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聖書日課 |
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1998年 4月 |
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1 エゼキエル 23章 |
2 エゼキエル 24章 |
3 エゼキエル 25章 |
4 エゼキエル 26章 |
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5 エゼキエル 27章 |
6 エゼキエル28章1〜19 |
7 エゼキエル28章20〜26 |
8 エゼキエル 29章 |
9 エゼキエル 30章 |
10 エゼキエル 31章 |
11 エゼキエル 32章 |
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12 エゼキエル33章1〜9 |
13 エゼキエル33章10〜33 |
14 エゼキエル 34章 |
15 エゼキエル 35章 |
16 エゼキエル36章1〜15 |
17 エゼキエル36章16〜38 |
18 エゼキエル37章1〜14 |
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19 エゼキエル37章15〜28 |
20 エゼキエル 38章 |
21 エゼキエル 39章 |
22 エゼキエル 40章 |
23 エゼキエル 41章 |
24 エゼキエル 42章 |
25 エゼキエル 43章 |
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26 エゼキエル 44章 |
27 エゼキエル 45章 |
28 エゼキエル 46章 |
29 エゼキエル 47章 |
30 エゼキエル 48章 |
1998年5月|八王子教会のページへ戻る
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エゼキエル書23章(35)
何故、滅ぼされるのかという点について、前章では社会的な人間関係の乱れにあると述べていた。それは流血、不正、不孝であった。
続いて本章では滅びの理由として、神との関係の不誠実を語る。それを姦淫で表現した。アホラ(北王国の首都サマリヤのこと)とアホリバ(エルサレム)の2人姉妹にたとえて(4)、これら2人は姦淫の罪を犯したという。姦淫とは貞操の裏切りであり、不誠実な行為である。現代は姦淫に満ちた世界であり、このままでは神に打たれる時が来るであろう。ところで本章では姦淫は神に対してなされているという。つまり、神にのみ従うと約束しておきながら、平気でアッスリヤと縁を結び(5)、異教の神を代わりに入れてしまったのである。このような者とは神は縁を切る。そしてそうなった者は滅ぼされてしまう。私達は1つ心をもって主を愛し、洗礼の時、神に約束したことを誠実に守っていこうではないか。
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エゼキエル書24章(13)
1章から本章まで預言者はエルサレムの滅亡についてメッセージを諄々と語って来た。ここに二つの物語を書いて次章から別の主題に移る。
1つは釜のたとえである(1〜15)。エルサレムは丘の上に釜をのせたようで攻めにくい町であった。住民はこれを誇りにしていた。ところが神様はこの釜を火で焼き、肉を煮る器とすると言われる(3〜6)。なぜならさびが釜にこびり付いているように、罪が民の心に付いて離れないからである(6、13)。この釜で肉を煮るとはさばきである。
第二の話題はエゼキエルの妻の突然の死である(15〜24)。神様は彼の妻によって嘆くなと言われた。それは神の民の滅亡を嘆くなということを意味した。愛する者の死を嘆かぬ者はいない。なぜ嘆いてはならないのか。それは民の滅亡は当然来るべきものである、と神が決められたからである。それ程、人々の罪は深かったのである。
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エゼキエル書25章(3、4)
アンモンはロトの子孫であるが(2)、彼らはイスラエル人と親戚関係にあったのにエルサレムが滅ぼされる時には「それはいい気味だ」と言ってあざけった(3)。神様はこのような人の町を滅ぼし、人が住めないような、羊の放牧場にすると言われる(4、5)。
モアブもロトの子孫でイスラエルと同様の関係にあったのにアンモンと同様な仕打ちをイスラエルにした(8)。エドム(エサウの子孫)もペリシテも同様であった(12、15)。
