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聖書日課 |
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1998年 9月 |
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1 伝道の書1章 |
2 伝道の書2章 |
3 伝道の書3章 |
4 伝道の書4章 |
5 伝道の書5章 |
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6 伝道の書6章 |
7 伝道の書7章 |
8 伝道の書8章 |
9 伝道の書9章 |
10 伝道の書10章 |
11 伝道の書 11章 |
12 伝道の書 12章 |
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13 雅歌1章 |
14 雅歌2章 |
15 雅歌3章 |
16 雅歌4章 |
17 雅歌5章 |
18 雅歌6章 |
19 雅歌7章 |
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20 雅歌8章 |
21 ゼカリヤ1章 |
22 ゼカリヤ2章 |
23 ゼカリヤ3章 |
24 ゼカリヤ4章 |
25 ゼカリヤ5章 |
26 ゼカリヤ6章1〜8 |
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27 ゼカリヤ6章9〜15 |
28 ゼカリヤ7章 |
29 ゼカリヤ8章 |
30 ゼカリヤ9章1〜8 |
1998年10月|八王子教会のページへ戻る
伝道の書1章(10)
伝道の書は、何事もむなしいものであると虚無的な思想で満ちている。しかし、一二章に於いて、万事の帰するところは、神を敬うことであると結論を述べて終わる。
本章の冒頭から「空の空」の句で始まるが、これは、完全に空虚なものの意味で、この書に三七回も出てくる。また「日の下」も二九回見られ、地上の出来事を指している。著者は地上に起こる全てのものは空虚なものだと言う。
まず4〜11節で自然現象を見てそうではないかと考え、12〜18節では知識と知恵をもってしても結局は何をも得られないと考えた。そこで世界は空しいことの繰り返しではないのか、が本書の問題提起である。
聖書はそのように教えていない。神は歴史の支配者で、救いの業を行い、歴史を導く。なるほど地上には「新しいものはない」(10)。しかしキリストに在っては新創造がある。
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伝道の書2章(23)
何か人を満足させるものがないかと、著者は、@快楽を求めた(1〜11)。金銀を用いて贅沢三昧の生活をしてみたかが空しいことのみ残った。
Aまた、知恵がある者と愚かな者の生活を見ると、前者の方が後者より多少よく見えるが、結局は死ぬのだから、同じではないかと思う(12〜17)。
B更に自分が苦労して次の代の者に財産を残してやればよいことではないかと思うのだが、ただ心配だけが先に立って何の役にも立たない(18〜23)。
そして、今の結論としては自分で儲けて、飲み食いをし、自分を楽しませることさえすればよいと思う(24)。
もし人が苦労をしても「ただ憂いのみ」(23)が残るとしたら、何と悲しい人生だろうか。しかし、富も、知恵も、苦労も主を信じる者には決して空しいものではない。第一コリント一五章58節。
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伝道の書3章(11)
本書の中でも、有名な「時がある」という一連の言葉が述べられている。
これは全てに時があるのだから、チャンスを捕らえよ、との教えではない。また、在るときが来れば、出来事が起こるのは運命による、というものでもない。11節にあるように、神の摂理のみ手の中に、神の最善のわざが為されるのだ、ということを教えているのである。これはキリスト者の告白である。
ところで私達は真に「主は私に最善をしておられる」という信仰を持っているだろうか。良いことがあると、神は愛であると思い、不都合なことが起こると、怒りの神を思うのではあるまいか。
神が最善を行われるという信仰はどこから生れるのだろうか。それは摂理の神への信仰である。それと同時に、私達がいつも主からの恵みに満たされていないとこのような信仰は生れて来ないであろう。
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伝道の書4章(12)
1〜3節は、協力ではなく、虐げる者のいる社会を描いている。7〜8節には、いくら富を築いても、これを与える者がいないと、その人の労苦は空しいと書いている。そして9〜12節に、真に協力する人を持つ者は幸いだと教える。
