヤ書35章 |
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2 イザヤ書36章 |
3 イザヤ書37章1〜20 |
4 イザヤ書37章21〜38 |
5 イザヤ書38章 |
6 イザヤ書39章 |
7 イザヤ書40章1〜11 |
8 イザヤ書40章12〜31 |
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9 イザヤ書41章1〜16 |
10 イザヤ書41章17〜29 |
11 イザヤ書42章1〜13 |
12 イザヤ書42章14〜25 |
13 イザヤ書43章1〜13 |
14 イザヤ書43章14〜28 |
15 イザヤ書44章1〜20 |
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16 イザヤ書44章21〜28 |
17 イザヤ書45章1〜13 |
18 イザヤ書45章14〜25 |
19 イザヤ書46章 |
20 イザヤ書47章 |
21 イザヤ書48章1〜11 |
22 イザヤ書48章12〜22 |
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23 イザヤ書49章1〜13 |
24 イザヤ書49章14〜26 |
25 イザヤ書50章 |
26 イザヤ書51章1〜16 |
27 イザヤ書51章17〜23 |
28 イザヤ書52章 |
29 イザヤ書53章 |
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30 イザヤ書54章1〜10 |
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イザヤ書35章(9)
本章は大きくまとめると24章以来のまとめで、神の回復のみわざを書いている。捕らわれの地バビロンから帰って来ると言うのである。
本章は単にバビロンからの回復について語るものではない。それは主イエスによって罪人が神のもとに回復されることをも指している預言である。天国への道を歩む者は、「あがなわれた者」である(9)。即ちその道に入れた者は汚れを清められた者である(8)。贖われ、きよめられるのは、主がなして下さったみわざである。だから贖われた者には獅子、サタンも手をつけることは出来ない。
イザヤ書36章(4)
36〜39章はヒゼキヤ当時の歴史的背景を述べている。アッスリヤはすでに北王国を滅ぼし、南ユダでもほとんどの町を攻め取っていた。残るは都のみである。ラブシャケが遣わされ、降伏勧告をする。これは丁度サタンの私たちへの攻撃に似ている。彼は、@ユダを滅ぼすのは神のみこころだという(10)。Aヒゼキヤ王にだまされるな(14)。Bアッスリヤに降伏し、和睦せよ(16)。Cもっとよい生活を保証する(16,17)。Dアッスリヤの攻撃から救い出す者は誰もいない(18〜20)。このようにサタンはおどしたり、なだめたりする。また神を信じていくより、楽しく、おもしろい事が沢山あると誘惑する。しかしこのような言葉に対して民は沈黙した(21)。余計な議論は不要である。不信仰によって煽動されてはならない。「あなたがたの頼みとする者は何か」(4)と尋ねられた時、私たちは何と答えるか。
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イザヤ書37章1〜20(14〜16)
本章には苦境に当たっての熱心な祈りが記されている。
ラブシャケの降伏勧告がヒゼキヤに届けられたが、王は直ちにイザヤに伝え祈りを依頼した(4)。イザヤはこれに応えて主の言葉を伝えた。@恐れるなA一つのうわさを霊と共に送り、王がアッスリヤに帰国するようにさせるBそこで暗殺される(6,7)。これは7年後成就した。
丁度この頃アッスリヤは町々の攻略に手こずり、エチオピヤの反抗の噂を聞いた(9)。それでエチオピヤの来る前にユダの降伏を再勧告して来た。かなりあわてていたようである。
その手紙を受け取ったヒゼキヤは主の前にもう一度祈りをもって出た。神が主である事を感謝し、救い出し給う主に信頼して祈っている(14〜20)。
様々の物事に押しつぶされそうな時、何よりもまず主の前に静まる事が勝利の秘訣ではないだろうか。祈りをやめては勝利は来ない。
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イザヤ書37章21〜38(26)
