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聖書日課 |
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1998年 6月 |
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土曜日 |
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1 ヨエル2章 18〜32 |
2 ヨエル3章 |
3 アモス1章 1〜8 |
4 アモス1章 9〜15 |
5 アモス2章 1〜8 |
6 アモス2章 9〜16 |
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7 アモス3章 |
8 アモス4章 |
9 アモス5章 1〜9 |
10 アモス5章 10〜27 |
11 アモス6章 |
12 アモス7章 |
13 アモス8章 |
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14 アモス9章 |
15 オバデヤ書 |
16 ヨナ1章 14〜23 |
17 ヨナ2章 |
18 ヨナ3章 |
19 ヨナ4章 |
20 ミカ1章 |
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21 ミカ2章 |
22 ミカ3章 |
23 ミカ4章 |
24 ミカ5章 |
25 ミカ6章 1〜8 |
26 ミカ6章 9〜16 |
27 ミカ7章 |
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28 ナホム1章 |
29 ナホム2章 |
30 ナホム3章 |
ヨエル二章18〜32節(28、29)
18節以下は、二章前半の心砕けた祈りの結果として与えられる、祝福の回復を記している。
@神の祝福は豊かな農作物が与えられることによって表される(19、24)。充分な雨が注がれることによって穀物も果樹も祝される。これを霊的に当てはめてみても、私たちに慰めとなる。荒廃した世界に愛と喜び、正義と赦しが満ちることは食物の充足以上に地の喜び(21)ではないだろうか。
A神の祝福は、人々が主こそ神であり、その神を深く知るようになることによって表される(26、27)。
Bこのような祝福の真の成就は、聖霊の注ぎによる(28、29)。ここの個所は使徒行伝二章17〜21節に引用され、ペンテコステにおいてヨエルの預言が実現したと言われている。農作物の豊かさはともかくも、霊的な祝福が人々の心に満ちるには、聖霊の注ぎなしにはありえない。かつて与えられ、歴史の各時代に注がれてきた聖霊の賜物を、今日も求め、著しいみわざを拝させていただきたい。
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ヨエル三章(17)
本章は全世界に及ぶ神の審判について書いている(2)。ヨシャパテの谷とは象徴的な言葉で、主は裁き給う、という意味である。 ツロ、シドンは(4)近隣の国であるが、それらの国の人々だけでなく、すべての国民が神の裁きの座に来させられる(12)。そして、ツロ、シドンに見られるように、各々のなした業にしたがって裁かれる(5〜8)。 神は裁きの鎌を作物に入れ始めている。このような裁きは、ヨエルの時代のことだけでなく、終末のことも指しているように思う。 しかし一方で、永遠の救いに入れられる者のことも書かれている。16、17節にはそれが語られ、18節はその恵みの象徴的な表現である。「私はあなた方の神、主であって、わが聖なる山シオンに住む。」シオンはエルサレムのことであるが、み国のことを指している。永遠のみ国を慕いつつ進む者に希望の光が欠けることはない。
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アモス書一章1〜8節(3)
アモスはイザヤと同時代の人である。イザヤが貴族出身で都を中心に活動していたのに対し、アモスは牧羊者であり、田舎で主の言葉を語った。ホセアが「神の愛」、イザヤが聖を語ったのに対し、アモスは「神の義と裁き」を語った。アモスはユダ出身であるが北王国イスラエル、その他の国についても語っている。
まず3〜5節ではダマスコ(スリヤの首都)について。ハザエル、ベネハダデはスリヤの王である。彼らの宮殿や城(貫の木)を砕く時が来ると言う。なぜか。それは彼らの残忍な罪の行為のゆえである(3)。「鉄のすり板でギレアデを踏みにじる」とあるのは彼らがイスラエル人を残酷な方法で殺害したことを述べるものである。
