聖書日課

 

 

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エレミヤ書 11章

エレミヤ書 12章

エレミヤ書 13章1〜11

エレミヤ書13章12〜17

エレミヤ書 14章

エレミヤ書15章1〜12

10

エレミヤ書15章15〜21

11

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12

エレミヤ書17章1〜11

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エレミヤ書17章12〜27

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エレミヤ書18章18〜23

16

エレミヤ書 19章

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18

エレミヤ書 21章

19

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20

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エレミヤ書23章16〜40

23

エレミヤ書 24章

24

エレミヤ書25章1〜14

25

エレミヤ書25章15〜38

26

エレミヤ書 26章

27

エレミヤ書 27章

28

エレミヤ書 28章

29

エレミヤ書 29章1〜14

30

エレミヤ書29章15〜32

31

エレミヤ書 30章

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1998年 1月1日(木)

エレミヤ書8章(7)

 4節以下は、7章に述べられたイスラエルの民に対するエレミヤの嘆きである。人は倒れることがあっても立ち上がり(4)、鳥は季節にしたがって飛んでくる(7)。これが自然の決まりであるのに、この民だけはその決まりを持たないもののように振る舞う。神の掟を持っているのに、7章のようなことをしているのなら、律法を持っていないのと同じではないか(8、9)。聖書を持っているから安心だと言っているが、実は平安はない(11)。それゆえ神は毒の水を飲ませるとか(14)、まむしをつかわすとか(17)言って、審判の近いことを告げるのである。しかし、エレミヤはそうなるのも当然だとは思わず、「わが心は痛む」と嘆いている(21)。問題は聖書を持っていると安心し、実際にはそれを行わないことであった(9)。み言葉を与えられていることはありがたいことである。どうかこれに従った者になりたいものである。

 

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1998年 1月2日(金)

エレミヤ書9章(20)

 本章もエレミヤの嘆きが述べられている。

 それは全てのものが姦淫の者、不信の者、偽りの者だからである(2〜3)。神はこの民を罰すると言われる(9)。それを知りエレミヤは昼も夜も嘆くのである(1)。それはただ預言者の個人的な同情ではなく、痛む神の御心を思ってのことである。17〜19節に、主の嘆きの声が聞こえる。このような民のために泣き、女を呼んで泣き悲しめと言い、「我々は滅ぼされ、いたく辱められている」という現状をみて、神は心痛めるのである。

 教会は一面で楽しいところでなければならない。しかし、他面痛みを覚える所でもある。それは、滅びに向かっている多くの魂のために、その最後を思って涙の執り成しの祈りをするからである。20節に「主の言葉を聞け、耳にその口に言葉を入れよ…哀悼の歌を教えよ」とあるのは主のこの痛みの心を教えるものである。

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1998年 1月3日(土)

エレミヤ書10章(23)

 1〜10節には神を信じるものは異教徒のように偶像を拝んだり、それに従ってはならないとある。また11〜16節では、われらの信じ従う方は、世界を造られた主であると語っている。17節以下には、この神に従わないのでこの国には禍が来、その結果「この地に住む者を投げ捨てる」(18)と告げられる。

 私たちは正月に天神様に拝みに行ったりするような、いわゆる偶像礼拝はしないであろう。むしろ正統的な信仰を持ち、神を信じていると考えている。

 しかし主に向かわない人は愚かな者であると言われている(21)。いったい信仰を持っているとはどういうことなのか。それは信仰の教えを覚えていることではない。私たちの生活を通して、神に従う実践をすることである。23節には、自分の力だけでは人生を歩むことは出来ないとあり、神様が私たちの人生を導く方であるとある。大切なのはそのことを毎日の生活の中で認めることである。

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1998年 1月4日(日)

エレミヤ書11章(6)

 1〜5節には神がかつてイスラエルと契約を結んだとあり、それはイスラエルの最初の頃の記録である申命記にあるとおりである。しかし彼らは神ならぬものを拝んだ。これは神に対する反逆である(9)。それゆえ審判が下る(11)。神はここに言われているように、民に審判について語れとエレミヤに告げた(6)。それで預言者はこれを民に語った。

 裁きを語ることは大変勇気のいることである。神に語れと言われることを、そのまま他人に話すことは力がいる。ただ、その事が出来るのは積極的な人だからとか、話し上手だからというものではない。神の言葉が心にないとできない。救いの恵みが内にないとできない。エレミヤは神のメッセージを語ったため、命を狙われたのである(19)。