ヒゼキヤの祈りに対する主の答えがイザヤによってもたらされた。それはごう慢なアッスリヤ王に関するものである。アッスリヤは神に対してののしっている(23)。それは自分が神ぬきにしてなんでも出来ると思ったからである。即ち軍隊をもって何処へでも征服し(24)、水が欲しければ井戸を掘ることが出来た(25)。ところが、実は神が歴史の中に介入しておられたのである。堅固な町を倒し、その住民を草のようにしたのは(26,27)主である。主は、「わたしが定めた」と言われる。それをも知らず、アッスリヤの高慢な声が主に届いたので、自分の国に連れ返すと主は言われる(29)。遂に36節以下にはアッスリヤの軍隊十八万五千人が死に、王はニネベに帰り、暗殺されたとある。
神は定められた事を行われる。今はどんなに暗くとも待ち望み、主のなされるご計画を祈りつつ見させていただきたい。
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イザヤ書38章(3)
ヒゼキヤが死の病におかされた時、イザヤは彼の死の近い事を告げた(1)。このような宣告は難しいものである。しかしその言葉を聞いて、王は一人で神に祈り、「私が真実と真心とをもって御前に歩み、あなたの目にかなう事を行ったのを覚えて下さい」と言った。この祈りは普段自分勝手な生活をしていて、いざという時助けを求めるのと大きい違いがある。この祈りに神は応えて、あなたの年を15年増し、この国を守ると言われた(6)。私たちの寿命が祈れば長くなると教えるものではあるまい。それは神のみ手の中にある事である。
ヒゼキヤの場合、15年の年齢と町を守る事に関連があるように思う。つまり町と国を守るという使命の為に彼は生かされたのだろう。9〜20節は王の詩であるが、不安から勝利に変っている。いつでも3節のような祈りの出来る魂でありたい。あとは主のみ手に委ねる事である。
聖書日課の目次へ戻るイザヤ書39章(3)
ヒセキヤの病気快復のお祝いに、バビロンから使者が来た。バビロンはこの当時まだ小国で、アッスリヤの力の下にあった。しかしいつかは世界支配の野望を達しようとして、反アッスリヤ運動を起こしていた。だからただの快復祝いではなかった。
ヒゼキヤは、つい先頃までアッスリヤの侵略に会っていたから、バビロンの使者の訪問を喜び、同盟さえ結ぼうと思ったようである。それで親愛の思いをこめて、宝物を見せた(2)。
イザヤはエジプト信頼を否定していたように、バビロン信頼も否定した。頼るのは神のみである。それで彼は警告を発し、全てがバビロンに持ち行かれる時が来ると言った(6,7)。
勝利の後や順境の時が大切である。私たちは苦境の時、ヒゼキヤが神に信頼したように、順境の時にも、一つ心で主に仕えて行きたい。
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イザヤ書40章1〜11節(7,8)
40章からは神の回復の恵みが伝えられる。その最初の言葉は慰めである。慰めとは励ましの言葉で、堅く立ち上がれ、の意味である。イザヤはいまだバビロン補囚は起っていないのに、すでにそれが起こり、また回復も始まったように語る。
慰めの理由は何か。1〜11節の箇所に限って述べると、
イザヤ書40章12〜31節(26)
冒頭にあった「慰めよ」のメッセージは後半にも続く。ここには創造者なる神が述べられている。神が世界を創造なさるのに、神の知恵によってそれがされた(13)。また全能なる神の前には地上のどんな強大な国も塵のようだと見られる(15、23)。なぜそのようなことをイスラエルの民に語るのか。@それは、この民は自分たちはもう神のみ前から捨てられ、顧みられないと思ったからである。「わが道は主に隠れている」と言う者がいたのである(27)。人は一度つまづくと、もう駄目だろうと思う。しかしそうではない。Aもう一つの理由は、神が創造者であるなら、彼は私たちをも、もう一度造り替える方であると語るのである。イスラエルを造り直す神は、私たちをも造って下さる。29節以下には倒れた者や弱った者を強くさせるとあるが、これは再創造された人間の人生ではあるまいか。目を上げて主を見上げたい。
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イザヤ書41章1〜16節(10、15)