6〜8節はペリシテの町々のことである。彼らは無慈悲な者たちであった(6)。
神の前にいかに生きるかが重要なことである。善であれ悪であれ、それを刈り取る時が来る。
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アモス書一章9〜15節(11)
9、10節はツロの弾劾である。昔ツロの王はソロモンと兄弟の契りを結んだ。神殿建築にも協力した仲である。それなのに「兄弟の契約」を破った(9)。
11、12節はエドムについて。エドムはイスラエルの同胞とも言うべき血を分けた友、即ち、ヤコブの兄弟エサウの子孫である。彼らは憐れみの情を捨てて人をかき裂いた(11)。 13〜15節はアンモンについて。これもヨルダンの東側にあり、隣国であるのに「はらんだ女を引き裂く」ような残虐なことをした(13)。これらの国民を神は罰されるとアモスは警告した。今の時代に、人々の心の中から憐れみの情がなくなってしまったとは思わない。しかし、人は時として情け容赦なく人を切り裂いたり、許さなかったり、または強情であったりする。それはツロ、エドム等と類似ではないだろうか。憐れみは裁きに打ち勝つ。キリストの愛に満たされたい。
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アモス書二章1〜8節(8)
「三つの咎、四つの咎」というのは繰り返して行う罪の意味である。1〜3節はモアブの罪について。モアブは死海の東側の国で、その南の隣国エドムに対する残虐な行為のゆえに罰せられる。それは王の骨を焼いて捨てる、という行為に最もひどく表されている。このことは当時の人には最も残虐な仕打ちであった。
また4、5節はユダの罪で、それは主の律法が与えられたのに、それをその民は平気で破ってしまった。それを神は嘆かれる。
6〜8節はイスラエルの罪である。彼らはその不正のゆえに罰せられる(6)。その道徳的堕落はひどいものであった(7)。信仰の低下はなおさらである。礼拝する祭壇の側で不正を行うのである(8)。礼拝、即ち信仰の基本が破れてしまったら、その上に建てられる人生は破壊と空しさのみであろう。神を畏れていたい。
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アモス書二章9〜16節(10、11)
神はイスラエルの昔のことを思い起こさせている。アモリ人は強い民族で、不滅と思われていたが、彼らは滅ぼされた(9)。
主は続いてイスラエルをエジプトより導きのぼり、かつてアモリ人の住んでいた地に住まわせた。9、10節には、「わたし」とあるが、この代名詞は強調の代名詞であり、主の意味でもある。罪ある者を倒すのも、預言者を起こして神の言を語らせるのも、主の時にかなってなさる彼のみ業である。
11節のナジル人とは、生涯、あるいは一時的に酒など断ち物などをした献身者のことである。ところがこの人々の決心をくじくような者が国中にいたのである。このゆえに神はイスラエルを滅ぼす(13〜16)。
私たちは未知の開拓地、アモリ人の地を得させた方は「わたし」と言われる主であることを覚えたい。彼によって勝利が来る。
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アモス書三章(3)
獅子が吼えるのは、獲物があったから(4)、鳥が捕らえられるのは網を張ったから(5)、そしてアモスが神のメッセージを語るのは神が彼に語られたからである(9、10)。この事を厳粛に受け止めてほしいと彼は述べる。
3節には大切な原理を示している。テコアの荒野を歩くとき、打ち合わせなしに出かけると、一緒に旅をすることはできない。人生の旅においても、神と打ち合わせしないと、自分勝手な歩みをする。
9〜11節のイスラエルの民、特に首都サマリヤにおける騒ぎは、神を離れた者の勝手な生活ぶりを描いている。繁栄の中のばか騒ぎと、暴虐ぶりである(9)。象牙の家を建てても(15)、滅びが来れば一切は無になる。私たちは、神と共に歩むのである。「我は世の終わりまで汝と共にある」と言い、内住すると言われる主である。主が、わたしの舟の中に入り給うなら、恐れるところはない。
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アモス書四章(12)
この時期は富める時代であった。彼らの信仰は失せ、神を礼拝すると言って献げ物を持っては来るが、自分の好みに従ってするのである。真の礼拝ではない(4、5)。釣り針にひっかけられて連れて行かれるような滅びが来る前に(2)、神に帰ってくるように、と主は求められるのである。