 主のことを誰かに話すのは聖霊の力によらなければならない。しかし、エレミヤにとっては危険にも拘わらず、語る事を神に迫られていたのである。

 

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1998年 1月5日(月)

エレミヤ書12章(16)

 ユダ国の罪の現状を見るにつけ、エレミヤは、悪人の道が栄えるのは何ゆえかと神に問いたくなった(1)。5節以下はこれに対する神の応答である。5節はもっと大変なことが起こるのでしっかりして欲しいとの意味である。そして7節からは別のメッセージがエレミヤに伝えられる。それは神が家(神殿)を離れ、し業(イスラエル)を捨て(7)獅子や猛禽が荒らすようにさせると言うものであった。これは裁きである。神が自分の愛する者を捨てるなどという事があるだろうか。しかしそれが現実である。ただ14節以下には約束がある。ある者達を抜きにして元の恵みの地へ帰らせると言う。裁きの中にも神の哀れみが示される。「抜き出して」が何回も出ているように、神のみ手の中には「恵みの選び」の中にとって置かれている者がいる。今の時代にも抜き出されるべき人がいる筈である。

 

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1998年 1月6日(火)

エレミヤ書13章1〜11節(11)

 主はエレミヤに体験による教訓を与え、イスラエルの民が神から離れているさまを伝えられた。亜麻布の帯とは上等の帯のことであるが、それを水に浸けてはならないと言われる(1)。つまり洗濯するなと言う意味である。やがて主はその帯をユフラテ川の岩の裂け目に入れよと告げ(4)、相当日数たってから、再び帯を取り出すよう命じられた。そうすると役に立たないものになっていた(7)。

 帯はどんなに上等なものでも、手入れもせず常に用いもせず、湿り気の多い洞穴などに入れておくと駄目になる。このように帯をする者(神様)と帯(民)とがいつもしっかりつながっているように、と神様はエレミヤに教えられたのである。

 ところがイスラエルはそうではなかった。私達は忙しい毎日の生活の中で、神様にしっかり結び付いてこそ信仰は役に立つ。普段は放っておいていざという時に取り出す信仰では役に立たない。

 

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1998年 1月7日(水)

エレミヤ書13章12〜27節(16)

 12〜14節には酒壷のたとえがある。

 酒壷に酒が満ちると、人々はそれを飲んで立つことが出来ない程になる。つまり人が立てない程に神の審判が来るのだと言うのである。だからそのような審判の来ない間に、暗闇が来てつまづき倒れないうちに、強情で傲慢な心を捨て神に帰れとすすめる(16)。「うす暗がりの山につまづかないうち、あなたがたの神に栄光を帰せよ」とはその意味である。王位につく程の人も皆、そうすべきである(18)。

 20節の「北の者」はバビロンのことで、彼は滅びをもたらす。それほどのの危険が迫っているのに、人は心を変えて神に行かない。エチオピアの黒人がその皮膚の色を変えないと同様に、人がその心を変えないのを主は嘆かれる(23)。この呼びかけは昔ではなく、今の私達にも同じであろう。「闇の来ないうちに」主の所にいる者は幸いである。しかし、最後の瞬間にも望みがある。

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1998年 1月8日(木)

エレミヤ書14章(9)

 日照りによって人々は悩んだが(2)、それは神の裁きの前触れであった。国が荒れ果てることは目に見えて近づいている。エレミヤは民のために涙の祈りをするのである。7〜9節、19〜22節はその祈りを書いている。彼は苦境にいた。一方では神様はもう民を捨てたのだから、執り成しの祈りをする必要はないと言われ(11、12)他方では、偽預言者が剣も飢饉も来ない、平安が来ると言っている(13)。このような中でエレミヤは自分の民を家族のように思って、祈っても無駄だと言われながらも祈る。

@「我々はみ名によって呼ばれている者です」(9)と言い、

A「契約を覚えて下さい」(21)と約束を持ち出して祈ったのである。

人がどんなに神から離れていても、彼の中にはなお神の形がある。また十字架の救いの約束もある。だから家族や友人の救いのために、祈り続けたいものである。

 

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1998年 1月9日(金)

エレミヤ書15章1〜12節(12)