1−7節は神が東から偉大な人物を起こすことを述べている。それは多分ペルシャの初代の王クロスであろう。彼はバビロンを滅ぼし、イスラエルを捕囚から解放した。彼は行くところで勝利をもたらした(2)。そしてそうさせたのは神である。4節に「誰がこのことをなしたか...主なる私がそれだ」と言う。歴史の中に介入する神が主である。この神がイスラエルを選んだのである。8−16節には選びを語っている。アブラハムを召したから、その子孫を捨てるはずがない(9)。だから、見捨てられたような状況にあっても恐れる必要はないと言う(10、13)。その神はさらにその民を新しい器具にすると約束する(15)。刃のこぼれた脱穀機が、新しくされる。私たちを救われた神は、恐れから救い、助け、与えられた課題を「できる」者とし、脱穀機にして下さる。
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イザヤ書41章17〜29節(20)
17〜20節は神が創造者であって水を与え、木を与える方であると述べる。私たちの周りが砂漠や荒野のように不毛の地であっても、そこを別天地のようにする神がおられることを教える。21〜29節は天地の主なる神から偶像の神々への語りかけである。21〜24節に「あなたがた」とあるのは偶像の神々のことである。神の訴えは、これらの偶像が歴史の始めも終わりも知らず(22、23)それ故無き者だ、というものである(24)。しかし世界を導く神は違う。25節以下にはそのことが書かれている。すなわち、北や東から人を起こして、圧迫する者を倒し、神様の用をさせる。そうさせるのは神で、それを予告しておいて解放の業を実行させる(26)。実際、このようにしてクロスを起こし、歴史を変えた事実がこの後に起こっている。私たちは神様を畏れ敬いたい。無に等しい者に心を傾けてはならない。20節を心に留めたい。
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イザヤ書42章1〜13節(4)
1〜4章はイザヤ書に出てくる4つのしもべの歌の最初に出てくるものである。このしもべはイエス・キリストを指す。1節は主がバプテスマを受けた時、天からの声として受け止めたみ言葉である(マタイ3・17)。また、マタイ12・18−21にもキリストにおいてイザヤの言葉が成就したと語っている。しもべの業は大声で自己宣伝のようにはしない(2)。また傷ついた葦を折らず、弱者を立て上げる(3)。しもべは弱いもののようではあるが、確実に道を確立する。道とは、神と人との正しい関係、また人間の正しいあり方等を示す。もし私たちが福音書に書かれている主イエスのしもべのような姿を知らされなかったら、とっくに神に捨てられたと思い、信仰の火はくすぶり、消えてしまったに違いない。主が「おとろえず、落胆せず」私たちの信仰を確立して下さることを感謝したい。
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イザヤ書42章14〜25節(16)
14節に「私は子を産もうとする女のように叫ぶ」とある。これはイスラエルの民に対する神の、苦しみつつも切に愛する思いの表現である。なぜなら、彼らは霊的なことに関して耳しいであり、盲目だからである。16節にはその目しいでさえまだ知らない恵みの大路につれていき、光を与えようとすると述べている。それなのに、この民は全く盲目なのである。18〜20節にはこれほど語っているのに聞こえず、これまでも多くの神の業を見ているのに、神様を認めることのできない霊的盲人の民について嘆いている。「わが献身者」(19)は神と契約を結んだ者のことである。この人々の不従順のゆえに(24)、彼らは滅ぼされた。私たちは霊的なことに盲目になりたくない。物質的なことには敏感な人が霊的な宝のことには無関心なことがある。それは目しいである。知らない恵みの大路に導かれる主をしっかり見つめる者になりたい。
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イザヤ書43章1〜13節(1、2)