同胞が罪の結果とはいえ悲しんでいるのに、それを嘲笑したり、外国の力と一緒になって襲うようなことをしてよいだろうか(12)。主は、人が私に罪を犯した時、七度を70倍するまでゆるしを与えよ、と言われた。それは相手を愛し、憐れむ思いから生まれてくるものである。憐れむ神様は、憐れみの心を持った人が欲しいのである。
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エゼキエル書26章(2、3)
26〜28章はツロに対する神のさばきが預言されている。
ツロはフェニキヤ人の重要な都市で、世界に有名な商業都市、また港町であった。従ってギリシャの文化や世界の富がここに集まっていた。ところがエルサレムが滅びるにあたって、前章での人々と同様に「それはいい気味だ、もろもろの民の門は破れて、私に開かれた。私は豊かになり、彼は破れた」と言ったのである(2)。自分は十分な富を得ていたのに、エルサレムが滅びたためもっと自分の町に富が来るという。それゆえこの町はバビロンによって滅ぼされ(7)、近隣の人々も身震いするほどの破壊を受ける(15)。
ある人々は他人が不幸になった時、それをひそかによろこぶ。ツロはそういう者であった。高慢と不遜、また独りよがりの自己主義、このような心を主は憎まれる。「人をさばくな、自分がさばかれないためである」(マタイ7章1節)。
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エゼキエル書27章(32)
ツロは海の貿易によって巨万の富を築いた。それで本章ではこの町を船になぞらえて、その繁栄と美しさを語っている。
1〜7節はツロの素晴らしさを描き、「美は完全である」と言う。また8〜11節ではその町の人々をこぎ手にたとえてその熟練さをたたえる。更に12〜25節ではこの町の交際の範囲、つまり貿易の広さを誇り、西の端のタルシシュ(スペイン)から東のダマスコまで、甫はアラビヤまでの国々とつき合っていると述べている。美を誇り(3)、貿易によって富(25)、何の不足もない者となった。
一生懸命に働き、多くの富を得ることは悪ではない。申命記にも神に従う者に物質的な祝福を下さるとある。しかし問題は、それが神様になり、自分の偶像になる時である。その時、富と船と船員とは一緒に沈む(34)。富に仕えるのではなく、神を第一におき、富を神と人とのために使う者となりたい。ツロのように滅びてはならない。
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エゼキエル書28章1〜19節(2)
前章につづいてツロの王についての預言である。
ツロの罪は心の高ぶりであって、その高ぶりは自らを神にさえする程のものであった(2、6、9)。ツロの者たちは賢く知恵に満ちており(3、4)、美しい者であった(12、13)。知恵があり美しいのは悪いことではない。むしろ求むべきものである。しかし16節には、「あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて罪を犯した」とある。富が増して豊かになることも罪ではなく、神の祝福であると聖書は言う。ところが富は人に危険と誘惑をもたらす。弱い私達は誘惑に負ける場合の方が多い。ツロは富のゆえに罪に陥っていった。美しさのゆえに高ぶり、不正な交易で多くの罪を犯した(17、18)。私達は自分を神とする程の愚かな者とはならないであろう。しかしへりくだりの思いがなくなり、富に仕えるようになるなら、ツロと同じではないだろうか。恵まれる秘訣は謙遜である。
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エゼキエル書28章
20〜26(26)
ツロの北にシドンがある。この町もフェニキヤ人の町でツロと同様に栄えたが、また罪も犯していた。それゆえこの町が滅ぼされる。「私はあなたの中で栄えをあらわす」(22)とあるが、栄えをあらわすとは、神の神たるをあらわすことである。普通、私達は神の恵み深い救いのみわざのゆえにみ栄えを拝するのであるが、この場合は罪ある敵を滅ぼすことによって栄えをあらわすことになる。これは残念なことである。またそのような事態が起こることによって「主であることを知る」(22、23)のもなさけないものである。願わくは神の恵みのみわざがなされることによって、み名をあがめさせて頂きたいものである。
24〜26節にはイスラエルの回復のことが伝えられている。住むべき所に住むのがヤコブの祝福であるように、神の民がふさわしい生き方をする時、平安があり、満足がある。
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エゼキエル書29章(3)
29〜32章はエジプトに関する神のことばである。エジプトについては2つのことがここで語られている。
