聖書日課

 

1998年 2月

 

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エレミヤ31章1〜22

エレミヤ31章23〜40

エレミヤ32章1〜25

エレミヤ32章26〜44

エレミヤ33章1〜13

エレミヤ33章14〜26

エレミヤ34章

エレミヤ35章

エレミヤ36章

10

エレミヤ37章

11

エレミヤ38章1〜13

12

エレミヤ38章14〜28

13

エレミヤ39章

14

エレミヤ40章

15

エレミヤ41章

16

エレミヤ42章

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エレミヤ43章

18

エレミヤ44章1〜19

19

エレミヤ44章20〜30

20

エレミヤ45章

21

エレミヤ46章1〜12

22

エレミヤ46章13〜28

23

エレミヤ47章

24

エレミヤ48章1〜20

25

エレミヤ48章21〜47

26

エレミヤ49章 1〜6

27

エレミヤ49章 7〜22

28

エレミヤ49章 23〜39

 

 

 

 

 

 

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1998年 2月1日(日)

エレミヤ書31章1〜22節(3)

3節はこの部分の鍵である。主は遠くから現れたとあるが、それは遠くにおられると思っていた主が、実は近くにおられたと言う意味である。その神は限りなき愛をもって愛して下さる。限りなき愛はどのように表されたのか。建て上げのみ業の中に見られる(4)。

これは神殿再建であるが、私達にとっては、信仰の建て上げであろう。心の弱い者を助け導かれる神のみ業がある(8、9)。目の不自由な人、足の弱い人、妊婦 、悲しむ者達を主は導いて下さる。何故そのように導かれるのか。それは神は父だからである(9)。

15〜22節には悲しみの為に泣く者の声が聞こえてくる。 将来が無いと言って泣き(15)、試練が辛いと言って泣く(18)。しかし神は限り無き愛をもって私達を守って下さる方である。いつも三節のみ言葉を心に止めて生活しよう。

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1998年 2月2日(月)

エレミヤ書31章23〜40節(33)

ある人によれば、本章は旧約聖書の中で最高峰だと言われている。それは31〜34節にある。即ち、神が新しい契約をイスラエルの民と結び直そうと言うのである。これまでの神と民の関係は十戒に見られるように、これらのことを行え、そうすれば神の祝福があると言うものであった。ところが彼らはそれを守らず、偶像を拝み、盗み、姦淫を行った。それで神はこれらの民を滅ぼしてしまったのである。しかし再びその民は回復される。

 ただ、その民は同じことを繰り返さないだろうか。きっと同じ罪を犯すだろう。そこで、神は規則としての信仰でなく、心に刻み込む即ち、心を変えてしまうと言う契約を造ろうとされるのである。それは十字架による罪の赦しにもとずくものである(ヘブル8章8節以下)。

自我が十字架によって死に、キリストが我が中に生きる信仰が信仰の最高峰である。

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1998年 2月3日(火)

エレミヤ書32章1〜25節(17)

 ゼデキヤの10年(1)はエルサレムの滅びる前年である。二節にはすでに攻略を始めているバビロン軍のことを書いている。エレミヤが預言した通り、国は徐々に滅びに向かっていた。

 ところが不思議なことに神は、エレミヤに従兄弟のハナメルの土地を、買い取って置けと言われた(7)。落ちぶれた親族の財産を買い取り、やがて元の所有者に返してあげることをあがないと言った。他国に滅ぼされる時が目に見えているのだから、本来ならそのようなことは無駄である。しかしエレミヤは神の命令に従って土地を買い、その証書を保存した(14)。それはやがて時が来ると、神がその土地と民を元のように回復するとの信仰があったからである。

 彼は罰する神ではあるが、恵みの神でもある。私達はなぜ無駄だと思えるような伝道をするのだろうか。なぜ殉教者まで出しながら伝道をするのか。それは蒔かれた種がやがて実をつけるからである。

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1998年 2月4日(水)

エレミヤ書32章26〜44節(40、41)

