聖書日課

 

1998年 12月

 

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1998年 12月1日(火)

マタイ20章17〜34節(27、28)

《「あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

 

 弟子とその母とが、み国においてよい場所を与えられるよう約束のお言葉を下さいと頼んだ。これに対して主は「父によって備えられた人々に」それは与えられると答えた。

 父によって備えられた人とはどんなことか。それは主と同じような杯を飲む人だとも言われている。弟子にはその意味が分からず、「飲みます」と答えた。

 一般的には杯を飲むとは、25節以下を読むと、偉い者は仕える者だと主は教えておられる。そして主イエス御自身も人々の贖いのために命さえも与えると言われた。

 父が備えておられるよいものとは、仕える者のことではないだろうか。かしらになるか否かは主が決めることで、かしらになるために僕となるとすれば真の僕ではあるまい。僕になるとは言いやすいが、日々の生活で実行するのは難しい。自我に死ななければ不可能なことである。

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1998年 12月2日(水)

マタイ21章1〜27節(13)

そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。

 

 受難週が始まる。イエスはエルサレムに入場して神殿に行かれた。神殿は礼拝の場所であるが、あえて「祈りの家」と呼ばれた。儀式的に羊がささげられるよりも、そこに祈りがあれば強盗の巣にはならなかったのに、多くの指導者の信仰には命がなかった。

 暴利をむさぼっている人々を追い出したイエスのわざを見て、祭司長らは不審に思い(15)、やがて、どのような権威筋から許可をえて宮きよめのようなわざをするのかとせまってきた(23)。

 このように形式ばかり備えて信仰の実質を失っているありさまを、実のない宗教だとイエスは考えなさったと思う。いちぢくの木を枯れさせるというような象徴的行為によって警告を与えたのである。

 ユダヤ人はこの教えを受けず、残念なことに神殿は滅びてしまった。信仰に命を与えるのは祈りである。祈りがないと信仰は形のみ残り腐敗する。教会においてだけではなく、日々の生活で祈りの家を築きたい。

 

 

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1998年 12月3日(木)

マタイ21章28〜46節(36)

また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。

 

 ぶどう園のたとえが二つある。33節以下のを最初に取り上げる。主人は神で、農夫は祭司や律法学者など、国の指導者たちである。この人々の所へ主は僕たち、つまり預言者たちをつかわしたが、長い歴史の中で正しい預言者らは迫害され殺された。やがて、み子イエスがつかわされたが、指導者たちは彼をも殺そうとしているといわれた。

 祭司長らはこのたとえの意味が分かり、自分たちのことだと思って怒った。

さて、28節以下もぶどう園のたとえであるが、その中で強調しているのは、始めは、働くのはいやだと言っていた弟が後で出かけたことである。このたとえの中で、二度、「心を変えて」とあるのは興味深い(30、32)。どんなに悪い歴史の過去があっても、ユダヤ人が心を変えるなら救われただろう。それは個人とて同じである。この態度は悔改めである。神のぶどう園で生活したいものである。そのために心を変えて父の言葉に従いたいものである。

 

 

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1998年 12月4日(金)

マタイ22章1〜14 節(12)

彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。

 

 王が婚宴を催し、招いておいた者を時がきて呼びにやったところ、その招きを断ったとある。王は拒否されたのを知って怒った。

 断ったのはユダヤ人のことである。神はずっと以前から彼らを招き、彼らもそれに応じていた筈である。ところがいよいよ神の子の降誕という時が来たのに、その招きを受けなかった。それゆえ、彼らは裁かれる。

 次に王の招きは、ふさわしくない者、即ち異邦人に向けられた。ところが、その人々の中にも礼服をつけないで来た者がいたので、外に放り出された。このたとえで教えられる点は、神の国に入ることができないとすれば、それは本人の責任だということである。ある者は知らぬ顔をし、ある者は畑に行った。また礼服は主催者が客に用意するものだから、それを着るべきなのに、そうしなかった者がいた。主が十字架による義の衣を与えて下さったのに、それを捨てる者は、最後の時に放り出される。いつでも招きに応じ、用意して下さった衣を着ていたいものである。

