聖書日課

 

1998年 3月

 

日曜日

月曜日

火曜日

水曜日

木曜日

金曜日

土曜日

エレミヤ50章 1〜27

エレミヤ50章28〜46

エレミヤ51章 1〜19

エレミヤ51章 20〜40

エレミヤ51章 41〜64

エレミヤ52章

エゼキエル1章

エゼキエル2章

エゼキエル3章

10

エゼキエル4章

11

エゼキエル5章

12

エゼキエル6章

13

エゼキエル7章

14

エゼキエル8章

15

エゼキエル9章

16

エゼキエル 10章

17

エゼキエル 11章

18

エゼキエル 12章

19

エゼキエル 13章

20

エゼキエル 14章1〜11

21

エゼキエル14章12〜23

22

エゼキエル 15章

23

エゼキエル 16章1〜34

24

エゼキエル16章35〜63

25

エゼキエル 17章

26

エゼキエル 18章

27

エゼキエル 19章

28

エゼキエル20章1〜26

 29

エゼキエル20章27〜49

30

エゼキエル 21章

 31

エゼキエル 22章

 

 

1998年2月|聖書日課メニューへ戻る

   1998年4月|八王子教会のページへ戻る

 

1998年 3月1日(日)

エレミヤ書50章1〜27節(4)

 50、 51章はバビロンの滅亡に関するものである。この国の権力が絶頂にあった時に、エレミヤは滅亡を預言した。それはバビロンといえども神の支配の下にあり、それもやがて罪のゆえに滅びるというものである。そのような出来事の中に、イスラエルの民は回復される(4)。彼らはししのようなアッスリヤ、バビロンによって弱い羊のように食い散らされて倒されてしまった(17)。

 しかしやがて回復される。「その時、イスラエルの民はユダヤの民と共に帰ってくる。そしてその神、主をもとめる」(4)。彼らは牧者を見失って、迷い出た者たちであった。それゆえ休む所もなくなってしまった。しかしこの民が回復される。それは彼らを圧迫していたバビロンが滅ぼされるからである。しかしもっと大切なことは、神が彼らの罪を許されたからである(20)。

聖書日課の目次へ戻る

 

1998年 3月2日(月)

エレミヤ書50章28〜46節(29)

21節からバビロンの滅びを書いている。彼らの武器庫も、食糧庫も奪われた(25、26)。

@そのようになった理由は何か。それは彼らが高ぶったからである(29)。高慢とは神のように自ら振舞うことである。彼らは神をないがしろにしたのである。

Aこのような危機の時、バビロンでは占い師をあてにした(36)。しかしそのようなものも何一つ役に立たなかった。それは偶像への奉仕者であり、人を救うものではないからである(38)。

 B バビロンを滅ぼすものは北の民であった(41)。それはメデヤとペルシャの連合軍である。彼らはやがてバビロンの運河づたいに水門から市中に入り、難攻不落と言われた町を滅ぼしてしまった。

 隆盛をきわめるには長い時間がかかる。しかし倒れるのは一夜の中に起こる。それは高慢な思いになり、神を敬わず、自分の腹を神とする時に起こってくるものである。

聖書日課の目次へ戻る

 

1998年 3月3日(火)

エレミヤ書51章1〜19節(19)

 @バビロンが滅ぼされるのは、彼らが神に向って罪を満たしたからである(5)。彼らの繁栄はすばらしく「金の杯」にもたとえられるものであったが、その中には世界を酔わせてしまう罪が満ちていた(7)。国内にはバビロンの狂気をいやそうとする者もいた。乳香によっていやそうとしたが、罪の流れは余りにも強く、「罰は天に達していた」(9)。バビロンには強力な軍隊があった(12)。しかしいかに見張っていてもそれらは滅びる。また運河を掘って農業も発達し、人々は富み栄えていた(13)。しかしそれらにも災いが来る。

 A誰からそのような審判がくるのか。それは天地を造られた神から来る(15〜19)。

 神は世界を建てられた神であって、これを支配し導かれる方である(15)。この神を土台にする時、一時的に災いが来るように見えても、決して永遠に滅びることはない(19)。バビロンはそのように歩まなかった。