 1〜4節にはマナセの罪のゆえにモーセの執り成しがあっても、滅びはまぬがれることはないとある。列王記下21章にはマナセの罪の記録があるが、彼は神殿内に偶像を置き、子供を殺して供え、神に背き人々もこれに従った。こんな宗教的、道徳的罪があろうか。これを神は罰する。

 エレミヤは、このような民のために警告を発し、祈ったのであるが人々は彼を憎んだ。10〜11節は預言者の嘆きの言葉である。全国の人は私と争い攻める。貸し借りもせず恨みを買うこともないのに皆が呪う。祝福を祈っているのに、呪いが返って来る。彼は、鉄のように頑なな人間を砕くことなど出来ないと嘆くのである(12)。讃美歌に「岩の如き固き心、砕くものはみ力のみ」とあるが、主のみがそれをして下さる。苦境にありながらもエレミヤは民のために祈った。主が心を砕いて下さることを信じて。

 

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1998年 1月10日(土)

エレミヤ書15章15〜21節(16、19)

 エレミヤは、人々に売国奴と言われていた(10)。それは滅びが外国からやって来ると警告していたからである。彼は民の状態を知っていたので「笑いさざめく人のつどい」に座っている気になれなかった(17)。

 このような中で、彼に希望と喜びを与えたのは主の言葉であった。16節には「み言葉は私の喜びとなり、心の楽しみとなりました」と感謝している。

 エレミヤは民の反抗に遭い、失望していたので、神様からも捨てられたのかと思った。18節はそれをよく表わしている。神様が「水がなく人を欺く谷川」のようになったと思ったのである。しかし、そう思うのは「つまらない者に成り下がった」ことである(19)。不信仰なことを言ったり、他人を憎むことは何の役にも立たない。主の役に立つのは、み言葉を食べて、喜ぶ者に成ることである。

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1998年 1月11日(日)

エレミヤ書16章1〜21節(15)

 エレミヤは三つの禁止命令を神様から受けた。

@妻をめとってはならない(2)。普通ユダヤ人は二十歳になれば結婚したものである。それなのに禁止命令を受けたのは、民の滅亡のことを思っての悲しみの表現なのである。

A葬式に行って嘆いてはならない(5)。それは神が既に民の中から平安を取り去ったのだから、それ以上の嘆きが来るので、葬式で泣くどころではないというものである。

B宴会に出て楽しんではならない(8)。

このように預言者は行動によって神のメッセージを語ったのである。これは13章もあった。

 私達は右のような禁止命令を今日する必要はない。しかし生活において神の福音を語る者になりたいと思う。喜び、信仰、平安の源は何処からかと問われるような生活をしたい。それが生活を通しての証しであろう。

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1998年 1月12日(月)

エレミヤ書17章1〜11節(7、8)

 15章でマナセの罪が述べられていたが、ここにもイスラエル人の罪深さが描かれている。神を礼拝すべき神殿の中に偶像を持ち込んだことや、子供を祭壇にささげたことである(2節)このような悪がもたらす結果は3〜6節にある。敵の手によって国は荒らされ、心が主から離れた者が何も良い結果を刈り取ることができないというのである。そのようになる原因は、自分を偽り、神を偽る心からである。9節には「心はよろずの物より偽るもの」であると述べられている。

 このような悲惨に対して、7、8節には希望を与える言葉がある。主に信頼するものは幸いである。彼は暑さや、日照りのような苦難に遭うことがあっても憂えることもなく、実を結ぶ者となる。詩篇を思わせる言葉である。偽りの心や主を離れる思いを捨て、心を堅く主に結びつける者となりたい。

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1998年 1月13日(火)

エレミヤ書17章12〜27節(21)

 エレミヤは災いが民の上にあるようにと願ったわけではなかった。ただ人々が神をないがしろにし、離れているなら滅びが来る、と述べたのである。それなのに預言者が災いを願っているかのように民は思ったのである

(16)。そしてそんな主の言葉があるのか、と食ってかかったのである(15)。エレミヤが滅びの到来を言い得たのは、申命記を読んでいたからだと思う。だから18節の句も、主の言葉の確かさを示して下さい、という思いから言ったのである。彼は何よりも主の栄光をあがめ、神第一の生活を尊んでいた。1二節は主の栄光は聖所にあるのだと言い、神の宮に行って安息日には礼拝すべきなのだ、と主からのメッセージを語るのである。19〜27節には安息日を守ることが主を大切にする生活なのだと語っている。神様とその御言葉を軽んじないで、聖所と安息日を重んじたい。