 

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1998年 12月5日(土)

マタイ22章15〜46節(37)

イエスは言われた、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。

 

 多くの者がイエスのもとに来て論争を仕掛けた。税金の問題は、ユダヤ人には嫌な問題であった。異邦人のロ−マに税を払うのは快くなかった。またサドカイ人は復活はないと信じており、そのことを質問してきた。パリサイ人は何が一番大切な律法かと聞いてきた。 これらの質問についてイエスはすばらしい答えをされた。知恵のある方であるから、見事な答えをなさったのは当然のことであるが、それをよく見ると、鍵があるのに気づく。それは「神」である。カイザルのはカイザルに、神の物は神にと言い(21)、神の力を知らない思い違いを指摘し(29)、神を愛することが第一だと言われた(37)。

 今も様々の質問、問題が私たちの周りにやってくる。教育、病気、人間関係、家庭等である。私たちは問題におぼれてしまって解決の糸口を失う。神を生活の土台におけ、神の力を信じよ、その時、糸口は見つかってくる。

 

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1998年 12月6日(日)

マタイ23章1〜15節(9、10)

また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。

 

 パリサイ人への非難の言葉が多く記されている。彼らの言うことは行ったらよいが、パリサイ人の行うことは真似をするなと言う(3)。そしてパリサイ人らが律法を教える人なので、その人たちのことを念頭に置きながら、「あなた方は先生と呼ばれてはならない」と主は言われた。それはどんな意味か。もし人が先生と呼ばれてはならないと言うのを文字通りに守るなら、世の中に教師はいなくなる。「さばくな」と主が教えられたのを文字通りにするなら裁判官もいなくなる。主がこんなことを教えたとは思われない。

 たとい人が教える立場におかれても、彼の上になお立って教えておられる方がいると考えているなら、「あなたがたの教師はただ一人、キリストである」と言う姿勢を保っていると言えるだろう。問題は自分の答えが最高権威だという考えであろう。それは、神を除外してしまうからである。神に教えられやすい魂を持つ人がへりくだった人といえるだろう。

 

 

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1998年 12月7日(月)

マタイ23章16〜28節(26)

盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。

 

 ユダヤ人は約束したことに誓いをした。それはよいことだが、それを何度もしたようである。イエスは、約束ごとには真実であれと教えられたのである。23節以下では十分の一の献げ物をするといって細かい規定まで決めたが、その精神を忘れていた。また杯や皿の外より内側が清潔でなければならぬと教えられた。

 イエスがここで強調しておられるのは、信仰でも、実際生活でも内面性が大切だといわれたのである。約束したことを真実に守ること、心の中を神によってきれいにしていただくよう願うことなどである。信仰や生活に命がなくなると、格好だけが気になる。そうすると、人の言葉や評判を気にする。外に表われることがたとい不十分でも心の動機がよければ、即ち愛に満ちたものであれば神は喜んで下さる。そこに命がある。その生活には偽善はないと信じる。内側をきれいにしよう。それを与えて下さるのはイエスの清めである。

 

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1998年 12月8日(火)

マタイ23章29〜39節(37)

ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。

 

 キリストは、学者、パリサイ人の罪を責めてはいるが、実はこれまでのイスラエルの歴史に批判をしておられるのである。35節以下をみると、アベルからザカリヤまでという旧約の時代の預言者や義人が罪のない血を流させられたと述べている。確かに、歓迎された預言者もいたのであろうが、多くの者は迫害された。人々が神のメッセージを受け入れなかったからである。民は神殿に偶像を置き、信仰も道徳も堕落していた。キリストは、このような民の罪は今ここにきてその報いを刈り入れようとしていると言われる。これでも神が選ばれた民なのである。だから主は嘆いて「ああエルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた者を石で打ち殺す者よ」と呼びかけられた。それにもかかわらず、めんどりが雛を集めるように集めようとしていると、主は言われるのである。イエスはいつでも、このように呼びかけ、翼の下に入れようとしておられる。これに応じていきたい。

