聖書日課

 

1998年 11月

 

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マタイ10章 24〜42

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マタイ19章 16〜30

30

マタイ20章 1〜16

 

 

 

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1998年11月1日(日)

 マタイ8章18〜28節(26)

<するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。>

 

 イエスに従う道は楽しい時もあるが、苦しい時もある。主は「人の子は枕する所がない」という程の道を歩かれた。だから彼に従う者は決心が重要になる。父の葬りさえ別の人に委ねなければならぬ程のことが起る。死人にまかせよとは、霊的に死んだ人のこと。

 23節以下は船に乗った弟子たちに嵐がおそって来た物語である。イエスと共におれば、何でもよいことが起るというものではない。苦しいことも起る。激しい暴風に会って死にそうだと思われることさえある。キリスト者の人生に試練があるのは、他の人々と同様である。

 ところが、私たちには「主よお助け下さい」と呼ぶことが出来る。祈りは叫びである。その叫びをすることが出来るのが素晴らしい。たとい「信仰のうすい者よ」と言われながらも、主と共に居ることは救いなのである。

 枕のないような所へでも、主のあとについて行こうではないか。そこには救いがある。

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1998年11月2日(月)

マタイ8章28〜34節(33)

<飼う者たちは逃げて町に行き、悪霊につかれた者たちのことなど、いっさいを知らせた。>

 悪霊につかれた者とは、サタンの支配下におかれている者である。彼は社会生活のできない者であった。墓場という人の住めない所に生活し、人々が近くの道さえ通れないほどの乱暴者であった。

 このような人は今でも大勢いる。誰も近づけないほどに荒れるのは、サタンに捕えられているからではなかろうか。また、自然の物、たとえば豚のような何の罪もないものを海に投げ込むようなことをサタンはする。

 サタンや罪は破壊的である。また、これに支配されている者は、イエスに向かって「神の子よ」と呼んでいながらも、苦しめる者なのか、と語っている(29)。主は救う方なのに、滅ぼす者と呼ぶとは何とまと外れな言い方であろう。他の福音書を見ると、この乱暴者はイエスによって救われている。町の人々にとっては人が良くなることより、豚の方が大事だとみえて、イエスに出て行くよう求めた。

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1998年11月3日(火)

マタイ9章1〜13節(2)

<すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。>

 中風の者をイエスのもとに連れてきたのは四人の友人である。「イエスは彼らの信仰を見て」とある。中風の人も治りたいと思っていたであろうが、自分ではどうすることもできない。しかし友人四人が彼の救いのために信仰をもった。主は彼ら四人の信仰を見たのである。家族の人や、友人のために、信者の側で信仰をもってあげることが大切なのである。

 この物語は、そのための信者の協力を教えているように思う。四人の者が寄ってきて、一人の人を主に導こうとした。他の人がやっているから自分は無関係だと思うのは聖書的ではない。 中風のいやしと、マタイの召命の物語をみて共通しているのは、罪人を招いて健康な者とさるイエスのわざである。パリサイ人から罪人と呼ばれている者でも、イエスのもとに来さえすれば癒される。

 イエスの所へ来ていやされ、また、協力して一人の人を主のもとに連れてきたいものである。

 

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1998年11月4日(水)

マタイ9章14〜17節(15)

<するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。」>

 主は、今の時は結婚式のようなものだと言われた(15)。十字架の時には悲しむが、今は喜びの時だと言われる。 罪のために十字架はあるが、やがて復活があるとイエスは言われる。確かに彼は喜びの充満を強調された。キリスト者はもっと喜びに満たされるべきではなかろうか。

 彼は古い着物に新しい布きれを当てるなと教える。古いものと新しいものをごったにする生活とは、旧約と新約の混合のことである。例えてみれば、未信者時代の悪い習慣とキリスト者になってからの良い習慣とが混っていることである。同じことが、古い皮袋と新しい酒のたとえにも見られる。主から新しい喜びの生活を与えられたら、新しい生活様式が生まれるはずである。 私たちの生活は、信者になってどこが変わったのだろうか。生き方のパターンを変えよう。なぜなら、新しい喜びの酒をいただき、花むこなる主と共にいるのだから。

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1998年11月5日(木)

マタイ9章18〜31節(28)