 32章は土地の回復を、33章は民族の回復を預言するものである。イスラエルの民は偶像を拝み(29)、もろもろの悪を行い(32)、しかも神が教えることに聞こうとしないで(33)、バビロンによって滅ぼされるのである。

 しかしこのような民にも神の回復の恵みが与えられる。37節以下にはその恵みある救いが語られている。滅びによって散らされた民がもう一度集められ、安らかに生活できるようになる。さらにすばらしいことは、「彼らに一つ心と一つの道を与えて常にわたしを恐れさせる」と約束されるのである。ある者は、神の民でもひとたびバビロンに捕らえられるなら、解放されないと信じていたが、エレミヤはそうではないと言い、「再び栄えさせる」と語るのである。

 八方ふさがりに見えても神の道は開かれている。

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1998年 2月5日(木)

エレミヤ書33章1〜13節(2、3)

本章は捕らわれの民が回復される預言の章である。民が祖国に帰り(1〜8)、再び栄え(9〜13)、王家が再興される(14〜26)と言うものである。

 さて今日の箇所には神がかつての繁栄をイスラエルに与えるとの約束がある。荒れ果てた地に祝福が与えられる。今の日本は霊的に荒れているが、主は恵みを与えて下さる。豊かな繁栄と安全を与え(6)、とがは赦され(8)、与えられる恵みのゆえに恐ろしくなるばかりである(9)。人々の心には喜びが満ちる。その喜びのゆえに感謝の捧げ物を持って神殿に来る(11)。エレミヤはこの時点では獄屋にいた。しかし造り主なる神を仰ぎ主を呼び求めたので、絶望と見える状態の向こうに、繁栄を与える神を見たのである。

み言葉を信じよう。主は「私を呼び求めよ」と言われた。その時、神は私の期待にまさるものをもって答えて下さる。

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1998年 2月6日(金)

エレミヤ書33章14〜26節(22)

 この個所は、神は約束されたことを必ず実行するということが述べられている。その中心はメシヤの到来である。

20節には 昼と結んだ契約、夜と結んだ契約は破られないとあるが、これは昼と夜とが決まった時刻に来るように、自然の法則を神が変えない事を意味する。自然の法則が変わらないのなら、それほどの確実さをもって、神が救い主を与えて下さるという契約も変わらないと、言われるのである。

14節にはダビデの家に約束したことをなしとげるとあり、「正しい枝」即ち、メシヤを与えて下さると、もう一度契約の確認をしている。

 23節には神は選んだ民を二つとも(ユダとイスラエル)捨てたと言う者がいるとある。このように不信仰は何もかも駄目だと言わせる。しかし私達は、神の民には約束があるという点に目を注ぎたい。天の星のような祝福を備えて下さる神をしっかりとみつめて歩みたい。

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1998年 2月7日(土)

エレミヤ書34章(15、16)

 本章は年代的な順序には書かれていないので所々逆になることがある。本章はユダ滅亡の約1年前のことである。エレミヤはゼデキヤ王に国の滅亡と王の運命を語った(2〜5)。それによってか、王は奴隷となっていたユダヤ人を無条件で解放した(9)。所がちょうどこの頃、かつて同盟を結んでいたエジプトがユダを助け、バビロンに抵抗したので、敵の攻撃も少し弱まった(これは他の所に記録されている)。すると楽になったゼデキヤは先の奴隷解放を撤回してしまった(16)。人が借金で身売りしても7年目には解放せよと神は命じておられた(14〜15)。それなのに王は苦境に陥ると、神と御言葉に従うと言いながら、事態が少しでもよくなると神に従わず、自分の都合ばかり考える。

 どんな境遇にあっても、神様を第一とする生活を守るべきである。他人がどうであろうと、救い主なる神につき従うのが私達の義務ではないだろうか。

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1998年 2月8日(日)

エレミヤ書35章(14)