6〜11節に五度「帰らなかった」が出てくる。神はある時には飢饉を(6)(歯を清くするは、飢饉の事)、ある時には、干ばつを(7、8)、またイナゴの宮(9)、疫病(10)、災害(11)を通じて神の裁きはもっと恐るべきものだと語ったが、民は神に帰ろうとしなかったと嘆かれる。そこで12節で「神に会う備えをせよ」と語ったのである。 救われた者にとっては、やがて神に会うことは喜びである。しかしそれに不安があるとすれば悔い改めて備えねばなるまい。主に会いつつ生活する者には確信があり、喜びがある。毎日主に会うものは備えができている。
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アモス書五章1〜9節(4)
今は栄えている国も、その罪故にやがて滅びる。しかし預言者はそうであってはならないので、しきりに「主を求めよ」と促すのである。4、6節に「あなたがたは主を求めよ、そして生きよ」と二度も繰り返して呼びかけている。ソドム、ゴモラが火によって滅びたように、ヨセフの家が滅びてはならない(6)。「おとめイスラエルは倒れて、また起き上がらず」(2)とあるように、悪の力が人を倒すなら、倒れてしまって誰も彼が起き上がるのに手を貸してはくれない。同様のことが人生にも起こってくる。しかし人を生かす道がある。それは主を求めることである。 ルターは「義人は信仰により生くべし」の御言葉を聞いて生きる道を見出した。主に来るものに生きる道が与えられる。ベテル、ギルガルのような偶像の道へ行くな、そこには救いの道は無い、とアモスは語る。
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アモス書五章10〜27節(14)
10節以下は神の前に正しい生活をせよ、と勧めている。6節は「主を求めよ」であったが、14節は「善を求めよ…そうすればあなたがたは生きる」である。つまり本章の前半は信仰を求めよであり、後半は高い倫理を求めよである。この二つは決して離れたものではなく、結びついている。この当時の政治は乱れていた。広場(16)は裁判の場所であるが、不正な裁きがなされ、人々は泣いた。こんなことでは、いくら「主が共におられる」(14)と言ってもそれは偽りである。そのような者の礼拝を主は受け入れない(21〜23)。その献げ物や歌も、騒がしい音にすぎないと言われる(22、23)。
人を憎んだり、悪口を言ったり、不義を行ったりしながらでは真の礼拝はできない。心と生活が主に喜ばれるものでありたい。その時、生きた生活を送るようになる。
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アモス書六章(2)
1〜3節には、サマリヤもかつて大国といわれ今は滅びている町々のように滅びると語られている。カルネはバビロン地区の大都市、ハマテはスリヤの町である。4〜8節はイスラエルも同様の道を通ることになると警告する。なぜなら一時的に与えられた富の故に、象牙の寝台に休み、酒や歌に酔いしれているからである(4、5)。
9〜11節にはイスラエルの破滅の姿を描いている。多くの者が死に(9、10)農薬や漁業も駄目になる(12)。イスラエルはひとときの小春日和の温かさによって神を忘れてしまい、神を敬わず義を行わなかった。私たちは現在の楽な気持ちで日々を過ごし、遠い将来のことを考えない。カルネ、ハマテの強大な町が自分勝手な生き方をしたとき、やがて滅びてしまった。
長い間になさる神のみわざに注目したい。神は彼を敬う者に報いてくださる。
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アモス書七章(14、15)
1〜3節はイナゴの害の幻、4〜6節は大火、7〜9節は測り縄のそれである。これらは皆、審判についての言葉であった。アモスは同胞の現状を見るとき、このままではいけない神の裁きが来ると思い、右の三つの幻によって人々に語ったのである。ところが、祭司アマジヤは御用宗教家で、国が滅びるとか、ヤラベアム王が死ぬなどと言うことを語ってはならないとたしなめた(11)。そのようなことはユダの国で話した方ががましだと言う(12)。アモスを侮辱し、無視した言葉である。
これに対してアモスは、なるほど私は預言者ではなく羊飼いにすぎず、桑の木を作る農夫であるが、主が私に語られるので語るのみです、と言うのである。福音の恵みを語るのに上手、下手はないし、地位も関係はない。ただ与えられた救いが素晴らしいので語るのである。私たち、教会員すべてがこのようになると素晴らしい。