<そしてイエスが家にはいられると、盲人たちがみもとにきたので、彼らに「わたしにそれができると信じるか」と言われた。彼らは言った、「主よ、信じます」。 >

 会堂司の娘のいやし、十二年間長血をわずらった女のいやし、盲人のいやしなどの物語が記されている。

 この種の物語はしばしば見られることであるが、人間の側の信仰に一つのカギがある。「あなたの信仰が、あなたを救った」(22)とある。盲人は「主よ信じます」と告白している(28)。 信じることはやさしいようでむずかしい。一生懸命、肩に力を入れて信じようとする自分を見出す。何かよい結果を見ると、信仰があったからだと自分の信仰を誇らしく思ってみたりする。また困難な問題にぶつかると、信仰をもってやれば大丈夫だと、信仰を自力主義の方便に用いたりする。

 本当は、信仰とは神のみ手に委ねることではないのだろうか。信頼してよりかかることではないのだろうか。神のみ手にお預けすることだろう。その時には、安息があり、最善を期待できるのであろう。

 信じて、神がよしと思われることを見せてもらいたいものである。

 

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1998年11月6日(金)

マタイ9章32〜38節(37、38)

<そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。>

 35節以下は、八〜九章のまとめとみることができる。

 ガリラヤ伝道はみ国の福音の宣教、病気の者たちのいやしで満ちている。そのようにされた理由は、イエスが群衆を深く憐れまれたからである(36)。 神が人類をこの世界におかれた時、打ち倒された羊のようなものではなかった。羊飼いを見失った羊のようではなかった。人間の罪が神から人を離れさせ、迷える羊とさせてしまった。主はその者たちを救おうとされる。

 しかし、ここで弟子に告げているのは「主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」である。働き人が起されるように祈ってほしいと言うことである。主は同労者が起されることを願っておられる。

 弟子も伝道に出かけた。日本は今、伝道の好機である。直接的な献身者がもっと出てほしい。そのために祈ってほしい。

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1998年11月7日(土)

マタイ10章1〜23節(7、12)

< 7:行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。>

<12:その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。>

 

 十二使徒の選びと、彼らの派遣である。彼らが遣わされていった時、語ったメッセ−ジは、

 @「天国が近づいた」である(7)。神の国が手のとどく所にまで来ており、それが人々の心の中に建てられるようにとの祈りである。

 A出かけて行った家で、平安を祈ることである(12)。私たちは人々に接する時、さまざまの会話をする。しかし結局は、神の国の生活が始められると幸いであることを伝え、魂の平安を祈ってあげることが肝要である。

 16節以下にある衆議所や長官の前に引き出されるようなことは、十字架の後の時代のために予告したことである。 また23節の「人の子は来るだろう」は、イエスが復活後弟子のところに来られることを意味している。さて、私たちが主の弟子として、福音をあかしする時、肝要なところをいつも心に留めていたい。それは神の国の福音を伝えること、そして魂が救われることである。

 

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1998年11月8日(日)

マタイ10章24〜42節(28、29)

<また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。>

 

 この部分も、弟子たちを派遣するに当たってのイエスの訓戒である。この中には、弟子たる者が出会わなければならない様々の困難について語られている。ベルゼブル(悪魔)の一味の者だと言われたり(25)、22節にあるように理不尽に憎まれたり、殺されさえする者もある(28)。しかし、このような情況にもかかわらず、一羽のすずめを守られる神は、私たちを守っていて下さると約束なさる(29)。

 また、奉仕についても、たとい冷たい水一杯でも主に対するものとして受け入れて下さると言って下さる(42)。しかしいずれにせよ主に従う者の歩みは十字架を負う歩みである。38節に「自分の十字架を負ってわたしに従ってこないものは、わたしにはふさわしくない」とある。神様は不必要に私たちを苦しませ、負い切れない程の重い十字架を負わせなさらない。十字架を負って従う者に、保護のみ手をさしのべていて下さる。

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1998年11月9日(月)

マタイ11章1〜19節(4)

<イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。」> 

 バプテスマのヨハネのことが挿入されている。ヨハネは王の罪を責めたため投獄された。しかし獄中で、メシヤはイエスなのか、他に来られるのかと問うて来た。というのは、ヨハネ自身か、その弟子かがイエスがキリストであることに疑問を持ったのである。彼らは一般のユダヤ人同様、メシヤは悪の世の権力をくつがえすと考えていたからである。イエスはそのようなことはなさらない。ただ盲人が見え、足なえは歩き、らい病人はきよまっていると伝えよ、と言われた。このようなことは、イザヤ三五章のようにメシヤの時代の表われである。

