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聖書日課 |
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1998年 7月 |
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1 ハバクク1章 |
2 ハバクク2章 |
3 ハバクク3章 |
4 ゼパニヤ1章 |
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5 ゼパニヤ2章 |
6 ゼパニヤ3章 |
7 エズラ1章 |
8 エズラ2章 |
9 エズラ3章 |
10 エズラ4章 |
11 エズラ5章 |
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12 エズラ6章 |
13 エズラ7章 |
14 エズラ8章 |
15 エズラ9章 1〜13 |
16 エズラ10章 14〜23 |
17 ネヘミヤ1章 |
18 ネヘミヤ2章1〜8 |
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19 ネヘミヤ2章9〜20 |
20 ネヘミヤ3章 |
21 ネヘミヤ4章 |
22 ネヘミヤ5章 |
23 ネヘミヤ6章 |
24 ネヘミヤ7章 |
25 ネヘミヤ8章 |
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26 ネヘミヤ9章1〜25 |
27 ネヘミヤ9章26〜38 |
28 ネヘミヤ10章 |
29 ネヘミヤ11章 |
30 ネヘミヤ12章 |
31 ネヘミヤ13章 1〜17 |
1998年8月|八王子教会のページへ戻る
ハバクク書 1章(12)
ハバククはエレミヤの時代の人である。
@彼は神に、国民の間に悪が行われているのに、何故裁いて下さらないのかと訴えた(1〜4)。
Aこれに対して神はカルデヤ人(バビロン人)を起こし、これを神の代理人のようにして、不義なる国民を罰すると言われた。それは狼や鷲の様に襲いかかる(5〜11)。
Bこれに対してハバククは、その代理人も悪いものたちではないか。神様はカルデヤ人のようなものに、何故目を留められるのか、と問い返すのである(12〜17)。
様々な苦悩、問題に直面するとき、私たちは多くの疑問が起こってくる。ヨブもそうであった。ハバククとて同様であった。十分な解答をこの時に得たのではないだろうが、心の底には「神よ、あなたは永遠にいます方ではありませんか(12)」と、変わらざる神への信頼があった。この方こそ主である。
「下には永遠の腕がある」申命記33章27節。
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ハバクク書 2章(3,4)
暴虐なカルデヤ人はどうなるか、との問いに答え、神は、たとい遅く見えても、必ず正義を持って約束を果たされると言われた。
6節以下には「わざわいなるかな」が五度繰り返されているが、バビロン人について言われた言葉である。自己のことしか求めないもの(9)、血によって町を建てるもの(12)、偶像を自分の神とするもの(18)であるバビロン人は、やがて滅びる。
しかしそれとても、神の時によってなされるのである。神の時がいつかは、私たちには十分には知らされていないが、ハバククの得た確信は「それは必ず臨む、滞りはしない」であった。その待ち望みの信仰を、「義人はその信仰によって生きる」と言ったのである。
私たちは目先のことで物事を判断する。しかし神は長い目で見ておられる。数十年ほどの短い人生の中にも、神は待ち望みつつ祈るものに、約束を実現して下さっている。
ヘブル書10章35〜39節を信仰生活の土台にしたい。
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ハバクク書 3章(2)
1,2節はハバククの祈りである。3〜16節は祈りに答えての神のみわざを記している。それは光(いなずま)とか(4)、地震とか(10)で表されるように、すさまじいばかりの方法によってご自分を表される。この部分の描写は、出エジプトの時に敵を破り、紅海に道を開いた神の御業を思わせるものである。
ハバククの祈りは、「この年の中にこれを新たにして下さい」であった(2)。つまり、かつて神があの惨めなイスラエル人を、出エジプトさせたように、今の惨めな民、すなわち「イチジクの花も咲かず、ぶどうも実らない」者(17)を救い出し、この民の中に主の御業を行って下さいと祈るのである。