 レカブ人のことが語られている。彼らはケニ人の子孫で、ミデアンの荒野に住んでいた。モーセの妻の一族がこのケニ人である。レカブ人に酒を飲むようにすすめたところ、先祖からの言い伝えだということで、それを断った(6)。飲酒拒否が宗教的理由であるのかどうかは分からないが、先祖の言葉を守っていた。そんなことがあった時、神はエレミヤにそのみ心を伝えた。レカブ人でさえ先祖の言葉を守るのに、なぜ神の民が神との約束を守らないのだろうか。14、15節には、神はしきりに語りかけ、また預言者を通してしきりに語りかけているのに、その語りかけに耳を傾けないはどうしたことかと嘆いておられる。真に忠実なる者が、イスラエル人の中にではなく、レカブ人の中にいるとしたら恥ずかしいことである。私たちは、キリストの弟子らしい生活をしたいものである。

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1998年 2月9日(月)

エレミヤ書36章(24)

 エホヤキムの頃というから、本章の出来事はエルサレム滅亡の35、6年前のことである。この時までにエレミヤはすでに20数年、預言者の働きをしていた。彼のノートには神からのメッセージがあったことだろう。エホヤキムはヨシヤの子である。ヨシヤは聖書を読んで悔い改め、多くの改革をしたが(列王下22章8〜13節)、その子は多くの罪を犯した。それでエレミヤは神の言葉を語ったのである。バルクがそれを書き民衆の前で読み聞かせた(10)。さらに王の高官にも(12)、また王自身にも読んだ(21)。恐らく世の罪を書き、滅亡のことが書かれていたことだろう(31)。高官達は顔を見合わせて驚いた(16)。ところが王はこの神の言葉を焼き捨ててしまったのである。神の言葉を受け入れる者には望みがあり、救いがあるが、それに立ち向かう者には滅びが来る。謙ってみ声に従う者になりたい。

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1998年 2月10日(火)

エレミヤ書37章(17)

 ユダ滅亡の一、二年前のことである。ゼデキヤはバビロンの圧力で王位につけられていた。ところが彼はバビロンにそむき、そのため攻められていた。エレミヤはバビロンに降服することがよいとすすめたが、王も民もそれを好まなかった。

 窮地にあった時、援軍エジプトが来たので、カルデヤ(バビロン)軍は退いた(5)。それでエレミヤがこれまで語ったようなエルサレム滅亡や王が連行されることはなくなったかに見えた。しかし、それでも預言者は神の言葉を語るのである(9)。人々はこんなエレミヤを売国奴のようにののしり、捕らえて投獄した(15)。不安な王はエレミヤに「主の言葉があったか」とたずねた。彼は同じメッセージを語る。それはただ滅びの言葉ではなく、長期的には救いの言葉である(29章11節)。状況が不安定な時、私達は揺れ動く。しかし、エレミヤのように、確固たるみ言葉に立っていたい。

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1998年 2月11日(水)

エレミヤ書38章1〜13節(13)

 エレミヤは、頑固なまでに主の言葉を語り、主は町をバビロンに渡されるから、町に留まる者は滅びると告げた。しかし、この言葉を聞いた者は、彼を混乱を引き起こさせる者として捕らえただけでなく、泥の井戸に投げ込んだのである(6)。泥の中に沈んでいく時、エレミヤは何を考えただろうか。み言葉を語ることは、彼にとっては命がけのことであった。そこには妥協はなく、真実な主のみこころを伝える以外にはなかった。その結果は殉教である。

 しかし、そのような時でもなおエレミヤには使命の時が残されていた。外国人、エチオピアのエベデメレクの助けを受けて、彼は穴の中から引き上げられたのである。神の助けはどんな人から与えられるか分からない。それは命がけで主と共に生きる者に与えられるものである。永遠に変わらぬみ言葉に生きる者でありたい。

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1998年 2月12日(木)

エレミヤ書38章14〜28節(20)

 泥井戸の中から助け出された後、ゼデキヤはエレミヤに個人的に今後のことについて相談した。殺されそうになりながらも、なお神の言葉を曲げずに語りつづけるエレミヤの生き方に、何か真実なものを見たのではないだろうか。王はバビロンに滅ぼされた場合のことを考え、不安で一杯になっていた。王は自分がバビロンに降服した場合、カルデヤへ脱走したユダヤ人に身柄を引き渡されて、なぶり者にされはしないと心配していた(19)。 しかしこれに対しても、エレミヤは神に従っていくならどんな事態になっても必ず最善が来ると告げて「どうか私があなたに告げた主の声に聞き従って下さい。そうすれば幸いを得、また命が助かります」と言う。王なればこそ不安は大きい。彼が主の言葉に立つことによって国が救われる。それで預言者は主に従うことを語りつづけた。主の約束に立ちつづけたい。