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アモス書八章(11)
イスラエルの信仰状態を夏の果物にたとえた(1)。これは熟して木から落ちる直前のもので、神の裁きの近いことを意味していた。 その信仰状態は4節以下にある。
@権力者は貧しい者を踏みつけ、お金のために奴隷とし、靴一足ほどの安値で売買する(4,6)。
A礼拝は嫌々ながら守り、安息日は早く過ぎ去ってほしい、穀物を売りたいのだからと言う(5)。しかもエパやシケルの秤を不正に作ろうと考える。
Bそれゆえ人々は神の言葉を聞けなくなるときが来る(11)。パンや水の飢饉でなく「主の言葉を聞く飢饉」が来る。神の言葉は聞くべき時に聞き、心の中に貯えておかないと、いざという時には心の中に入って来ない。
今の時代は豊かである。しかし心の糧を失っている。クリスチャンは何処に糧があるのかを知っている。まず私たちが聖書のみ言葉を食べて成長したい。これによって大いに恵まれたいものである。
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アモス書九章(11)
これまでにアモスは四つの幻(いなご、大火等)を通してメッセージを語った。本章は第五の祭壇のそばの幻である(1)。
アモスは神が礼拝を捧げ、普段は偶像を拝み、あくどい奴隷売買をしている民を根底から砕くというものであろう。主の裁きは6節まで語られているが、7節以下には破滅は絶滅にまで至らせるものではないと語られている。8節に「ことごとくは滅ぼさない」とある。これは主の憐れみであり、先祖への約束の故である。11節からは回復の恵みが語られる。「わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い…昔の時のように建てる」とある。これは礼拝の生活の確立であり、13、14節は日常生活の回復である。
神はどのような状態からでも私たちを立て直して下さる。真剣な求めと、神への生活の仕方をまず求めていきたい。神は再建させる方である。
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オバデヤ書(17)
本書が何時頃のものかは不明だが、多分ユダ滅亡直後のものであろう。死海の南に住むエドム人に関するものである。エドムはヤコブの兄弟エサウの子孫である。本章は彼らの罪を描いている。
@彼らは岩の狭間に住む者であった(3)。都の名をセラと言い、城壁のような高い岩で囲まれた町を難攻不落の町として彼らは誇っていた。だれもこの町は滅ぼせないと高ぶっていた。
Aエドムは同胞イスラエルがバビロンに攻撃された時、一緒になってイスラエルに飛びかかって行った。同胞が滅びるのを眺め(12)、財宝に手をかけ(13)、敵の手に渡すのに手をさえ貸したのである(14)。
私たちは兄弟を売る様な行為をしてはならない。この民に神の裁きが臨む(15)。しかしこんな時でさえ「シオンの山には、逃れる者がいる」(17)。いかなる時にもシオンの山、神の懐に逃げ込む者は救われる。
誰でも神のみもとに行くべきである。
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ヨナ書一章(3)
ヨナは大切な神の導きで召命を与えられたのに、主の前を離れて行った。(3)
「主の前を離れて」が何度かある(3、10)。何故か。
@ それはニネベの人々を恐れたから(2)。彼らの悪はひどかった。Aニネベは仇敵アッスリヤの都で、こんな町の人々が救われて欲しくなかったから。ヨナは間違った愛国心を持ち、ニネベこそ滅びるべきだと思ったのである。しかし神は全ての民を愛される。そのためにどんな弱い者でも用いて下さる。ヨナは逃げ回っていたが、神は嵐をヨナのために用意された。そして異教徒から職業や民族を聞かれ「神を恐れる者です」と答えさせられてしまった(9)。
妙な所でクリスチャンを名のらされたとしたら、恥ずかしい限りである。しかし神は離れた者をも引き返し神のために用いようとされる。神は私達を用いられるのだから、逃げる必要はない。み手の中に陥っていよう。
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ヨナ書二章(1)
ヨナは魚に呑まれた後吐き出され、なお生きていたなど信じられないという者が多い。青木澄十郎氏は「預言者研究」の中で詳細にこのことを論じ、類似の出来事を挙げている。
さてヨナは魚の腹の中から神に祈った。いわば絶望のどん底からの神に対する叫びである。死ぬことが分かっている時、祈ってみて何の役に立つのだろうと思うことがある。ヨナの祈りは@悩みの只中からの叫びである。A神から離れていることを知っていたにもかかわらず、祈っている(4)。4節には主の前から追出され、主に望むべきものもないのに祈るとある。