1つはイスラエルにとっては頼りにならない葦のつえのようであったこと(6)。もう1つはそれ程弱いにもかかわらず、高慢で「ナイルは私のもの、私がこれを造った」と言う者であること(3、9)である。
ナイル川はエジプトにとっては豊かな農産物をもたらす源水である。この川さえあれば困ることは何もないと思っており、それゆえナイルは神のようであった。しかし天地は神様が造られた主のもので、ナイルも神の賜物であった。人は何かができると、自分は神のようだと高ぶる。
人は発見によって遺伝子の組替え、男女の産み分けさえできると言うようになった。神が造られた巧妙な仕組みを見出しただけなのに自分がまるで創造者であるかのように言う。傲慢になり、濫用すると、しっぺ返しが来るに違いない。へりくだったものでありたい。
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エゼキエル書30章(3)
自分の力を頼み、自然の力を神としていたエジプトはバビロンによって滅ぼされる(10)。この国を頼みとしていた同盟国、エチオピヤ、ブテ、ルデ等の国々は共に倒れることになる(5)。それだけではなく、神はナイル川を枯らす、つまり町々を荒廃させると言われるのである(12)。エンピスの偶像をはじめ(13)、テーベも他の町々も倒されてしまう。この日が近づいており、「主の日は近い」と警告された(2)。この日が近いとはエジプトだけのことではなく、今の私たちにも同様である。いつ再臨があるか分からないし、死が到来するか知れない。再臨にせよ、死にせよ、それは災いではないが、神の前に立てない者にとっては、災いであり、滅びとなるだろう。第一テサロニケ5章には暗闇(罪)の生活をしているものには盗人のように災いをもたらすと教えている。いつも昼のように、目覚めた信仰生活をしていたい。
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エゼキエル書31章(10、11)
エジプトは誰に似ているか(2)、それはアッスリヤに似ているといって3〜9節では両国の発展と美しさを語った。これは大きく成長してレバノンの香柏のようになり、高く強大になっただけでなく、美しく整備された。しかも鳥が巣を作るように、これらの国の保護の下に生活していた。エデン(世界)の者たちは皆これをうらやんだ。太陽や土が香柏を育てたように、神がそうさせて下さったのに「その心が高ぶりおごった」(10)。人は誰でも力ができ、何でも一応できるようになるとおごり高ぶるものとなるのだろうか。すべての人がそうなるのではないだろうが、弱さを持つ私たちは、この点に心していなければならないのであろう。そして愚かにも災いにあって始めて気がつく。神の声に聞き従う者が、へりくだる者となるのである。
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エゼキエル書32章(2)
12年12月1日の日付を記して(1、17)主の言葉が臨んだと言われている。この年はエルサレム滅亡後数ヶ月のことである。エルサレムは神聖だから滅びないと言う者がある一方、他の者はバビロンの攻撃に対抗するためエジプトに頼れと言っていた。しかし万事は主が告げられたように滅ぼされた。エゼキエルはその現実を見て、神様のなさる御わざに全く頭を下げてしまったのである。エジプトが同じ道を行くのを見てエゼキエルは悲しんだ(2、18)。彼はエジプトを獅子のように思っていたが、実は水の中に投げ込まれたワニのようなものであった。力にまかせて暴れてはいるが、ただ水をかき混ぜるに過ぎない(2)。やがてそれも網で引き揚げられて死んでしまう(3〜6)。そして彼もアッスリヤ、エラム等と同じく滅びの穴に入れられる(22以下)。このようにエジプトは誇りのゆえに滅ぼされた(12)。歴史を支配し、導く神の御手の下に己を低くしたい。
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エゼキエル書33章1〜9節(7)
1〜24章はイスラエル人の罪と滅亡を、25〜32章はアンモン、ツロ、エジプト等諸国の罪と滅亡を語ってきた。これらはすでに起こったこと、今後起こることを含んでいる。このような不幸が来るのを知らされたエゼキエルは、裁きが来ることを人々に知らせてほしいと神様に依託されるのである。例えば町を見守る者が城門の上で外敵の来るのを見張っていて、敵の襲来を見ながらもそれを市民に告げなかったら、彼の責任は問いただされる(6)。しかし知らせた上でなお敵に敗北したならそれは全体の責任である。エゼキエルはこの見張り人の役目を主から与えられた。クリスチャンも同様の役割を持っている。私たちは滅ぼす罪という敵が来ていると警告し、また救出する助け手なるイエスも来ておられると伝える見張り人の役割がある。それを語る時期や方法については知恵を要する。しかし機会が与えられたとき、話す責任があるのではなかろうか。時を失ってはならない。