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1998年 2月13日(金)

エレミヤ書39章(14)

 エルサレムは一年半に及ぶ攻撃によってついに城壁の一角が破れ、陥落した。

 ゼデキヤは夜の中に逃げたが、やがて捕らえられ自分の部下や子供らが殺されるのを見せられた。また自らも目をつぶされてしまった。精神的、肉体的苦痛を味わわされたのである。このような混乱の中で、エレミヤは不思議にもネブカデネザルによって捕虜としては厚遇を受けた。12節に「彼を取り、よく世話をせよ、害を加えるな」とある。そして多くの国家の有能な者が捕らえ移され後も、エレミヤは民の間に留まった。彼は自分が助かったこと、またこれまで告げていた神の言葉が真実であったことを見て喜んだだろうか。そうではない。哀歌を見れば彼の苦悩を知る。荒廃のただ中で、「彼は民の中にいた」。苦難の中から逃げ出さないで、民の回復の時の来るのを祈ったのである。

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1998年 2月14日(土)

エレミヤ書40章(4、6)

 エレミヤは、バビロンの王の言葉通り、穏やかに取り扱われ、遂に釈放された(1)。その上、親切な提案さえ与えられた。バビロンに行くならそこで充分な世話をしてくれるし、この地に留まるなら、それでもよいというのである(4、5)。侍衛の長は食物と贈物まで彼に与えて去って行った。エレミヤは「良いと思い、正しいと思う所へ行きなさい」と言われた時、何処がそのような場所かを考えたに違いない。そして彼は「その地に残っている民のうちに住んだ」(6)。彼は神がやがてこの国を回復して下さると信じていた。

 70年の後というのだから、自分の生きている中に実現するとは思わなかっただろうが、国が破れ、神殿も壊されてその地に留まって、将来与えられる祝福のために祈りはじめたのである。エレミヤこそ真に、神のために重荷を負う預言者といえるであろう。主のために苦難の同労者となりたい。

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1998年 2月15日(日)

エレミヤ書41章(2、3)

 ゲダリヤはバビロンによって総督として立てられた。ところがイシマエルはそれをこころよく思わなかった。彼は王家の者である(1)。だからダビデ家の者ではないゲダリヤが立てられたことを憎んでいた。この時、近隣のアンモン人がこんなイシマエルをそそのかして反バビロンの行動の手先とした(40章14)。彼はバビロンによる制圧後も、なおそれに反発していたからである。それでイシマエルはゲダリヤを殺し(2)、エルサレム破壊を悲しむ巡礼者80人を殺した(7)。ゲダリヤの別の部下ヨハナンはイシマエルのこのような悪事を知り、それを討伐しようと出かけていった(12)。エルサレム堕落はエレミヤによれば、神の手の中にあって起こったことである。しかるにイシマエルはそれを認めなかった。さまざまの不平、不満に生きているうちにアンモン人につけ込まれ、戦後の混乱に混乱を加えてしまった。サタンに付け入るすきを与えてはならない。

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1998年 2月16日(月)

エレミヤ書42章(6)

 反乱者イシマエルがゲダリヤを殺したので、バビロンの処罰を恐れた人々はエジプトへ逃げようとした(41章17)。途中エレミヤのところへ立ち寄り、今後の主の導きを求めて主に祈ってほしいと願った(2)。その時彼らは「良くても悪くても主の声に従います」と言った(6)。10日も経ってエレミヤが彼らに語ったのは、バビロンを恐れる必要はないこと(11)、エジプトに行ってはならないこと(19)等であった。しかし最後に付け加えたのは、何でも神に従いますから祈って下さいと言ってはいるが、実際には従わないではないか、ということであった(20、21)。祈るとは、白紙で主に向かうことである。エジプトに行くと決めておいて、その道に祝福を与えて下さいと祈るのは真の祈りではない。6節には良くても悪くても、とある。良い事とは主の目に良い事である。それは必ず生涯を通じて私にとっても最善となる。神の善を求めて祈りたい。