どのような場合でも、ヨナのような切実な祈りをささげる時、その祈りは神のみ前にとどく。主と共に十字架につけられた強盗でさえ、いまわの時に主に求めて救われた。
人生に行き詰った時でも同じではなかろうか。駄目だと思った時こそ真剣な祈りが生まれ、そこに主は道を開いて下さる。
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ヨナ書三章(1〜3)
魚の腹の中から救い出されたヨナに、再びみ声がかけられた。神から離れた者に二度目のご用の機会が与えられるとは何という恵みであろうか。
アブラハムもそうであった。ペテロも主を裏切った後、二度目の召命が与えられた。ヨナもそうであるが、それは二章の祈りがあったからだと思う。「ニネベに行け」と言われた時、「ヨナは主の言葉に従い、立ってニネベに行った」(3)。
この町の人が救われるか否かは、彼の知らないことであった。神のなさることである。福音をあかしすることが主の命令で、その結果については主のみ手の中にある。
ヨナの期待に反して、ニネベの人々は悔改めた。四章5節には、成り行きを見ていたとあるから、ヨナは町が滅びると思ったのであろう。しかし悔改めた町を滅ぼす神ではない。思いがけない方法で救われる。機会を与えられて福音を語ると思わぬ人が救われる。
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ヨナ書四章(11)
ヨナは神がニネベの人々を滅ぼさなかったのを非常に不愉快に思った(1)。それはニネベのような、アッスリヤの都が滅びるのは当然と思ったのに、成就しなかったからである。
ヨナは神が愛の方であることを知っていた(2)。それが自分に向けられている間は感謝していたが、仇敵アッスリヤに向けられると不快になったのである。これはヨナのわがままさ、自己中心的な性質をよく表わしている。それはヨナだけでなく、イスラエルの選民意識の悪い面を表わしており、たぶん本書ではそれを是正するために書かれたものであろう。
神はすべての人の神であり、何人も滅びることを望まない。私達は誰のためにも祝福を祈りたい。しかし自分にとって不愉快な者のための祝福を祈ることは真に潔められた魂にならないと出来ない。神の愛によって生かされている私達であるが、神の愛によって生きることは大変なことである。
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ミカ書一章(8、9)
イザヤは都会の預言者、ミカはほぼ同時代のモレシテ村(1)という田舎の預言者である。
彼は農夫であるが、神のメッセージを語った。ミカはイスラエルとユダの両国の罪を嘆き、滅びの近いことを伝えている。
4〜7節は両国の罪を描く。礼拝所の周りには遊女がおり、彼らの献げた物で偶像が造られている(7)。
8、9節はミカの嘆きである。裸足、裸で歩くのは悲しみの表現で、だちょうのような声で物悲しく泣きながらメッセージを語ったのである(8)。
10節以下はガテの町から始まる滅びが告げられる。アッスリヤが次々と町を攻め取っていく様子を予見して語る。ガテ(「語る」の意)にはもう神のことは語るな、ベテアフラ(ちりの家)はちりの中に転がるように滅びよ、等々語呂合わせで語る。
農夫ミカは同胞が滅びることを思って悲しんだ。癒されない程の傷でも(9)、神は癒して下さることを信じ、愛の祈りをしたい。
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ミカ書二章(13)
1、2節で社会悪を述べている。この当時、国は豊かで悪徳な者達は、夜、床の中で悪巧みを計り、どのようにして他人の土地を奪うかを考え、翌日はそれを実行した(1、2)。
こんな国は主が滅ぼされる(3)。その日が来ると奸計によって得た財産は全部持って行かれ、測量する土地もなくなる(4、5)。 ミカが社会悪を攻撃すると人々は、説教をやめろと言う(6)。しかし、いい加減な事を言い、ぶどう酒について説教するならよいという。つまり調子のよいことを語るなら民衆うけがするというのである(11)。
このような無作法な言い分を主が我慢するだろうか(7)。もちろん「ノー」である。勝手な民を主は滅ぼされる。
しかしこの民の悪を除き、この民を滅ぼす者を除き、真に民を回復するのは、「打ち破る者」(13)即ち、主である。救い主は罪を打ち破る者としてこられる。私達の前に先立ち、問題を打ち破る者として主は進んで下さる。
