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聖書日課 |
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1997年12月 |
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1 イザヤ書54章11〜17 |
2 イザヤ書55章 |
3 イザヤ書56章 |
4 イザヤ書57章 |
5 イザヤ書58章 |
6 イザヤ書59章1〜15 |
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7 イザヤ書59章16〜21 |
8 イザヤ書60章1〜9 |
9 イザヤ書60章10〜22 |
10 イザヤ書61章 |
11 イザヤ書62章 |
12 イザヤ書63章1〜9 |
13 イザヤ書63章10〜19 |
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14 イザヤ書64章 |
15 イザヤ書65章1〜16 |
16 イザヤ書65章17〜25 |
17 イザヤ書66章 |
18 エレミヤ書1章 |
19 エレミヤ書2章1〜13 |
20 エレミヤ書2章14〜25 |
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21 エレミヤ書2章26〜37 |
22 エレミヤ書3章1〜14 |
23 エレミヤ書3章15〜25 |
24 エレミヤ書4章1〜10 |
25 エレミヤ書4章11〜31 |
26 エレミヤ書5章1〜17 |
27 エレミヤ書5章18〜31 |
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28 エレミヤ書6章1〜15 |
29 エレミヤ書6章16〜30 |
30 エレミヤ書7章1〜15 |
31 エレミヤ書7章16〜34 |
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イザヤ書54章11〜17節(14)
11〜17節は、エルサレムの回復された姿である。かつては、敵にもてあそばれ、苦しみを受けていた(11)。しかしそのようなエルサレムは堅固な町に造り変えられる。アンチモニー、サファイヤ等の宝石で造られる。主がその町を強くする、と言うのである。しかしそのような外見的な事だけではない。その町に住む者は、霊的にも高められる。「主の教えを聞き」神の「義によって堅く立つ」(13,14)。また精神的に平安も来る。「恐怖から遠ざかる」とある(14)。たとい戦いを起す者があってもそれらはみな神のみ手の中にあって起る事だからである(16)。
神様を人生の真中において生活する者にとっては、これほど確かな道はない。10節のように、神の約束はたしかである。だから学びや、仕事が一時挫折したところで、恐れる事ははい。
イザヤ書55章(3)
本章は、招きの章である。ここに「来たれ」、「求めよ」と何度も呼び掛けている。人生にとって何の足しにもならぬものを求めてはならぬと言う(2)。真に人生を生かすもの、真の楽しみを与えるものを求めよ、と言う(2)。人が人生の瀬戸際に立った時、つまらぬ事にうつつをぬかす事はないだろう。人生の土台を冗談の上に据える人もないだろう。まず神様の約束に立つ事ではないかとイザヤは言う。だから3節に「とこしえの契約を立てる」と語られるのである。その約束は確実で、天からの雨や雪が地に作物をもたらすように、神のみもとから出た約束は、必ず私たちに大いなる祝福を残すだろうと言う(10,11)。しかし招きに応じて、今、主に向かわないと手遅れになるのだとも警戒される(6)。私たちの人生を支えるみ言葉をしっかり受け止めねばならない。
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イザヤ書56章(6,7)
本章では、特に安息日を守れ、というすすめで満ちている。主に仕え、主を愛する者は安息日を守る者だ、と語られている(6)。安息日には、全ての人が主のもとに招かれている。ここには3種類の人があげられているが、イスラエルの民、主に連なっている異邦人、宦官である。イスラエルの民は当然、主のもとに来る者たちであるが、異邦人や宦官(去勢された者)は神に近づけない者たちであった。
