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聖書日課 |
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1998年 5月 |
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1 ダニエル1章 |
2 ダニエル2章1〜23 |
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3 ダニエル2章24〜49 |
4 ダニエル3章 |
5 ダニエル4章 |
6 ダニエル5章 |
7 ダニエル6章 |
8 ダニエル7章 |
9 ダニエル8章 |
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10 ダニエル9章 |
11 ダニエル 10章 |
12 ダニエル 11章 |
13 ダニエル 12章 |
14 ホセア1章 |
15 ホセア2章 1〜13 |
16 ホセア2章 14〜23 |
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17 ホセア3章 |
18 ホセア4章 |
19 ホセア5章 |
20 ホセア6章 |
21 ホセア7章 |
22 ホセア8章 |
23 ホセア9章 1〜9 |
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24 ホセア9章 10〜17 |
25 ホセア10章 |
26 ホセア11章 |
27 ホセア12章 |
28 ホセア13章 |
29 ホセア14章 |
30 ヨエル1章 |
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31 ヨエル2章 1〜17 |
1998年6月|八王子教会のページへ戻る
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ダニエル書1章(15)
ダニエルはバビロンに捕え移され、後に王に仕える者となった。彼と三人の友人は(7)、王の愛顧をうけ、その保護と教育とを受けることになった。捕れ者がこのような取扱いを受けるとは素晴らしい出世である。所が彼らは「王の食物と王の酒をもって自分を汚すまいと心に思い定めた」(8)。これはユダヤ人が豚などの食物を宗教的理由から食べなかったので、特に固辞したものであろう。彼らは野菜のみを食べた(12)。ユダヤ人が菜食主義者というのではないが、家令に願って十日間をためしたところ、王の食物を食べた全ての若者よりも美しかった(15)。私達には食物の問題はないかも知れない。しかしクリスチャンとして歩む時、ある一線はゆずれないことがある。もちろんつまらぬ事を、信仰のためと思い違いして争うことは、心の狭い人である。しかし神に従い正しいことのために体を張ることがあっても、その結果において神の栄光を見させて頂きたいものである。
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ダニエル書2章1〜23節
王が不思議な夢を見た。それが余りにも強烈だったので、王は思い悩んだ。ある解釈者は王は夢を忘れたのだと言うが、そうではないようだ。ありのままに話すと博士、法術士らが、でたらめを言うかも知れぬと思って知らせなかったのである。王はもし本当に夢の解き明かしをする者なら、夢そのものも語れるものと考えた。もし夢とその意味が語れなかったなら、処刑するというのだから、ひどい話である。王たる者が悩むという程のものだから、それは大変なことである。天下を治める者にも悩みがある。法術士、魔術師らも難題を与えられ困り果て、やがて死を待つ者となった。ダニエルもその中にいた。そして彼は神に祈り、王を悩ますほどの夢なら、大切な意味があると思い、主にその問題の解決を求めた。歴史を支配する神はその秘密をダニエルに教えられた。王を悩まし、世の知者、学者を失望させる程の問題でも、解決の鍵は神にある。 聖書日課の目次へ戻る
ダニエル書2章24〜49節(45)
神は歴史を支配する。その事がここに表されている。ネブカデネザル王が見た夢をダニエルは再現し、解釈するのであるが(36〜45)、巨像の夢の中で、金の頭はバビロン(38)、銀はメデヤとペルシャ(32、39)、青銅の腹はギリシャ(32、39)、鉄のすねはローマ帝国(33、40)、粘土と鉄の混じった足はローマの後の諸国(33、41)をそれぞれ意味している。そして最後に不思議な石がこの夢の中の像を砕き、霧散させてしまう(45)。これは驚くべき世界の歴史の解釈である。しかも未来のことに言及している。右のように歴史は進展していった。それだけでも驚きであるが、大切なのは「石」である。それは神よりの方、主イエスである。新約にはしばしば、石はキリストと出てくる(使徒4章11節、マタイ21章44節、Tペテロ2章4節)。つまりキリストによって歴史は完成する。彼の再臨によって救いは完成する。また私たちの人生も、神のみ手の中にある事を覚えたい。