伝道は人の頑張りでは出来ない。神の御業である。2節のハバククの祈りが多く積まれるほど、多くの人が救われる。
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ゼパニヤ書
1章(2)ゼパニヤは、ユダ国の貴族の出身である。それ故エルサレムの、上流社会の人々の罪を指摘している。即ち、主を求めないで、偶像バアルを求め(4〜6)、主を礼拝するとは言っても、形式的礼拝をして、犠牲をささげる(8)。神はそのような者を、罰すると言われる。
この災いをもたらすものは、ネブガデネザルであろう。そのとき、エルサレムの町のあちこちの門から、叫び声が起こってくる(10)。この災いの日の事を「主の日」と呼んだ。この時がくると「主は良いことも、悪いこともしない」などと高をくくっている者にも、裁きが臨む(12)。
私たちは、今おかれている恵みを大切にし、今の時をなおざりにしないようにしたい。そうでないと、裁きの日が来なくても、自分の方から滅びに落ちてしまう。
礼拝を大切に守り、毎日の祈りを熱心にしたい。
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ゼパニヤ書 2章(3)
本章も神の裁きについて述べている。
神は世界の神であられる故、小さいものも大きいものも、悪を行うものを主は滅ぼされる。4,5節はペリシテ人の罪が罰せられていること。8〜11節はモアブ、アンモン人の罪が裁かれること。12節以下には、エチオピア、アッスリヤ等の、強大な国さえ滅ぼされてしまうことが、書かれている。この様な神の統治される中で、3節はゼパニヤの強いすすめである。
「主を求めよ、正義を求めよ、謙遜を求めよ、そうすればあなた方は主の怒りの日に、あるいは隠されることがあろう。」へりくだって、主を求めないものは滅ぼされるが、主を求める心を低くして、謙る者には、神の憐れみが与えられる。だから恵みの中に、生きねばならない。
自分のことしか求めず、主に近づかないなら、自分で滅びに追いやっていることになる。
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ゼパニヤ書 3章(12)
前章は、諸国民の裁きについて述べた。本章はエルサレムについてである。暴虐の町と言われているのは、エルサレムのこと(1)。この町の人々は、神の事を知ってはいるが、強情なのである。「主により頼まず、おのれの神に近よらない」(2)。司も、預言者も、祭司も神に従わない(3,4)。
神に従うとは、毎日の生活で祈り、毎週の生活で礼拝することである。エルサレムの人々はそうしない。故に、神がさばかれるのである(8)。神様は心を痛めつつそうされる。
そのような中で「私は柔和にしてへりくだる民を、あなたの内に残す」と主は言われる。主を求める者、心を柔らかくして主につく者を、神は探しておられる。その人の中に「イスラエルの王なる主はおられる」(15)。
主の臨在を求め続けたい。その人に勝利と喜び、楽しみが与えられる(17)。
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エズラ書 1章(5)
ハガイ書等を学ぶ前に、エズラ、ネヘミヤを知ることは、背景を知る上で大切である。本章はイスラエル再建の書である。ここに、二度「心を感動された」とある。(1,5)。
異教徒クロスも、神に感動されたものである。神は必要であるなら、未信者でもお使いになる。主は、彼を立て、主の宮を建てるような働きをさせた。
確かにエレミヤや、その他の預言者が民の回復を伝えていた。しかし、誰が滅びの只中でそれを信じただろうか。神の計画は、人の予想もしない方法で進むのである。それに答えるようにして、「神に感動されたもの」が立ち上がった。
神の働きは、髪の感動によってなされるものである。主のために、十字架の愛に励まさずしてする奉仕は、死んだものとなる。神に感動された者は、宮を復興するために立ち上がった(5)。美しい少数者である。これらの人々が主のご降誕の準備をしたのである。
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エズラ書 2章1〜2節、59〜70節(68)
バビロンからユダに帰ってきた人々が記されている。これらの人数は一人も漏らさず書き留められた。彼らは、神の宮を建てるために真剣な人々であった。あたかも主の命の書に記録された者の名簿のように見える。
ここに励まされる言葉がある。「真心よりの供え物をささげた」(68)とか、「その力に従って」(69)ささげたとあるが、これはミカ、アモス等に見られる、民や祭祀が神に仕える生活とは、雲泥の差である。喜んで主にささげるのは、何も金だけではあるまい。それぞれの賜物、時間も尊いささげげ物である。また各自の力に応じてしたとも書かれている。