 

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1998年 12月9日(水)

マタイ24章1〜31(31)

《また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。》

  

 3節に弟子の質問がある。それは二つからなっている。

@エルサレムの滅亡に関し「いつそんなことが起こるのか、」(2)

A世の終わりに関する質問である。

 イエスはこれに答えられた。4〜14節は主として世の終わりについて語られている。戦争のこと、自然界の混乱、不法の蔓延、世界に及ぶ宣教等がしるしだとある。15〜28節はエルサレム滅亡につてである。ローマが攻めてくるときが来ると警告された。29〜31は世の終わりに関することである。そしてその時「人の子が天の雲(栄光)に乗って来るのを人々は見る」と語られた。これをキリストの再臨という。再臨とは何のためか。世の罪に対しては裁きである。「地のすべての民は嘆く」とあるのは、裁きの故である。しかし神の子に対しては、栄化の時である。復活の主のように変えられる。だから救いの日である。「四方から選民(神の子)を呼び集める」はこの事である。主の前に立てる者として生活したい。

 

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1998年 12月10日(木)

マタイ24章32〜51(51)

《そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。》

 

 甦って父の元に返られたイエスが再び来られる。これが再臨である。しかしその時には、十字架にかかる僕としてでなく、栄光の主としてである。

@天地が滅びることがあっても、主の言葉はすたれない(35)。イエスの約束は決して廃棄されないことを、明言している事を忘れてはなるまい。

Aノアの時のように飲み食いしていた。飲み食いは必要なことなので悪いことではない。しかしそのことだけにのめり込んでいると、足を取られてしまう。しばしば天を見上げることを忘れてはならない。

B再臨の日には、一人はとられ(主の方に引き上げられ)、一人は残される。これは救いと滅びの厳粛な区別である。

Cだから目を覚ましていなさい(42)。これは脅していることではない。日常生活をしている中で、主の前に立つときのあることを思って、救いの完成の光栄を思っていることである。旧約の約束が成就したように、主の言葉は滅びることがないことを、心に留めていたい。

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1998年 12月11日(金)

マタイ25章1〜13(7)

《そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。》

 

 ユダヤ人の結婚式は花婿が花嫁の家まで迎えに行き、共に花婿の家に帰って結婚式をした。ここは花婿の来訪を待つために、花嫁の友十人が出迎えに出たときの光景である。このたとえによってイエスは再臨を待つものの準備について教えている。思慮深いものであれと主は言われる。その人は灯りと共に予備の油を持っている。手に持つランプにも油はあるが、少量しか入らないのでスペアの瓶を持つのである。これは信仰の継続のことではないだろうか。

 いくら信仰の決心をしても、継続が無ければゴールに入らないマラソンと同じである。そのためには油が必要。油とはしばしば聖霊にたとえられる。とはいえ、聖霊に満たされるのは、御言葉によって心が満たされる事以外にはないと思う。主がいつ再臨されるかは分からない。私たちがなすべき事は、信仰によって恵まれていることでよい。これが主を待つものの心である。

 

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1998年 12月12日(土)

マタイ25章14〜30(21)

《主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。》

 

 タラントのたとえも主の再臨を待つ者の準備についてである。タラントはお金のことであるが、私たちそれぞれに与えられている、信仰とか才能のことと考えて良い。各人個人差があり、一、二、五タラントと区別されている。差のあることをイエスは問題にしていない。ここで取り上げられているのは、自分に与えられているものについて、忠実であったかどうかである。悪い者とは何もしない者のことである。