倒れた時に助ける友を持つ人は幸いである(10)。人は時として失望のどん底に陥ることがある。そんな時、何かが出来なくても、共に悩む人がいると、どんなに慰められるだろか。冷たくなった時、暖かくし合う人がいる人は幸いである(11)。
教会生活で孤独な生活をしてはいけない。真に祈り合える友人をお互いにつくっていくように努力しないと信仰は孤独化する。「三つよりの綱はたやすくは切れない」の言葉のように、信仰の友は私達にとって大切な人である。
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伝道の書5章(19)
10節以下は富のことが書かれている。富、それ自身は悪ではない。しかし、ここには富のもたらす様々の悪い結果を見る。
@お金が人生の目標になっている人は、いくら儲けても心に満足を得ない(10)。
A富のために安心して眠れない人もある(12)。それはお金が人に安心を与えないからである。人が死ねば無一文で行くのだから(15〜16)。貧乏でもゆっくり眠れるほどの心の方が幸いである(12)。
なぜそれ自体、悪ではない富がこんな結果を人にもたらすのか。それは人が神に仕えず、富に仕えるからである。しかし、真に神を信じ、神に全てを献身している者は、19節のことを言うことが出来る。
キリスト者が、金銭とか、名誉とかに全く聖別されているなら、それを神の祝福として受け、神のために用いることが出来るようになる。
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伝道の書6章(12)
ある人は多くの富を与えられても、若死にしたため、その財産を他人が所有するようになった(1〜2)。また別な人は多くの子に恵まれ、長生きもしたが、死んだ時に葬式も出してもらえなかった(3)。
いったい何が幸福なのだろうか。千年生きても結局死ぬ運命にあり(6)、生きるのは食べるために労しているに過ぎないのではないか(7)。これが著者の疑問であった。
この人と同じく考えて人生を過ごしている人がいる。12節のように「短くて、空しい命の日」をただ過ごしていると思っている人がある。
富があっても、良い子が多く与えられて家庭的に恵まれていても、長寿が与えられても、不平とつぶやきを持つ人があり、それと反対の状態でも満足している人がいる。
結局それはその人がキリストと共に古きに死に、新しく生きる経験を持つか否かによって決まるのである。
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伝道の書7章(14)
本章には箴言のような多くの道徳的な教えがある。その中で、悲しみや苦難のことを取り上げてみよう。
14節には「逆境の日には考えよ」とある。私達は何も苦難を歓迎する者ではない。しかしそれは、はかり知れない神の知恵をもって私達に臨むものである。
苦難はいろいろな形でやって来る。それは死であったり(2)、憂いであったりする(3)。また、社会正義が踏みにじられるようなことに対して正しいことをしていて、それによって死んだりすることもある(15)。ヨブ記が教えるように、苦難に対する全ての解決は、この世に於いては必ずしも完全には与えられないだろう。
しかし、「逆境の日には考えよ」と語られる時、苦難を踏み台として、成長した人間にさせようとの主のみ旨があることを覚えたい。実際、順境によって堕落する者はあるが、逆境によって堕落する者はいないと言われるのだから。
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伝道の書8章(6)
1〜9節には王に対する態度が書かれている。専制君主のような王には逆らわない方がよい、彼を私達はどうにもできないから、という。しかしそうしている背後にも、神のみ手はあるのだと教える。だから、「すべてのわざには時と方法がある」(6)とのべる。 昔の時代には、一般の小さな人間にとって、王様ほど動かし難い者はなかったであろう。権力があって、武力を用いて、人間を人間とも思わない行動をする。しかし動かし難いのは、王だけでなく、現代では他にもいろいろな問題があって、山のように私たちの前に立ちはだかって動きそうもない。
本書の著者は一時は、そんな人生が嫌になって、歓楽しか逃げ道はないと思った(15)。しかし「すべてのわざに時と方法がある」。神様は歴史の支配者である。私たちはそのような知恵を得たいと思う。
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伝道の書9章(10)
最初の6節までには、良い者にも悪い者にも等しく死がのぞむと教えている。それゆえ喜びの生活をしなさいと言う(7)。普通、私たちが「結局は死ぬんだから...」と、言われると、それなら人生は馬鹿らしいから、太く短く、ウソを言って生きようという結論を引き出すことになる。ところが、本書の著者は、「すべてあなたの手のなしうる限り、力を尽くしてなせ」と強調する。
どの様な事が起こってくるかわからないのだから、一生懸命今のうちに努力しようというのは、神様を信じる者の態度である。