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ダニエル書3章(28)
王の立てた金の像を、王の命令にもかかわらず、ダニエルの三人の友人は礼拝拒否をした。その結果、彼らは火の炉の中に投げ込まれたのである。神が火の中から救出してくれるかどうかも分からぬまま、死を覚悟の上で、礼拝拒否をしたのである。安利淑女史が戦時中の迫害の苦しみを書いているが、その題「たといそうでなくても」は18節からである。
私たちは偶像礼拝をしてはいけない。家庭内でたった一人だけキリスト者である場合、非常な困難があるだろう。そうした場合、仏教の葬式を拒否する必要はない。しかし、私たちは日頃クリスチャンであると、生活を通して証ししていないと、イザという時に間に合わなくなる。また家族にもその証しをしておくべきであろう。
火のような試練の中からでも救われた神に、私たちも信頼して進みたい。
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ダニエル書4章(27)
ネブカデネザルは、自分が見た夢のように自国バビロンが強大になるに及んで、傲慢になった(20〜22)。「この大いなるバビロンは....わが威光を輝かすもの」と大言した(30)。その直後、ある種の精神病になり、牛のようになった(33)。病気がすべて罪の結果だという考えを主イエスは否定した(ヨハネ九章1節)。だからここでは病気が治るために何かをするというよりも、私たちへの霊的教えを学びたい。その要点は、人はどんな者でも、神の前に謙遜であれという事である。バビロン王のように地位の高い者が傲慢になり、地位の低いものが謙遜かというと、必ずしもそうではない。真の謙遜は何よりも、神に対するその人の態度である。心の底まで砕かれ、主のお取扱いを受けた人でないと謙ることはできない。片意地をはったりするところに傲慢さがあるのではないか。Tペテロ5章5節。
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ダニエル書5章1〜19節(22、23)
ベルシャザルはバビロン最後の王といわれるナボニダスの子で、摂政ではあるが実権を持っていた。「父ネブカデネザル」(18)はベルシャザル王にとって政治的な父にあたる。さて王は自分の栄光のために酒宴を設けた時、突然指によって「メネ、メネ、テケル、ウパルシン」と壁に書かれた。この意味が分からず、ダニエルに解説してもらい理解した時、王は慌てた。その意味は26にあり、「あなたの治世は計算ずみで、もう国は分割されている」という事である。王だからどんな権力も欲しいままであったが、神の時が来ると突然、幕が降ろされる。
私たちにも、いつ終わりが来るか分からない。その時いつでも主の前に立ち得る用意が必要である。一日一日を大切にし、主のみ前に一生懸命、生きる者でありたい。一日を一生とせよと言う人がいる。
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ダニエル書6章(27)
ダリヨスはある者たちの陰謀によって、心ならずも忠実な僕ダニエルを獅子の穴に投げ込むことになった。王は自分の権威を曲げることができず、刑を執行したのであるが、その夜は眠れなかった(18)。このような困惑しきった中にあって、精一杯叫んだことは「あなたが常に仕えている神はあなたを救ったか」(20)であった。ダニエルはこれに答えて「わたしの神は使いを送って下さった」と言った。ここに信仰の二つの効果が見られる。つまり、王はダニエルの神が生ける神であると聞いてはいたが、せいぜい「神が救ったか」と問いかける程度のものであった。所がダニエル自身はその神を体験したのである。頭で理解しただけでは不十分で小さくとも身をもって体験する時、信仰は命となる。体験は生活の中で信仰を働かせる時、自分のものとなる。27節が私たちのものとなるように。
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ダニエル書7章(27)
本章から黙示文学的な表現がでてくる。まず、4つの獣が出てくる(3以下)。ししは、バビロン。熊はメデヤ、ペルシャ。ひょうはギリシャ。第4の恐ろしい獣はローマを意味する。その後に10の角が出てくるが(7)、それはローマに続く諸国である。これは二章の内容に似ている。そして更に、その中に小さい角が出てきて、大きいことを語る(8)。これが悪いことをして21では、聖徒をさえ負かしてしまう。これはアンテオカス四世(シリアの王)によって象徴される世の終わりのサタン的な反キリストのことである。しかし「日の老いたる者」(13、22)つまり神様が小さい角を破り、これを裁く。不思議な描きかたであるが、これは神が世界を支配し、これを導き、悪を罰せられるという図である。今は悪の世である。しかし主権者なる神のみわざは永遠である。