聖書日課の目次へ戻る

 

1998年 3月4日(水)

エレミヤ書51章20〜40節(39)

 バビロンの滅亡が預言されている。滅ぼしの山と呼ばれたバビロンの強大な権力もやがてあとかたもなく失せてしまう。そうさせるのは神であるが、そのように歴史の中で働くのは、メデヤ、ペルシャである。(11、20)。27節のアララテ等はメデヤ地方の名である。これらの国がバビロンに反逆し、やがてそれを征服するようになる。29〜33節はバビロン攻略時の狼狽した様子である。強い軍隊がおびえてしまっている。人間の力はそのようなものである。どのような時にこんな滅亡が来るのか。39節には「彼らの欲の燃えている時」に滅びが来るとある。バビロンの人々は豊かさと、力のゆえに滅びなどは来ないと思っていた。大宴会の途中、突然滅びがやって来た。この時以来、バビロンが世界の権力者となることはなかった。自己を過信してはならぬ。ロマ13章12〜14節のように、神を敬い光の中を歩んでいたい。

聖書日課の目次へ戻る

 

1998年 3月5日(木)

エレミヤ書51章41〜64節(64)

 バビロンの滅亡には他の町のそれよりも多くのページを費やして書かれている。この国は余りにも強大で滅びるなどとは考えられなかったので、それが倒れることは驚きでもあった(41)。その城壁は大きく、その上を四頭立ての戦車が二台走ることができたほどである。何故バビロンは倒されたのか。それは偶像のゆえである(47、52)。「その偶像を罰する日が来る」とあるが、偶像を倒すのが目的ではない。それと共にそれを拝む者、また偶像を利用して思うまま勝手な権力をふるっていた者を罰するのである。また、神の民の殺された者のゆえに罰せられるとも言われている(49)。イスラエルはその罪のゆえに罰せられた。しかしエルサレム陥落のために役割をもったバビロンも残酷な民であった。それゆえにバビロンは倒れる。エレミヤはこの国は二度と上って来ない、と言った(64)。神の審きの厳粛さを思い、主を畏れ従いたい。

聖書日課の目次へ戻る

1998年 3月6日(金)

エレミヤ書52章(27)

本章にはエルサレムの最後の局面が書かれており、これは39章にも述べられているものである。エルサレム陥落についてまとまった記事としては、旧約に四度もでている。それは彼らにとって大事件であったことを示している。本章には国家の滅亡と共に、神殿の破壊を描き、ことごとくがバビロンに移されたと何度も書き、27節には「こうしてユダは自分の地から捕え移された」と結んでいる。 これは国家の滅亡以上の意味をもっていた。即ち、国家と神殿の滅亡は、神がアブラハムを選び、カナンを与え、その子孫に救い主を与えるという約束は失敗に帰したのかということである。しかしエレミヤも他の預言者と共に回復を確信していたし、歴史は恵みによる民の回復と救い主の降誕をあかししている。ただエレミヤの時点においては罪のゆえに滅びた国家を描いたのである。神は罪を滅ぼすが、恵みのゆえに民に救いを与える神である。

聖書日課の目次へ戻る

 

1998年 3月7日(土)

エゼキエル書1章(3)

 エゼキエルはエレミヤと同時代に活動し、エルサレムの滅亡と、その回復の到来を語った預言者である。黙示文学的な表現が多いので理解しにくいが、滅びの中にも励ましのメッセージを神より受けて語った。4〜14節には、翼や人の顔をもち、また牛やししなどの顔ももっている不思議な生き物を描いているが、これはケルビムと呼ばれるものである。彼らは敏速に走っている(14)。それは神のみ心を行うのに活動的な聖徒の姿である。15〜21節にはケルビムが乗っている4っの輪が書かれており、輪はこの生き物と共に動いている(19)。これは神の摂理、あるいは臨在の象徴である。神の臨在はたえず聖徒と共にあり、たとい捕囚の地にあっても神は生きて導かれると語っているのである。3節はエゼキエルといつも共に在す主のことを述べるものである。順境、逆境、いつでも共に生き給う主を仰ぎたい。

