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聖書日課 |
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1998年 8月 |
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1 箴言1章 |
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2 箴言2章 |
3 箴言3章 |
4 箴言4章 |
5 箴言5章 |
6 箴言6章 |
7 箴言7章 |
8 箴言8章 |
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9 箴言9章 |
10 箴言10章 |
11 箴言11章 |
12 箴言12章 |
13 箴言13章 |
14 箴言14章 |
15 箴言15章 |
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16 箴言16章 |
17 箴言17章 |
18 箴言18章 |
19 箴言19章 |
20 箴言20章 |
21 箴言21章 |
22 箴言22章 |
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23 箴言23章 |
24 箴言24章 |
25 箴言25章 |
26 箴言26章 |
27 箴言27章 |
28 箴言28章 |
29 箴言29章 |
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30 箴言30章 |
31 箴言31章 |
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箴言1章(7)
旧約には、宗教的指導者として祭司、預言者がいた。そして後の時代には知恵者と言われるものがおこった。彼らは神の教えを実際生活に当てはめる者たちである。知恵とは神を敬うことから始まる。
さて、知恵とは何かを知るため、その反対の語を学んでみたい。それは22節にある。つまり、知恵に耳を貸さない者である。
@まず「思慮のない者」がいる。それは善でも悪でもすぐに感化されやすい人のことである。多くの場合、悪になびきやすい。
A「あざける者」。これは高慢で、皮肉屋で、反抗的な者のことを言う。
B「愚か者」は、道徳的に無感覚な者で、それらを無視し、平気で悪を行う者のことである。知恵を求めるとは、神を求める者のことである。神を求めつつ生活して、人生を失敗した人は一人もいない。33節には、愚かな者ほど神に不従順で、自分勝手な道に進み、結局己を滅ぼしていることが書かれている。
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箴言2章(21)
神を畏れる知恵を熱心に求めよ、と薦めている(4)。この知恵は、私たちを守ってくれる(11)。
その第一は「悪の道」からの救いであり(12)、第2は特に「悪い女の道」からの救いである(16)。これは女性が悪いというのではなく、異性との交際を注意せよ、ということである。この問題は本書には何度も出てくる(5章12節)。姦淫の罪を避けよ、との教えは至る所にあるが、なぜかというと、人間関係、ことに家族関係を破壊するからである。そして、ついには神との関係をも壊す。 現代は姦淫を行うことを何とも思わぬ時代である。家庭を壊し、余計な子供は社会が面倒を見るべきだという時代である。キリスト者がこのような風潮に押し流されてはならない。私どもの身辺から、テレビや雑誌などの卑猥な要素を閉め出しておかないと、私たちの信仰は必ず失われてしまう。私たちを保ってくれるのは神を敬うことである。
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箴言3章(6)
「すべての道で主を認めよ」。これはどのようなところにいても主を認めよ、という意味である。また「認めよ」は知るという意味で、主との交わりを意味する。
つまり、私達がどんな所にいようとも、どんな立場に置かれようとも主を仰ぎつつ生活していれば、必ず私達の人生を真直に導いて下さる、ということである。失敗すればもう神様に近づけないとか、教会に行きたくないと思いがちだし、他方では調子よく行くと、神のことをそこそこにしてしまう私達である。 しかし、主を求めるもの―――精金や宝石を求めるように求める者を、主は導き、命を与えて下さる(14〜18)。パウロは貧の道も、富の道も知り「ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得た」という。生活の中に神を入れて物事を処する者となりたい。
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箴言4章
(11、12)イスラエルの人々は父祖を重んじた。ことに彼らの持っている信仰を受け継いだ。本章は、著者が父から聞いた教え(1〜9)と、自分が子に伝える教え(10〜27)の部分から成っている。