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ミカ書三章(4)
二種類のリーダーに語りかけている。
@1〜4節ではイスラエルのつかさ達に対して語る。善を憎み、悪を愛し、民の物を奪うようでは、主は彼らをかえりみない。
A5〜7節では預言者に対して語る。彼らが神からの平安があると語っていても、それは実現しない。こんな状態であるのに、彼らはなお、神に頼っているというのである(11)。「主により頼むこと」はよい。そして「主は我らの中におられるではないか。だから災いは我々に臨むことはない」というのもよい。 しかし実際彼らがそう言うに相応しい生活をしていなければ、偽りの信仰告白であり、みせかけの平安ではないか。だから神の答えはない、と二度も言われるのである(4、7)。 私達が主の臨在と共に生活するなら、神の約束は私達の上に実現していく。信仰告白と実際生活とが一致するようにさせていただきたい。
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ミカ書四章(6、7)
本章は終末的な神の救いのみ業を書いている。終末はイエス・キリストの救いのみわざによって始まっており、再臨によって完成する。だから今は終末の時代の中にいると考えてよい。
その救いの業とは、@多くの人々がヤコブの神の家に流れてくることである(1〜3)。小国の中のナザレから始まって今や救いは全世界に及んでいる。
A世界的な平和の時が来る(3、4)。これは主の再臨によって実現、完成する。
B神が残れる民を呼び集める(6、7)。また傷ついた者が主のもとに帰って来る。
ところで11節で、ある者たちは主の思いや計画を知らず、そのような神のみ業は有り得ないことだと言う。そう考える者はそれに従ってよいだろう。しかし主の計画は変らず、着実に実現している。
主は今も世界で苦しむ者を集めておられる。このみ業の一端に私達も参加させていただきたい。
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ミカ書五章(4)
2節は、キリスト誕生の時に成就した約束の言葉である。ベツレヘムにイスラエルを治める者が生まれる。彼によって群れは養われそれは地の果てにまで及ぶ(4)。これはミカの後、数百年たって実現した。
しかしこの当時は敵に取り囲まれ、敵なるアッスリヤによって支配されようとしていた。民の罪の故とはいえ、悲しいことである。これに対抗するため、七、八人の君(多数の)を立てて民を守らせるとある。これらは反アッスリヤの勢力である(8)。
しかしこれらとてやはり一時的な平和であって、最終的な平和はベツレヘムに生まれて方-イエス-によるのである。彼に牧せられ、養われる者は幸いである。「主は我が牧者であって私に乏しいことはない」とあるが、4節には、「彼は主の力により、その神、主の名の威光により、立ってその群れを養い、彼らを安らかにおらせる」と約束される。
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ミカ書六章1〜8節(8)
3節は神の質問である。イスラエルが神を離れて偶像に走ったこと、信仰生活が疎ましくなったことへの、神からの質問である。
8節に、ミカ書の中心的とも言うべき聖句が記されている。これを語る前に、4節では救われた時のこと(出エジプト)を示す。次いで8節で宗教の本質を述べている。「主が求めておられるのは、ただ公義を行い、慈しみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」。人々は子羊を神に献げるのが嫌になったのである。しかし神が真に求められるのは、献げ物ではなく、義を愛し、憐れみを行い神を敬うことである。8節はアモス(義を語る)、ホセア(愛)、イザヤ(聖)のメッセージの統合である。神第一の生活をするところに子羊を献げる意味もある。 神第一を捨てて、献げ物をしても神が喜ばれるのか、これがミカの問いかけであった。まず正しい生活と神を敬う生活を確立したいものである。
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ミカ書六章9〜16節(15)
続いてミカは主からの訴えを告げる。エルサレムの全市民に向けてメッセージが語られた。これまでも罪のいろいろな面が告白されているが、ここでは不義、不正について述べられる。不義な宝、不正なますやはかり等があげられている(10、11)。これは一例に過ぎない。このような不正の挙げ句、遂には借金のかたに、人を奴隷にさえ売ってしまうというのである。