本章を読むと励まされ力づけられる。ここには神の贖いの業が書かれているからである。神の民は罪のゆえに一度は捨てられた。しかし神は再び贖われる。それ故、火や水の試練の中を通っても彼らは損なわれることはない(2)。また、尊び、重んじ、愛して下さる(4)。神はその民を東や西から集められる(5、6)。そして神の栄光の器にするといわれるのである(7)。贖うというのは、身内が落ちぶれた時に彼の親族が犠牲を払ってもとの状態へと回復する行為を言う。神はなぜ贖うのか。それは、彼が親であり、私たちはその子だからである。だから8〜13節ではその神の証人になって欲しいと言うのである。罪にゆえに打たれはしたが、再び回復して下さる神の証人だと10節では語っている。「私のみ主で、私の他に救う者はない」と言われる主の証をしたいものである。
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イザヤ書43章14〜28節(18、19)
14〜21節は神の救いの業を昔の出エジプトの出来事と結びつけて語っている。16−17節は紅海でエジプト軍を滅ぼし、イスラエルを救った事である。しかし主は新しい神の救いの業が展開するから昔の物語にとらわれてはならないと奨める(18、19)。それは、荒野に道を設け、砂漠に川を造る業である。そして、野のけものや山犬のように神を離れた罪人もその水を飲み、神の備えた大路を歩くようになる。このようなリバイバルのみ業を神がして下さる。私たちも神の「新しいこと」を期待したい。22〜24節は、今の民の現状を見て反省を促す言葉である。しかし、再び25〜28節で罪人を赦す神の恵みを伝える。私たちが伝道しようとするとき、荒野のように感じることがある。しかし、出エジプトさせた神が新しいみ業を行う、と言われる。だから期待と信仰を持って進みたいと思う。
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イザヤ書44章1〜20節(3)
1−5節は民に対する神の祝福の呼びかけである。ヤコブ(あざむく者)、を選んでエシュルン(正直者)とされる神が、@恐れるな、と励まされる。A主が聖霊による恵みを注いで下さる(3)。人々の魂は干乾びている。それを癒すのは天よりの恵みしかない。その結果、人生に実りを与える。Bそして自分は主のものだと証しする(5)。6−8節は、このように恵まれる神を民は知っているのだから、証し人になって欲しいとの訴えである。この恵みを与えるのは初であり終わりであると言われる歴史の主なる神なのである。私たちはもっと大胆に生ける神を証ししたい。9−20節は偶像の本質を描く。偶像とは人が造り、自分の為に造る自己欲求の表れである。私たちは3節のように、渇いた魂に天よりの水を聖霊によって注いで頂きたい。心踊るような喜びに満たして頂きたい。 聖書日課の目次へ戻る
イザヤ書44章21〜28節(21)
神の回復の恵みが各方面から語られている。それは罪のゆるしから始まる。「あなたのとがを雲のように吹き払い、罪を霧のように消した」と言われる(22)。26−28節はエルサレムの再建、即ち、立て直しである。信仰生活はいつもこの二つの原点にあることを覚えたい。ゆるしと、立て上げである。何故そうされるのか。@ゆるしを受ける民は、神の子(しもべ)だからである(21)。A神は造り主だからである(24)。神こそどんな民でも再創造される方である。マンネリ化して、生気のない信仰生活をしているとすれば、「あなたを贖い、胎内に造られた主」をもう一度見つめようではないか(24)。全ての不信仰の原因は自分を見ることにあるのではないか。B神の約束の言葉を完成させるのが神の計画である(26)。21節の主の約束を心に留めていたい。
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イザヤ書45章1〜13節(4)
クロスはペルシャの初代の王でバビロンを滅ぼした者である。神様はクロスを起し、諸国の王を無力にし、城内の扉を開けさせる(1)。たといクロスが神を信じなくても神が彼を用いて、その歴史の進行係をすすめさせると言う(5、6)。クロスによってある者には繁栄がもたらされ、別の者には災いが来たとしても、その背景には創造者なる主がおられる(7)。9節には陶器がその造り主と言い争うことなどあり得ないように、人は神に向かってとやかく言う事は出来ないとある。イスラエルには異邦人クロスなどを神が用いることは嫌なことだと言う者がいた。しかし4節に「イスラエルのために」クロスを呼んだとあることに目を向けたい。神を愛する者のためには、全ての事益になる(ロマ8:28)。神の民のためには思いがけない者や、出来事を起こしなさる。それに目を向ける人は幸いである。