信仰は親から子、そして孫へと伝えられていくものである。宣教百年程度の日本ではその伝統は浅く、子から親へ伝えるケースも多い。しかし、少なくとも自分が信者になるなら、○○家はキリスト教であることを子孫に伝えるものとならせていただきたい。
元々信仰は、イスラエルにおいては家族的なものであった。信仰を家族のものとするには、やはり子供の時の宗教教育が最も大切である。愛をもって毎日の生活の中で信仰を教えていれば、やがて新生の経験に導かれる。 子供の教育に熱心なほど、神を教えるのに熱心なら、将来きっと良い実を刈り取るに違いない。
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箴言5章
(1、23)パウロは「神のみこころは、あなたがたが清くなることである。すなわち、不品行を慎み…体を清く尊く保ち…」(第一テサロニケ4章3節)と教えている。
箴言五章は、正しい結婚について教える。@1〜6節は遊女の誘惑が蜜のように甘く聞こえても、実は苦い結末に終わることを教え、A7〜14節は、正しい性の関係を保たない者には必ず破綻が来ると警告している。
そしてB15〜23節は、清い結婚を主が見ておられ、それを祝福されると結んでいる。
罪の一つの特色は、それが決して悪いものでなく、かえって真実なもののように見えることである。しかし、それが悪であるのは、結論的には、神と人の祝福を受けられないことだからである。愚かな心はそれを悟らない。愚かな者は神を信じないからである(詩篇14章1節)。神を畏れて、清い生活を送るものとならせていただきたい。
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箴言6章(2)
(7、8)本書には「怠け者」についての教えが多い。怠け者は何もしようとしない(9、10)。何も完成させることもない(12章27節)。また怖いもの(困難)がいるからと言って困難を乗り越えようとしない(23章13節)。そしてうまく行かないと言っては怠けているので、人生に荒廃が来る(15章19節)。
これらのことは私達の人生について当てはめられるが、同時に霊的な生活にも適用される。礼拝を守らず、個人的に聖書に親しまず、祈りもしないなら、心は荒れ放題になるだろう。私達が自分の信仰生活の管理をきちんとするなら、私達の家庭生活や、子女の管理も必ずきちんとできてくる。
怠けた生活をしていると、霊的貧困が忍び寄ってくる。アリのようにコツコツと築くなら、多くの豊かさを刈り取るであろう。
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箴言7章
(24)ある人が窓から見ていると、愚かな若者が女に誘惑され、だんだんと罪の深みへと落ちていく様子が物語風に描かれている(6〜12)。
誘惑にはいくつかの点が含まれている。
@14節には、酬恩祭を献げるために神殿に行った、と神のことさえ語っている。教会に来ても誘惑に会わない人は一人もいない。
A8〜18節には、誘惑は楽しいものだと言っている。
B19〜20節には、犯そうとしている罪をだれも邪魔だてする人はいないのだと安心させる。
多くの人は、自分が唯一の頼りだ、自分さえしっかりしていればよい、と考えている。しかし、そんな考えはいつでも簡単にひっくり返る。サタンは神のみ言葉さえも人間に巧みに疑わせることができるのだから、私達は容易に餌食になる(22)。
私達は神とそのみ言葉に基準を置かないといけない。その点で若者は愚かであった。
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箴言8章
(34)「日々…私の戸口の柱の脇で待つ人は幸いである」。毎日、神のみ言葉を受け取り、それを心に留めて生活する人こそキリスト者と言える。
本章の始めに、智恵は道のほとりや、高い丘で叫んでいると言っている。また、街中、門の側などいろいろな所で呼びかけていると言う(1〜3)。即ち、神は聖書のみ言葉によって、何時でも何処でも私達の心に語り掛けなさる。
どうか信仰を教会の中に閉じ込めてしまわないようにしたいものである。苦境にある時でも、順境の時も、、仕事の場でも、隣人関係についても、私達がいつも主を求めて生きようとしているなら、それに対抗することの出来る知恵と導きとを下さる。「聞く耳のあるものは聞け」というように、神様のみ言葉に心を向けていたいものである。
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箴言9章 (6)
「思慮の無いわざを捨てて命を得よ」。1〜12節は、知恵のある者の良い面を教え、13節以下は愚かな者の悪(しかも悪の心地よさ)を書いている。知恵は家を建て、大宴会を開き、人々を招待する(1〜6)。それはあたかも、マタイ23章1〜4節で、王が婚礼に招くのと同じである。 確かに主に従う道、み言葉によって歩む道は素晴らしいし、彼の生涯は祝福を受ける、と私達は知っている。しかし愚かな者の道は「盗んだ水は甘い」ように、ある種の甘美さがある。