 これを聞きヨハネは安心したであろう。私たちにとってイエスが救い主であると言いうるのは、「見聞きしていること」に基づく。つまり、私たちは彼から何かを与えられ、心の内に体験しているかによるのである。知識のみのキリスト理解では駄目だ。しかし小さくとも、心で見聞きする主こそ確かである。

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1998年11月10日(火)

マタイ11章20〜30節(27)

<すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。>

 

 派遣された弟子によって神様は力あるみ業をなさった。しかし彼らの多くはイエスを信じなかった。たしかに貧しい者、病める者などは主を信じたのであるが、ユダヤの町々の中心的な者たちはイエスを拒否した。そのことを主は弾劾されたのである。

 ヨハネの働きに関して、15節以下に述べてあるが、「笛を吹いたのに、あなたは踊ってくれない」と言っている。ヨハネが禁欲的な生活により語っても、イエスが罪人の友になって交わっても、いろいろ批判はするものの、神についてはいかない(18、19)。

では何が人を変えるのか。幼子のような魂の者である(26)。町の為政者や宗教的リーダーはむずかしい。キリストに聞こうとする者こそ、幼子のような者である。そしてその者に父な

る神はご自身を表わされる(27)。

心の疲れている者でも、この神のもとに来て、彼に聞く時、父を知り慰められる。力を与えられる。父を私の心にあらわしていただきた。

 

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1998年11月11日(水)

マタイ12章1〜21節(8、12)

< 8: 「人の子は安息日の主である」>

<12:「人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。>

 

 ここに安息日のことが二度問題になっている。一つは穂をつんで食べたので労働をしたと言ってとがめたこと。一つは、休みの日に手をのばさせたということでとがめたこと。

 安息日は、神と人とにとっても最も良い日として神が定められたものである。それは神を礼拝する日であり、また人が心身共に休む日である。だからこの日を神と人とのためにとっておけばよいものを、規則のため、律法のために存在する日にしてしまった。律法があるから休むべきだとする。だから主は安息日を本来のありかたにしようとされた。そのためには「人の子を安息日の主」にすることである。安息日に、イエスを主として崇めるなら、いやしが与えられ、手が伸びるように命にあふれる。

 律法は信仰を形式的にする。私たちは安息日を正しく守りたいものだ。命を得るように、魂の安息を得るようにしたいものである。そのため主を第一にしたい。

 

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1998年11月12日(木)

マタイ12章22〜37節(28)

<しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。>

 

 盲人のおしがいやされたのをみて、人々は「この人はダビデの子」かも知れぬと言った。つまりメシヤと思ったのである。それにもかかわらず、偏見にみちたパリサイ人はイエスをサタンのものと呼んだ(24)。

それで聖霊に逆らう罪はゆるされないとイエスは断罪した。聖霊は人の心の内に語りかける神の声である。偏見をなくせば、神のわざだと思えるものを、悪魔のものとするのは内なる声を拒否することで、聖霊に逆らうことである。そんな態度は、その人の生き方となるから自分自身を神に逆らう者にしてしまう。聖霊に逆らうことはこの様なことである。

これとは反対に、神の霊は人の心に神の国を到来させる(28)。どんなかたくなな心であっても、内なる声を与える聖霊に聞き、偏見を捨てて従おうとすれば、その人の内に神の国が与えられる。

悪霊の働きと言うが、それは罪に従おうとする心である。それをイエスは追放される。神の国が与えられたことを感謝したい。

 

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1998年11月13日(金)

マタイ12章38〜50節(49、50)

<そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。>

 イエスは多くの教えをしておられたが、その時、彼の肉親がイエスの所へ来た。ある人が母上と兄弟が来ておられますと伝えると、この言葉を機会にして「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と弟子たちを指された。これは肉親以上の関係を意味している。霊的な関係のことであろう。

 イエスが私たちのことを指しながら「見てください、この人は私の兄弟ですよ」と呼んでくださると思うと、大きい光栄である。私が兄弟や母と呼ばれるようなものではない、と思っても、彼の方から私たちのことを「ごらんなさい」と誇らしげに言って下さるのである。