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エゼキエル書33章10〜33節(11)
自分一人だけ救われたといって喜んでいて良いのだろうか。エゼキエルは同胞が永遠に滅びてはならないと思って、神による救いの道を語った「悪人がその道を離れて生きることを喜ぶ…。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか」(11)。ついにエルサレムが滅びたのを聞いて(21)、預言者は神のメッセージを語り始めた(22)。すでにこの町は滅び、多くの有力者は捕らえ移されていた。しかし一般民衆は荒れ地に残されているので、彼らに「罪を捨てよ」とのエゼキエルの言葉が伝えられた(24〜26)。彼らの反応は「どんな言葉が主から出るのかを聞こう」というものであったが、真面目ではなかった。口先では調子のよいことを言う(31)。しかし「彼らは言葉は聞くが、それを行おうとはしない」(32)。信仰生活は聖書を覚えることだけでは不十分である。たとえ少ない知識でも神様の語られることを受け入れ、それに従うことである。その人を主は生かして下さる。
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エゼキエル書34章(23)
本章は牧者の章である。イスラエルの牧者(2)とは国の指導者のことである。彼らは悪徳の限りを尽くし、弱った者を強くせず、傷ついたものをつつまなかった(4〜6)。それゆえ神ご自身が、悩み倒れた羊たちを集め、保護すると言い(11〜16)、もはや牧者と呼ばれる指導者には羊を委ねない、と宣言された(19〜22)。しかも「ひとりの牧者を立てる。即ちわがしもべダビデである」(23)と約束された。この預言はヨハネ10章で主イエスが「私はよい羊飼いである」と言われた言葉で成就した。真の牧者は主イエス以外にはない。彼の保護の中に置かれる者は幸いである。実に主は私たちを捜し出し、魂の傷をいやして下さったのである。私たちには大牧者から委ねられたつとめがある(ヨハネ21章15節)。私たちに委ねられた魂は誰かを覚え、その人への愛の配慮をしたいものである。
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エゼキエル書35章(10)
セイル山とは、エドム人の中心地である。エドムについてはすでに25章で語られているが、彼らはヤコブの兄弟エサウの子孫である。いわばイスラエルの同胞である。彼らはエルサレムが滅びるときバビロンに加担し「イスラエル人の災いの時、終わりの刑罰の時、剣の手に渡した」(5)。それはユダとイスラエルの両国を自分たちのものにしようとしたためである(10)。エゼキエルが本書で二度三度とエドムのことを述べるのは、その行為の悪辣なことをあげつらうためである。しかし見ぬふりをしているかのようであっても「主はそこにおられる」し、「私は生きている」と言われる(10、11)。またエドムが何を言おうとも「私はそれを聞いた」とも述べられている(13)。苦難の中に置かれるときにも、順境の時にも、主は見ておられ、また共にいて下さる。「主はそこにおられる」とは何と慰めではないか。
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エゼキエル36章1〜15節(8)
本章は災いにあった民が再び回復されることを語っている。1〜15節はイスラエルの土地の回復、16節以下はその土地に住む人の魂の回復である。今日の箇所はいわば外的な側面のリバイバルである。8節以下には特にそのことが言われている。イスラエルの山々は戦禍で踏みにじられていたが、今は種まきのために耕され、人々が住むようになる。回復には人々の魂の変化がもちろん重要である。しかし同時にこの人々の集まる場所にも変化、回復が必要なのである。例えば私たちの信仰生活についても心さえ神に通じておればよい、祈ることはないと言って祈りの時や場所がなければその人の心は神に通じているとは思えない。また礼拝はいつも心の中でしていると言って、時と場所を持たないなら、実際には礼拝はしていない。信仰には心と、それを具体的に表す形とが必須である。「枝を出し…実を結ぶ」ようになりたい(8)。
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エゼキエル36章16〜38節(25、26)