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1998年 2月17日(火)

エレミヤ書43章(4)

 エレミヤがこれほどまでエジプト行きに反対したのは、神の民にはパレスチナが与えられ、今は滅ぼされてはいるがやがて回復の時が来るからであった。その時まで残された者は留まってこの地を継がねばならない。ところが真実の神の言葉をエレミヤが伝えた時、それに従うどころか彼らは高慢な人々になって、その言葉は偽りだと言った(2)。

 御言葉が私たちの心の底に響いてくる時、それを払いのけてはならない。恵みの言葉を拒否することを私たちにはできるが、その時から徐々に神から離れることになる。

 やがて、彼らはエレミヤさえもエジプトまで強制的に連れていった(6)。拒否しながらも、彼に真実があり、何かの時の助けを求める者として連行したのだろう。勝手な者たちである。「民らは皆、主の声に従わず」(4)とある。不従順の心は十字架によって清められなければ、ぬぐい去られることはない。

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1998年 2月18日(水)

エレミヤ書44章1〜19節(10)

 エジプトに行ったユダヤ人に対してエレミヤはなおも神の言葉を語った。エルサレムが滅びたのは、民が偶像を拝み、神を拒否したからである(6)。またエジプトへ来た者たちがかつての先祖のように神の前に罪を犯すなら(8)、神は彼らをその地で滅ぼされる。それでいよいよ国が回復されたときには、母国に帰れなくなると警告した(14)。これに対して民たちは反抗的な答えを16節以下に述べている。エレミヤの言葉には聞き従えないし、私たちは天后に酒を注ぐ、と言うのである。なぜエレミヤはあれほどの反対に遭いながら主の言葉を伝えたのか。それは、神にしか救いがないと信じたからである。なぜ私たちはキリストの救いを伝え、神を礼拝することを人々に勧めるのか。それ以外には救いはないし、滅びが来ると聖書は明記しているからである。民のおおっぴらな背信にエレミヤの心は痛んだ。

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1998年 2月19日(木)

エレミヤ書44章20〜30節(28)

 エジプトへ逃げたユダの人々が背信の行為に出たとき、エレミヤは再び同胞の過去のあやまちを語って、その罪ゆえ滅びたのだと教えた(20〜23)。だからエジプトに来てまで天后といわれる星、太陽などを拝むなら、エジプト在住の全ユダヤ人の中から真の神礼拝はなくなるだろうと言って悲しむのである。「ユダの人々でその口に主なる神は生きておられると言って、わたしの名を唱える者は、一人もいないようになる」(26)と言ったとき、エレミヤの心は悲しみで一杯だったに違いない。しかしそれでも幾人かの救われる者のいることを望んでいた。「わずかの者はエジプトの地を出て、ユダの地に帰る。そしてユダの残っている民でエジプトに来て住んだ者は、わたしの言葉が立つか、彼らの言葉が立つかを知るようになる」(28)という。 事情、境遇によって信仰が揺れ動いてしまうのではなく、どんな場合にも主に従って生きたいものである。

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1998年 2月20日(金)

エレミヤ書45章(3)

バルクはエレミヤの筆記者であった。彼は20年来のエレミヤの弟子で、おそらく最も信頼する友であったと思われる。エレミヤがエジプトへ連れて行かれたときも一緒であった(43章6)。バルクはエレミヤの言葉を書いただけでなく、それを一般民衆に読んで聞かせた。その内容は民がバビロンによって滅ぼされる、というものであった(36章4以下)。

 このようにエレミヤと生活を共にする中で、彼と同じ心に変えられていった。彼は「わたしは災いだ、主がわたしの苦しみに悲しみをお加えになった。わたしは嘆き疲れて安息が得られない」(3)というような者となった。この心は彼自身のことではなく、彼の民に対する思いである。失われていく同胞のことを思って心が痛むのである。キリスト者には喜びがある一方、滅びゆく魂のために重荷がある。