しかし、神の恵みにある者には、そのような者はいない。皆、安息日に主を礼拝すべき者と呼ばれている。神殿は祈りの家となり、献げものを主に献げる所となり、喜び楽しむ所となる(7)。私たちは、教会をそのような所としなければならない。心ふさいでいても、祈る時に平安が与えられる。喜びの献げものを主に献げ、真剣に安息日を守る者となりたい。その時、人は枯れ木とはならなくなる(3)。
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イザヤ書57章(15)
1〜13節はイスラエルの民の罪を描いている。正義が無視され(1)、神に背く背信の行為がなされる(4)。これらは姦夫と遊女のすえだと呼ばれるほどに、姦淫を行う(8)。またモレクという偶像に礼拝をささげる(9)。 彼らは疲れ果てているのに、はかない望みでもそれを持っていると強がりを言うのである(10)。これはバビロンに滅ぼされる前のイスラエルの姿であった。しかしこの民を神は再び救い出される。14〜21節はその恵みの救出を描く。「わたしは高く聖なる所に住み、また心砕けてへり下る者と共に住み、へり下る者の霊を生かす」。
(15)は、イザヤ書の大きい聖句である。神は人間とはかけ離れた聖なる方である。しかし彼が私と共に住んで下さる。それは神の謙遜である。この神は謙遜で砕かれた魂を愛される。14節以下には多くの慰めの句がある。
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イザヤ書58章(11)
悪い断食(1〜5)と、正しい断食(6〜12)とが書かれている。断食は集中して神に近づく為のものである。だからそれは良い事である。しかし外見的によく見えることで、しかも悪い断食とはどんなものであろうか。「断食したのに、何故ご覧にならないのか」(3)と神に近づきつつ争いをする生活(4)頭は葦のように伏せているが、内は敬けんではない者(5)。次に真の断食、つまり礼拝は罪からの解放をもたらすもの(6)。それゆえ人々によきものを与える行為をもたらすものである(7)。このような者の事を「水の絶えない泉のような者」と言う(11)。断食、即ち私たちの信仰生活が実際生活の中で生き、「潤った園のように、水の絶えない」泉のようにさせて頂きたい。真の礼拝は人をこのようにさせる。
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イザヤ書59章1〜15節(1)
神の民が滅びの中にいるのは、神の力が弱くて手が届かない訳ではない。人の罪が、神と人とをへだてているのだとある(1)。それで1〜15節には罪のありさまを描いている。それは行為に現われ、血を流す手として語られている(3)。また言葉もまた偽りや、悪口で満ちている(3)。更に心の思いも卵をかえすように暖められている(5)。従ってその人生の道には平和がない(8)。これはロマ3・15にも引用されている。そして平和のない状態が9〜15節に述べられており、人々は心の暗闇を歩き、つまづき、鳩のようにうめく(9〜11)。私たちは、平和のない状態を他人のせいにだけしてはならない。確かに誰かが問題を起こす事もある。しかし神の平安は、もし私たちが神と正しい関係にあれば、心の中に留まり、私たちを支える。
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イザヤ書59章16〜21節(19)
1〜15節には人間の罪を、心の思い、行動、口の言葉によって表されているとある。15節後半には、そのようなイスラエルの状態を神が悲しんでおられる。しかも、世界がそうであるのに、仲に立ってとりなしをする者もいないのである。神は人々の中に、仲保者を求めておられる。神と罪人のとの間に立って祈る者である。しかし結局、人の力には限度がある。それで、神ご自身が立ち上がり、罪ある敵を打ち破られる。確かに仲保者なる主イエスがおいでにならなければ、究極的には人に救いは与えられない。また聖霊のお働きがなければ、人の魂は救われない。しかし19節には主の約束がある。「主はせきとめられた川を、そのいぶきで押し流すように来られる」。これは単にバビロンからの解放ではなく、人類の罪からの解放と救いである。聖霊のいぶきを祈りたい。
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イザヤ書60章1〜9節(8,9)