能力の範囲を超えてやると倒れてしまうが、出し惜しみをしていると成長しない。精一杯、神にささげる人の生涯は祝される。これによって、教会なる神の宮を建てあげていきたい。
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エズラ書
3章(2)母国に帰った人々は神殿の工事をする前にまず礼拝をした。祭壇をもうけることは、礼拝を意味する。アブラハムが故郷を出てカナンの地に着いた時、まずしたことは祭壇を築くことであった。彼は事あるごとにそれをしている。そうしない時はほとんど信仰を失っていた。イスラエルの人々も、ここで礼拝から始めているのはすばらしい。
@彼らの捧げた礼拝は共同の礼拝だった(1)。個人の礼拝も大切だが、大勢で一致の心をもって主に近づくのは重要である。A法律に従ってささげものをした(2、4)。つまり自分勝手な礼拝ではなく、神が求められるものである。私達はしばし自分が満たされるために礼拝に来るが、礼拝は私中心ではなく、神様の求めに従って自らをささげることである。ささげるのは拝む行為である。
Bこれらのことを真心をもって行った(5)。
私達は礼拝の生活を確立したいものである。
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エズラ書
4章(4)礼拝を守り、工事を開始したことはすばらしいスタートであった。しかし万事は必ずしも思ったように行かないことがある。神様はイスラエルの民の神殿再建が本気のものなのか、試そうとしておられたのではないか。
ここに好意をもった試練と、敵意の試練とがある。1節の「敵である者達」(サマリヤ人)はお手伝いしようと言って近寄って来た。大変よい助け手に見えたが、元来サマリヤ人の信仰には混ぜものがあった。人々がこれを見破って助けを断ると、今度は悪意の攻撃をはじめた。
4節以下にはそれがある。ペルシヤ王に告訴状もで書いて、あらぬことをつげ口をした。かくて遂に工事は中止した(24)。
サタンは吠える獅子のように、また光の天使のように来る。いつも魂が恵まれ、神に従う心で生活したい。信仰生活の建設がサタンに妨げられてはならない。
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エズラ書
5章(2)神殿の工事は15年間も中止されたままになっていた。ペルシャ王も二代、三代とかわり、クロス王の命令は忘れられていた。しかしイスラエル人には忘れられないクロスの約束であるから、ハガイ、ゼカリヤ等の励ましによって再建工事は再開したのである(1)。
すると今度はヨルダン川の東側に住むタテナイ等が反対してきた(3)。妨害は手をかえ品をかえしてやって来る。しかし「神の目が注がれていたので、彼らはこれを止めさせることは出来なかった」(5)。
「神の目が注がれる」とは、神の善意、愛、摂理の導きがゆたかに与えられているという意味である。教会の建て上げにしても、個人の信仰人生の建築にしても、結局神様の注がれている目と、それを受け止める私達の信仰による。反対者はダリヨス王に問い合わせの手紙さえ出したが(7節以下)、神のわざは止められなかった。神に目を向けよう。
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エズラ書
6章(22)反対者タテナイ等の手紙がダリヨス王にとどいたので、神殿再建についての許可が出されていたか否かが、過去にさかのぼって調べられた。その結果、記録が発見され(3節以下)、かえってダリヨス王は反対者に対して建築を支援せよと命令した(6〜12)。
タテナイは心をつくしてこの働きを助けることになった(13)。ふしぎな神による逆転である。「我、行わばだれかこれをとどむることを得んや」というみ言葉がある。神はご自分の栄光のために、また約束されたみ言葉のように神殿再建を完成された(15)。この神殿は礼拝のためのものである。
イスラエル人は過越の祭を守ったが、その喜びはどれほど大きいものであっただろうか。「これは主が彼らを喜ばせ、・・・彼にイスラエルの神にいます神の宮の工事を助けさせられたからである」(22)。神のみ手が私達の上におかれていることを信じ前進したい。
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エズラ書
7章(28)本章はエズラについて述べている。エズラはみ言葉についてのリーダーである。先には神殿建築が完成し、ここにみ言葉信仰を確立しようとするエズラがでてくる。彼は法律に精進したものであった(6)。彼は法律を調べただけでなく、それを行った人である(10)。その上、アルタシャスタ王によってこの教えを、ユダヤ人全体にひろめるよう命令を受けた。