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1998年 2月21日(土)

エレミヤ書46章1〜12節(10)

 本章から諸国のことが書かれている。まず最初にはエジプトのことである。ここにはエジプトとバビロンが対決したカルケミシの戦いのことが書かれている。エジプト王パロ・ネコは二度カルケミシに遠征した。カルケミシはユーフラテス川の上流、パレスチナの北にある。最初の遠征はヨシヤ王の時で、カルケミシへの途上ヨシヤを殺した。

 本章のは二回目で、紀元前605年のことである。エルサレム滅亡(前586年)の20年前に当たる。この時にはネコはバビロンに大敗北した。エジプト軍はその力の強大さによって、世界を圧倒しようとした。ナイル川の逆巻く水のように世界を制圧しようとしたが(7)、彼らは倒れた(6)。薬を塗っても傷は治らない(11)。

 エジプトが倒れたのは、主の日に神が審かれたからだ(10)。神は世界の歴史を握っておられる方である。主の時が来ると強大を誇るエジプトも倒れる。

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1998年 2月22日(日)

エレミヤ書46章13〜28節(27)

 ユダの人々は、エジプトこそ助けを与える者だと考えていた。ところが、エジプト人はケミンの戦いで敗北した。14節のはエジプトの都市の名で、15節の雄牛はエジプトの偶像の一つである。バビロン攻撃の時、この雄牛の神は立ち上がらなかった。カルメル山があたかものしかかるように、バビロンがエジプトを攻めたのも、実は万軍の主の指示による(18)。それによってエジプト軍はカルケミンから逃げ帰ってしまった(22)。ユダはエジプトを頼んだが、大国は敗北した。もともとエレミヤは、エジプト信頼はいけないと言っていた。

 では、神の民にとっては誰を頼めばよいのか。27節にはその答えがある。

「ヤコブよ恐れることはない、イスラエルよ驚くことはない....私が救う。」

 これが主の約束である。キリスト者にとって結局、神のみ当てにして生きるのが勝利の道であると知ることである。

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1998年 2月23日(月)

エレミヤ書47章(2)

 ペリシテ人もまた神の裁きの座に置かれる。彼らはイスラエルに対してだけでなく、近隣に多くの罪を犯していた。このペリシテに対して、来たからバビロンの軍隊がおそってくる。あたかも洪水のようにやってくる(2)。その時人々は嘆き、助けようとしても無力な者になっていることを認めざるを得ない(3,4)。

 髪を剃る(5)とは、悲しみの表現であって、神の裁きにに会うときの悲しみの大きさを言っている。もし輪つぃたちの上にこの様な裁きが臨むとすればどうであろう。ひとたまりもなく、永遠に失われた者となるはずである。しかも神の裁きの座に置かれ無くて済むという保証は私たちにはない。ただ一つの道、即ちキリストの血の許しの中に隠れる者が、その裁きから救われると聖書は約束する。

 驚くべき救いの道ではないだろうか。

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1998年 2月24日(火)

エレミヤ書48章1〜20節(14,15)

 本章はモアブの滅亡を告げている。これは、イザヤ書15,16章にもある。モアブは死海の東にあり、彼らの起源はロトにまでさかのぼる。この様なわけで、イスラエルの人たちも彼らをっきょうだいとみなしていた(申2章.9)。

 しかし長い歴史の中では、様々のいきさつがあった。エルサレムが滅んだときも、モアブは大いに喜んだ。このモアブは本章によれば、自己の力を頼みとし(7)、高慢で横柄だとある(29)。しかもこの国はいつも平穏だと言われていた(11)。このモアブにも彼らの罪に対する裁きが来るという。事実エルサレムの滅亡(前586)後、5年ほどしてバビロンによって滅ぼされている。その時町々には叫び声が聞こえ(2〜7)、ケモシの神も助けにならない(7)。

 人の世界は変わる。安らかだと言っても、やがて滅びる時が来る。万軍の主に依り頼む者は、永遠の磐石が得られると、エレミヤは語っている。

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1998年 2月25日(水)