たとい知恵を出して町を救うようなことがあっても、世の人などは、すぐに忘れてしまうのである(14〜16)。世とはそんなものである。しかし神は力をつくしてなし、知恵によってなした業を覚えておられる。
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伝道の書10章(1)
「死んだはえは、香料を造る者のあぶらを臭くする」。高価な香油を造る人はできる限り、他の異物をしりぞけて純粋にしようとする。ところが、ハエの死んだのが、油の中に落ちたのなら、全体をだめにする。
どんなに恵まれた話を聞いても、私たちが、そのあとのことに気をつけないと、恵みを全く台なしにしてしまう。とげとげしい言葉を出したり、自制のないことをしたとすると、全く神の祝福が吹きとんでしまうものである。それこそ、一匹のハエが香油をだめにするように、信仰を失わせてしまう。
私たちと神様との間にいろいろな異物が入りこまない様にさせて頂きたい。
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伝道の書11章(6)
九章には、どの様な事がどの人を悩ますか分からないと教えてある。本章にもその考え方がある。また九章と同様に、ここにも勤勉であるべきことが書かれている。「パンを水上に投げる」ような無駄なことでも、蒔いた種のうち、多くの収穫を得るのがどの種か分からなくても営々と努力しなさいとすすめる。まわりの様子ばかり気にして、風の吹き方が悪いからと言っては、種まきの日を延期していると、蒔き損じてしまう(4)。
福音の種を蒔こう。機会のあるごとに機会を捕えて蒔こう。もう少し、聞き分けが出来てから教会につれて行こうと考えていると、子供は、私たちの手の届かぬ所へ行ってしまっている。人の顔色を恐れず、無駄と思うこともかえりみず、種蒔きを続けたいものである。第二テモテ四章2節。
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伝道の書12章(1)
「あなたの若い日にあなたの造り主をおぼえよ」は有名である。これは必ずしも子供時代とのみとる必要はない。だれでも一日一日と年をとるのだから、神を教えられたその日が、その人にとっては、一番若い日である。 もちろん、子供の頃から主イエスを信じる人は幸いである。しかし六〇歳で初めて神を教えられたなら、その日が神を知った一番若い日である。何歳であっても、神を信じ始めたなら、その日を期して主を求めつづけることである。ある人はヒマになったら神を信じたいと言う。それは間違っている。2節以下のたとえのように、年老いると、力はなくなるし、目は見えなくなる。その時あわてても福音を理解することはむずかしくなる。それに信仰とはヒマつぶしのものではなく、生活の中で生きたものでなければならない。今の時を大切にしよう。
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雅歌1章(12)
本書は、ソロモンの愛の歌であるが、それは、キリスト(はなむこ)と教会(はなよめ)の関係に於て本書の意味は実現する。
12節の王は、新郎であり、主イエス・キリストのことである。ここに「王がその席に着かれたとき、わたしのナルドはその香りを放った」とあるが、これを読むと、受難週の時、マリヤが主イエスにナルドの香油を注いだときのことを思い起す(ヨハネ十二章)。
王が座すべき場所に座られるとき、その雰囲気は、あたり一面をいかにも厳粛に、しかも喜びに満たしたものと変えてしまう。
今日の礼拝でも、主キリストの香油が、私達にも及ぶように、そして荒れやすい私たちを豊かなものとしていただくように。
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雅歌2章(8)
美しい愛の詩である。呼びかける者の声は、どんな場合でも、相手の耳にとびこんで来る(8、10)。
しかし、それを妨げるものがある。
@は冷たい冬である(11)。私たちの人生には、しばしば木枯しがふく。そして、私たちをさいなむ。けれども、時が来ると、また喜びの春がやってくるように、主の声がきこえてくる。
A愛する主の声を妨げるのは、子ぎつねでもある(15)。それは私たちのぶどう園を荒らす。「子ぎつね」と言う所に、意味深さを見出す。小さい、ささいな出来ごとが、愛のぶどう園をかき乱す。きつねは、主の十字架のもとへつれていかねばならない。その時、主のみ声はまたきこえ、楽園は回復する。
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雅歌3章(3)
主を見失った者が、探し廻ってついに見出した物語である。
私たちは、主を見出し、彼に従う者とされたが、何かの理由で彼を見失うことがある。その時には、早くその交わりを回復するようにつとめないと、長い間、見失ったままになってしまう。
1〜3節には、その様子を書いている。
@ねむりこけていた「わたし」は、主を見失ってしまった。
A町中を歩きまわって探したが見つからない。