神が光であり、人々に光りを与えなさる、という約束の言葉である。国が失われ、社会が荒れすさんだ者にとっては、大きい希望である。バビロンに捕らわれた者にとっては、世界は暗黒である。しかし神が光を与える。そして4−9節のように、まわりの国々から祝福を受ける。イスラエルの息子、娘は自分の国に帰って来る。これは、バビロンからの回復でもある。神が光りだという事が、主の「われは世の光なり」の言葉によって実現したのである。神様が恵みの光で全ての人を照らして下さる事を求めたい。その時、人々は雲が早く大空を飛ぶように、鳩が自分の巣に帰るように、神様のみもとに帰って来る(8)。彼らは「金銀を共にのせて来る」とあるように(9)、神様によってこんなに祝されましたと感謝をもって主に近づくのである。主に光を与えられたものが、多く主のもとに戻って来る事を信じよう。
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イザヤ書60章10〜22節(19,20)
本章のように私たちに希望を与えるものはない。
@神はいつも門を開いていて下さる(11)。戦争によって門は閉ざされる。しかし祝福の門は開かれたままである。いつでも主に近づく門はあいている。
A町の中の聖所が飾られる(13)。礼拝は何の妨げもなしに、なされる。礼拝を守れなかった者が、そう出来るようになった時、その喜びはどんなだっただろうかと思う。
B贖われた者は神様の誇りである(15)。かつては神に逆らった者を神様は贖い、宝の民として下さる。神に属する者とされた事を、傲慢な思いでではなく、喜びを感謝をもって誇りたい。
C神は平安を与える(17)。
D神は私の光となられる。それは生涯、私の内から取り去られる事はない(19,20)。
「神が光の中にいますように、光の中を歩くなら、私たちは互いに交わりを持つ」(第一ヨハネ1章7節)。
イザヤ書61章(3,10)
1、2節は、ルカ4章18節に引用されている。即ち、御霊に満たされ、貧しい者には福音を伝えると言われているのは、主イエスによって成就したのである。彼は福音を与えてくれた。
@それはまず、捕らわれ人の放免である(1)。
A悲しむ者に喜びを与えてくれる(3)。
B彼は荒れた魂しいを建て直す(4)。
C更に、私たちは変えられて、主の祭司となり、神の働き人(役者)となる(6)。それは、他者のために、とりなしをする者となる、との意味である。これは大きい宝である(6)。
D神は、私たちととこしえの契約を結んで下さる(8)。
これらの祝福を一つ一つ考える時、それが私たちに実現している事を思って感謝にたえない。しかも、これは主イエスのみ業によるものである。今日の礼拝も、喜びをもって主に仕え、備えられた恵みによって生かして頂きたい。
イザヤ書62章(1)
エルサレムの復興のために、いかに神ご自身が熱心になっておられるかを描いている。「エルサレムの救いが燃えるたいまつのようになるまで・・・エルサレムのために休まない」(1)。「城壁の上に見張り人をおいて昼も夜も絶えずもだすことのないようにしよう」(6)。これは民に対する神の強い愛の関心を示している。それは配偶者に対する愛にも似ている(4、5)。神は私たちの魂しいや、群れが燃え上がるように切望しておられる。リバイバルは神の求めておられる事なのだ。
しかし神お一人ではそうなさらない。私たちの側でも「自ら休んではならない」し(6)、道を備えなければならない(10)。かつては人が入りにくかった門から石を取りのけ、大路を造り、全ての人が入れるようにしなければならない、天よりリバイバルの大雨が降るまで、エリアのように祈り求めたい。
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イザヤ書63章1〜9節(9)
エドムの地ボズラから深紅の衣を着て来る者とは神ご自身である(1)。何故酒ぶねを踏んだように、衣が赤いのかというと、悪のために戦ったからだと言う(2、3)。これは象徴的な表現であるが、いかに神がその民を愛し、そのために戦っていて下さるかを描くものである。何故そうされるのか。7〜9節には神様の御思いが述べられている。「彼らの悩みの時、主も悩まれた」のである(9)。民がバビロンに滅ぼされたのは自分の罪のゆえであった。神は、喜んでそれをゆるされたわけではなかった。悩んだのである。