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イザヤ書45章14〜25節(22)
神はクロスのような者でも歴史の舞台に引き出し、その業をさせなさる。所がそれを神の業と認める者もいるが、分からぬ者もいる。ここに隠れた神(16)と明らかに語る神(19)の対照がある。ある人には、不思議にも運ばれていく歴史の跡を見て、これは神の業だと分かる人がいるが、ある人には隠された神としてしか写らない。それで彼は偶像をつくる。偶像とは人が自分のために造った神の事である(16)。しかし別の人には明らかに語る神として理解される。さて、イザヤはこの神がおられるのだから、近づいて来なさい(20)、また、彼に相談しなさい(21)、仰ぎ望みなさい(22)とすすめているのである。「私は主であり神である」、との言葉が何度も出てくる。それはイスラエルが自分の父で神に向かず、他の者に向いているのに耐えられなかったからである。「私を仰ぎのぞめ」と言われる主に心を向けたい。
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イザヤ書46章(10)
1−7節には、人が持ち運ぶ偶像と、人を持ち運ぶ神の対照が記されている。ベルやネボはバビロンの神々でそれらは人とか家畜とかが背に乗せてかついだ。しかしイスラエルを運ぶ方は神である(3、4)。白髪になるまで運ぶと言うのは、個人的にだけでなく、民族としても末長く導くということであろう。確かに強大を誇るバビロンは跡形なく消えたが、イスラエルの民は今に至るまで神に持ち運ばれている。8−13節にはこの神に信頼せよ、とすすめている。8節は悔改めのうながしである。「心にとめよ」は罪を認めよの意味である。私たちを持ち運ぶ者が偶像だと思う者はないだろうが、自らを神以外の何かに結局は委ねているとすれば、イスラエルと同じ過ちをしているのではなかろうか。神は初から物事を計画し、計り事を成し遂げられる(10)。歴史を導き、世界の計画者なる神に従って行きたい。
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イザヤ書47章(4、7)
本章もバビロンの滅亡を記す。最も高い位置にある者が石うすをひく奴隷女のようになる(2)。しかも栄華はいつまでも続くと思っており、終わりなど考えてもいなかった者に終わりが来る、と言われる(7)。8節に「ただわたしだけで、わたしの他誰もいない」とあるのは自分一人だけの天下だと、ごう慢に振る舞う様子を言う。彼らは楽しみにふけり、安らかで滅びなど来るとも思わない。しかし9節には、その滅亡が突如として来ると警告する。その時、「バビロンの方法」と言われる、まじないとか、星占いなどをするけれども、何一つ救いとはならない(9、12、13)。安らかであることは幸いである。しかし終わりの事を考えず(7)、おごり楽しみ、自己の知恵にのみ頼む者は(10)、災いである。神様を畏れない自己確立は崩壊につらなる。歴史がそれを示す。我々を贖う者はイスラエルの聖者である(4)。
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イザヤ書48章1〜11節(6)
本章はイスラエルをバビロンから解放するのは神御自身であると語るものである。神様はイスラエルの民をよくご存知である。彼らは神に依り頼み、聖なる都の者だとは言うけれども(2)、実際には強情で、自分の考え方は変えない(4)。それで神のみ業がなされても、偶像がしたのだと言う(5)。この通りに神の民はしていた。即ち紅海を渡った後間もなく金の牛が自分たちの神だ、などと言った。神を信じる者がこうであってはならない。それゆえこのような事を言わないようにと、民には預言者を通して前もって語っておくと言う(5)。その内容は何か。「新しいこと」である(6)。それは43:19にも言われているように、民の回復である。つまり二度目の出エジプトとも言うべき神の救出の業である。自分の枠に閉じこもった、一人よがりの信仰では新しい業は見られない。「新しいことを聞かせよう」と言われる主のご計画を知らせてもらいたい。
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イザヤ書48章12〜22節(18,19)