今日の箇所は、回復された土地に住む人間の魂のきよめである。26、27節は新約的な教えで、旧約には少ない。「新しい心をあなた方に与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から石の心を除いて肉の心を与える」。11章の19節の句をさらに徹底させたものである。本章前半のように外的な形を整えると共に、内的変化も大切である。そのために石の心がまず除かれねばならない。石は堅い。強情で自分の考えを決して変えようとしない心は石の心である。自分の気に入った点では恵まれるが、考えの合わない点では跳ね返してしまう。また石は冷たい。人に愛を持てない心は石である。これも自分の都合のみを考える心なのであろう。しかし肉の心は反対に、軟らかく暖かい。このような心は、清い水、即ち、聖霊を注いでいただくことによって与えられる。25節のように、聖霊に注がれて、神の民として相応しい者にさせて頂きたい。
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エゼキエル37章1〜14節(10)
有名な「枯れた骨の谷」の幻である。神はエゼキエルに人々が死んで全く望みが持てない状態まで落ちぶれた姿をお見せになった。それは枯れた骨である。多くの人がいるが皆死んでいるのである。私たちは今の豊かな世界を見て何と受け取るだろうか。人々の魂が罪の故に死に、神から離れているのだという眼を持って見る者にさせて頂きたい。現に世界は、核戦争、性の混乱、覚醒剤の乱用で滅びつつあるではないか。この世界が救われるかと予言者が問われたが希望は持てなかった。しかし生き返らせる道がある。それは神の霊による。霊とかその同義語である息とかが9回も出てくる。聖霊がお働きになるとき、人は生きる。今も伝道する時、私たちは聖霊の働きを切に祈るべきである。何か努力する以上にもっと求めるべきは聖霊のみ業を願う祈りである。その時、人は神的な生まれかわりをする。
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エゼキエル37章15〜28節(26)
2本の木のことが書かれている。それぞれユダ国とイスラエル国のことである。これらは二つながらに死んでしまい、分裂してしまった。しかし二つ共生き返ると言うのである。四方に散らされていた者たちが世界中から集められ、一つになる(21)。何によって神の民が復活するのか。それは神の言葉による。ここには言葉とか、書く、語る等の同義語が10回も出てくる。即ち人が生きるのは神の言葉による。一つのみ言葉をしっかり心に受けとめ、神の語りかけとして信仰の土台とする時、その人は神の命を持つ。前半箇所は御霊が生かすと言い、後半はみ言葉であるという。これら二つは体験的には同じことである。つまり聖霊が心に働きかける時、み言葉によってみ業をなさるのである。26節に契約とあるのも、要するにみ言葉による約束のことである。私たちの生涯のために、神と私の間の約束のみ言葉をそれぞれしっかり持ちたいものである。
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エゼキエル38章(23)
38、39章にはゴグと呼ばれる者について書かれている。これが歴史的な人物かただの象徴的な名前か分からないが、たぶん後者であろう。その出身地はメセクとトバルであるが(2)、これは小アジア東部の地名である。ゴグは大変悪く、それにつく者がペルシャ、エチオピア、プテ(エジプト方面)等である(5)。これら連合軍がイスラエルを攻める(8)。この戦いはバビロンに許したように神が許したもののようである。この記事は黙示録的で象徴的なものが多く、いつのことを意味するのか分かりにくい。しかしこれはサタン的な戦いの描写であ。ただエゼキエルの時代に起こったものではなく、終末的なサタンの攻撃のようである。世の終わりには平和だと一方では唱えつつ、他方では恐ろしい戦いの噂がある。悪いゴグも次章では亡びる。神の民は、どんな恐るべきことがあっても主のみ手の中に置かれていることを覚えたい。
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エゼキエル39章(22)
猛威を振るったゴグが亡びる。1〜16節には彼らの武器が取り去られ(9)、ハモン・ゴグと言われる谷に埋められるとある(12)。また17〜20節の鳥や獣に食べさせるとあるのはゴグのようなサタン的な力に大勝利を得たという意味である。かくて21〜29節にはイスラエルの民に真の信仰と平和とが回復されると預言されている。これはやがてイスラエルがバビロンから帰国して母国に帰るという預言であると共に、それを下敷きにしてさらに世の終わりのことに言及している神の約束である。イスラエルの民は紀元70年以来、2千年間も世界に離散した。彼らは多くの異邦の地で苦難を味わった。しかしやがて彼らは民族として回復される。私たちは神の偉大な摂理のみ手を知り彼のなさる業に驚くだけでなく、その力の保護の下にあることを知って生活したいものである。