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1998年 1月14日(水)

エレミヤ書18章1〜17節(6)

 陶器師の物語は、主にはどのような者でも作り直すことができるのだということを教える、体験による教訓である。6節に「陶器師の手に粘土があるように、あなたがたは私の手のうちにある」と語られている。これはどんなにか私たちの慰めであろうか。失敗したと思っても、主の手の中に入るならば、彼は私たちを造り変えて下さるというのである。世の中の人はそのように取り扱ってはくれない。しかし、主は練り直して下さる。これに対して12節以下には、主の手の中に入って行かない人々のことが書かれている。やり直しはむだなことだという返事が来る(17)。主はそれを聞いて驚かれた。そんな返事をする民は見たことがない(13)。レバノンの雪が年中消えないように、神の恵みは変わらないのに、人の心は強情である。主の祝福を受ける道、自分の新しい生き方を開いていく道は、主の手に自分をゆだねる魂となることである。

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1998年 1月15日(木)

エレミヤ書18章18〜23節(20)

 国の指導者たちによるエレミヤ殺害計画のことが語られている。彼らは祭司、知恵者、預言者がいるのだから、国は滅びることはないと言い(18)、エレミヤのような者は殺してしまおう、と言うのである。これに対してエレミヤは神に祈り、そのような悪い計画者を倒して下さい、と求めるのである。これはただ彼の個人的な恨みではない。偽りの預言者が神の言葉を語らず、世を支配しようとしていることに対して怒っているのである。というのは申命記18章19節には、預言者が主の言葉を語るのに、それに従わないならその民を罰する、と述べられているからである。エレミヤ当時のリーダーは、平安もないのに、滅びは来ないと言う偽預言者であった。真理はどの時代にも倒れない。われらを倒す者のために祈り、神の真実が永遠に立つよう祈り続けたい。

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1998年 1月16日(金)

エレミヤ書19章(11)

 18章は作り損じた土で新しく別の器を作ったという物語であった。それによって神はその民をもう一度作り直される方だと教えられた。しかし、本章では「陶器師の器をひとたび砕くならば、もとのようにすることはできない」(11)ということを教えるのである。エレミヤは祭司の家系の者だから知人もいた。それら数人の者とベンヒンノムの谷に行き、そこで器を砕き、回復不能の状態を示したのである。この谷は偶像崇拝と子供犠牲を行ったところである(5、6)。このような民でも18章のようにある者は回復されるであろうが、19章で教えるように回復できない部分もある。罪を犯して神から離れた者でも恵みの中に引き戻されはするが、砕かれ失われた部分は、その人の生涯痛みを負いながら進まねばならぬことがある。若いときに主を信じ、罪の傷を受けないで進む者は幸いである。またそう指導しなければならぬ。

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1998年 1月17日(土)

エレミヤ書20章(9)

 19章にもあったように、エレミヤがますます国の滅亡の近いことを述べると、神殿の長なるパシュルは彼を牢獄につなぎ止めた(1、2)。一日の拘留の後釈放されると、エレミヤは重ねて神を敬わない者に来る滅びを語った。人々の迫害を受けたり、物笑いにされたりしながら(7)、彼は神の御言葉を語るのであるが、彼は決していい加減なことを言えない者であった。滅びが来るので、滅びが来ると語ると、人々にあざけられた(8)。彼はもうそんなことを語るまいと思うが、「主の言葉が心の中にあって、燃える火」のようなので口を閉ざすことはできない(9)。こんな務めに当たることになるとは思わなかったのに、預言者の立場になったので、神が私を欺いたとエレミヤはいったのである(7)。けれども彼はまじめに主に従った。祝福を与えられた者にはある意味で十字架が来る。しかし、それは栄光の十字架ではないか。

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1998年 1月18日(日)

エレミヤ書21章(8)

 ゼデキヤはユダの最後の王である。歴史の流れは急になって、ユダは滅びの滝つぼへと落ちようとしていた。もはや引き返すことはできない。そんなときになって王は「主はそのもろもろの不思議なわざを持って我々を助けるか」とエレミヤに尋ねた(2)。エレミヤはこれに答えて、滅びは必ず来る、と伝えたのである。