聖書日課の目次へ戻る

1998年 3月8日(日)

エゼキエル書2章(7)

ケルビムのように活動的な者の姿を示した神様は、次いで預言者に民の様子を教える。それは彼らが反逆の民で、強情な者だということである(3、4)。エゼキエルは、この民に神の言葉を語るように告げられたのである(8、9)には巻物を取って食べなさいと言われているが、それは神の言葉のことである。これを語れば皆が救われるというのもではない。むしろ反逆し、強情にもそれを拒否してさそりの毒のように仕返しさえして来るというのである(6)。しかしエゼキエルには、ケルビムのような働きが求められている。み言葉をいただき、食べる者には他者に語る責任もある。7節には、「彼らが聞いても拒んでも、あなたはただわたしの言葉を彼らに語らなければならない」とある。救う方は神様であり、伝えるのは人の業である。私達の分を果したい。

聖書日課の目次へ戻る

 

1998年 3月9日(月)

エゼキエル3章(1〜3)

 前章から再三、み言葉を食べよとすすめられている。

み言葉を食べるとは、聖書を読み、自分に語られる主のみ言葉としてそれを受けとめることである。短い句でよいからそれを心の糧として留める必要がある。所が、今は忙しい時代だからといって聖書を読まない人が多い。

読んでもみ言葉を食べない人がいる。これでは霊的な命は死んでしまう。それでは形のみの信者となってしまう。

キリスト教は聖書が分かっただけでは何の役にも立たない。み言葉を体験することである。例えば、悔い改めを体験する、救いを体験する、どう進んだらよいかを考える時、み言葉によって導きを体験する。こんなことが、

信仰生活を具体的にするのである。これを人生の節目ごとに体験したい。それには聖書を読み、祈ることである。

み言葉を読むと心持ちよい甘い面(3)と、間違いを正しくする苦い面(14)とがある。この両面を受けねばならない。

聖書日課の目次へ戻る

 

1998年 3月10日(火)

エゼキエル書4章(1)

1〜3節はエルサレルが攻撃される絵である。雲梯とは、城を攻めるはしごのようなもので、このような諸器具によってエルサレムは攻められる。4〜8節はイスラエルの人々が非常な苦しみにおかれることを教える。

 左脇や右脇を下にして長期間寝ることは苦痛であるが、このような苦しみが捕虜として来ることをエゼキエルは神様に教えられた。

 9〜17節はエルサレム攻撃に際して非常な困難が、特に食料問題において起こってくる、というものである。人々は普通、小麦、大麦、豆等々を混ぜて食べることはせず(9)、まして人糞などでパンを焼くことなどは、汚れるのでしなかった(12)。

なぜ預言者にこのようなことが示されたのか。それはこの町のためにとりなしの祈りをするために他ならない。

「エルサレムの町を描け」とあるが、私達が、自分の町を脳裡に描く時、神の愛の下にありつつも、尚、滅びの道に行くものとして描くだろうか。

聖書日課の目次へ戻る

 

1998年 3月11日(水)

エゼキエル書5章(6)

神はなおもイスラエルの滅亡について語られる。

預言者に頭髪をそらせ、三等分させよと言う。これはエルサレムの3分の1は異国に散らされるというものであった(2〜4)。なぜそのようなことがあるのか。それはエルサレムの悪は他の国々にまさる程のものだったからである(6)。それゆえ異邦人の目の前でさばきを行う(8)。

 神はさばきを喜ぶかたではない。しかしそうすしなければならないのは神の公義が公けに知らされるためである。神を知るイスラエルが悪の限りをつくしてよいだろうか。神の民が未信者もしないような罪に随っていてよいだろうか、異邦人の前で神の民を裁くことを神はどんなにか苦しみを持たれただろうか。 神の民である私たちは、主イエスの教えを守っていなければならない。これによって主の証人となるのであるから。

聖書日課の目次へ戻る

 

 

1998年 3月12日(木)

エゼキエル書6章(2)