B夜廻りのような他人にも訪ねたが、すぐにはみつからなかった。
主イエスの両親が、十二歳のイエスと共にエルサレムに上京したが、帰途一日イエスを見失った。再びお会いするまでには、三倍の三日間の労力を要したのである(ルカ二章43〜46節)。私たちの教訓としたい。
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雅歌4章(7)
本章は、花嫁に対する賛美の歌である。それは、キリストの教会に対する喜びの歌だと考えて良い。目、歯、くちびる等々、言葉をつくしてほめている。
そして7節等では「美しく、きずがない」と言う。どこがよいと言われるにまさって、きずなき者と主に言われるとしたら、それは何たる光栄であろうか。
私たちは、救われたとは言え、きずの多い者で欠けた所の多い者である。しかし、キリストの恩寵のゆえに、きずのない者とされている。私たちが主の前に立つ時、もし弁護する者がなかったら誰も自らの欠けを覆うことの出来る人はいないだろう。しかし、主自らがことごとく購って下さったので、そこに
全き救いがある。だからこそ「きずがない」と認めてくださるのである。
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雅歌5章(2)
花嫁たるべき者を、愛する者が訪れた。彼は彼女の家の戸をたたいている(2)。
この絵はちょうど黙示録三章20節のようである。主は、戸の外に立って夜露でぬれているから開けて欲しいと言うが、彼女は休んでしまっているから、今更起き上がるのは面倒な事だと招き入れる事をしぶっている。
私たちも、しばしば主が語り掛けようとするとき、怠慢な気持ちからそれを拒否する。だらけて礼拝を休んだり、祈る事を止めたりする。その結果この女性は探し回るがなかなか見つける事ができない。
羊が羊飼いの声を知るように、主の声を聞きながら恵みの時に従って行かないと主は遠ざかってしまって、探し回らなければならなくなる。そのような事が起こるなら、残念である。
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雅歌6章(3)
一節で、この女性の友人が共に主を探そうと言ってくれた時、彼女はふと、主がどこにいますかを思い起こし始めたのである。彼は、羊の群れを飼っている者だから、そこに居るはずだ(2)、もしそうなら自分自身で探しに行こうと心を固めるのである。
主を探すのは、自分自身であることに目覚めない人は、いつになっても信仰の成長はないと知るべきである。
3節の「わが愛する者はわたしのもの」と言うように、主イエスを求める時こそ、信仰は分かってくる。これを主体的な生き方とでも言おうか。しかしある人は、頼まれて信仰でもしているように見える事がある。友人は助けとなるだけである。信仰の深さを体験するのは求めている本人である。
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雅歌7章(10,11)
六章で、再び見出した彼女は交わりを新しくした。そこで「わが愛する者よ、さあ、いなかへ出て行こう」と言われるが、もはやそれに対して、否とは言わない。都市であるエルサレムから、いなかへ行く事はあまり望ましい事ではないだろう。
しかし一章4節のように「われをひき給え、さらば、我汝に従いて歩まん」(文語)と言いつつ、どこへでも主の導きをうけつつ進むようになる。彼女はもはや、怠慢によって主を拒否する事はなくなる。
私たちにとって主は慕うべき方だろうか。主を礼拝する事が自然であり、普遍の姿であろうか。信仰は片意地を張って体面や体裁でするべきではない。主を愛するなら労は労でなくなる。だから何をするかという以前に、私たちがどれほど主を愛しているかが大切なのである。
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雅歌8章(5)
「自分の愛する者によりかかって、荒野から上ってくる者はだれか」という句は信頼する者に対して与えられる主の保護を教えている。
私たちの人生はある意味では荒野である。試練に遭い、水や食物に乏しくゴツゴツした道を歩かなければならない。しかし淋しさや、荒々しさがあるだけでなく、キリスト者には、愛し支えてくれる主がおられる。
私たちには、奉仕もした、伝道もしたとういう思いが起こってくる事がある。主のためにとは言え、よい行為が目にとまりやすい。それは大切な事だ。しかし私を支えて下さる方、愛して下さる方の恩恵の中に、浸りきって生きる恵みがないと疲れのみが残る。
罪人を愛していてくれる主の肩に背負われて、荒野を旅する者であることを忘れてはならない。
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ゼカリヤ1章(3、17)
ゼカリヤはハガイと同時代の人で神殿再建を語った人である。彼は、象徴的な表現による黙示文学の形式をとった。
本章の中心は(3)である。神に帰れ、そうすれば神は民と共におられるという。