 私たちは、主のために何かをしただろうか。ある人は自分の信仰が未熟だからまずそこからだという。ある人は才能が無いという。時間も無いという。それはあまりにも自分のみを見て、主の依頼に耳を貸さぬ姿勢では無かろうか。人は初めは失敗する。しかし、失敗しながら成長するのである。恐れてはならない。初め一タラントと思った者が、二タラント預かったと分かってくる。主は彼にさらにタラントを増してくれる(21)。主を愛するが故に忠実な者になりたい。

 

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1998年 12月13日(日)

マタイ25章31〜46(40)

《すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。》

 

 この箇所は、御国に入ってどの様に報いられるかを教えるものである。それはキリスト者の行いについて述べており、それによって報いがあるという。ところが良く読むと、大きい奉仕をさせよとか、大きい犠牲を払えとか言われていない。空腹の者に食物を与え、一杯の水を飲ませ、たった一枚の着物を着せてあげることだという。これは誰でも出来ることであり、いつでも出来ることである。つまり、主は私たちに無理なことは望まれない。日常的な奉仕を期待しておられるのである。

 大切なことはこれらのことはたとい小さくても、愛の心がなければ出来ず、その心を主は求めておられる。また「これらのもっとも小さい者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」言われたこと留意したい。小さい奉仕はイエスにしているのだということである。主のないよって愛の御業に励みたいと思う。

 

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1998年 12月14日(月)

マタイ26章1〜16(13)

《よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。》

 

 イエスが十字架にかかり、贖いの死を遂げられる前に、香油を注ぐという美しい奉仕の業があった。しかし、これについて弟子達の非難があった。貧しい人々に慈善をせよというもっともらしい話ではあるが、裏にはユダの策略があった。批判は純粋に愛の動機が無ければ腐ったものとなる。その点で女はキリストに対する愛の奉仕という良い動機を持っていた。私たちの奉仕に、思惑や、打算があってはなるまい。奉仕は主に対してしているということを、心に留めたいものである。彼女の業は高価な、犠牲を伴うものであった。効果か安物かはその人によって違う。ある人にとっては、犠牲の行為でも、別の人には安価なものかもしれない。大切なのは、どれほど心を込めているかという点にあろう。ここは女の言葉は一言も記されていない。無言の奉仕であった。他人が記念してくれる業を残したい。

 

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1998年 12月15日(火)

マタイ26章17〜30(28)

《これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。》

 

 20〜25節には、ユダとイエスの、裏切りについてのやりとりがある。ここを読むとイエスははっきり、裏切り者はユダだと指摘しているように見えるがそうではない。同じ鉢に手を入れるものがそれだというが、同席者は皆そうしたはずである。また、「いや、あなただ」も直訳では「私自身が言った」である。イエスが間接的に名指したのは、自分で反省するためのものであろう。この後ユダは、出ていった(ヨハネ十三章10)。そこでイエスは聖餐式の意味を語られた。

@イエスの十字架は新しい契約。旧契約はおこなえば生きるであったが、新契約はイエスの業を受け入れれば生きる、という恵みのみ。

Aイエスご自身の命(血と肉)が私たちに与えられたと言うこと。

B十字架によりすべてが完成した。

29節の今後ぶどう酒は飲まないとは、救出の記念なる過ぎ越し祭りは、この年で終わった事を意味する。イエスがして下さった救いに感謝したい。

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1998年 12月16日(水)

マタイ26章31〜46(39)

《そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。》

 

 ゲッセマネの祈りである。ルカによれば彼の祈りは、いつものようなそれであった。すなわち「父よ、御心をなして下さい。」である。父の御心をおこなうことはイエスの、普段の祈りであった。しかしここに来て杯が取り去られるようにとの、祈りを三度しておられる。人類の罪を背負って、父に捨てられると言う苦しみは、捨てられたことのない御子にとっては、想像できないほどの苦しみであった。この苦しみを受けて下さったから、私たちは救われる。ローマ五章には、御子が父に従順であったから、救いが与えられたとある。従順とは喜んで父に従うことである。イエスがそうして下さったとは、何と恵みであろうか。