 イスラエルの民が滅ぼされることについて、特に、偶像を拝む者と、偶像礼拝に関連して行われた姦淫を行う者とが滅ぼされると述べられている。

 イスラエルはかつて出エジプトした民であり、シナイの野で神にのみ仕える者としても言葉を受けた者であった。ところがカナンの地へ入ると間もなく土着のバアル、アシタロテなど偶像を取り入れた。それは豊作の神であり、それを象徴して男神、女神などが拝まれるようになった。当然の結果として不道徳な行為が民の間にひろがった。安易で、肉感的な考えは広がり、人々を腐敗させる。

神はエゼキエルに「顔をイスラエルの山々に向け、預言して言え」と語られた。これは、じっと見つめて語れの意味である。神の側に立つ彼はどんな思いで神の与えられた山々を見、町の人々を見ただろうか。

 私たちが偶像や肉欲に捕らわれてはならないのは無論だが、このような人のため祈り、福音を語りたい。

聖書日課の目次へ戻る

 

 

1998年 3月13日(金)

エゼキエル書7章(1〜3)

 「終りがくる」とか「最後の運命が来た」との表現が7回出てくる(2、5、10)。終わりの時が来るというのは、いつも預言者の語っていたことである。

エゼキエルの場合は、586BCにエルサレムが滅びた時に近い頃だったであろう。多くの罪を犯し、神から遠くはなれた者に神の裁きがもたらされる。その日には喜びはないし(7)、売買などして富をたくわえ、名声をほしいままにしていた者も滅び、これらの人間的な力は何の助けにもならない(10〜13)。神が言われたようにエルサレムは滅びてしまった。それは神に対して罪を犯し、暴虐と、流血とがなされていたからである(23)。私達の世界にも世の終わりが来る、と何度も語られている。主イエスも、パウロも私達に告げている。

 私達は神から離れた生活をしてはならない。終わりの時が来る時、滅びる者の中にいてはならない。今も主の救いの十字架があることを覚え、憐れみを求めよう。

聖書日課の目次へ戻る

 

 

1998年 3月14日(土)

エゼキエル書8章(6)

 エゼキエルは強制的に神によってエルサレムの腐敗した情況を見させられた。「髪の毛をつかんだ」(3)にその意味がよく表われている。エルサレムの神殿の中には、ねたみの偶像がおかれている。これはマナセ王が持ち込んだアシラ像のことであろう。またエゼキエルは、はうものや、獣等のさまざまの偶像を神殿の中で見、その前に立っている代表者なる70人の長老を見た(10、11)。またある者は太陽を拝んでいた(16)。これらの状態を神様はどんなみ思いで見られたであろうか。エゼキエルにも悲しい主の心を知らせたかったのである。

 本章には、何度も「見よ」、「見るか」等の言葉がある。預言者は神の目をもって罪の現状を見させられた。主イエスは種をまいたばかりの畑を見て、刈り入れの畑を考えており、「畑は刈り入れを待っている」(ヨハネ4章)と言われた。

滅びに陥いる魂を見る目を与えていただきたい。彼らのために祈りたい。

聖書日課の目次へ戻る

 

 

1998年 3月15日(日)

エゼキエル書9章(4)

 エルサレムは前述のように罪に満ちていおり、それゆえ神はこの町を滅ぼすと語って来られた。ここに象徴的な6人の者が武器を持って滅ぼすためにやって来た(2)。所がもう1人の亜麻布を着た者がいて、神様はこの者に墨つぼの墨を正しい者の額につけよ、と命じておられる(2、4)。どんなに町中が罪に汚れても、少数者の中に偶像を憎み、罪を憎む者がいた。神はこれらの者も共に滅ぼすことはされない。それでこれらの者にすみの印をつけよ、語られたのである。

 新約には、生まれ変わって神の子となった者には精霊の証印があると言われている(エペソ1・13)。放牧の牛に焼印があるように、信徒の心の中には聖い神の印が押されている。それはあなたが誰の所有かを明白にするものである。その者を神は永遠の滅びに入れない。印を心に持っていよう。それを消さないで守っていたい。

聖書日課の目次へ戻る

 

 

1998年 3月16日(月)