私達にとって必要なのは、思慮のない業を捨てることである。米田師は5節について「私のパン(み言葉)を食べ、私の酒(聖霊)を飲み、思慮のない業(罪)を捨てて命を得、悟り(信仰)の道を歩め」と解説している。
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箴言10章(21)
ここに愚かな者と知恵ある者の対照がある。この対照は悪い者と正しい者、また悪い言葉を出す者と、良い言葉を出す者の対照など、様々な比較へと発展している。
ここには特に言葉に関する教えが多いのでそれに心を留めたい。悪い言葉として@無駄口(8、14)、A悪を隠す口(11、18)、B人をそしる口(18)、C嘘を言う口(32)などがあげられている。
それに対して良い言葉は、@人に命を与える口(11)、つまり疲れた者、病人に元気を与える言葉を出す者である。A唇を制する者(19)、B知恵を出す口(31)、それは単に生活への知恵を与える者ではなく、神を信じる信仰の知恵、ひいては主イエスにまで導いていく知恵である。このような知恵の言葉は何処から出るのだろうか。それは、21、31節の「正しい者」からである。
知恵は頭の良し悪しではなく、むしろ、正しく神と共に生きる生活の中から出るものである。
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箴言11章(22、24)
「心のねじけた者」とは、ひがんだ者のことである。人が何か言うと、すぐあれは自分への皮肉であると考える人のことである。そのような考え方は、その人の信仰にまで影響して、神は私に対して恵みある方ではない、とひがみっぽくなる。そうするうちに不平、不満の人となる。このような人の魂は恵まれず、愛には満たされていない。
「ねじける」の反対は、素直さである。こういう人こそ主の恵みに与かる者である。もう一つの教訓は、24節の「与える者」についてである。与えるとは物だけではあるまい。親切な行為や、思いやりのある言葉を与えることも「与える者」である。「施してなお富む者あり、与えるのを惜しんで貧しくなる人がある」。自分の殻に閉じこもっている人の人柄は伸びない。与えようとする人は成長する。「心ねじれた者」は自分のことのみ考え、与える者は他者のことを考える。
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箴言12章
(15)善い人とか正しい人とかに対照して、悪人が出てくる。また知恵ある者に対照して、愚かな者のことが書かれている。
@愚かな人は、ひとりよがりで、自分だけ正しいと思う(15)。だから他人の忠告を受け入れようとはしない。しかし知恵ある者は「勧めを受け入れる」(15)。強情で、譲らない人は、人格が成長しなくなる。
A愚かな者はすぐに怒りを顔に表す(16)。しかし賢い人は、自分を辱める言葉でも一度心に受け止めてから考える(16)。
B愚かな人は自分の愚かさを表に表す(23)。それは慎みの無さを表すことである。同じ事が13章16節にもあり、慎みの無い行動によって結局、人に自分の愚かさ、つまり神を敬わない生活ぶりを見せてしまうのである。
15節のように、一度心の中に受け止めて主の前に考える余裕を持ちたい。
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箴言13章
(24)「鞭を加えない者はその子を憎む」。23章13節には、「鞭で彼を打っても死ぬことはない」とある。鞭を用いるとはやたらと叩くことではない。また12章16節のように言葉を持って子供を切ることでもない」。 「鞭」は躾である。躾るべき幼児期に躾ておかないと、十代になってから叩いたのでは、かえって反抗を受けて逆効果である。公衆の前で守るべきルールを、体で教えなければならない。
「鞭」とは子供が体で覚えることである。理屈を知ることではない。他人に対して親切であることを教えよ。親が共に祈って、子供に祈りを習慣とさせよ。このようにせよ、と言うのではなく、いっしょに実行せずして、躾も、親切も、祈りも、決して子供は受け付けない。
両親は同じ考え方で統一されていないといけない。そうでないと子供は戸惑うだけである。父の教訓を聞く「知恵ある子」(1)を育てなければならない。
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箴言14章
(15)「聡き者は自分の歩みを慎む」。生活の中で自分の慎みの無いことを簡単に現すのは怒りである。29節には「怒りを遅くする者は大いなる悟りがあり、気の短い者は愚かさを現す」とある。同じようなことが17節にもある。そのような者は思慮の無い者である(15)。
彼はすべてのことを信じる、とあるが、それは何でも自分に都合のよいことを軽々しく信じてだまされるという意味である。簡単に信じるとは、どのような結果が私達の人生の中にもたらされるかを考えず、その時その時で、友達などの言うことに乗ってしまうことである。
だから12節に「自ら正しいとする道でも、終わりは死に至る道」がある。と言われる。多少、時流には遅れているかに見える時でも、神を敬って生活する者を神は栄えさせて下さることを覚えていよう(11)。神に付いて行く道が慎み深い生活である。