しかし、刑罰の時が終わり、捕らわれの地から戻って来るべき時になると、主はその愛を限りなく表される(7)。神様は私たちを愛しておられるのである。そのために戦って下さる。苦しみを傍観しておられるのではない。
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イザヤ書63章10〜19節(16)
神が1節〜9節のように民のために戦って下さるというのに、彼らは神に背く(10)。それで裁きが来る。民はモーセの頃、神を呼び紅海を分けてもらったように神に帰って主を求める(11-14)。11節に「群れの牧者を海から携えあげた者はどこにいるか」とあるのは、イザヤが、神を見失ってしまっている民に神に帰るようにとうながす言葉ででもある。その神のもとに帰れば必ず平安が来るからである(14)。15節〜17節は祈りである。民が神を忘れているので、神の大能、同情、憐れみがどこかに失われているかのように思われる(15)。
しかし16節には、イザヤは「あなたは私の父であり、贖い主です」と告白し、また「あなたの嗣業である部族らのためにお帰り下さい」と祈る。神はその民を迷わせたりする方ではない。人が神を離れたのである。この者のために予言者はとりなし祈る。
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イザヤ書64章(1,2)
1、2節は神のみ業を求める祈りである。神が天を裂いて来て下さいとか、火のような力をもって下されるようにとかと祈るのは、シナイ山で十戒を与え、民と契約を結んだ時や、カルメル山でエリヤが祈った時の事を思いださせる。荒廃の中にリバイバルを求める激しい祈りである。昔そうであったように、今も神はみ業を行って下さるとの信仰である。
しかしイザヤは@自分たちの罪を告白して祈る(5〜7)。久しく罪の中に生き、汚れ、神の名を呼ぶ者も少ない。それ程神から離れた者となっている。それを告白する。
A更に神は父であり、陶器師のように私たちを造り直して下さる方である事も信じている(8〜9)。
Bそして今の苦しみを訴える(10〜12)。
霊的に私たちの国は荒れている。だから、この現状を私たちの重荷として、天よりのみ業を与えて頂きたいものである。エリヤの神は、私たちにも答えを下さる。
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イザヤ書65章1〜16節(1)
今日の個所には、神に属する者と離れた者の対照がなされている。
@1節〜7節にはかみを求める者と(1)、自分勝手に礼拝する者(3-5)との対照がある。ある者は神殿ではなく園で犠牲をささげたり、墓場で死者に者を尋ねる。最も嫌うべき豚も食べる。
A次に8節ー12節にも神に選ばれた者と(8−10)、聖なる山、即ち神殿のあるエルサレムを捨てた者(11,12)の対照がある。ぶどうのふさや、汗は、神のたみとかしもべの事である(8)。彼らは祝福される。彼らは羊や牛で満ちた地を得るように神の祝福を受け継ぐ。
B13節〜16節には神によって飽かせてもらう者と、飢え倒れる者の事が書かれている。何故頼りにもならぬものを求めたり、礼拝すべき神殿を捨てたり、魂しいが飢えたりするのか。その根本は神を求めないからである。神様は、求めてもらいたい方であり、尋ねてもらいたい方である。「私はここにいる」と言われる方である。
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イザヤ書65章17〜25節(17)
17節から突然、新しい天と新しい地の創造の事が出てくる。これはもはやバビロンから救出されて造られる新しい国土の事ではない.黙示21章に出てくるテーマであって、むしろ永遠的な天の御国のことであろう。イザヤに示された神の救いの壮大さをここに見せられる思いがする。それは、神の救いの計画に関するものであって、その範囲は永遠から永遠に及び、また全世界に渉るものである。このように語った預言者はこれまでにはいなかった。それは「とこしえの神」と神を呼ぶ、イザヤの神観によるものである。新天地には、長い命が約束される(2)。それはむしろヨハネ伝では永遠の命と言われている。また狼と小羊は共に食事するとあるが(25)、平和な状態を描くものである。このような新天地こそ神が私たちのために備えられる世界である。これに向かって主の救いは進んでいる。
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イザヤ書66章(2)