エゼキエル書10章(19)

再び1章に見た不思議な幻が黙示的な表現で見られる。神の使者はケルビムの下にある車の間に入り炭火を取り出すようにと命じられている(2)。これはエルサレムに神のさばきの火をもたらせよとの神の命令である。9節から輪のことがでてくるが、車とか輪は、神の摂理や臨在を意味するものである。つまりエルサレムの滅亡は決して偶然のことではなく、神の摂理的なわざとして起ったことだと言うのである。

 所で神の栄光は神殿の敷居から出て行き(18)、宮の車の門の所に移動し(19)、町の審判が始まろうとする前に、神殿から立ち去ろうとしている。かつてソロモンが献げた神殿に、神はそのみ名をおかれ、栄光を与えられた。しかし今やそこを去ろうとしておられる。去りがたく、しかし去らねばならぬ神の苦痛が見られる。

 キリスト者に命を与えるのは神の臨在である。神なしには死んだ者となる。臨在と共に生活したい。

聖書日課の目次へ戻る

 

 

1998年 3月17日(火)

エゼキエル書11章(19)

 エルサレムには25人のリーダーがおり、ペラテヤやベナヤはその中心人物と思われる(1)。彼らはエルサレムは滅びないと言っていた。この町はなべのように強く、少しの火では燃え落ちないと信じていた(3)。しかし、滅ぼすのは神であるから、なべから肉を取り出すように人々を取り出すと言われる(7〜9)。このようなメッセージを語っている最中にペラテヤは死んだ。しかしこんなきびしいさばきの中にも神は憐れんで民を愛し捨てない。他国民の間に民を散らしても、神は彼らと共にそこまで行き、聖所となる(16)。何というかえりみであろうか。しかもイスラエルの民が再び帰国する時には石の心を除き、柔らかい肉の心を与えて神に従いやすい者に造りかえると言われるのである(19)。これほどの神の愛を私達はすててはならない。

聖書日課の目次へ戻る

 

 

1998年 3月18日(水)

エゼキエル書12章(23)

 神はエゼキエルに荷物をまとめて、人々の見ている所でエルサレムの町を出て行けと命じられた。この象徴的な行為はやがてこの町の者は捕虜として連れて行かれることを意味した(1〜7)。預言者はその言葉に従った。これは行動によるメッセージである。17〜20節では恐れながら水を飲み、パンを食べよと言われ、彼はそうするが、これも行動の説教である。つまり食糧に窮する時が来るというものである。しかるに人々は、そのような日は延び、滅びは来ないと言う(21)。1般民衆は「日は延びすべての幻はむなしくなった」と言うが、エゼキエルは「日とすべての幻の実現は近づいた」と語った。世の終わりなどない、という人がいる。いつまでも平和があると言う。望ましいことである。しかし聖書は明らかに終末が来ると言う。再臨の時、1人は残され1人は天にあげられるとあるが、望みをもって魂の準備をしたいと思う。

聖書日課の目次へ戻る

 

 

1998年 3月19日(木)

エゼキエル書13章(2,3)

本章は偽預言者についてである。1〜16節は男の預言者、17〜23節は女の預言者について述べている。偽預言者の問題は、主が彼らに語られたのではないのに「主が言われた」と主張することである(7)。

その特徴は@自分の心のままに語ることである(2、17)。すべて自分中心である。これを自分の霊に従う、とも言っている。

A平和がないのに平和だとも言う(10)。

B戦いがあるのに城壁もつくらず、戦えばよいとすすめる(5)。

C人々の魂を引きよせるため、占いなどをする(18)。

 エゼキエルは占いなどをする者は初めから信じなかった。彼らは主が語られたとは言うが、結局自分のことしか考えていない。私達にとって主が言われるとは何か。それは聖書である。エゼキエルの時にはモーセの書があった。聖書の原則に則って、神に明け渡した心をもって主に聞こうとする時、私たちに神様は語って下さる。これに従いたい。「主の言葉を聞け」。

聖書日課の目次へ戻る

 

 

1998年 3月20日(金)

エゼキエル書14章1〜11節(4)