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ダニエル書8章(25)
雄羊と雄やぎの話(3、53)がでてくる。20節から解読があるように、雄羊はメデヤとペルシャをさし、雄やぎはギリシャを指す。 ギリシャはアレキサンダー大王によって建てられたが、急死した後、4人の部下が世界を治めた(8)。しかしその中から特にユダヤに関係ある小さい角が出て(9)、聖所(神殿)を倒す(11)。これは7章にも出てくるアンテオカスである。しかし汚された聖所も、B.C167年に回復され清められた。
これに関する預言が絵画的に、黙示文学によってダニエルに知らされた。世界には、悪が満ち悪を悪と思わない者が、神をのけものにして、わが者顔にふるまっている(4、8、12)。しかし、これも「人手によらず滅ぼされる」(25)。神が滅ぼされるなら、どんなに人が権力をふるっても、それはやがて倒れる。歴史はそれを物語っている。私達は生きて働かれる神を畏れ敬って生きたい。
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ダニエル書9章(23)
ダニエルはイスラエルの民が70年の捕囚の後、解放されるというエレミヤの預言を読み、信仰を与えられて祈り始めた。民の罪を懺悔し民の回復を祈っているのであるが、よく読むと多く「われわれ」という語が出てくる(5、6、7等)。ダニエルが罪を犯したのでもなく、神に背いたわけでもないのに、彼は自分のことのように祈っている。とりなしの祈りとは、誰かのために祈るのではなく、その人のことを自分のことのように祈ることである。
23節には、祈りは約束によって答えられていると言われている。24節以下は救い主、メシヤの福音の約束である。これほど明白に年月を延べられているのは珍しい。即ち、キリストが何年後に来られて、十字架につけられ贖いが完成するという預言である。このお方によって人の罪は許され民は回復される。神の約束は必ず成就する。
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ダニエル書10章(19)
ダニエルが前章のようにとりなしの祈をしたとき、それはいわばサタンへの挑戦状であった。九章23節にもあったように、本章でも、神がその祈りを聞いておられるのだということをもって、ダニエルを励ましている(11、12、19)。
13節に「ペルシャの国の君」とあるが、それはサタン的な力と考えてよい。つまりその力がダニエルの祈りを妨げていたのである。しかし神様はそのような力を取り除いて、イスラエルの民の信仰の回復を実現させて下さる。このような事を幻のなかで教えて下さった。
祈りは、それを私達が始める時、神のみ前に聞かれている。しかし、それが実現するのには少しの時間がかかることがある。サタンはその期間中に、しばしば働きかけて不信仰にさせ、約束を捨てさせようとする。しかし信仰に生き抜くことは信仰に勝利をもたらせる。
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ダニエル書11章(24、32)
世界史をみると、アレキサンダーによって世界が征服されたが、やがて4人の将軍によって分割されている。とくにドレスチナをめぐって、南のエジプト(統治者プトレマイオス)と北のシリヤ(統治者セレウカス)とが相争う。そして遂に北のセレウカス家の者(アンテオカス)がドレスチナを取り、神殿を汚した。しかしそのような罪も、神の時が来るまで続くのみだ言う。このようなことが本章には語られている。
3節はアレキサンダーのこと。5〜20節は北シリヤと南エジプトの対立のこと。21節以下は悪王アンテオカスのこと。いろいろな動乱があり、悪王は、神の民を荒らし散らすが「神を知る民は賢く立つ」。しかしこのようなわがままな行為も、神の時が来ると、お払い箱になる。悪王は「大いなる者」(37)であっても誰も助けない(45)。神を救う者には最後の勝利がくる。神の時があるのを覚えたい。
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ダニエル書12章(3)
前章の悪王アンテオカスは、サタンを象徴し、世の終りの悪魔の恐るべき働きを指している。だから本章は、世の終りのことを指しているようである。
世の終りには艱難の時代が来るが(1)、それがいつまで続き、終りになるのかと、ダニエルが神に尋ねると(6)、ふた時と半分と答えられた。しかしその意味がダニエルには分からない(7、8)。結末を尋ねた預言者に告げられたことは「あなたの道を行け」(9、13)であった。