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箴言15章
(28)再び口の言葉に関する教えが出て来る。悪い言葉は激しく、乱暴な言い方である(1、4)。
その反対は猫なで声でというのではない。怒りを留め、相手の傷を癒すような言葉であり(4)、また人にその喜びを与える内容のものである(23)。
善い話をもたらす人は、知識をも広める(2、7)。知識とは、神の知恵であり、新約的に言えば、福音であろう。福音を語ることが出来るのは、単に個人伝道の本を読めば出来るというものではない。やはり毎日、み言葉を食べ、福音によって生活するのでなければ、証しの言葉は出てこない。愚かな言葉しか出てこないのは「愚かさを食物とするから」であろう(14)。
雑誌だけでは愚かな食物のみを食べているのかも知れない。どうか、人を癒し、喜びを与える言葉が出るように福音を食べて、生活の中でそれを消化していたいものである。
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箴言16章
(28)「あなたのなすべきことを主に委ねよ。そうすれば、あなたの計るところは必ずなる」。私たちはしばしば自分で計画をたて、その通りになるようにと祈る。だから駄目になる。私たちの計画段階から、主に祈りながら、信頼のおける信仰の先輩からも意見を聞きつつ物事を進めて行く。そのようなやり方を主は祝福して下さる。
11節には正しい計りは主のものだとある。それは物事の基準は神にあるということであろう。9節には「人は心に自分の考えを計る。しかし、その歩みを導く者は主である」と教えている。だから、主に従った考えで人生を歩む者を主は必ず恵まれるのである。主は歴史の主なのだから、国家的暴力をもって善を亡ぼそうとしてもそれらは一時であってやがて滅びる。
個人の人生とてもそうである。自分勝手な生き方をやめて、主に喜ばれるような人生設計者となりたい。
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箴言17章
(9)本章には家族とか、友人のことが書かれている。友のことについてまとめてみると「友はいずれの時にも愛する」者である(17)、その人の悪を言いふらすと彼は離れて行く(9)。当然のことながら、隣人(友)に対して悪を計画する者は争いを起こす(3章29節)。
また金銭のことできちんとしておかないと関係が壊れ易くなる(61)。隣人は兄弟以上の関係のこともあるから、それを大切にせよとも教えている(27章10節)。しかし、9節や一六章28節にもあるように、つげ口をする者が友を離れさせるものだから、人間の内に罪を持っていてはいけないと教える。
主は誰よりも私たちを友と呼んでいて下さる(ヨハネ15章13〜15節)。私たちを主イエスとの関係が真の友となるようにさせていただきたい。
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箴言18章(19)
「助け合う兄弟は堅固な城のようだ。」
本章には人間の関係をよく描いている。愚かな者は争いごとのみを起す(6)。
なぜなら1、2節に愚かな人のことが書かれていて、彼は自分勝手な孤立の態度をとっているからである。しかも相手のことを悟ろうとせず、ただ自分の考えだけを言ってそれで喜んでいる(2)。自分の都合や考えだけを言っていたら、まとまる話もまとまらないので、くじ引きでもした方がましだと言う(18)。
主はそんな関係の者を愚かな者と言うが、ここでは助け合う兄弟姉妹のことを城にたとえている。三つよりの綱が切れないように、愛によって助け合い、結ばれた者は倒れることはない。
教会の中に友を見出す人は幸いである。特に、祈り合える友を持つ人は互いに助け合える人であろう。
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箴言19章
(16)「戒めを守る者は自分の魂を守る。み言葉を軽んじる者は死ぬ」。箴言にはしばしば親子関係のことが言われている。
18節には、望みのあるうちに子を懲らして、滅びにやってはいけないと言う。懲らすのは、やたらと打ちたたくことではない。確かに鞭も意味するが、要するに訓練である。本書の記者は年老いてから自分の子供時代を回想して、訓育してくれた父母に感謝している(4章1〜9節)。
訓練は父母に従うようにと言うのではなく、父母が従っているみ言葉である。み言葉に従えば、父母、兄弟との関係も正しくなる。だから親に乱暴をする者は恥さらしの子であると言われる(26)。
本書の著者が感謝しているような親でありたいと思う。それには親自身が神を敬う生活をしてみせることである。親が子供と共に聖書を読み祈るなら、祈りは自然に子供の言葉となる。
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箴言20章
(29)「若い人の栄はその力、老人の美しさはその白髪である」。人が若い時にそのエネルギーを力一杯使って努力するなら、老人になって美しい白髪を得ると言う。箴言には、しばしば怠け者のことが書かれており、本章にもそれが教えられている。