 へブル二章91節には「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない」とある。彼は私たちのために肉をとり、兄弟となられたから、このように言うのである。大いなる恵みであり、栄光である。今日も「わが兄姉」とよんで下さる。

 

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1998年11月14日(土)

マタイ13章1〜23節(23)

<「また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。>

 

 種まきのたとえである。四種の畑があるが、道ばた、石地、いばらの場所は実を結ばなかった。それぞれの問題があったのでそのような結果になったのである。

 しかしよい実を結んだものがある。それには二つのことが考えられる。畑そのものとそこにまかれた種とである。 良い畑とは「み言葉を聞いて悟る」心のことである。聞く人は多いが、悟ことが肝心である。悟とは、理解することである。頭で分かることだけでなく、心で理解することである。聖書のみ言葉は、単に聞き流したり感心するだけでは決して人を変化させない。心の奥深く、思いの中までみ言葉が入ってくるとき人は変わり、よい実をを結ぶ。

 もうひとつの結実の要素は種そのものである。種は福音。どんなよい畑でも種が悪ければだめである。しかしイエスの福音は力がある。私たちはこの恵みの福音を単純に、心から受け入れ、み言葉によって生活したい。生涯の終わりには、多くを与えられていると知るに違いない。

 

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1998年11月15日(日)

マタイ13章24〜43節(32)

<またほかの譬を彼らに語られた、「天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」>

 

 31節以下には「からしだね」と「パン種」のたとえがでている。これら二つは成長について教えている。

 どんなに小さくても、命があるなら成長して大きい木になる。また、パン種も生きているから、粉にまぜ合わせておくと、やがてふくらんでくる。

 信仰の成長は、まず何よりも命があることである。イエス・キリストによって新生すると霊的な命をもつ。だから成長するのである。

 また生きているものは食物を食べる。そして大きくなる。生きているものは子孫を残す。そして大きくなるだけでなく永続する。信仰が成長するためには、何よりも魂の誕生である。罪を悔い改めて、キリストのゆるしを得ると新生命が始まる。その後は、み言葉を心に貯えることである。そうして何年か経つと驚くほど変えられていることに気づくであろう。

 命にみちて生活したいものである。

 

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1998年11月16日(月)

マタイ13章44〜58節(44)

<天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。>

 

 畑の宝と、真珠のたとえは1つのことを教えている。それは、天国という宝を得る喜びのためには、どんなものでも捨てることだということである。今まで身につけていたものが、畑の宝を見たとき全部捨ててもよいと考えるようになる。

 ところで、一番捨てがたいものは何か。それは自分自身である。それは神のみ手の中に委ねるということはなかなか困難である。しかし神の宝を、真に自分のものにするには、自我を捨てなければ得られるものではない。

 何故それ程までして神の宝を得ようとするのか。それは、47〜50節にあるように、最後の裁きの日が来るからであろう。良いものを残し、悪いものを捨てる日が来る。

 永遠に残るものは何か。それは、神の国の宝ではないか。私達は、神が与えて下さるものを大切にしたい。粗末にしてはならない。どんなことをしても永遠の救いを宝として私のものとして保っていたい。投げ出したものが大きい程、得たものは尊い。

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1998年11月17日(火)

マタイ14章1〜12節(5)

<そこでヘロデはヨハネを殺そうと思ったが、群衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからである。> 

 人々は「ヨハネを預言者と認めていた。」これはヨハネが荒野で説教をし始めた頃から一般に知られていたことである。悔い改めと神の国のメッセージを伝えたからである。そして領主ヘロデもそのことを認めていた。

 私達にとって、知っていることと信じていることとは違うことである。信じるとは信頼することであるが、知っているとは頭だけの知識に過ぎない。 ヘロデはヨハネがどんな人物か知っていたが、信じなかった。それは彼の言うことが正しいと分かってはいたが、それに従わなかったことでも分かる。 ヘロデは義兄弟の妻を奪って自分の妻とし、それまでの妻とは離婚した。それは周りの者に悲しみを与える罪であった。ヘロデはヨハネの言葉を聞き流していたため、もっと恐ろしい殺人の罪を生かした。ヨハネを神の言葉を語る者と認めるなら、それに従うべきだ。そうでないと人は更に落ちていく。

 