本書を通じて感じることは、主の目が注がれていること、主に感動をあたえた者たちがいることである。そしてエズラについても、「主のみ手が彼の上におかれている」と言われている(6、28)。
エズラによるみ言葉の伝達は、イスラエル人の信仰のありかたを変えるほどのものであった。それは、彼の上に主のみ手がおかれていることによるものである。それゆえ彼は力を与えられた(28)。聖霊がのぞむ時、私達は力を受けることができる。
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エズラ書
8章(22)エズラはゼルバベルに次ぐ第二のグループをつくってエルサレムに帰ることになった。帰国するに先立ってアハワ川のほとりで三日間祈り会を開いた。それは千キロにも及ぶ長い旅を守られるようにとの祈りと、かの地においてよい奉仕ができるようにとの求めであった。
24節以下には多くの宝をささげるための用意をしていることが書かれている。これが略奪されたら大変なことであるが、それは奉仕もできなくなることを意味していた。
しかしエズラは祈りの中に確信した。「われわれの神の手は、神を求めるすべての者の上にやさしく下り、その威力を怒りはすべて神を捨てる者の上に下る」(22)。この確信のように神様はこの群れを守り、目的地に送りとどけられた(31)。
大きな課題を目の前にしたなら、祈りをもってそれに向かおう。その時主のみ手は彼を求める者の上にやさしく下る。
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エズラ書
9章(9)本章のエズラによるとりなしの祈りは旧約の中でも特筆されるものである。ユダヤ人、特に祭司たちは信仰の純粋さを守るために、異邦人との結婚を禁じられていた。本章では、エズラと共に帰国した祭司たちの中のある者が、偶像を拝む者と結婚したことを書いている(2〜4)。
これは恥ずべき罪であった。異国バビロンからあれほど喜びいさんで帰って来たのに、最早このような低落である。ガラテヤ教会の人々も、こんなにも早く恵みから落ちたのかとパウロに言われている。喜んで受洗してどれ程の年月、人々は主に従うのだろうか。エズラはこのうな残念な同胞の姿に驚き、しかしこの民のためにとりなした。かつて神が死んだも同然の者を生き返らせたようにして下さいとの祈りである(9)。生涯、純真な信仰を守らせていただきたい。
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エズラ書
10章(2)エズラは泣きながら民の罪を自分の罪のように悔改めて祈った(1)。断食をし、水も飲まずに民の現状を見て嘆き祈った。彼は、勇気をもって雑婚の清算をなすべきことを訴えたが、これに対して多くの者は「あなたの言われた通り、われわれは必ず行います」と答えた(12)。しかし中にはそのすすめに従わない者もいた。
私達には雑婚がそれ程悪いこととは思えないが、それはイスラエルにとっては、神のみこころにかなわぬことであった。つまり神に従わないという罪を犯すことになる。エズラにとって祭司たちが、そのような状態から立ち直ることが祈りだったのである。
神殿は恵みによって完成した。今度はそれで礼拝する人々のことが問題である。教会堂はすばらしい。しかし更に大切なのは、中味である信徒の質である。「あなたの言われた通り、われわれは必ず行きます」と言って主に従いたい。
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ネヘミヤ書
1章(11)ネヘミヤ記はエルサレムの城壁を築いた記録の書である。神殿はすでに完成したが、それをとりかこむ石垣は、くずされたままになっていた。ネヘミヤがこわれたままの状態を聞いた時、泣いて祈った(4)。モーセは破れ口に立って祈ったとあるが、ネヘミヤもそのような思いであった。崩れた石垣のために心を痛めた。家庭や教会の弱い所がこわれていたとしたら、これを自分のことのように思うだろうか。二章で彼は行動を起こしているが、一章には祈りがある。まず祈ることからすべては始まる。奉仕とは何かをすることであるが、何よりも祈りによってスタートし、裏付けられてなければならない。彼は王の給
仕役というかなり地位の高い者であった。しかしネヘミヤにとっては、神殿の石垣のことの方が重荷であった。重荷を与えられて、そのために祈る者となりたい。
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ネヘミヤ書