オリムの頃の悪徳政治、またアハブ王自ら行った略奪をミカの時代の者達も行っている(16)。この故に次のような神の裁きが民に臨む。@飽く事がない(14)。何をやっても心から満足しない。Aどんなに努力しても滅びが待っている(14)。B努力は空しい結果に終わる。種を播いても収穫はない。おそらく他人がそれを持去るからだろう。人は播いた物を刈り取る(ガラテヤ書六章7節)。不義の種ではなく、良き種を播き、真の満足を与えられる実を生涯の刈り入れとさせていただきたい。
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ミカ書七章(8)
神の裁きは無収穫という結果をもたらす(1)。正しかるべき司や裁判官さえ悪を行う(3)。そして混乱が来る(4)。最終的には隣人や家族への不信となって表われる(5、6)。息子、娘は父母を信じなくなり、嫁、姑は相反する(6)。
これは現代の姿ではないか。このような生き方では自分も不幸であるが、神様のみ名が汚れる。「あなたの神、主は何処にいるか」と未信者に言われる(10)。
しかしこのような国や家庭を神は建て直して下さる。
@主を仰ぎ見る時、救いは彼から来る(7)。A暗闇に居る者に光を与えて下さる(8)。
B神は彼に帰る者の罪を赦される(18)。
C父祖アブラハムへの約束を実現して下さる(20)。
壊れた人間関係をしっかり建て直さなばならない。それは主の恵と救いによってのみ、なされるものである。
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ナホム書一章(7)
ナホムはアッスリヤの首都ニネベの陥落を預言した。ヨナはかつてこの町に神の裁きを語り、彼らはその結果、神に帰った。しかし再びニネベの人々は悪に傾いた。それを主は裁かれる。
彼らは軍事力に物言わせて近隣に悪の限りを尽くした。それは人に対する悪というだけでなく、「主に対する悪事」である(9、11)。神は全ての国民の主である。だからこの国民も裁かれる。遂にアッスリヤは紀元前六一二年、バビロン、メデアの連合軍に滅ぼされた。
あの強大な国が倒されることが有り得るかと思われるのに、神の報いは実現した。「強く、多くあっても切り倒されて絶える」(12)のみ言葉の通りになった。神への謀反はアッスリヤであれ誰であれ、同じ結果となる。しかしこのような中からでも神の恵は深く、悩みの日の要害である(7)。
神の憐れみは限りない、まじめに主のもとに来る者を保護の中に置かれる。
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ナホム書二章(13)
アッスリヤがバビロン、メデアの連合軍によって攻撃される時のことを述べている。どんなに強大な国でも神のなされる事には逆らう事は出来ない。打ち破る者が来る(1)とは連合軍のことである。
彼らは赤色の盾と赤の軍服で身を鎧った兵士であり(3)、川に囲まれたニネベの町の水門を壊して侵入する(6)。王妃は奴隷のように裸にされて連れ去られ、敵はニネベを滅ぼす。獅子のように強いと言われたアッスリヤも、かつては他の国民を餌食にしていたが(12)、今は住処さえ、何処にあるのか分からないほどである(11)。それに引き換え、ヤコブは主の救いによって回復される(2)。
神の前にあっては、片時も主を蔑ろにしたり、傲慢になってはなるまい。無敵を誇るアッスリヤも主の前には塵に等しい。
「万軍の主は・・・あなたに臨む」(13)。裁き主としてではなく救い主として臨んでいただきたい。
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ナホム書三章(5)
本章もアッスリヤの滅びを書いている。19節に「あなたの悪を常に身に受けなかった者があるか」と言われている。それ程に彼らの悪は世を覆っていた。この国を神は裁かれる。2〜4節は敵がアッスリヤを攻める時の様子である。戦車の音が轟き、騎兵は攻め寄せる。誇れるニネベの民は裸の恥を見せる(5)。彼らはエジプトのテーベにまさる城を持っていると思っていたがそれも陥落した(8)。城門の貫の木は焼かれてしまう(13)。誰一人アッスリヤに勝つ者はないと思われていたのに、ナホムは神の裁きは残虐な者、罪を行う者に臨むと大胆に語った。二章13節にもあったように、5節に「万軍の主は言われる。見よ私はあなたに臨む」と告げられる。
神の歴史は長く、短慮をもって導かれる神ではない。神は私達の短い人生に於ても、善にもあれ、悪にもあれ、必ず報われる。神を敬い、正しい生活をしたいものである。
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