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1998年11月18日(水)

マタイ14章13〜21節(18)

<イエスは言われた、「それをここに持ってきなさい」。> 

 多くの群衆が集まって来たとき、イエスはこれらの人々に食物をお与えになった。しかしその時、主は弟子達に「あなたがたの手で食物をやりなさい」とお命じになった。

 人里離れた場所でしかも数千人の人々に彼らが食糧を供給する事はできない。それにもかかわらず、そうせよと言われるからには、イエスの側に何かお心づもりがあるはずである。

 ヨハネ六章6節には「ご自分ではしようとすることをご存じであった」と記している。マタイを読むと「それをここに持って来なさい」とある。それは献身を表す。主は小さいものでも献げる者を用いられるのだと教えておられるように思う。神は人間の才能によってその人を用いられるのではない。どれ程の献げる思いを持つかによる。 次に奉仕に当たっての神の側の供給である。必要な力を備え、神は時に応じて私達に力をお与え下さる。大切な事は、私の手にあるものを「持ってきなさい」の言葉に応じて献げることであろう。

 

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1998年11月19日(木)

マタイ14章22〜36節(27)

<しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。> 

 パンの奇跡の後、イエスは「強いて弟子達を舟に乗り込まさせた」(22)。ガリラヤ湖は思いがけぬ突風に見舞われると聞くが、果たして弟子達は湖上の暴風に出会った。この嵐は私達の人生の嵐に似ている。

@逆風が吹くように襲って来る試練がある。

Aしかし主は「強いて」舟に乗らせたからには必ず行くべき所へ行き着くことが出来るように導かれる筈である。B人の心が心配と恐れに充ちていると、たといイエスが近づいて来られても「幽霊だとおじ惑う」(26)。心に恐れがあるときは全てが敵に見える。 C主が舟に乗り込まれると、「風は止んでしまう」。詩篇一〇七編29節には「主が嵐を静められると、海の波は穏やかにになった。こうして彼らは波の静まったのを喜び、主は彼らを望む港へ導かれた」とある。どのよな危険に会っても、イエスを心の中にお迎えしようではないか。

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1998年11月20日(金)

マタイ15章1〜20節(8)

<この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。> 

 ユダヤ人は伝統を重んじる民族である。昔からの伝統は良いものであるが、煩わしいものである。

 問題の発端は手を洗わないことにあった(2)。それは清潔のための手洗いではなく、肘まで洗う宗教儀式の意味があった。イエスの弟子がそうしないので、パリサイ人らは非難したのである。

 人は長年月かけて作られた伝統を破ることに非常な勇気を要する。しかし伝統の中には良いものもたくさんあるが、悪いものもある。それをそうと知りながら改めることが出来ない。

 ユダヤ人の伝統を人の言い伝えと呼んだ。そしてこの悪い伝統を打ち破るのは、神の言葉によらなければならないという。

 悪い意味の伝統と、神の言葉とはどの点で違うのか。前者は口先の行動で心からのものではない(8)。しかし後者(神の言葉)は心から従うことの出来るものである。それがあるからこそ、悪習慣を破ることが出来、真の勇気を持つことが出来る。

 真の力は神の言葉への信頼とそれから来る命による。

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1998年11月21日(土)

マタイ15章21〜39節(28)

<そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。> 

 カナンの女がイエスのもとに来て自分の娘のために主に願った。「叫び続けた」の句に、二言、三言の叫びではなかったことが伺える。母はなおも続いてイエスの後を追った。それでも答えは与えられず、更に「子供のパンをとって小犬に投げてはやらない」と告げられた。

 主から答えをいただくまで彼女は何度も退けられた。それなのに、何故カナンの女はイエスを求めたのであろうか。それは彼女の子供に対する愛の故である。愛が無ければ叫び続けることなど出来るものではない。もう一つの理由は、イエスへの信頼である。イエスについて行きさえすれば必ず何らかの回答が得られると考えたからであろう。

 私達は何度も手を伸ばしながらも、すぐにそれを引っ込めて本物を受けない。「女よ、あなたの信仰は見上げたものである」とのお言葉のようになりたいものである。

 

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1998年11月22日(日)

マタイ16章1〜12節(4)