4節には耕すべき時にも、寒いからと言って土地を耕さない。彼はごろごろと寝てばかりいる。(13節、6章9〜10節)。そして何かよい金儲けの道はないかと考えて、偽りのはかりなどを使って商売をするが、主はそんな者を祝福されない(10、23)。騙し取ったお金でパンを買い、それを食べても口の中で砂利になる。
仕事でも、勉強でも勤勉であるなら、主はそれを祝福して下さるし、霊的な信仰生活にもそれは当てはまる。老聖徒となるには、若い時からの勤勉な信仰生活による。彼は年老いて栄の冠を与えられる。
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箴言21章
(31)「戦いの日のために馬を備える、しかし勝利は主による」。1節に、王の心は水の流れのように主に導かれると言っている。昔の王は権力があり、何でも出来たのに彼でさえ、神のみ手の中に導かれている。主は王の王だからである。
だから、戦いのためにいろいろな用意をするが、勝利は主による。神を離れて真の勝利を得ることはできない。
私たちの生活には多くの戦いがある。困難があればそれに勝たねばならない。学生にとってテストは戦いであり、それぞれの職業にも戦いがある。それを勝ち抜くためには、いろいろな点で準備をし、手を打つ。
しかし、どんな用意をするにしても、神を計算の中に入れないと、とんでもない結果になる。自分で馬を備えてその上で神に頼ると言うのではなく、主にある勝利を信じつつ、神に信頼して馬を用意すべきである。勝利は主にある。
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箴言22章(4)
よき評判は、金銀によっては得られないと1節に教えている。エルサレム教会で執事を選ぶ時、「評判」のあることが条件の一つであった(使徒6章3節)。
キリスト者がよい評判を得ることは大切なことである。いくら伝道してもよい評判がないと、伝道すればする程、反って逆効果になる。
使徒5章では、アナニヤやサッピラは人に誉められたくて、多く献げようとしたが、主に受け入れられなかった。よい評判はお金では得られない。
さて、よい評判(令名)は何によって来るのか。4節には「謙遜と主を畏れる」生活からだと教える。良い聞こえは、決して突然に湧き起こるものではない。やはりこのみ言葉のように、神のみ前に謙遜な人になることである。そして神を敬い、きちんとした生活をすることである。
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箴言23章
(26)「あなたの目を私の道に注げ」。私たちは主に目を注いでいようと思うのだが、そうはさせないものがある。一つは酒であり、一つは遊女である。
ブドウ酒についてヨエル書などでは祝福の表われとして書かれている。つまり豊かな富のことである。だから本章での酒についての戒めは、文字通りの酒に関してであるが、同時に富みについての戒めと考えてもよい。
酒や富には、「ふけって」はいけない(20)。即ちとりこになると、遂には身を滅ぼすことになると教えている(21)。
酒にふけるとなめらかさを感じるが(31)、やがて「海の中に(船でゆられて)寝ている人のように」(34)、どこに自分が立っているのか分からなくなる。しかも35節が言う如くに、感覚がなくなる。
恐ろしいことは酒、富、女、友人等なんでも、神にむかう目が無感覚になることである。サタンに麻酔銃を打たれぬよう主の道に目を注いでいよう。
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箴言24章(10、11)
10節には、逆境の時にも勇気を持って立ち上がるべきとの、すすめが書かれている。自分が立ち上がるだけでなく、11節の様に、死に向かいつつある者に救いの手をのべよ、と命じている。いろいろな意味で困っている人に、手を貸す必要がある。12節には、そのような人がいるのを知らなかったと、言い逃れをしても、神様はちゃんと知っておられるという。見ていて見ぬ振りをするのは「良いサマリヤ人」の話のレビ人や祭司のたぐいである。
私たち、特に関心のあるのは「死地」である永遠の滅びに引かれつつある者を、何とかして永遠の救いへと、導くことである。
「滅びによろめきゆく者を救え」と、主は私たちに命じておられる。
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箴言25章(28)
ガラテヤ5章23節には、御霊の果てとして、「自制」があげられている。28節には、「自分の心を制しない人は、破れた城のようだ」とある。自己管理をして生活をきちんと出来る人は、知恵のある人と言えよう。蜜は人を喜ばせる人生の楽しみのことであろう。それは私たちには必要なものである。娯楽なども時としては必要である。しかし、程々にしないと吐き出すようになる。要するに自制である。17節についても、隣人としてのつきあいが、節度あるものでなく、入り浸っていると煩わしくなる、と自制について教えるものであろう。
知恵のある者として、御霊の実を結ぶ者となろう。