 この様な祈りをしておられるとき弟子達は居眠りをしていた。決してつまずかないといっても、祈りをしていないと大切なとき信仰は失われる。紙の憐れみに感謝すると共に、祈ることを怠らないようにしたい。

 

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1998年 12月17日(木)

マタイ26章47〜56節(56)

《「しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。

 

 イエスの逮捕の場面である。彼が捕えられるためにいろいろな人々が策略をめぐらしている。まず、ユダの裏切りがある。彼がそうしたのは、お金をごまかしたこともあろうが、イエスが本当にメシヤかどうかを試す心もあったようである。また、祭司長や長老というユダヤ人の指導者も逮捕にかかわっていた。イエスの死について、ローマ側は最初、関係はなかった。また、イエスを敵の手に渡すまいと抵抗し、剣を抜く者さえいた。

 イエスはこれらすべてのことをご存知であった。ユダに、「何のために来たのか」と問う必要もなかった。彼が捕えられ、十字架につけられ、あがないが完成されるのは、聖書が成就するためである。人が罪から救われるにはこれ以外に道はなく、イエスはそのことを先刻ご承知であった。聖書が成就するというのは、父のみこころがなされることである(54〜56)。主がその道を行ったので私たちは救われる。

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1998年 12月18日(金)

マタイ26章57〜68節(64)

イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。

 

 イエスの審判は宗教裁判をもって始まった。裁判長はカヤパである。しかし、それは始めから不法であった。審議をするためではなく、死刑にするための裁判である(59)。そのために、ユダヤの法によって二人以上の一致した証言が求められた。しかし、決定的な証言はなかった。最後に「神の子、キリストであるか」との質問に、イエスご自身が「しかり」と明言し、しかもそれに加えて、死の後にさえ彼が神の右に座しなさるといわれた。この言がイエスを死刑に定めた。終始沈黙しておられたのに、最も大切な問いに対して、彼が神であって、キリスト(メシヤ)であると自らの口で答えられた。 必要な時に、最も大切な表現をすること、これがキリストに従う者の態度ではあるまいか。主が「神の子である」といわれるのに対して、私たちはペテロとともに、「あなたは神の子キリスト」と言いたい(一六章16)。

 

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1998年 12月19日(土)

マタイ26章69〜75節(75)

ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。

 

 ペテロはイエスから遠く離れてついていった(58)。中庭で、成り行きを見ていたのであろう。するとそこで女中が、ペテロがイエスの弟子であると言った。それは特に彼女がペテロを役人に訴え出て捕えさせようというようなものではなかった。長老たちは弟子を捕まえようなどとは考えていなかった。ヨハネ伝には、ヨハネがかなり自由に大祭司の庭に入っているのを見る。しかし、ペテロは恐れたのでイエスを知らないと答えた。最初は質問の意味がわからないといってとぼけ、次には「その人は知らない」と否定し、74節では、激しく誓って知らぬと言った。この誓いとは、神にかけても知らぬという意味である。拒否の度合いが徐々に強くなっているのを見る。最初の言葉が大切だったのであろう。言い表すべきときに、言っておけばよいことがある。ペテロは失敗を悔いて泣いた。

 

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1998年 12月20日(日)

マタイ27章1〜10節(4)

「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。

 

 ユダの死の事が書かれている。彼はイエスが死刑にされるとまで思っていなかったのだろう。しかし、事の成り行きを見て、大それた罪を犯してしまったと後悔した。

 ここに、はからずも身近にいた者の、イエスに対して語る告白を見る。ユダはイエスには罪がないと言い切っている。しかし、どのような思いからしたのか、ユダがした罪の行為の恐ろしさを見るのである。十戒にある、殺すな、盗むな、姦淫するな、偽証するな、などをとってみても、それらのことをかりそめにでもするなら、それがばれた時、到底償いきれるものではないことを、肝に銘じて覚えておかねばならない。たとえこれらの犯した罪を、その人が相手の人に謝っても、心の傷は癒えない。神のもとに行くしか立ち直る道はない。ユダはそうしなかった。第二コリント七章10節は、真の悔い改めにより、救われる道を教える。