2章 1〜8節(8)ネヘミヤは王の給仕役という重要な立場にいた。これば多忙な仕事であり、また安定し保証された役職である。それなのになぜエルサレムの石垣のために悲しい顔をするのだろうか(1)。
ネヘミヤにとっては、故国のこととはいえ、何の関係もないことである。自分の生活は安定しているし、好き好んでなにも苦労をしに行く必要はないのである。しかも王に仕える身であれば、へたな申し出によっては辞職させられることもあろう。 ネヘミヤは祈りに祈って自分の心の悲しみの理由を王に申しあげたのである(4以下)。よい導きを得て王の許可が与えられ、その上保護や援助が備えられてた(7,8)。自分のみに幸福が与えられていることは幸いである。しかし主のために重荷を持つとすれば全く献身した人でなければ出来ないことであろう。8の最後の言葉「神が助けられたので、王は願いを許された」は、主の約束であるが、主に従う者への約束である。
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ネヘミヤ書
2章 9〜20節(20)ゼルバベルが神殿建設に立った時、サマリヤ人が邪魔をした。ネヘミヤが城壁のために働きを開始した時、王が許可を与えた事柄であったにもかかわらず、反対をする者がいた。ネヘミヤには王の許可があったがそれにも増して、このことは主から出たという確信があった。彼はひそかにかつての城壁の実態調査に出かけ、やがて時期到来の時「エルサレムの城壁を築こう」と呼びかけたのである(17)。
万事が好都合の時にはさほど心配はしない。しかし必ずしもその通り行かないことが多い。その時に頼るのは何か。それは王の命令ではなく、また何か頼れそうな人の言葉でもなく、神からの約束である。だから「天の神がわれわれを恵まれるので、ふるい立って築くのである」と証することができる。
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ネヘミヤ書
3章(8,10)「さぁ立ち上がって築こう」(2章18)との一致した心で城壁の建設に立ち上がった。三章は各々の分担に従って奉仕に当たっている様子を描いている。これらの仕事は決して同じものではない。ある者は広い部分を担当した(8)。また別の者は自分の家と向かい合っている所を修理した(10)。
さらにある家族は娘たちも動員している(12)。バルクという人は特に「力を尽くして」修理のために働いたと言われた(20)。人々の働きの記録はあたかも天国における記録のようである。そしてある貴人たちは主の工事に服さなかった(5)。残念である。五タラントの人は五タラントをもうけ、一タラントの人はそれをしまいこんでいた。
私達の才能の有無を主は見ていない。どのようにそれを主のために用いようとしているかが問題である。自分のすぐそばの部分のために働いた人のように、主のために何か身の入った奉仕をしようではないか。
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ネヘミヤ書
4章(9,20)工事は進んでいったが、これに対する妨害はさまざまな形をもってせまって来た。
まずあざけりである(1)。弱々しい人に何が出来るかと言い(2)、その仕事はキツネ一匹がはい上がっても崩れるだろうと馬鹿にした(3)。私達も何か奉仕している時、このように言われたらきっと失望するに違いない。しかし工事は続けられた。すると敵は怒りを表し混乱を起こさせようとした(8)。更に恐ろしいことには奉仕者たちを殺してでも工事を中止させようとしていることである(11)。そこでネヘミヤは戦いながら仕事をせよと命令した。
人生はあざけりや妨害や混乱を受けながらの戦いである。クリスチャンの奉仕も戦いである。決して遊び半分や趣味程度のものではない。魂を滅びから天国に導くのは気楽な仕事ではない。しかし「神がわれわれのために戦われる」ので、私達には勝利がくる(20)。
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ネヘミヤ書
5章(9)前章までは外部から来る迫害を書き、本章は内部の問題を書いている。ネヘミヤは12年間も総督としての手当を受けず(14)、城壁の工事に身をゆだねていた(16)。また民の多くもネヘミヤのように仕えていた。
しかし、ある者達は悪らつな金貸しをし、高金利を取り、そのせいで貧者は田畑を売り払い、奴隷にさえ身を売る者が出てきたのである。皆が一生懸命やっている間にも悪い道に進む者が出てくる。ネヘミヤはこのこと知り、怒り、嘆いた(6)。彼は百分の一を返せとすすめた(11)。幸いにも忠告を受けた者たちはへりくだり、それに従うと約束した。しかも神の前にそうしたので、恵みを受けたのである(13)。