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エゼキエル40章(4)
本章以降には神殿の回復された状態が描かれている。幻として述べられているが、エゼキエルを通して示された希望の神殿回復の図である。@まず神殿の全体を囲む外側の壁のサイズを記し(5〜16)、A壁の内側に入って神殿の外庭部分についての説明(17〜27)、B内庭についての説明である(28〜49)。この部分には南、東、北の門があり、祭壇や祭司の部屋もある。これは都が破壊された後14年もたった頃のビジョンである(1)。神の臨在はすでに神殿を去り(8〜10章)、神の民にとっては全く希望のない時に、神は礼拝の希望を与えられたのである。予言者が励ましのために語ったのではない。神が人に与えなさったのである。神は望みの神である。そしてその中心となるのは神様を礼拝できるという事である。滅びた時にはもうすでに神様は次の計画を持っておられた。「わたしがあなたに示すすべての事を心にとめよ」(4)。
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エゼキエル書41章(1)
本章は前章に続いて神殿についてのビジョンである。まず中心部である聖所(1,2)と至聖所(3)があり、それをとりまくように脇間という部屋にあり(5〜11)、更に神殿の西側には1つの部屋がある(12)。そして15節以下にはそれぞれの部屋、聖所等の内部装飾、柱の説明がなされている。エゼキエルは破壊された神殿がもう一度建て直されると告げられた時、大きな喜びに満たされたに違いない。この神殿の原型はソロモンのものである。しかしエゼキエルの描いた神殿図は、ゼルバベルによる第二神殿とは違っている。神の示しであるのに聖所内の灯台、パンの台、へだての幕などが記されていない。それらは昔ながらの規定なので省略されたのか分からないが、いずれにせよこの設計図はいまだ実現していない。終末時に完成するのか、或いは霊的な意味があるのか。とにかく予言者は新しい神殿による礼拝の確立を感謝している。礼拝を大切にしたい。
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エゼキエル書42章(13)
聖所、至聖所の外側には内庭があり(1)、その外側に祭司たちの詰所のような部屋がある。これは北側(2以下)、及び南側(10)にそれぞれつくられ三階になっている。本章はこれらの祭司部屋が何のために用いられるかを述べている。13〜14節には、これが聖なる部屋で、聖なる衣服を着る必要があると書いている。私たちはここに述べてあるような食物は食べないが、聖書のみことばという聖なる食物を食べる。プロテスタントはすべての信徒は祭司であるとする。それは皆、神の前に平等で、キリスト以外の誰の仲介にもよらず救いにあずかることができるということであり、また未信者のために執成する者となるという意味でもある。しかしそのためには、聖なる食物を食べねばならない。礼拝で、み言葉の養いを受け、み言葉を一句、受けとめないとキリスト者の命は枯れてしまう。身づくろいをして礼拝をしたい。
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エゼキエル書43章(5、6)
10章において神の御臨在は神殿をはなれた。その後それは破壊されたのである。しかしもう一度再建された。処が、建物が出来上っても礼拝の場所にはならない。神がそこに臨在されるかどうかにかかっている。しかし憐れみの神は、もう一度この神殿に来られた。エゼキエルは「主の栄光が東の方に面した門の道から宮にはいった時、、、見よ、主の栄光が宮に満ちた」と語っている。(4、5)。民の礼拝を受けるため、そこに来られた主は、罪を除き(7〜9)その他の礼拝の諸準備を命じられた。教会とは建物ではない。神の子たちの集まる所である。しかしもっと大切なのは神の臨在なさる場所であり、それゆえに、その方に感動をもって接することが何より重要である。自分の思いのありったけを祈ることもあろうが、神のみこころを知らせていただくことが大切であろう。「主の栄光が満ちた、、、わたしはひとりの人がわたしに語るのを聞いた」(5、6)。
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エゼキエル書44章(15)
本章は祭司たる者についての規定を書いている。それにはレビ記にもあるようなさまざまの定めがある。献げ物の犠牲の準備をすること(11)、衣服は麻の物を着ること(17)、頭髪、飲食、結婚等のことが規定されている(20〜22)。またかつてイスラエルの民が偶像礼拝に迷った時、一緒になってその道に迷った者は祭司となることができないと言われた(10)。しかし迷わなかった者は、主の前に祭司のつとめができる(15)。 今の私たちにはこのような詳細な規定を守ることは要求されていない。律法は十字架により取り去られたからである。しかし神に仕えるキリスト者が野放図な生活をしていては、万人皆祭司というプロテスタントの信仰は全うできないであろう。また10節のように責任ある時に背信的な生き方をしていては祭司になれないだろう。しかし15節のように「わたしの前に立て」と呼ばれる者もいた。このような祭司でありたい。