7節以下には馬に乗った者たちが全地をめぐっていると書いている(この様な文章を黙示文学と言う)。彼らの報告は、地はすべて平穏だということであった(11)。たしかに七〇年のバビロン捕囚は終わり(12)、選民は散々痛めつけられたが(15)、今は再びカナンの地に回復されている。
18節以下には四つの角が述べられている。角は力の象徴でユダなどを痛めたアッスリヤ、バビロン等を指す。この角を打ち砕くために鍛冶屋、つまりペルシャ等が神からつかわされた。このように神は世界を動かしておられるし、イスラエルを立て直すというのだから、民も神に帰れと語りかけられる。
「再びエルサレムを選ぶ」とは何という恵みであろうか。
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ゼカリヤ2章(5)
12節には一章17節と同じく「エルサレムを再び選ぶ」とある。本章はエルサレムの町の再建を述べる。
天使がエルサレムを測量していると別の天使がその町は神が城壁となり、神がその町に住まれるのだと彼に語りかけている。このメッセージは再建されるこの町を神がどれほど愛しておられるかというものである。
かつて神がアブラハムを選び、特にこの民族を通して全人類に語りかけようとされた。そして彼らの住む場所をパレスチナとされた。ところがその国と町は罪のゆえとは言え、荒らされてしまった。
しかし神様は気を変えなさらない。辛抱強くこの民を回復し、その場所で再び人々に会おうと言われる。
主は神の民を目の玉のように保護する神であり(8)、シオンの娘たちの中に住まれる神だと約束なさるのである(10)。神は「火の城壁となり、その中で栄光となる」お方である。
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ゼカリヤ書3章(4)
本章の黙示は大祭司ヨシュアに関するものである。彼はサタンによって不適当な祭司であると告訴されていた。
これは彼個人のことではなく、民全体をさしている。祭司も民も、火の中から取り出した燃えさしのように、滅びるばかりの者だと言われた。
ヨシュアは汚れた衣を着ているではないか、とサタンに言われているのである。私達のだれかが、汚れのない魂の衣服を着ていると言うことのできる者があろうか。もし言えるならそれは主イエスによって与えられた十字架の救いによる衣であろう。ヨシュアは神が備えた衣と帽子を着せられたので、何の恐れもなく、神に仕える者となった。
プロテスタントの教会は、信徒は万人が祭司であるとの主張に立っている。今日の礼拝も私達は世界のためにとりなす祭司の働きをするものだと覚えたい。
清い祭服を着せられ、サタンにうしろ指をさされず、神様に奉仕した。
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ゼカリヤ書4章(6)
燭台とオリーブの木の幻である。燭台には七つの管がありそれぞれの先端にともしび皿がついていた。それらは二本のオリーブの木に結びついていた。この黙示の意味をゼルバベルが聞いた時、「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊による」との答えが返って来た。
つまり、燭台や、オリーブ等は、信者の上に与えられる聖霊のことを指しているのである。オリーブは油の供給源であり、聖霊を注がれる神の恵みの潤沢なこと。ともしび皿は光のともる場所であり、あかしの生活のこと。 ゼルバベルは神殿再建という大事業について反対者による困難を経験していた。この時、恵みは神から来るのであり、このわざは御霊によるのであることを教えられた。
各自の働きや事業についても、教会の建設についてもゼルバベルに示された黙示と同じ原則である。困難はあっても、御霊の助けがあるのだから、この約束に従って進みたい。
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ゼカリヤ書5章(3)
1〜4節には飛んでいる巻物の幻である。それは一〇メートルと五メートルのもので、偽る者、盗む者、等の罪を犯す者は除き去られると書いてある。
5〜11節はエパますといわれる柝の中に女の人がとじ込められているというものである。これはユダヤの罪である(6〜8)。
この二つの黙示は、神の民の中から罪を取り除くというメッセージである。エバ柝にとじ込められた女を、こうのとりはシナル(バビロン)まで運ぶともある(9〜11)。
これまでには祭司ヨシュアがきよめられること(三章)、また聖霊の助けによって神殿建設の工事がなしとげられるということ(四章)が書いてあった。本章では、この地の民の罪を取り除くというものである。この地に住む民がきよめられてこそ、新しい民が作られていく。
バビロンまで運ぶというのはバビロンの捕囚により罪は赦されたことを意味する。のろわれる罪が除かれたことを確信して歩みたい。
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ゼカリヤ書6章1〜8節(8)