本章ではまことの礼拝者について書いている。1節にはまず神殿について書いている。人がそれを造ったように書いているが、実は神が造ったものである。2、3節には礼拝者のことに触れている。神が喜ぶ者は、へり下って、神のみ言葉を敬う者である。しかし心を備えず、ただ牛や、羊を献げても、その心が憎むべきものを楽しむのだとすれば、それは神が喜ぶ礼拝者ではない。7〜14節はエルサレムの繁栄を述べる。8、9節には1つの国民はすぐには生まれるものではないのに、神様は生みだして下さる、とある。またそのエルサレムに繁栄を与える(12)。それは近隣にも伝えられ、その他の民は、集まってくる(19、20)。このような祝福は教会にあてはめて考えてもよい。神が恵まれる教会は、真の礼拝が神にささげられる教会である。
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エレミヤ書1章(7,8)
エレミヤは涙の預言者と言われる。それは彼が、滅びゆく同胞のために涙をもって神の言葉を語ったからである。人は貧乏だから不幸なのではない。病があるから不幸なのではない。神の言葉を受け入れないからである。この民は神に聞き従わなかったのである。祭司の子エレミヤは50年近くこの民に預言した。しかし最近彼が主に召された時、口が下手だと言って拒否した(6)。しかし神は彼を選んで神の口にしようとされた。神の言葉がエレミヤの口にいれられたから神の証し人となることができるのである(9)。またエレミヤは煮立った鍋を見た。これは審判の幻である。彼は引込み思案の人であった。しかしさばきの近い事を知り、また他方では神のメッセージを知ると、それを語らないわけにはいかなくなった。どうか、自分の無力さに足を奪われず、主のみ心を知らされて、福音の言葉を語る者となりたい。
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エレミヤ書2章1〜13節(2)
イスラエルの民はバビロンによって滅ぼされる。エレミヤはその頃の預言者である。神は彼を通して語られる。それはこれまでの過去の歴史を振り返っての呼び掛けである。まずこの民がシナイの荒野で神に従って行くと約束したことを書いている(2)。丁度結婚の約束のような愛の誓いであった。しかし4〜8節では彼らの反逆がある。神様は「わたしになんの悪があるのか」と嘆かれる(4)。神様が豊かな地に導いたのにその恩を忘れてしまい、神の民はバアルに走った(8)。9〜11節では外国の例をあげる。クプロやケダルの偶像の国の者でさえ、自分の神々を変えないのに、救いを与えられ、愛と服従を誓った民、祝福を受けた民が、神ならざる神に信仰をとり代えるのが不思議でならないと、神は嘆かれる(11)。神の恵みをなおざりにして、自分の水溜り(自己中心の生き方)を掘ってはいけない。はじめの愛を持ち続けたい。
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エレミヤ書2章14〜25節(14)
イスラエルの背信が続いて述べられている。14節に「イスラエルは奴隷であるか」と問かけられている。奴隷であるわけがない。彼らは神の子たちなのだから。「それなら何故捕らわれの身になったのか」(14)。@エジプトに助けを求めたり、アッスリヤに近づいて行こうとするからである(18)。Aまた主を忘れ、神を畏れる思いを捨てたからである(19)。つまり神を離れ、自分から捕らわれの地に行ったからである。更にこのような背信の心は、道徳的にも乱れた社会を生み出した。20〜25節にはそのことを描いている。20節の、くびき、なわめは、人の道としての神の律法のこと。彼らはこれを壊し、神にはもう仕えないと言う(20)。だからソ−ダや灰汁で洗っても心は汚れている。彼らがバアルに走ったのは、世的な快楽を求める人間の姿である。神の民は奴隷ではない筈なのに、奴隷になってしまったことを神は嘆かれる。
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エレミヤ書2章26〜37節(31)