1節にはイスラエルの長老たちがエゼキエルのもとに来たとある。それが13章にあるような、偽預言者への言葉についての説明を求めるためなのか、エルサレムが滅びると彼が言うので、それに関する質問をするためなのかは分からない。いづれにせよ何か困ったことが起きたので何らかの助言を求めて来たのである。彼らに対して主は、「あなたがたは悔いて偶像を捨てよ」と語られた(2)。

 神様について、あるいは信仰生活について何かを知りたい時に、それに対する答えをいくらか話すことも出来るだろうが(7)、結局1番大事な点は、罪を捨てる所から始まるのだ、というのがエゼキエルのメッセージである。このことなしにはいくら説明しても所詮なにも分からないのである。神のふところの中に真に生きている、という信仰が確立している者には、神は必ずその人の内心に行くべき道を教えてくださる。導き給う主を仰ぎつつ進みたい。

聖書日課の目次へ戻る

 

 

1998年 3月21日(土)

エゼキエル書14章12〜23節(20)

 この箇所には、ノア、ダニエル、ヨブのような3人の義人のとりなしがあっても、イスラエルの国は救われないという表現が4度も出ている(14、16、18、20)。これはとりなしは無駄だということを教えようとしているのではない。信仰は要するに1人1人にかかっているのだという点を教えようとしている。本人はとんでもない生活をし、神様を仰ごうともせず、何か災難の時には親が信仰があるからとか、妻が、あるいは夫が信じているから私にも救いが来る、と信じているのは間違いである。もちろん家族や友人のよい影響や祝福は他の者にも及ぶものである。しかし自分が火を持つのと、火のほとぼりで暖かくなるのでは全く異なる。天国へ行くのは自分の信仰で行くのである。「ただその義によって自分の命を救う」(20)とあるが、今はキリストによって与えられる義の道が備えられているので、ただ十字架を仰いで進みたい。

聖書日課の目次へ戻る

 

 

1998年 3月22日(日)

エゼキエル15章(2)

 ぶどうの木のたとえが語られている。ぶどうの木は用材にはならず、物をかける木釘にさえ役立たない(3)。ぶどうの木に何のまさる所があるか(2)と問うているが、実を結ぶことしか能のないのがぶどうの木である。 私たちの中には社会的に有能なキリスト者は沢山いる。しかしあえてすべての教会の者をぶどうの木と言ったのは、主のために実を結ぶことこそ、ぶどうの使命だと言うためである。社会的に有能な者はすばらしい。しかし主のために果たしてどれ程の実を結んでいるかが問われている。主のために実を結ばなければ「なんのまさる所がああるか」(2)。実とはクリスチャンらしい品性の実があげられる(ガラテヤ5:22)。怒りやつぶやきの多いものが、愛、喜びの者に変えられるのはぶどうの実である。また実には伝道の実もある。さんびの実もある(ヘブル13:5)。何らかの実を結んでいこう。ヨハネ15章15節に結実の秘訣がある。

聖書日課の目次へ戻る

 

 

1998年 3月23日(月)

エゼキエル書16章1〜34節(5、6)

 本章はエルサレムについて比喩的な言葉で語り、何故滅ぼされるに到ったか、を述べている。1〜14節ではエルサレムを娘に例えて、その生い立ちからの成長を書く。町の始めはカナン人のもので、普通の子の誕生のように、水で洗われず布にもくるまれなかった(4)。それを拾って育てるように、神はエルサレムを選び聖地とした。彼女は成長し花嫁が盛装するように城壁をもち、神殿をもち、都とさえされ、神の愛の対象となった(8〜14)。所が15節〜34節では、娘であるこの町は姦淫を行うようになった。姦淫とは、偶像礼拝のことである。多くの王達は偶像を置き、他民族のまねをした。エジプトや(26)、ペリシテ(27)、アッスリヤ(28)等と、姦淫を行うとは、飽きもせず諸外国の偶像を次々と入れることである。神は私たちの生まれを思い出させている。罪故に捨てられたものであったのに、「生きよ」と言っていただいた者である。私たちは何処から救われたものか問い直したい。