ここに四両の戦車が出てくる。赤馬、黒馬、白馬、ねずみ色の馬をそれぞれつけている。それらは北、西、南に向かって出て行った。 戦車は世界に向かっての神の統治を指すものであろう。つまり、バビロンが支配している世界で、実は神ご自身が治めておられるのだと、この幻は語るのである。
戦車が全地をゆきめぐることを許されると、「彼らは地をゆきめぐった」。これは神の支配が全地をゆきめぐっていることを示すものである。この中には捕らわれのユダヤ人が母国に帰って来ることも当然含まれていたに違いない。
8節に「北の国で私の心を静ませてくれた」とあるのは、主のメッセージを持った者が、北の国バビロンにいるユダヤ人を母国に連れ戻るようにしたため、主の心が静まらせられたということである。
サタンの手に捕らわれている者が、主のもとに帰ると主の心は静まる。世界に福音を伝えたい。
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ゼカリヤ書6章9〜15節(12)
黙示的な表現が続いている。祭司ヨシュアに冠をかぶらせるという象徴的な行為が書かれている。
また「枝」という名の者が主の宮を建てるともある。宮を建てるのはゼルバベルであるから、枝は彼のことを指している。
ところが枝と呼ばれている人物がメシヤであることは、エレミヤ二三、三三章、イザヤ四章2節等の預言から見ても明らかである。 また、13節には、王の位についている者(ゼルバベル)と祭司ヨシュアとが一体になるとあるが、それはイエス・キリストにおいて、王の働き(統治)と祭司の働き(とりなし)とが一体化していることを表わしている。 この第二の神殿再建工事はこの後の時代に来られるメシヤのためのものであった。つまり主イエスにおいて、王的支配と祭司的とりなしとが一つになって実現したのである。
枝という方が宮を建てるとあるように、霊的な神殿なる教会を主キリストによって建てあげて頂きたい。
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ゼカリヤ書7章(5)
バビロンに捕らわれている間ユダヤ人は四つの記念日を守っていたといわれる。エルサレムが陥落した日とか神殿が焼かれた日とか等である。
これらは悲しみの記念日なので断食をした。ところが今は神殿も出来たので、断食の必要はないのではないかと問い合わせに来る者がいた(2、3)。
この時ゼカリヤを通して主は語られたのである。「はたして、わたしのために断食したか」との問いである。
私達は自分の困ったことのためには断食、徹夜の祈りをするかもしれないが、主のためにそれをするだろうか。ここにあるのは、そのような主からの問いかけである。
「日用の糧を今日も与え給え」とは祈るが、「願わくは、御名をあがめさせ給え」と祈るだろうか。主のために断食をする者こそ、9節のように「互いに相いつくしみ、相あわれむ」者となるのである。主に奉仕しよう。
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ゼカリヤ書8章(23)
本章には、神の真実と愛とが満ち充ちている。まず何よりも神様がエルサレムをねた
むほどに愛されるとある(2)。それゆえにかつて荒廃したこの町を老人や男の子、女
の子で一杯にする(5)。そこを平和と繁栄の町とする(12)。そのようにして遂には、もろもろの民が「われわれは主を求め、万軍の主を呼び求めよう」と言いはじめる、と語られている(20)。
このような世界は、もはやゼカリヤの当時に、神殿建設の完成によってただちにもたらされるようなものではない。それはメシヤによってもたらされる世界である。
23節「もろもろの国ことばの民の中から十人の者が(多くが)・・・あなたがたと一緒に行こう。神があなたがたと共にいますと聞いたから」の言葉は何という美わし祝福であろう。
あの教会に行けば、何かすばらし事があると思われるように、神の恵みを一杯充たされた者となりたい。
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ゼカリヤ書9章1〜8節(1、7)
ゼカリヤは八章末で、世界に福音の恵みが及ぶと述べている。しかしそれは彼の時代に完成するとは考えていなかっただろう。むしろ未来に於てメシヤの時代の到来の時に完成すると考えていた。
本章以下にはその内容が語られている。世界が神に帰る時が来るとは言え、諸国はなお誇り高く神に対立していた。
1〜8節にはシリヤの町々(ハデラク、ダマスコ、ハマテ)、フェニキヤの町々(アシケロン、ガザ等)が自分の力を破られるようになると書いている。これはこの後、アレキサンダー大王によって実現したように思われる。
ここで留意すべきは不従順な町の者も、実は「主が攻めとり」(4)、「主に属する」ものとなり(1)、「われわれの神に帰し、ユダの一民族のようになる」べきものである
(7)。私達は、今は神に敵対しているように見えても、やがて全てのものが神に帰属すると信ずべきではないか。
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