 母国を愛さない者がどこにあろうか。しかし、エレミヤは神の言を王といえども語らないわけにはいかなかった。彼は神の回復の恵みを別の所では伝えている。しかし、この場合は滅びを伝えた。神のメッセージを伝えることは辛いことである。こんな土壇場にも、神は命の道と死の道を置くと言われた(8)。この場合はバビロンに降伏することが命の道だと示した。私たちは命の道を選ぶようにいつも求められている。今日の私にとってはどう進むことが命の道だろうか。

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1998年 1月19日(月)

エレミヤ書22章1〜12節(8、9)

 エレミヤ書は必ずしも各章が年代順にはおかれていない。だから各章ごと別々に考えなければならない。本章はユダの最後の王たちのことを書いている。シャルム(11)、エホヤキム(18)、コニヤ(エコニヤ)(24)などである。これらの時代は末期的症状で、国は宗教、政治、道徳において乱れていた。3節に、異邦人、孤児などを悩ますな、と言われているが、それは人々がそのようなことをしていたので警告したのである。神様ハギレアデ、レバノンのように(これらは良材を産出するので有名)祝福を与える方なのに、彼らの罪ゆえに国は荒れ地となる(6)。心の荒廃は物質の豊かさよりも恐ろしい。8節に、多くの国民がなぜこの町が滅びたのかと問うとき、民が神を捨てたからだと語り合うとある。もし私たちの死のあと、こんなことが言われたならどんなに残念なことだろう。良いあかしを残したい。

 

 

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1998年 1月20日(火)

エレミヤ書22章13〜30節(21、29)

 王は不義、不法をもって宮殿を建て(13)、圧制を行った(17)。だからそのような王が死んでも嘆かないのだろう(18)。なぜそのように悪が生まれてくるのだろう。それは本章後半に二度書いているように、主に聞き従わないことが原因である。21節には栄えていた時に主が語りかけたが、「聞きたくない」と言っていた。コニヤ王は壊れた壺のように、取り返しのつかない人生を送っているが(28)、それも主の声に耳を傾けないことにあった。だから「ああ、地よ、地よ、主の言葉を聞けよ」と心の底から呼びかけるのである(29)。主に聞き従わないことが幼いときからの習わしにならぬよう心がけたい(21)。どんな奉仕をするよりも、礼拝にきてメッセージに耳を傾けることが神様に喜ばれる道である。それが習慣になって、主に聞くという姿勢をいつも持ちたいのである。

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1998年 1月21日(水)

エレミヤ書23章1〜15節(4、5)

 1〜8節は回復の恵みを告げる約束である。イザヤにも滅びの予言がある中で、恵みの言葉があった。本章での恵みは二つに表されている。

@一つは牧者の働きをする主の恵みである。群の残りの者と追い散らされた者を再び集めるとある(3)。私たちは何千、何万の中から選ばれて恵みの中にいれられた者である。私たちの選びは残りの者を集めた主のみわざによるのである。Aもう一つは枝としての働きをする主の恵みである。イスラエルという枝は枯れてしまって、折られようとしていた。それは何のよい実も結ばない。9〜15節に見られるように、預言者は祭司でさえ神を汚し、恐ろしいことをしていた(14)。それは滅ぼされるしか道がないかのようである。しかし、新しい枝を与え、新芽を出させ、実を与える。私たちの教会にも、イエス・キリストという枝を下さって、彼によって実を結ばせて下さる。

 

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1998年 1月22日(木)

エレミヤ書23章16〜40節(28)

 ここには主のみ言葉の力について書かれている。18節には「だれか主の議会に立って、そのみ言葉を見聞きした者があろうか」とあるが、世の雑音や、自分勝手な考えだけ振り回して、主の声を聞こうとしないことを嘆いているのである。

 偽預言者は夢を見る。それはいかにも頼りないものであるのに、主の声を聞いたとふれて回る(25,26)。真に人生にいのちを生み出さないものは夢だと、エレミヤは言う。それはわらである(28)。これに対して、主に聞く者のことを、麦を食べるものだという(28)。わらのようのなもの、夢のような当てにならないものを土台にしてはならない。魂の底に残り、我が人生を建て上げるものを求めよとすすめる。死んでも一粒の麦を残して残る命ある、実りある麦を得よとすすめる。み言葉にしっかり立って歩む人生を過ごしたい。み言葉には麦のような命がある。