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エゼキエル書45章(1)
本章には神殿のための土地(1〜5)、分割されるべき土地の範囲(6〜8)、社会の指導者たる者が正しく公平な政治や商業を守るようにとのすすめ(9〜17)、そして宗教の面としてさまざまの祭りを守るべきことを書いている(18〜25)。この箇所にはイスラエルの民の属するものと、神に属するもののことが書かれている。例えば6節には「これはイスラエル全家のものとなる」とある。その他、民のものとなる地や物が多くあった。所がそれと並べて「主にささげよ」と主のものとなすべき地や物も書かれている。その量は民の所属となるものよりはるかに少ない。しかし1節で、まず最初に「聖なる地所として主にささげよ」と言われていることは意味があるのではないか。つまり、神のものは神のものとしてまず聖別しておくべきではないだろうか。どんなに小さくてもそれが神のために取っておかれることが重要である。
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エゼキエル書46章(3)
神殿での礼拝のしかたについて教えられている。安息日や祭りの時ささげる犠牲のものは傷なきものであるとか、麦粉の場合は一エパであるとかがいわれている(4〜7、11〜15)。また神殿に出入りする時は一方通行にせよとか(9、10)、政治家は公平にし、先祖の財産を失わないように助けるべきこと(16〜18)等、細かいことまで教えている。これらもまた前章同様、そのまま、今の私達に当てはまらない。 しかしその根本原則はあてはめられる。すなわち、「国の民は安息日に、、、主の前に礼拝せよ」(3)、であり、君たる者(王)も一般民衆と共に神殿には入り(10)、力ある者が弱き者を助けよ(16〜18)である。エゼキエルは何章もさいて滅びのことを告げ、また多くの章を用いて礼拝を守るべきことを命じている。というのはすべての政治の原点は神の前に出ることだからである。神の前には社会的な地位の上下はない。「主の前に礼拝せよ」。
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エゼキエル書47章(9)
本章はエゼキエル書のクライマックスである。神殿が建てられ、犠牲がささげられた(40〜46章)。即ちキリストの贖いがなされたというのに例えられる。救いの完成されたその宮から命の水の流れが出てくるのである。この水は聖霊のことである。
@ここには水の豊かさが述べられている。水が全身をひたすように(5)、聖霊は私たちの全生涯、つまり教会生活、家庭生活、社会生活、すべてに臨み、それに命を躍動させて下さる。聖霊の助けを信じて仕事や、学びをさせていただきたい。
A7〜12節には、水即ち聖霊の力について書かれている。死んだ海(孔海)がいやされ、木が実を結ぶようになる。私たちを通して、だれかが生かされるような者となりたい。死海は命がないが、それでも命の水が一杯になるなら、魚が住むようになる。聖霊が私を生かしなさるなら、私を通して他者も生かすみわざをして下さる。救いを持ち運ぶ者となりたい。
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エゼキエル書48章(35)
47章13節〜48章は土地の分割のことが書かれている。12部族にそれぞれ属する土地のことが告げられている(1〜7、23〜29)。また祭司やレビ人、王の住む場所なども決められている(8〜22)。これは予言者が示された幻であるから、バビロン捕囚から帰った時、成就したものではなかった。たぶんイスラエルが全く回復される時、実現されるのだろう。
さてここで国家全体が再編成されていることに留意したい。捕囚の民が再出発する時、土地の区分も大切であるが、「主そこにいます」と呼ばれるような町、国づくりが求めらていることである(35)。同様のことがすべてのクリスチャンの生活にあてはめられる。 もしキリスト者と名のあるなら、未信者の時と同じ編成ではあるまい。時間の用い方、家庭のあり方、人生への考え方、すべてに再編成が及ぶものである。表面は今までと同じでも、心の底には、神様が生きておられる生活である。
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