<「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。> 

 パリサイ人らが、イエスにしるしを求めた。救い主かどうかの証拠を見せよというものである。

 これに対して「ヨナのしるし」以外にはしるしはないと言われた。ヨナのしるしとは、彼の説教と復活である(マタイ一二章39節参照)。ヨナの説教でニネベの町の人々は悔い改めて救われた。そのようにイエスが救い主であるか否かは彼のメッセージを聞けば分かるというものである。

 聖書を読んで心を開かなければ、たとい大奇跡を見ても人は驚きはしようが救われはしない。もしメシヤのしるしとなるような奇跡があるとすれば、それは復活だけであると言明された。

 5節以下にはパン種の警告があるが、それはパリサイ人の律法主義とか外面的な信仰のこと、またサドカイ人の物欲敵な世俗主義のことである。このような思いを心に持ちながら、救いのしるしを見せよと言ってみても、信仰は始まらない。

 神はヨナのしるしを聖書の言葉によって与えておられる。

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1998年11月23日(月)

マタイ16章13〜28節(24)

<それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」> 

 「この岩の上に教会を建てる」と言われた時、イエスはペテロの告白した信仰の上に教会を建てることを意味した。

 その告白とは、イエスこそ神の子キリストという内容である。イエスが罪からの救い主と告白する者が教会を形成する。

 ところがこのイエスが十字架のことを話はじめると、ペテロは、そんなことがある筈がない言った。彼の発言はユダヤ人のもつメシヤ像からくるものであって、十字架の死などはないものとする。もっともな言葉である。

 しかし私達とて同様な態度を持たないだろうか。十字架抜きで主を信じることを望む。苦しみは何も自分から求めて行くものではないかも知れないが、十字架が来たとき、苦しみを人々に訴えて何になろうか。むしろそれを与えられた神に語るべきではなかろうか。 その時、真の栄光が来る。私達は、救いと救いを与えて下さる十字架を共に受け容れ、教会を建てあげて行きたい。

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1998年11月24日(火)

マタイ17章1〜13節(4)

<ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。>

 これは、よく山頂の経験といわれる。 

 イエスの変貌の記事である。光り輝くイエスの姿は弟子達がこれまで見ていた主のお姿とは異なっており、神の子のあらわれであった。その時弟子らは「私達がここにいるのはすばらしいことです」と言った。弟子達が何かすばらし事をしたのではない。ただ、すばらしいイエスに接し、そのお方と共に居ただけである。

 しかしそれだけで、この場所にずっといたいというのである。それは栄光の主を見、彼を知ったからである。私たちも時折、この山頂の経験をもちたいものである。祈りの座において、主と交わり、主の愛と救いを思い、今も与えていて下さる恵みと永遠へと導かれるみ手を思いめぐらす時、そこは私たちの変貌の山となる。私たちは何の良い事をするのでもない。ただ栄光と恵みの主を見るだけである。しかしその時、私たちは変えられる。現実の世界を見る前に主を見たい。

 

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1998年11月25日(水)

マタイ17章14〜27節(20)

<するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。」>

 

 山頂から降りてくると、てんかんに苦しんでいる人の為に悩んでいる弟子達がいた。イエスはこの弟子達に信仰が足りないと言われた。「からし種一粒ほどの信仰があるなら」と小さくても命のある信仰について語られたのである。

 私たちが何かの問題にぶつかる時それに対処するのにどうするだろうか。まず誰かに相談するだろうか。祈ることから始めるだろうか。人に相談するのは悪いことではない。しかし祈りながらという事を忘れると、真の解決が与えられるかどうかは分からない。祈りの中に信仰が与えられると、問題の山が向こうに移っていく。

 信仰は自力でもつものではない。神様が上から私たちの内心に与えて下さるものである。だから主は「あなたがたに出来ない事は何もないであろう」と言われた。力強い約束ではないか。

 

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1998年11月26日(木)

マタイ18章1〜11節(4)

<この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。> 

 天国ではだれが一番偉いかという質問はユダヤ人が考えそうな質問である。彼らの考えではこの世で成功した者が神に祝福されているのだから、天国においても偉い者だというのである。たしかに私たちもこの世的な成功が神様によるものであるとして感謝している。必要なものを与えて下さいと祈り、それが与えられて感謝する。