主の再臨は、艱難の後にあると言われているが、それがいつのことか分からないし、詮索する必要もない。主のみ知り給うことである。ただダニエルが自分の前に置かれた道を進めと言われたように、私たちはそれぞれの生涯を主のために忠実に生きればよい。特に3節のように魂をキリストに導く者こそが、永遠に輝く星のように主と共にあるのだから、福音を伝えつつ生きることが、わが前の道だと信じ歩みたい。
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ホセア書1章(2)
ホセア書以下の諸書は小預言書と言われる。ホセアはエレミヤより以前の時代、つまり北イスラエル国が、前七二一年に滅びる前に北王国で40年にわたって活躍した預言者である。聖書の順序ではエゼキエルであるが、時代の順に従い、小預言者を学ぶ。
ホセアは不倫な女ゴメルと結婚するように導かれ、エズレル(神はまき散らすの意)、ロルハマ(憐まれない者)、ロアンミ(わが民でない)という三子が生まれた。奇妙な結婚であり、子らの名であるが、それは神がイスラエルの民の現状をホセアに示すためのものであった。ヤラベアムの世はまことに暗く、バアルの宗教がひろがっていた。国民のこの姿は不貞な淫行の女にも似たものであった。民は唯一の神のみを愛し従うと約束したのに、時の経過と共に神を離れ、世のものに走って行った。しかし神はこの者を受け入れるとホセアに語った。
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ホセア書2章1〜13節(8)
1章10節〜2章1節には堕落した民がもとの姿に戻ると書いているが、1〜13節では再び背信の民の現状を述べている。
妻ゴメルがホセアから離れたように、民は神を捨てバアルに走って行った。イスラエルの民は神様から多くの祝福を受けた。それにもかかわらず、パン、水、羊毛等はバアルから与えられたと思い(5)、神様からいただいた祝福を偶像に持って行ってそれを拝む。 ゴメルはホセアからもらったお金を持って恋人の所へ行き、さもそれが彼から来たもののように振舞う。そのような道は行ってはならないと、いばらでふさがれたが、それでも乗り越えて行く(6)。しかし実際には失望して神のみもとに帰ってくる(3)。私たちは救いを教えられ祈ること、感謝すること、喜ぶこと、讃美することとは何かを教えられた。その与え主を忘れるなら、これ以上の罪はない。イスラエルはそのような者であった。与えられた恵を感謝しよう。
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ホセア書2章14〜23節(20)
ゴメルが道ならぬ所から戻って来た時、ホセアはもう一度受け入れた。それと同様に、神様はバアルによろめいていた民が帰って来る時、もう一度はじめからやり直そうと語られた(14)。
出エジプトした時、シナイの荒野で契約を結んだように、荒野に行って一対一でねんごろに語ろうと、主は言われる(14)。アコル(悩み)谷を変えて望みの門を与える(15)。そしてシナイの契約ではなく、「真実をもって、あなたと契りを結ぶ」と約束する(20)。ホセア書の一つの特色は「真実」である。イスラエルは神とした約束を、事情や境遇によって簡単に破ってしまった。その痛みは、ホセアがなした結婚の約束をゴメルによって破られた事により、ホセアにはよく分かった。背信とは神を愛し、従うと言ったことを破り、生活の中でそれを表すことである。しかし、それでも主はもう一度語り合い、契約を結び直そうではないかと言われる。神は愛なのである。
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ホセア書3章(1)
妻ゴメルは夫ホセアのもとを離れ、堕落した生活を送り、ついに誰にも省みられず、奴隷になってしまったようだ。彼女は、はじめはそのような人ではなかった。ところが神は零落したゴメルを買い戻し、もとの所に置くようにとホセアに語った。主は「姦淫を行う女を愛せよ」と言われる。そこで彼は、奴隷を買う値段としての銀一五シケルと大麦をもって、彼女を妻の位置に取り戻したのである(2)。
これはこれまでにも語られたように、イスラエルと神の関係を表している。彼らは地の神々に心移りし、バアルに備えてある干しぶどうの菓子を欲しがった(1)。そのようなものを本物でもあるかのように思って行ったのである。それが愛の神のみ心を踏みにじる事になるのもわきまえないで走ったのである。それゆえ神はイスラエルを一時的に、王も礼拝用の犠牲もない捕らわれの民とした。私たちの歩みも霊的にゴメルのようになりやすい。しかし主は限りなく愛して下さる。