神様の新しい業とはクロスを立ててバビロンを滅ぼし、イスラエルを贖うということである。14節の「主の愛せられる彼」はクロスのこと。このような異邦人を神が用いられるなどということは、イスラエル人には信じられないことであった。しかし世界の主、歴史の主なる神には不思議なことではない。クロスのする事を栄えさせるとさえ言う(15)。
このような方法を通じてでも救いの業をするのは、クロスの背後で働かれる神ご自身である。17節には、贖い主なる神が、聞き従うようにと求められる。そうする者には、水量の豊かな川のように平安を与え、また祝福は子孫にまで及び、辱めの状態であったバビロンから脱出できるようにして下さる。私たちは口先だけで神様、神様と言うだけでなく,心と実行を持って、神の戒めに聞き従う者となりたい。
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イザヤ書49章1〜13節(8)
これまでのクロスの出現などのメッセージは終わり、本章以下では将来に向けての慰めの言葉が出てくる。まず1〜6節には、本書二度目のしもべの歌がある。しもべはイエスキリストによって最終的には実現される。彼は鋭利な剣のように力強いメッセージをもって神の言葉を語る(2)。また真のイスラエル人のいない中で、真の神の民となって同胞を神のみもとに連れ戻す(3,5)。
しかしその労は非常な者である(4)。民をバビロンから連れ帰ることは軽いことではあるが、神のみもとに導くことは大変な業だからである。しかしこれは恵みの日であって(8)、捕らわれている人も(9)、北や西やスエネ(エジプト)の地の人も、神を礼拝する地に帰ってくる(12)。多くの神を知らない人々が、神の所に帰ってくるとの約束が、しもべなる方の業によって実現する。リバイバルの恵みから与えられるよう祈りたい。
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イザヤ書49章14〜26節(15)
神がご自身の民を忘れない、という慰めの言葉が繰り返し述べられている。というのは、ある人が「主は私を忘れた」と言っていたからであり(14)、またかすめた捕虜を解放する王などいらないと言う者がいたからである(24)。イスラエルは滅びてしまったのだから駄目だと思う者が多くいた。しかし神は決して忘れ給わない。母がその子を忘れないように(15)、また手に入れ墨して掘り刻んだ者の名前を消し去ることが出来ないように、神は覚えておられる(16)。それだけでなく、一度は荒れた町を再建し、そこに神の民を住まわせ(19)、その人々を養わせるのに、王が乳母のような役割を果たす(23)。どんなに困ったときにも、私たちのことを覚えていて下さる神がいる。イスラエルを回復させた同じ神が私たちと共にいて下さる。
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イザヤ書50章(5,6)
1〜3は前章に続いている。イスラエルがバビロンに捕らえられたとはいえ、離縁状を渡したわけではなく、他家に奴隷に売ったわけでもない(1)。それなのに何故神様の呼びかけに答えてくれないのかと言う(2)。さて4〜11は三番目の僕の歌である。主の姿がここにも見られる。
@彼はまず自ら神から教えを受け、それをもって疲れた者を助ける(4)。
A迫害する者があっても決して退かない(6)。これは十字架の前の主を指している。
B堅く立って忍耐を持って動かされない。「火打ち石のようにする」とは、使命のために決心を堅くするとの意味である(7)。
10節には、このような主の僕の声を聞き、彼に従うようにとのすすめがある。11節の「火を燃やす者」は神に反逆し独りよがりの道を歩む者のことで、彼らはその火で滅びる。神の僕なる主の招きにどこまでも付き従う者を神は恵んで下さる。
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イザヤ書51章1〜16節(9,10)
神はイスラエルの民に呼びかけ、彼らの過去を思い出させている。一つはアブラハムである。切り出された岩とあるが、それは彼の出身はどこか、ということである。アブラハムは偶像のただ中から救い出された者であった。もう一つはモーセである。4〜6節には神の律法の言葉が与えられたのは、世の人の光となるためであったとある。この二点を示したのは、神の民がそれを忘れたかのようであったからである。そして9節以下には、生ける神への信頼を呼び覚ましている。9節は神よ、新しく力を示して下さいとの祈りである。かつてラハブ(怪物)とも言うべきパロを打ち、紅海をを渡らせた神の力をもう一度現して下さいと祈る(10)。そしてイザヤには、そうして下さるという確信があった。今も、主のかいなは、私たちに臨んで下さる。出エジプトさせたと同じ力が、復活の主の力によって私たちにも下る。