 しかし、イエスはそれとは逆に「心を入れ替えて幼な子のようにならなければ天国に入れない」と言われた。幼な子とは何を意味するのか。それはいやしくつまらない者のことで、つまりへりくだる者のことである。可愛く、純真な者という意味はここではとらない。当時の幼児は人権はなく、大人には無視されていた。これは他人を無視せよのすすめではなく、自分の心の謙遜のすすめである。

 へりくだるというのは、いつも神様なしには生きられないという程、神に依存する思いである。このような者を神様は軽んじなさらない。

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1998年11月27日(金)

マタイ18章12〜35節(33)

<「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか。」> 

 15節以下には二度「罪を犯した場合」ということがとりあげられている(15、21)。これは厄介なことである。15節ではどのように忠告するかであり、21節では、どう許すかである。忠告する場合、それはまずその人と一対一の関係で話す事だという。たしかに彼のいない所や、大勢の人々のいる所でその罪をあばくのは傷を与えるのみである。

 しかしそれが駄目な場合、信頼する人達が共に集まり彼と語ることである。ただしこの二、三人は祈り心のある二、三人ではなかろうか。19節がそれを示している。

 さて21節以下は「兄弟が私に罪を犯した場合」のゆるしである。結局、王がしもべをゆるしたように友をゆるすことが大切だと教えている。ゆるしの心は神の愛に満たされる事から始まる。5章48節には、天の父の全くあるように、とあった。その時にのみ、ゆるしを与える事が出来る。

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1998年11月28日(土)

マタイ19章1〜15節(6)

<「彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。> 

 離婚の問題が取り上げられている。「何かの理由」で離婚することについてパリサイ人が質問してきた。現代は離婚が余りにも多すぎる。そして家庭は混乱している。そうなっていくための「何かの理由」でつまらない事が多いように見える。恐らく、二十一世紀にはもっとひどい混乱が起こるだろう。

 このような問題についてキリストは何といわれたか。それは聖書の根本に帰る事である。即ち「人は父母をはなれ・・・二人の者は一体となる」ということである。一体となるというのは、二人が共同の責任者であるという事であろうが、また、一人が半分づつを受け持って二人で一つを形成するということでもあろう。足りない所を補い合って始めて一つとなる。このような神中心の考え方が家庭の土台にすえられると、その家庭は壊れない。壊れていく何かの理由は結局自分中心という罪である。こんな時、幼な子が来た。主はこの子らのためにも家庭の健全さを願われたに違いない。

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1998年11月29日(日)

マタイ19章16〜30節(26)

<イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。> 

 富める青年はまじめであった。しかし一番大切な者を献げる事が出来なかったのでイエスの所から去って行った。富に限らず一番大切なものを主に献げられないで信仰を失う者がいる。天国に入るためには、らくだが針の穴を通るように身と心を低くしてはじめて可能である。すると弟子達はそれでは救われる者はだれもありませんと言った。これに対してイエスは「人にはそれは出来ないが、神には何も出来ない事はない」と言われた。

 低くするとか、譲るとはどういうことか。それは、神の御前にへりくだることで、神にありのままの自分をゆだねることである。この青年のように資産をもっていて悪い事はない。ただ彼の場合、最後の点で心の底で神以外のものに頼っていたのではないだろうか。それは神への信頼とはいえない。救いについて神には何でも出来ると信じる時、全き信頼といえる。「神には出来ない事はない」

 

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1998年11月30日(月)

マタイ20章1〜16節(14、15)

<「自分の賃金をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか」。> 

 ある労働者は朝九時に、別の労働者は十二時、また別の労働者は三時、五時にやとわれた。やがて賃金支払いの時がきて、それぞれ一デナリづつが与えられた。このような事が当時実際にあったのかどうかはわからない。このたとえは何を教えるのか。ある人は、人が信仰をもつのに人生の中で九時ともいえる若い頃、壮年の十二時、あるいは人生の終わりの五時頃という意味に解する。また別の者は各人が同じ一デナリをもらったように、同じ救いを与えられることだと解する。

 それぞれの解釈に良い点がある。しかし15節の「気前良くしている」という結論部分が大切なように思われる。だからある人はこのたとえを「気前の良いぶどう園の主人」と呼ぶ。その意味は、神が救いをお与えになるのは良いわざの多少にはよらないことである。救いは全ての人に、ただキリストを信じるだけで与えられる。全ての賜物は神の恵みによって与えられる事を教えているのである。

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