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ホセア書4章(1)
神がイスラエルの民について悲しまれるのは「神を知ろうとしない」という点であった。「知る」とは人格的なことで、交わり中で段々と深まっていく関係である。
同じ表現が「民は知識がないために滅ぼされる」(6)とか、酒が「思慮を奪う」(11)とか、「悟りのない民」(14)等に見られる。神様はより深い交わりを持ち、よく知って欲しいと望まれた。しかるにイスラエルは、回りのものに目を奪われてバアルに行き淫行を行った(12〜14)。神様を知ろうとしないのは、彼らに真実がなく、愛情もなく(1)、強情になったからである(16)。ここには民と共に、特に宗教的指導者たる祭司が責められている(4)。
私たちはもっと神様を知る者でありたい。それは知識の問題ではなく、心の問題である。主の愛の深さが信仰の年限の積み重ねに従って、わが内に深められるようになりたい。
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ホセア書5章(4)
本章は淫行の霊の影響力の強さを描いている。「淫行の霊」とは信仰に関し、良い事と悪い事のけじめがつけられない心のことである。何と関係をもってもよいではないかという思いである。そこには宗教的な貞節がない。 この影響はイスラエル(=エフライム)から始まって、ユダにも及ぶ。5節にエフライムの不義でユダも共に躓くとある。従って両王国にしみや腐れが広がる(12)。また両王国にししのような、激しい外敵による攻撃の手がのばされる(14)。
しみや腐れは一度それがくっつき、腐りはじめると取れないものである。この時代(ヤラベアムU世)は繁栄の時代であった。その中にすでに腐れが見え始め、アッスリヤの攻撃の手がのびはじめていた。
ホセアはそれを見抜き、淫行の霊がその原因を作っていると嘆いたのである。時代の波に呑まれず、心を醒ましていたい。何が最善かをいつも見ていたい。
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ホセア書6章(6)
1節の「さあ私たちは主に帰ろう」はホセアのメッセージによって、人々が神に帰ろうとする態度である。これは良いことである。 ところが必ずしも真剣なものではなかったようである。二日の後に生かし三日目に立たせて下さるというのは(2)、主は自分たちには簡単に恵みを与えてくれるという、高をくくった態度であった。短期間の中に神の光が与えられ、祝福の雨が来るという思いである(3)。そのような心では神様への愛も、たちまち消える露のようである、となじられる(4)。
神様が礼拝の真似ごとの犠牲や燔祭を喜ばれる事は無い。もっといつくしみに満ちた神ご自身を知ってもらいたいと言われる(6)。浅薄な信仰、礼拝は神に喜ばれない。その証拠に生活が全く変わっていないではないかと問われている(7〜10)。
9節には人の手には血がみちていると言う。生活を変える程の礼拝をしたいものである。生ける神に触れさせていただきたい。
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ホセア書7章(14)
本章は「・・・のようだ」という表現でイスラエルの罪を指摘する。
@パンを焼く炉のようだとある(4)。これはパンを焼く前に、しばらく暖かくしておく状態をいう。人々が悪事をしようとして準備しているさまである。心の中にいつも情欲や、いらいらや、悪事の火を燃やしてはいけない。
A返さない菓子のようだとある(8)。充分火が通らないから、半焼けで食べられない。人々に喜んで受け入れてもらえない人は、生焼けの菓子である。聖霊の火によって心の中まで汚いものが、焼き尽くされる必要がある。
B愚かな鳩のようだとある(11)。鳩は必ず巣に戻ってくる。そのように民は神に帰るべき者なのに、何かがあるとエジプトやアッスリヤに助けを求める。大切な時になぜ神のもとに来ないのかと嘆く。神に近づくことを主は求められる。「真心をもって私を呼ばぬ」と神様は淋しい思いでおられる。
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ホセア書8章(4)
イスラエルに迫りつつある滅亡を、「はげたかが来る」ということで表している。だから警戒のラッパを吹くべきだと叫ぶ(1)。
なぜそのような時代が来ると言うのか。それはイスラエルが自分勝手に王を立て(4)、彼が金の子牛の像を作ったからである(4〜6)。これはイスラエル国の初代の王ヤラベアムの罪であった。偶像は一代限りのものではなく、この国の歴史の中にずっと流れ続け汚染をした。
7節には「風をまく」とあるが、むなしいものの意味である。即ちむなしいものを頼りにしているうちに、つむじ風つまり滅びをもたらす者を刈り取ってしまうという事である。困った時にアッスリヤに賜物をして助けてもらえると思ったが、それはつむじ風になってしまった(9、10)。