ネヘミヤのすすめの要点は「異邦人のそしりをやめさせるために、われわれの神を恐れつつ事をなすべきではないか」(9)ということである。どのような問題が起こっても神を敬い、問題に対処する時勝利が来る。
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ネヘミヤ書
6章(9)いよいよ工事は最終段階に来ていた。サンバラテ等反対者はなおもしつこくネヘミヤに攻撃を仕掛けてきた。ネヘミヤにオノの平野の村で会おうと言って殺害を企てていたのである。彼はそれを知って会見を拒否した(3)。すると敵はネヘミヤが反乱を企てていると皆が言っていると、あらぬうわさをつくって落し入れようとした(6)。「みんなが言う」と言う言葉は誰の心でも痛める。それでもネヘミヤはくじけなかった。すると敵は今度、シマヤを買収し、さも同情するように神殿に隠れよとすすめる(10)。ここは祭司の入る所だからネヘミヤは自分は入らないと拒否した。もし入っていたら冒涜者だと悪評をひろめただろう。
なぜ多くの試練に彼は勝てたのだろうか。それは祈りつつ、主の奉仕をしていたからである(9)。奉仕をやめ、祈る事をやめたら、簡単に信仰生活から力が抜けてしまう。「わたしの手を強めてください」。
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ネヘミヤ書
7章 1〜7節,61〜73節(2)ネヘミヤは長い奉仕の期間を終え、ペルシャに帰ろうとする。それに先立ってハナニ、ハナニヤのあとの事を委ねた。彼らは「多くの者にまさって忠信な神を恐れる者であった」(2)。忠信な者とは安心してまかせられる人のことである。しかも心変わりしないで仕事を全うできる人のことである。
彼らは神を恐れ敬う人でもある。すばらしい紹介である。次いで彼らの下にある者たちを調べさせたが(5)、それぞれの所属が確かめられた。しかしある者たちは自分がイスラエルの籍の者であることを明らかにできなかった(61)。これは残念なことである。それで祭司職から除名された者もいた(64)。これらは忠信な者とは言えない。私達は神の子にしていただかないと天国からは除外される。神の子となるには罪をおわびし十字架を信じることである。その人は神の家族の一員に加えられる。そして私達の生涯、忠信な者として日々を過ごしたい。
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ネヘミヤ書 8章(10)
エズラが呼ばれる聖会を開いた。彼は聖書を読み早朝から昼まで集会を続けた。
メッセージを聞く中に民は皆泣いた。読まれる聖書や説教にアーメンと言いながら耳を傾けた(6)。これまでの生活でみ言葉も読まず、多くの罪を犯して来たことを悔いて泣いたのであろう。罪を悔い改めない者には泣けと言われる(ヤコブ4章9節)。
しかし心から泣いた者には、神様はもう泣く必要はないと言われる(9)。むしろ「主を喜ぶことはあなたの力です」と語って下さる。彼らは仮庵の祭りを長らく守っていなかったようである(14)。彼らの間に、礼拝の生活を建て直そうとする動きがあった。多くの工事も終わり、全てが完成した。その上で大切なことは、そこの人々が神を敬う生活を確立した点である。
どうか神の民として毎日、主を喜ぶ者となり、天的な確信の力に満たしていただきたい。
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ネヘミヤ書 9章 1〜25節(9)
前章に続いてエズラによるリバイバルが記されている。
3節には一日の中の三時間は聖書を読み、三時間は罪の悔い改めをしている。これが七月二四日の一日に起こったことである。神様が彼らの魂を取り扱われたのである。
6節からはエズラの説教が始まった。今日の箇所には神の真実さが強調されている。9節以下には、苦難の中にいる者を顧みられる神を語っている。神は道なき状態で行き悩む者に道を開いて下さった(11、12)。また16節以下には罪を犯した者にも、罪の赦しを与え、恵み憐れむ神であると語っている。そのような者を見捨てず、必要なものを与えつつ目的の国カナンまで導かれたとある。
旧約の歴史を語りつつ愛の神を説くのがエズラである。この神に目を向けたところに信仰復興があった。このようにして愛にとかされて、自分の罪をお詫びしたのである。
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ネヘミヤ書 9章 26〜38節(31)