聖書日課の目次へ戻る

 

 

1998年 3月24日(火)

エゼキエル書16章35〜63節(60)

 35〜43節では、この町の人々の罪が裁かれる。裸の恥を露わにする、と言う言葉が何回もみられる。それは裁きであって、エルサレムの人々が自分たちは滅ぼされることはないという、独りよがりの信仰に対して、恥をかかすように裁きが来る、と言うのである。何故そうなるのか。それは44〜58節にあるように、彼らの罪は誰よりも大きいからだと言うのである。サマリヤやソドムを姉妹にたとえている。サマリヤは既に滅びていたし、ソドムもその昔、悪の町の故に滅ぼされたと言われている。所がエルサレムはこれらの姉妹よりもっと悪いと宣告される(48,51)。

 この様な告発はただ悪を並べるためではない。60節のように、はじめに立てた契約を思い出してもらいたいためである。神様が私たちを選び救いに入れたのは、神と共にこの世を歩み、神の栄光を顕わし、み国にまで進むためであった。

聖書日課の目次へ戻る

 

 

1998年 3月25日(水)

エゼキエル書17章(24)

 本章は2羽の鷲の例えによってイスラエルへの裁きを述べる。

 第1の鷲はバビロンを指す(3,12)。彼は若枝をつみ取るようにこの国を滅ばし、商業の地(4)バビロンへと移し去る。

 第2の鷲は(7)エジプトのことである。この当時ユダの王ゼデキヤはバビロンの権力下にあり、それに立てられていた。それにもかかわらず愚かにもエジプトのに頼ったのである(15)。7、8節にあるブドウの木が第2の鷲に枝を伸ばしてエジプトに委嘱してもらえないものかと求めて居るのは、エジプトへの信頼を意味している。この時期にあっては、イスラエルはバビロンの下にあることがよいのである。それなのに信仰を持っているかのように、それを払いのけようとした。しかしそれは間違いである。22節以下に主のみ心がある。木を植え、それを育てるのは主のなさることである。私たちの人生についても同様である。主が「これをする」と言われることを心に留めたい。

聖書日課の目次へ戻る

 

 

1998年 3月26日(木)

エゼキエル書18章(31)

 エゼキエルの特徴的なメッセージがここにある。それは個人の責任と言うことである。この当時、人々は全体の中の1人という共同体の考え方で生きていた。つまり今、滅びが来るのは父祖達が罪を犯していたからだ、というのである。これは責任の転嫁と言うことにもなりかねない。エゼキエルはそれを訂正したかった。確かに以前の王達も悪かったが、今のエルサレムの人たちも悪い。それ故、人はその悪のために死ぬ、と言ったのである(18)。ただ預言者は個人的な人生における因果応報のみを語るのではなかった。21節以下には、先祖がどうであっても、今人が罪を離れるなら生きる、と強調している。その様な神に帰る生き方は、新しい心と新しい霊を与えられることによって始まる、と言う(31)。

「イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか」。

聖書日課の目次へ戻る

 

1998年 3月27日(金)

エゼキエル書19章(10)

 1〜9節には獅子の例えがある。最初母獅子(イスラエルの国)は若い獅子を育てた。ところが彼は人を食べるようなものとなった(3)。これはエホアハズという王のことを指しているという。彼が悪を行うのでエジプトに捕らえられるようになった(4)。それで次に母獅子は別の若獅子を育てたが、これも人を食べるようなものとなった(6)。これはエホヤキン王を指すと言われている。彼もやがてバビロンへ捕らえられた(9)。

 10節からは、ブドウの木の例えがある。彼は順調に成長した。磁化し自分の欲望の好むままにのびていった為に、バビロンによって根から抜かれてしまった(12)。それは神の裁きである。本章は、悲しみの歌なのである(1、14)神がイスラエルに獅子のような力を与えたのは、人をかみ砕くためのものでは無かった。ブドウの木のようになったのは、自己の欲望のためでは無かった。神の栄光を顕わすためのものだった。自分の能力と祝福を、自分のためでなく神のために用いよう。

聖書日課の目次へ戻る

 