普段から頼るべきかたに頼っていないと、間に合わないことがある。わたしが立てた王といわれる者を王としていたい。
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ホセア書9章1〜9節(5)
ヤラベアムの王の時代は、国としては栄えたが、宗教や道徳は堕落した。それ故1では、喜び踊る時代では無いという。淫行をしたとは、前記のような神の民が、神様以外の偶像と結びつき、神との約束を破ったことを指す。だから、彼らの神を敬う生活は全く台無しになってしまったのである。それ故イスラエルは、エジプトやアッスリヤに移されていく(3、6)これは刑罰の日の到来である(7)。ホセアはさらに刑罰の内容を告げる。それは5にもあるように、祝の日、主の祭りの日には何もできなくなる、というものである。エルサレムの神殿で礼拝できる事ほどの恵はない。しかるに異国につれていかれ、偶像に捧げた肉のあまりを、食物として食べ(3)、犠牲を主に捧げることさえ出来なくなる(4)。
家庭や教会で主に祈り、礼拝できることは大いなる恵である。これを大切にしたい。
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ホセア書9章10〜17節(10)
本章前半で、神の裁きはエルサレムにおける礼拝の停止であると言った。10節以下には、裁きは不毛であると言う。神様の祝福が逃げ去り、「身ごもることが出来なくなり、たとい子を育てても、私はその子を奪って、残る者の無いようにする」(11,12)。また、「根は枯れて、実を結ばない」(16)。このことは敵が攻めてきて、異国の地へ捕らえていき、たとい子を産むことがあっても、神の民のようにカナンに帰ってこられなくなる、と言うものであろう。だから17にはさすらい人となるとある。作物を取り入れようとしても、外敵が踏みにじるので、収穫どころではないのである。
不毛は裁きである。不毛とはいろいろなことを一生懸命やってはいるが、何一つ良い結果として残るものがない、と言うことである。むなしい思いを持った繰り返しのことである。彼らもはじめは良い実を結んでいた(10)。
はじめの愛に帰り、実を結び続けたい。
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ホセア書10章(12)
イスラエルは一時的とはいえ、物質的に繁栄した(1)。しかし、偶像の祭壇を増やすことしかせず(1)、ベテアベンの金の子牛(5)のみ礼拝した。しかも、政状は暗くなっている。王は暗殺され、いないという時代もあった(3)。こんな状態だから、首都サマリヤの王は木ぎれのように滅ぼされる(7)。エフライム(イスラエル)は神様の目に愛すべき若い牛のようであり、ただ穀物をこなすためにゆっくり歩けば良い程度の、仕事をしていたのに、アッスリヤという重いくびきをかけられることになった(11)。これによって新しい生き方をせねばならない。新田を耕す開拓は困難な仕事ではあるが、そのような苦難の故に神を求めなければならない。神様を求めさえすれば、開くには困難な時代があっても、救いと恵が雨のように注がれる。滅びがきても、開かれる道があるとは恵である。
「今は主を求めるときである」。
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ホセア書11章(4)
本章は神の愛が美しく描かれており、ホセアの語るメッセージの中心である。
@神様は民が罪の奴隷であったにもかかわらず、エジプトの地から救い出した(1)。しかるに慣れるにつれて、彼らは神様から離れていった。
A神はエフライムを、子供が歩き始める時、親がするように手を取って教えた。しかし、
エフライムは神を忘れた。
B青年期になった者が重い荷物を運ぶように、神の民は成長してきた。この時期は、成長した牛がくびきをかけられて荷車を引く練習をするようなものであった。しかし神は、鞭うつどころか、愛の綱を用い、くびきもしばしばはずし、荷を楽にしてやるように民を取り扱われた(4)。それなのに何故、民はエジプトまで行ってくびきを負わねばならないのか(5〜7)。神の心は痛むのである。アデマ、セボイムは、ソドム、ゴモラと同様滅ぼされた町。神様はこの町のようにその民を滅ぼしたくはない。
愛の神に付き従っていたい。
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ホセア書12章(6)