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箴言26章(11)
本章には「愚かな者」について繰り返し書かれている。愚かな者は、悪の中に陥ることを知らない(14章18節)。彼は自分が罪を犯しているのに、鈍く、頑固である(13章16節)。だから結果的には愚かさを見せびらかしているようである。さらに11節には、愚かな事を繰り返し行うとある。しかし、もし彼らが自らの愚かさを承知するなら、彼にも望みがあるが、自分の駄目なことを棚に上げて、知恵ある者だとうぬぼれていると、望みはなくなる(12)。
主は「自分を低くする者は高くされ、高くする者は低くされる」と教えられた。私たちは自分が罪を赦された者であることを忘れてはならない。悔い改めのつらい経験を持つ者は、二度と繰り返すまいと思う。
二度食いをする犬の愚かさを、繰り返さない事である。
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箴言27章(21)
本章には、人間関係について教えられている。中でも称賛について語られる。25章27節には、ほめる側の注意であり、27章には、ほめられた側のことがある。人は持ち上げてみると重さが分かるといわれている。「人は称賛によってためされる」(21)とあるように、人に持ち上げられたとき、足をばたばたさせ有頂天になるなら軽い人間であろう。
また、誉められないと何もしたがらない人も、困ったものである。2節には、自分からおのれの良いことを宣伝する人があるが、それは愚かさの宣伝であると教えられている。
私たちにとって尊い品性は、謙遜であると覚えて、僕の道を歩きたいと思う。
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箴言28章(14)
為政者が神を畏れる知恵を持って国を治めると、国は安全であるが(2)、悪人が権力を握ると国民はうめき苦しむ(15)。
社会的不正を行うものは、個人的にも罪を犯す。「彼は耳をそむけて律法を聞かないものである(9)。ユダヤの国で主の律法を知らない人はあるまい。しかし、それから耳をそむけるものとなるとき、だんだんと神から離れ、「父や母のものを盗んで、これは罪ではない」と、とぼけるほど落ちぶれる(24)。
「その罪を隠すものは栄えることがない。言い表してこれを離れる者は憐れみを受ける」(13)。
私たちがいつも立っておるべき場は「常に主を恐れる」信仰である(14)。
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箴言29章(25)
本章の前半は、主として王と国民に対する言葉である。彼は公儀をもって国を治めねばならない。次に、子供はわがままに育てると、それが跡継ぎになると教えている(15、23)。さて、25節は、私たちがしばしば陥りやすい点を指摘している。「人を恐れると、わなに陥る。主に信頼する者は安らかである」。
人を恐れる者は、いつも人の顔色ばかりうかがっている。私たちは人間関係を大切にすべきであろう。しかし、自分が正しいことをしていると信じていながら、機嫌をとることのみに身をやつしていると、自分を失い、罪に陥ることがある。また、何かをするときにも、失敗して恥をかきはせぬかと思って、他人の評判を気にするとわなに陥る。
主を信頼して行う者には、自由がある。
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箴言30章(7〜9)
パウロがピリピ4章で、富めるときに生きる生き方、貧しいときにそれに対処する仕方について秘訣を得た、と言っている。7〜9節はそのような生き方をさせて下さい、との祈りである。ある人は貧しくなればなったで、神は不公平だと言い、多少豊かになると、神に頼まなくても結構やっていけるなどと思う。
人間ほどやっかいで傲慢な、むずかり屋はいない。私たちは「飽き足りてあなたを知らないと言い、主とは誰かと言うことのないため、また、貧しくて盗みをし、私たちの神の名を汚すことのないため」心を慎み、生活していきたいと思う。
主の祈りは、私たちがこの様な不真実な者とならないように、との祈りであろう。
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箴言31章(30)
王たるべき者の避けるべき事と、理想の妻の姿がここに描かれている。
王は酒色に注意すべきであると教える。それらは二つとも、人に道を誤らせる。酔いつぶれてしまって正しい裁判をせず、またサムソンのように女によって力を失ってしまう。これらは人を無力にさせる。
次いで、賢い妻について描かれている。聖書に、これほど理想的な婦人の像を書いているところはない。
@彼女は勤勉である(15〜18)
A隣人に対して愛がある(20)
B家庭において信頼の関係を崩すことはない(11,12)。
C主を恐れた生活をしている。
これは婦人に対する言葉であるが、婦人に限らず、すべての人の標準としたい。
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