イスラエルの罪の余りに露骨なさまをエレミヤは語る。彼らは木や石に向かって、つまり木石で作った偶像に、「あなたは私の父だ」と言う(27)。苦しくなると「お救い下さい」と神に帰るので、親が子に鞭打つように、こらしめて良い道へと引き返そうとするが、それも効果がない(30)。そして「我々は自由だ、もはやあなたの所へは行かない」と言う(31)。これは自分の好きなように歩くのだから放っておいて欲しい、もう神様のもとに行くことはない、との意味である。彼らの求めて行く所はバアルという恋人であり(33)、そこの神殿に巣くう悪い女である(33)。神様はこの民に「わたしはイスラエルにとって、荒野であったろうか」と問われる「31」。神はいつも人生の荒野に水を与えて生かし、暗黒にも光を与えてくれた。この方を父とし、この神からさまよい出てはならない。
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エレミヤ書3章1〜14節(12)
出エジプトの後、シナイの山で律法を与えられた時、民は神に従うと言い、神は彼らを保護する約束をされた。これはいわば結婚の約束のようなものである。所が民はこの神から離れて、別の偶像なるバアルに行った。つまり神との離婚、バアルとの結婚のようなものである。こんな状態では先夫である主なる神に帰る事は出来ない。それは不可能である。1節はそれを教える。それが悪いと知っているから、神様、怒らないで下さいと言いつつ(5)、なお霊的姦淫を行うのである。これは北王国イスラエルだけではなく、南ユダ国にも及び、妹に罪を犯させるようにしている(7〜10)。神様のみ心の中は悲しみでいっぱいであった。こんなどん底にあっても、「背信のイスラエルよ帰れ」と言われる。「自分の罪を認め・・・・わたしの声に聞き従わなかったことを」言い表して帰れ、と呼ばれる神は限り無くゆるしの神である。
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エレミヤ書3章15〜25節(15)
3章全体は「神に帰れ」の招きで統一されている。彼らははじめ、自分勝手な道に歩んだが、やがて裸の山という荒廃の中から悔改めの祈りをするようになるとエレミヤは語る(21)。そして「我々はあなたのみもとに帰ります。あなたは我々の神、主であらせられます」と言って主のもとに帰る(22)。神様はこのような者のために、驚くべき恵みを備えて待っていて下さる。15〜18節にはそれが書かれている。神様は心にかなう牧者を与えて下さる(15)。このことは主イエスによって実現した。また契約の箱(十戒などを入れた、神の臨在の表徴)を探す必要はなく、主ご自身が私たちと共にいて下さる(16)。民の心からは、かたくなな心を除かれる(17)。神様は私たちを恵み、祝そうとして待っておられる。ただなすべき事は、主のみ前に自分を持ち出し、彼に聴き従う事である。
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エレミヤ書4章1〜10節(3)
エレミヤは神を離れた民に「神に帰れ」と呼びかける。それは悔い改めのすすめである。しかし預言者は悔い改めとは単なる心の変化ではないという。これまでの悪を捨てることである。「新田を耕せ」とあるのは(3)、本書の大切な言葉である。それは古いものを造り直すのはだめで、新しくならねばならないとの意味である。かくて心と行為が新しくされる。なぜ新しい人にならねばならないのか。それは破滅が北から来るからである(6)。それはバビロンによるものであり、神のさばきである。もうすぐ滅ぼす獅子バビロンが来る(7)。真の預言者エレミヤはこのように語るのに、9節のいわゆる宮廷預言者や、御用祭司は滅びなどは無いと言い、いよいよ滅びが来ると驚きあわてるにちがいない。私たちは新田を耕さねばならない。新しい人が新しい魂に変えられて主の中に加えられるよう求めたい。裁きの来る前に。
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エレミヤ書4章11〜31節(14,19)
いわゆる御用役人は自分たちの国は滅びることはないと言っているのに、エレミヤはそれはもう戸口まで来ていると言って警告した。敵の襲来は思ったより早く、鷲のように早い(13)。それはもうすぐ近くまで来て、ダンやエフライム(エルサレムのすぐ北側)に至っている(15)。近隣からの報告によれば、町町は攻め取られ(16)破壊に続く破壊が全地におよび攻撃のラッパの音が響いている(20、21)。町の住民たちは難を避けて森に逃げる。この禍がユダ国全体におよびエルサレムの滅亡にいたるかと思うと、「わがはらわたよ、私は苦しみ悶える。ああわが心臓の壁よ、私の心臓は激しく鼓動する」とエレミヤは苦悩するのである。「エルサレムよ、あなたの心を洗い清めよ、そうすれば救われる」(14)と、こんな危機の時にも呼びかける。滅びゆく人々のために、エレミヤの重荷と愛を私たちにも与えてもらいたい。