エフライムはこの時期富み、且つ外交的にも栄えていた。「風を牧する」とは、むなしいものを求めるの意である。彼らはアッスリヤやエジプトと取引をし、安泰であった(1)。7〜8節には彼らの富者ぶりが見られる。しかし、イスラエルは今、危機にあるのだ、と預言者は語る。3,4節にヤコブの事を書いている。彼は兄のかかとを捕らえるほどの、押しのけ屋であったが、ペニエルのききにあったときに、神に帰って憐れみを求めた。この様に、この時代の人々にも帰るべき時がきていたのである(6)。ホセアは今こそヤコブの時に勝る危機の時ではないか、と呼びかけた。ギレアデ、ギルガルにはバアル礼拝という不義がある。放っておくと石塚のようになるから、早く神に帰れ、と言う(11)。
ヤコブのような者でも、神様の恵と助けを受けたのだから、神に帰り、そのみ手の中に生きる者を、省み給わないはずがない。
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ホセア書13章(4、6)
エフライムはかつては力強く、物言えば周りの国々は震えるほどであった(1)。しかし、徐々に高慢になり、自分を高くした。金の子牛の偶像を作ったのも、自分のためであった(2)。この国もやがて滅びる。4節以下には、神とイスラエルがどんな関係にあったかを、過去に遡って語っている。この民をエジプトから救ったのは、主なる神である。またシナイの荒野で40年に渡って、神がどんな方であるかを、民は深く知らされた。そして結論的に申命記において、その神を忘れてはならないと、繰り返し語ったのである。にもかかわらず神を忘れた(6)。「忘れた」とは、物忘れを言うのではない。
約束の破棄である。それ故神はこの民を罰する。道に潜むひょうのようだとは、神の強い関心を示すホセアの表現である。死の力から救う者は、神以外には無いのに(14)、葦のような者に頼るのは愚かである(15)。
神様の恵を忘れてはならない。
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ホセア書14章(2)
本章はホセアのメッセージの結論である。「イスラエルよ、あなたの神に帰れ」(1)がそれである。「神に帰る」とは悔い改めであるが、その方法が2、3節に述べられている。
@不義を許して下さい。
A良き物を受け入れて下さい。良き物とは動物の犠牲や善行ではない。唇の実である。言葉は口先の言葉のことではなく、その人の意志である。何かをすれば罪滅ぼしになる、と考えるのは間違えである。口で言い表す意志が根本である。行いは次の問題である。
B言葉の内容はアッスリヤを、自分の神としないということである。この結果、神様は心の傷をいやし、愛のつながりを回復し、露のような恵を注いで下さる(5)。ホセアは自分の家庭に起こった悲劇を通して、神の傷みを知り、また許しの愛を知った。
いつも私たちの心をささげて歩むとき、主は躓きやすい物であっても、許し導いて下さる。
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ヨエル書1章(13、14)
ヨエルはユダ国の預言者で、エルサレムを愛した人である。彼の活動した時代については、あまり分からない。彼はイナゴの害から多くのことを教えられ、メッセージを語った。
イナゴは数十種もあるが(4)、ここにある四つの名前は、ある種類のイナゴの幼虫から、成虫までの成長段階を指しているらしい。
何億、何兆ものイナゴが飛来すると、後には大きな災害が残る。穀物も果樹も全てが駄目になる(10〜12)ヨエルはこの大災害を神の裁きだと教られた。もちろん審判はイナゴの害の比ではない。現代はイナゴでなくても、多くの物質文明によって人の魂は食い荒らされているのではないだろうか。世の荒廃をみたヨエルは、神に祈るべき事を勧めた(13、14)。それは、農作物がとれるようになるためでなく、「主の日」(裁きの日)に神の前に立ち得るためである。
荒廃の時代である今に、リバイバルを求めて祈りたい。
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ヨエル書2章1〜17節(12、13)
イナゴの襲来について再び書いているが、それは虫のことではなく、外国の敵のことである(4〜9)。イナゴと軍隊とが重なり合って、大災害をもたらすものとして語られている。この時のことを「主の日」と言うが、これは悪を行うものには裁きの日であり、主に従うものには救いの日となる。ヨエルはイナゴの災害をみるにつけ、主の日の近いことを警告した。では、災いの日を救いの日とするには、何をしたらよいのか。
@悔い改めること(12、13)それは心の態度であって、素祭等の儀式のやり方ではない。悔い改めの表現として、衣を破く習慣があったが、それは易しい。しかし、心を裂くことは難しい。
A心を合わせた祈り(15、16)、一致した思いの祈りがリバイバルをもたらす。
B主のみ名をあがめるための祈り(17)。
主は「今からでも」(12)心を尽くした祈りに答えて、著しいみ業をしてくださる。
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