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イザヤ書51章17〜23節(17,22)
17節以下は、神のイスラエルへの励ましの言葉である。彼らは自分の罪の故に神の裁きを受けた。主の憤りの杯を最後の一滴まで飲み干し(17)、荒廃が国を覆った(19)。この審判の杯の故に、イスラエルは自分の力では立てないほどによろめいた。しかし、40章以下に告げられたように、もう審判の時は過ぎたと言われる。そして、「エルサレムよ起きよ」と、立ち上がるように励まされる。裁きに代えて神が弁護者の立場に立って下さる(22)。だから新しい国造りへと立ち上がり、神がアブラハムを選んだ時の使命にもう一度立つようにと、すすめるのである。どのような試練におかれても、立ち上がるように励ますのが福音である。たとい自分の過ちの故に引き起こしたトラブルであっても、主によって立ち上がるようにと、力を与えてくれるのが福音である。
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イザヤ書52章(11,12)
51章に続いて「シオンよ、さめよ」と激励する。捕虜として連れ行かれた者の首の縄は、もう捨てるべきであり(2)、代わって神の備える美しい衣を着るべきだとすすめる。あたかもルカ15章の放蕩息子が帰ってきたとき、父が美しい着物を与えた物語のようである。何故なら、主がその民を贖ったからである(9)。私たちは主によって救われたと言いながら、なんと古い習慣や、過去のことに捕らわれていることであろう。それとも主が罪を許し、贖って下さったことに何かまだ確信が持てないのであろうか。もしそうなら、汚れたものと手を切る必要があり(11)、ゆるしと解放の主の約束を受け止める必要がある。このように主に従うよう心を定めた者には、主は私たちの前にも後ろにも臨在を持って導き、力づけて下さるのであるから(12)。
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イザヤ書53章(7)
52章13〜53章に、第4番目で頂点にあるしもべの歌がある。これは主イエスの十字架によって成就する。ここに人間の罪深さと、神の許しの恵みとが対照的に表されている。
@人間の罪は前半にある。受難の主の姿を見ても、彼を尊ばず(3)、その十字架は彼自身の罪のためだとさえ思った(4)。しかも人は迷える羊のように自己の道を歩んだ(6)。このような人は大勢いる。私たちもかつてはそうだったし、パウロの時代にもそういう人がいた(ピリピ3章18節)。十字架を踏みにじってはならない。
Aしかし後半には十字架の意味を述べている。十字架によって平安が与えられる(5)。それは彼が私の不義を負ってくれたからだ(6)。その苦難の十字架に主は黙々と従ってくれた(7)。そうするのが人の救いの道であり、それ以外に主のみ旨のなる方法はなかった(10)。驚くべき恵みに、ただひれ伏して主にお礼申し上げるのみである。
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イザヤ書54章1〜10節(2,10)
イスラエルはバビロンに捕らえられ、多くのものは、これで民は滅びると思った。しかし、神は一度選んだものをそう簡単には捨てない、と言われる。捕囚から取り返し、多くの民にすると約束されるのである。「あなたの天幕の場所を広くせよ」(2)とは、住居の場所が狭くなるほどに、神の民を増すとのことである。それは私たちの教会にとっても、同じことではないであろうか。このような祝福はどこから来るのか。一つは神の尽きない憐れみによる。7節には「しばし捨てたけれども、大いなる憐れみをもって集める」と言われている。もう一つは神の約束である。10節には「山は移り、丘は動いても、我がいつくしみはあなたから移る事はなく、平安を与える我が契約は動くことがない」とある。主イエスによって約束された救いの恵みは、私たちの生涯を貫いて確実である。天幕を張り広げたい。
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