 

1998年 3月28日(土)

エゼキエル書20章1〜26節(12)

 本章はイスラエルの民が出エジプト以来、どれ程神様に不従順な生活をしてきたかを書いている。神は「全地で最も素晴らしいところへ行かせる」と約束しておられたのに(6)、彼らは神に従わなかった。それは特に2つの点に表れている。

 @まず彼らが偶像を捨てなかったことである。8節には「エジプトの偶像を捨てなかった」とある。神様を信じているといいながら、それ以外のものに信頼することは背信である。これは最大の罪である。

 A次は安息を汚すことに表れている、という。安息日こそ具体的に神を礼拝し敬うことを表す日であるのに、その日を大切にしなかった(13、16、21)。私たちは神を敬った生活をしなければならない。たとい形の上で偶像を拝まないとしても、それだけでは十分ではない。積極的に神をあがめた生活をすべきである。その1つとして安息日を大切にしたい。

聖書日課の目次へ戻る

 

1998年 3月29日(日)

エゼキエル書20章27〜49節(4)

 1〜26節ではイスラエルが荒野で40年の間、神様に従わなかったこと、27節以下ではカナンに入った後も同様であったことが書かれている。この様な者を神は幾たびか滅ぼしてしまおうとされた。「怒りをもらそうと思う」という言葉が何度か見られる(8、13、21)。けれども彼らを惜しみ滅ぼさなかった(17)。なんという神の忍耐と憐れみであろうか。しかるにカナンに入園してからも偶像礼拝は止まらない(28)。人身御供という異教の習慣まで取り入れる始末である(31)。神様はこの様な者を裁くと言われる。45節以下は火をもって裁く神の業を書いている。しかし神様は裁きたくてそうするというのではない。真のみ心は「あなた方のささげ物と最上の供え物とを...求める」ことにある。本章に「私の名のために行動する」の句が数回ある(9、14、22)。それは神がみ名のために惜しんだ行為であろう。主の愛を思って、いつも真の礼拝をささげよう。

聖書日課の目次へ戻る

 

1998年 3月30日(月)

エゼキエル書21章(6)

 前章末には火による滅びが告げられていたが、本章では同じ事を剣による滅亡として語っている。バビロンの剣がエレサレムを砕くのである。それは2度、3度と神の民の都に臨む(14)。18節以下はバビロンの王がパレスチナに攻め入るとき、アンモン人の首都ラバを撃とうかと考えて占いし、結局エルサレムを攻めることになるという預言である。しかし、これとてやはりイスラエルの罪故であり、その罪深さを恐ろしい剣によって知るようになる(23〜25)。エゼキエルは断腸の思いで「ああ破滅、破滅、破滅、私はこれをこさせる」と神様の痛むみ心を語った(27)。同時に預言者は「人の子よ嘆け、心を砕けるまで嘆け」と告げられた(6)。滅びを伝えられた者が、どうして嘆かないことがあろうか。しかし嘆きは単なる悲しみの声ではなく、とりなしと救霊の祈りとなるべきではなかろうか。涙の取りなしてとなりたい。

聖書日課の目次へ戻る

 

1998年 3月31日(火)

エゼキエル書22章(18)

 これまでずっとエルサレムが滅ぼされることが述べられてきた。本章はそうなる理由を告げるのである。流血の町となってしまったエルサレムが告発されている。何度も「血を流す」と記されている(2、4、6他)。この流血は社会的不正を伴うもので、父母が卑しめられ、旅人はさげすまれ、みなしごややもめらの憐れむべき者は捨てられる(7)。また不道徳な性の乱れがあり(11)、不正な利得のために悪を行う(13,27)。このように人情はすたれ、魂は堕落し、自己欲のために人は動くようになる。この様な者のことを「かなかす」だと呼ぶのである(18)。イスラエルはもとは金、銀のような宝の民であったのに、今はかなかすになってしまった。それ故、捨てられる。塩はその味を失うとき捨てられて、踏まれるのみだと主は言われた。宝の民(申命記7章6節)とされた特権を持ち続けたい。

聖書日課の目次へ戻る