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エレミヤ書5章1〜17節(10)
本章はユダでは最も中心的な都エルサレムの人々の堕落を述べている。まず、一般の人々のことを語る。広場でだれか神様に従い、真実に生きるものがいるか探したが一人もいなかった(1)。次に偉い人々の間でも神を敬う人がいるかと求めたが、くびき(律法)を捨てていた(4、5)。この民に神様は祝福を与えていたのに、彼らは満足すると、神を捨てて偶像を拝むのである。そして人々はいくらか神のことを知っているので、神は愛だから自分たちを守って下さるはずだと言い、自分の罪や不従順は棚に上げているのである。それは偽りの慰めである。それで主はこのような民は滅ぼしてしまうと言われる14〜17)。あたかもブド−の木を取り除いてしまうように。しかしこのような背信の民に向かっても「滅ぼせ、ただことごとく滅ぼすな」(10)と生き返る余地を残しておられる。わが国にも主の憐れみを祈る。
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エレミヤ書5章18〜31節(24,31)
イスラエルはなぜ滅ぼされたのか。これについてエレミヤは明白な答えを持っていた。それは彼らは神を知っていながら神をあがめず、真実を変えて偽りを持っていたからであるという。ここに人々の悪の状態を描く。
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エレミヤ書6章1〜15節(8)
北から敵が攻めて来るのでエルサレムの住民に避難せよと勧める(1)。敵は昼来るか夜来るか分からない(4,5)。ただこの攻撃は主から出たことであるから(6)、逃げられない。それでもブドウの実の残りを摘み取るように、神は残り少ない民を後の世に残すようにとっておこうとされる(9)。神様は一人の滅びるのも望まれない。このみ心は、五章1にも見られる。しかし相も変わらず多くの人は大人から子供まで悪を行い(13)、平安がないのに平安だ、平和だといっている(14)。国の平和にしても、家庭の平和にしても、本当のものが無ければ、本当の心の思いを神に申し上げるべきではないのか。偽りの平安の原因である罪を主に語れ、とエレミヤは言う。だから8節に「エルサレムよ、戒めを受け入れよ」と勧めるのである。心に語られる戒めを受け入れるなら、救いの道は残されている。
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エレミヤ書6章16〜30節(16)
イスラエルの民は、滅びの来るのを知りながら平安があるとうそぶいていた。しかし16節以下で主はもう一度問いかけておられる。
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エレミヤ書7章1〜15節(13)
エレミヤは彼の時代にいたるまでのイスラエルとユダの歴史を振り返りながら、いかにその民が神に背いてきたかを語る。これは勇気のいる発言で、それゆえ彼の命は敵につけねらわれるのである(二十六章7−9参照)。この個所について言うと、エレミヤは
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エレミヤ書7章16〜34節(23)
エレミヤの神殿での説教はなお続く。神は彼に、もう民のために祈る必要はないと言われた(16)。こんなに言われるほどの罪があるのだろうか。ここにはバアル等、女神礼拝や天后(天体のこと)礼拝をしている。また、子どもらをこれらの神々に犠牲として捧げる異教を取り入れているのを見る(30,31)。そのようなことは神が禁じたことであった。しかしもっと悪いことは、民の強情さである。24〜28には、何度も強情な民、聞き従わない人、答えない者という表現がある。その行いが悪いのもよくないが、もっとよくないのは神様に語られることを受け入れないことである。罪とは自分の好きなままに行くことだといわれている。何が出来なくても、主に従って生活しようとする態度が最も大切なことである。
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