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1998年 1月23日(金)

エレミヤ24章(5、6)

 良いイチジクのかごと、悪いイチジクのかごの幻を見せられ、エレミヤは一つの教訓を得た。悪いものはパレスチナに残って、これから災いに遭おうとする者であり、良い者は既にカルデヤ(バビロン)に連れ去られたイスラエル人のことである(5)。バビロンに行けば、それがよい者になるというのではあるまい。そこの地で彼らが自分の罪を悔い改めたからであると、注解者は言う。一度砕かれた者は、神がかえりみて恵み、建て上げて倒さない。そして主であることを知るように作られていく、というのである。この様に見ると、聖書では、良い者とは、神が建て上げてくれる人のことである。神のみ手の中に砕かれて、ひとたび落ち込むなら、彼は再び倒すことはせず、かえりみて下さる。これが主の恵みというものである。

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1998年 1月24日(土)

エレミヤ25章1〜14節(3)

 本章はヨシア王時代からの、エレミヤの活動を述べている。23年間、彼が主の言葉を語り続けてきた、というものである。「わたしはたゆまずそれをあなたがたに語って来た」とあり(3)、主はたゆまず預言者をつかわしたともある(4)。主の絶えざる語りかけは、エレミヤを通してだけでも23年間続いたと言うのである。

 これに対して「聞かない」という民の態度が五度もでている(3,4,7,8)。聞かないというのは声が耳に入らないということではない。聞いたことについて、本当にそうだと思って、受け入れる心のあり方である。受け入れさえすれば、実行できるか否かは次の段階のことである。

 どうか聖書からの語りかけを受け入れる者となりたい。そして聖書そのものを、もっと愛して味わう者となりたい。テレビ、雑誌の声だけが、私たちの心を占拠しすぎていないだろうか。

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1998年 1月25日(日)

エレミヤ書25章15〜38節(29)

 15以下に神の罪に対する審判が、エルサレムから始まって、周辺の国々に及んでいく様子を描いている。そして最後にはバビロン自身も裁きの杯を飲む(26)。30〜33節は審判そのもの、34〜38節はそれ故に起こってくる嘆きである。この中に神の公平さが見られる。神の民であっても、積年の罪は罰せられる。また、神の普遍性がみられる。つまり、神は世界を治められるかただと言うことである。

 私たちは神のみ前に胸を張って立つことが出来る者だろうか。こう問われるとき、一言もなく弁解もできない。しかし、もし何一つ責任を問わないと告げられるとすれば、それ以上の救いがあろうか。

12節には、ユダの場合については、裁きは七〇年で終わると言われている。永久ではない。ここに主の憐れみがある。十字架に来るものには七〇年と言わず、いまの時に全き許しがある。 逃れられない滅びから救われるのは、全き恵みの故である。

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1998年 1月26日(月)

エレミヤ26章(2,3)

 本書は年代的に順序を追ってはいない。本章の神殿での説教は、7章1節から15節に詳しく書かれている。

 エレミヤは中心地である神殿で、この都は滅びると告げた。しかし生活を変え、神に従う生活をはじめるなら、救われる道もあるとも語った(3,13)。祭司、預言者、民はその話を聞いて怒り、エレミヤは処刑されるべきだと訴えた(11)。その理由は、神が建てた神殿が滅びるというのは、神への冒涜だというのである。

 エレミヤ処刑の訴えが公に出たとき、民の間に異論が出た(16)。預言者ミカの場合もエレミヤに似ているではないか。だからエレミヤも、神の言葉を語っているのかもしれない、というものである。しかし、ウリヤの場合は、迫害者に追われて殺された。み言葉を語るとは、ある場合には命がけのことである。

 自分の不出来のため迫害されてはいけない。また、知恵のある証をせねばならない。しかし一方、福音を命がけで証しする責任もある。

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1998年 1月27日(火)

エレミヤ27章(17)

 エレミヤはバビロンによる滅びが来る、それは神の罪への裁きによるものだがら、逃れようがないと説いていた。一時は苦しく、選民としての面目を失うことにはなるが、やがて回復されるから、神のみ手に陥ることが最善であると、語るのである。それが生きる道である(17)。