エレミヤ書48章21節〜47節(42,43)

 モアブの裁きが続いて語られている。

 モアブは主に対して、自ら高ぶっていた(26)。彼らは自分たちはいつも安全で、別に神を信じなくてもやっていけると思っていた。長い歴史の国、ずっと平安であったという(11)。そしてイスラエルが滅んだとき(それは彼らの罪の故であるが)、それを笑いものにした(27)。神を信じていると知られたものが滅ぼされたと笑ったのである。 

しかもモアブもまたその高慢、尊大、横柄さ故に、裁きを受けると告げられた(29)。それは、「主に敵して自ら誇ったからである」(42)。この句は、本章に二度でてくる。喜びを与える葡萄酒はなくなり、モアブの町々、ヘシボン、エレアレ等(34〜36)では、嘆きがある。髪を剃るのは悲しみの表現である(37)。しかし、47節の「再びモアブを栄えさせる」は、慰めではないか。謙遜は神を救い従う私たちの姿である。傲慢になってはならない。

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1998年 2月26日(木)

エレミヤ書49章1〜6節(4)

 本章はアンモン人の裁きについて書いている。アンモンはヨルダン川の東にあり、現在はアンマンと呼ばれている。この民族もイスラエルと多くの接触の歴史を持っていた。

 この当時は一部地域からイスラエル人を追い出し、イスラエルに世継ぎがないかのようにガドの地域を占拠していた(1)。民族相互の約束を守らないものを神は裁くと言われる。あたかも国際的な裁判官がいないので、神ご自身がなさるかのようである。アンモンの首都ラバが攻められる(2)。彼らは「自分の谷」を頼みとしていた。そこは三方山に囲まれた天然の要塞の地で、谷には武器庫があった。誰も滅ぼすことは出来ないと自負していたが、神は周囲のものから恐れの心が生じ、逃げ回るようになると言われた(5)。

 自己の力を頼み、神をないがしろにするもを「不信の娘」(4)と呼ぶ。しかし、6節の「アンモン人をふたたびさかえさせる」は、私たちにも慰めである。

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1998年 2月27日(金)

エレミヤ書49章7〜22節(8)

 エドムはヤコブの兄弟エサウの子孫である。

 だからエサウの名が出てくる。彼らの国はパレスチナ南部にあった。彼らとイスラエルの間には、多くの接触の歴史があった。しかし、ユダ国が滅ぼされたとき、それを助けなかったばかりか、バビロンの味方さえした。彼らはセラ(ペトラ)という難攻不落の町を持っていた。四方が岩の壁で囲まれ、一カ所だけ細い通路がある町で、この堅固な町を頼みとしていた。16節の岩の割れ目に住むとは、それを意味していた。しかし、この民族にを罪があった。それ故彼らにも裁きが臨む。自然の要塞でも人を守ることは出来ない。テマンの知恵者はいないかと尋ねているが、真の知恵者はエドムには居なくなっている。8節に

 「深い所へ隠れよ」とあるが、人々は神のもとに隠れるべきであった。

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1998年 2月28日(土)

エレミヤ書49章23〜39節(23)

46章以来、中近東の諸国が、それぞれの罪故に審判にあうことが述べられてきた。23節〜26節は、ダマスコ(ハマテ、アルパテの町々)のことで、シリア人の国について語られている。ダマスコはその首都である。その町は、楽しい町で知られていたが、今は裁きのために恐れおののきはじめている(23)。人は平穏なときは何ものも恐れないかのように言っているが、いざ何事か起こるとあわてふためく。

 28節〜33節には、チダル、ハゾルの事がある。これらはヨルダンの東、アラブ人種の町である。彼らは遊牧民である(29)。しかし、彼らもバビロンによって攻められ、四方に散らされてします(32)。もともと、町を構える人々ではないが、散らされると全く孤独になる。彼らは、気楽な生活をしていたが(31)、それもやがて失われる。

 平穏無事を神に感謝したい。その様なときに信仰生活の土台をしっかり堅くしておく必要があると思う。

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