26〜31節では主として神の民の不従順を書いている。ここには「それにもかかわらず」(26)とか「しかし」(28)などがよく出てくる。神は民を救われた。しかし民はすぐ悪を行った。その内容は神の言葉への不従順であり、間違っていると言われてもなお耳を傾けようとせず、自分の道に固執する態度である。32節以下ではこのような強情な心が悪かったのだと認めているのである。イスラエル人が母国に帰り、新しい出発をしようとした時、その魂を新しくしていただいて神につき従う民にならなければいけないと、エズラは考えたのである。
そこでもう一度神の恵みに信頼した。「あなたは大いなる憐れみによって彼らを絶やさず、捨てられませんでした。あなたは恵みあり、憐れみある神でいらせらるれからです」(31)。愛の神に従う生涯でありたいと思う。
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ネヘミヤ書 10章 1〜8節、28〜39節(35)
祈りをささげた者達は具体的な行為に信仰をもって踏み出した。それは神第一の生活である。ここにはモーセの十戒に基づく旧約的な行為がある。
雑婚させない(30)、安息日に売買をしない(31)、等のことが七つ程度書かれている。新約の私達はこれを文字通りには行わないであろう。しかし神を第一にするという精神は同じである。
35節に「初なりのもの」という言葉がある。これは私達の神への姿勢を示さないだろうか。同じ額の献金でもまずそれを聖別して取っておくのと、残ったものの中から献げるのとでは意味が違う。時間にしても同様ではなかろうか。それで「我々は神の宮をなおざりにしない」(39)と言ったのである。
1〜27節の人名はこのような生き方に同意し、神に従うことを決心した人々であった。私達は彼らに倣う者になりたい。
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ネヘミヤ書 11章(2)
本章はエルサレムに住む人々のリストである。祭司(10)、レビ人(15)、門衛(19)、監督(22)、等多くの人々が24節まで記録されている。
エルサレムは聖都とは呼ばれているが(1、18)、神殿や城壁は出来たものの町全体の住宅その他は破壊されていたままのようである。むしろ一般国民は都の周辺にいて農業、牧畜をしていた方が楽であった。しかし都が大切だからくじ引きをしてでも住んでもらった。 そのような中で自ら進み出てエルサレムに住む者がおり、民はこれを祝福したのである(2)。いわば開拓的な町づくりだからこれに当たる人は大変である。しかしそれを祝福し支える人々もいる。
私達は与えられた神のつとめを逃げてはならないと思う。しかしこれを支える人も大切である。これらが相互に助けつつ、聖都は建てあげられていく。
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ネヘミヤ書 12章(40)
母国に帰った人々の名簿と、城壁の落成式の様子が書かれている。26節までにある人名は一一章に続くものであり、これらの人々が工事に参加した者である。
さて落成式について。これは感謝と喜びが特徴となっている。これまでの多くの迫害、嘲笑、危険を思えば完成のあかつきに喜びが湧き上がってくるのは当然であろう。注目すべきは、感謝をする二つの組のことである。彼らは聖歌隊であるが、感謝する者と呼ばれているのに意味がある。彼らは二手に分かれて町中を歩き、最後に神殿に着いた(40)。エルサレルの町中に感謝の声を響き渡らせた人々は何と幸いであろう。
かくてこの喜びは礼拝においてクライマックスに達し、喜びの声は遠くまで聞こえた(43)。不平、不満、愚痴、批判を口にすると、それはその人の性格を作る。主の救いの恵みの深さを思い、もっと感謝の言葉を主に対して語ろうではないか。
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ネヘミヤ書 13章(22)
エズラ記にも見られるような改革が、ネヘミヤによってもなされている。信仰が実生活に適用された。
@雑婚していた者を整理した(3)。
A祭司エリアシブはかつての妨害者なるトビアと組んで、彼に神殿内の一室を与えていた。このトビアを追放した(8)。
B神殿で専心奉仕すべきレビ人は充分な給与を与えられていないので農業をしていた(10)。それでネヘミヤは人々に献げ物をするよう指導してレビ人に奉仕ができるようにさせた(12、13)。
C安息日を守るように指導した(15〜22)。
私達が安息日を守るとなると多くの問題がある。この当時のユダヤ人も同じであった。ルーズにしていると、外国人もそれにつけ込んでいた。今日でも礼拝を守ることには様々な困難がある。しかし最大限の努力をしてこれに当たりたいと思う。このような点に神第一の生き方が表れるのではないだろうか。
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