 ところが、そのころの王ゼデキヤは、人間的な望にかけていた。3節にはエドム、モアブ等五カ国の名があげられているが、これらは反バビロン同盟を作っていた。これに望みを持った。そして、偽預言者等に、滅びは来ないと言わせていたのである(9)。人間的な下工作をしておいて、神の導きだというのは間違っているが、ゼデキヤはその様な人であった。

 たとい今は苦い水を飲むようであっても、神の導きとあらば、それに従うことが必要なことがある。真に生きる道を教えてもらいたい。「バビロンに仕え、そして生きなさい」(17)。

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1998年 1月28日(水)

エレミヤ28章(9)

 エレミヤは、民は滅び、その後恵みによって回復されると一貫して語っていた。ところが、御用預言者ハナニヤはバビロンに仕えるような事態は起こらない、むしろ既に捕らえられているイスラエルの民は、二年以内に帰ってくると語った(2〜4)。エレミヤはこの言葉を聞いて、そんなことはないと言いたいところだったろうが、謙遜にハナニヤの言葉を受け止めて、「どうか主がこの様にして下さるように」と言った(6)。この様な場合これが本物だと決着をつけたいところを、そうしないで、「エレミヤは去って行った」とあるように(11)、引き下がったのは、主が真に彼に語られたという信仰があったからである。だから主は再びエレミヤに語られ、裁きの近いことを告げられた(12以下)。

 主に従って生きているとの確信は、その人に自信を与える。

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1998年 1月29日(木)

エレミヤ29章1〜14節(11〜13)

 神のみ手にゆだねるものはあわてふためかず、落ち着いた思いで生きるものである。ここにもエレミヤと偽預言者の対比が見られる。エレミヤは七〇年間の捕囚ということが示されていたから、囚われの人もバビロンで家を建て、子女を育て、民族の数が減らないよう落ち着いた生活をせよと言った(5,6)。ところが、偽預言者は、早く母国に帰れるように神はして下さるはずだから、エレミヤは不当なことをすすめていると怒るのである(27,28)

 エレミヤにとって異国の生活は、決して喜ばしいものではないが、七〇年が終わればもとのところへ神様は帰して下さると信じていた。神の計画は「災いを与えるものではなく、平安を与えようとするものであり、あなた方に将来を与え、希望を与えようとするものである」(11) 「一心に私を尋ね求めるならば、私はあなた方に会う」神であると信じた。

神様のみ手の上に、全存在をのせて生きたい。

 

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1998年 1月30日(金)

エレミヤ219章15〜32節(23)

 15節〜19節はバビロンに行かずユダの地に残った者に、災いが来ると語るものであるる。また20節以下には偽りの預言者アハブ、ゼデキヤ、シマヤ(24)等について述べている。これらの人はエレミヤがバビロン捕囚者に、時が来るまで落ち着いて生活せよと、勧めるのを聞いて怒ったのである(27、28)。シマヤ達は愛国的であり、エレミヤは一見非愛国的に思われる。しかし、真の愛国者は神の目を持って見る者ではないのか。シマヤはエレミヤを取り締まるようにとと言ったが、祭司ゼパニヤはエレミヤの語る内容の正当性を認めてか、彼を寛大に取り扱った。エレミヤは真の預言者とは何かについて語っているが、それはその語ることが、やがて成就するものだと言うことと、その倫理性にあるという。

アハブ、ゼデキヤは滅びる。それは、彼らが罪を行い、しかも、偽りの神を語ったからだとエレミヤは言う(22,23)。

神に聞き従い、正しい生活を歩みたい。

 

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1998年 1月31日(土)

エレミヤ30章(10)

 本章は回復の章である。イスラエルが捕囚から帰される。それは繁栄の時である(3)。

@8節には束縛からの解放であると言っている。罪のくびきから解放されることは、何よりもの祝福である。

A恐れが取り除かれる(10)。恐れがないのは、恐れさせるものがないからである。その代わりに、平安が与えられる。穏やかでいられることは、もう一つの大きな恵みである。「ヤコブは帰ってきて、穏やかに安らかにおる」。

B神は心の傷を癒やされる(17)。多くの敵に踏みにじられ、傷ついたものに健康を与えられる。魂が健康であることは、何と感謝な事であろうか。

 神は愛するもののために、一時期の間は罰せられたが、彼らを回復される。恵みある主のみ手に陥るものでありたい。

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