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1998年 12月21日(月)

マタイ27章11〜26節(11)

さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。

 

 ピラトにはイエスが罪のない者であることは分かっていた。彼の妻も主のことで「義人に関係しないでください」と願っている。だからバラバという悪評高い囚人と引き換えにイエスをゆるそうとした。

 もしピラトが真実が分かっているのなら、権威を持つ者なのだから無罪であることを宣言すればよい。しかし、彼は群衆の評判を損なうことを恐れた。政治家はいつも世論調査を気にする。支持率が高いと喜び、傲慢になる。ピラトも同様で、群衆に決めさせようとした。ついに群衆の声につぶされ、ピラトは彼らを「満足させるため」(マルコ十五章15節)にイエスをむち打って十字架に渡した。

 「真理に逆らっては何をする力もなく、真理に従えば力がある」(第二コリント十三章8節)。私たちの信仰も同じである。真理に従っておれば人の目を恐れることはない。余計なことにはイエスは黙っておられたが、真理は明言された。このイエスのついていきたい。

 

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1998年 12月22日(火)

マタイ27章27〜66節(51)

すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け・・・

 

 イエスの死のありようが描かれている。しかし、ただむごい死であったというだけのことではない。マタイはその死の意味を考えたはずであり、そのために必要な記録を残しているのである。

 第一には、罪人の罪を受けて苦しまれたこと。打たれて罵られたイエスを描いている。

 第二は、罪人(強盗)とともに十字架につけられたこと。イザヤ五三章12節の「罪にある者とともに数えられた」を思い起こす。

 第三に、彼は人類の罪を背負って神に捨てられたことである。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は、イエスのそのままの言を残しているといってよい。人間の弱さを彼がさらけ出したのではない。罪贖として神の宮の外に捨てられたのである。

 第四に、神と人との交わりが十字架によって回復されたこと。十字架の意味の深さを測り知ることはできないが、ここに記されている記事は神の業である。十字架に感謝したいものである。

 

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1998年 12月23日(水)

マタイ28章1〜10節(7)

《「そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。

 

 イエスは弟子たちの期待を裏切ってよみがえられた。それがなぜ起こったのか、どのようにして起こったのかなどは、到底人間の理解では分かるものではない。人は自分の心の奥底のこともわからず、宇宙の果てのことさえわからない。それなのに神の業を知り得ようか。

 しかし、主の復活により分かることがある。それは、十字架のあがないの業が真のものであり、また死の問題が解決したということである。

 さて、イエスはガリラヤへ行くといわれた。なぜガリラヤなのか。多分、そこで伝道が始まり、そこは大祭司やローマ官憲の手が比較的及んでいない地方だったからであろう。そこで弟子としばらくの間交わり、信仰の回復、そして今後の働きについての委託のことなどが語られたはずである。また、イエスの十字架が旧約に語られていたことなどの説明があったであろう。ガリラヤで復活の主とともにいたことが弟子を変えてしまった。

 

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1998年 12月24日(木)

マタイ28章11〜20節(20)

《「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのでる」。

 

 イエスの復活はうそだという話を広めるために、祭司たちの陰謀があった。しかし事実は偽りを打ち破る。

 さて、弟子たちはエルサレムですでにイエスに会っていた。そうでなかったらガリラヤまで行く勇気はなかったであろう。復活の主に会って、その事実をすでに信じている者はもちろん、まだお会いしていないために信じていない者もガリラヤに行った。

 しかし、イエスは弟子たちに信仰を回復させ、使徒行伝にあるように、神の国の教えを語られたのである。祭司やローマ兵に信じてもらえなくても、弟子たちには復活のイエスを信じてもらわねばならない。そして皆イエスが救い主であるとわかったのである。

 復活以外にイエスが救い主だと信じられる根拠は何もない。それに根ざして、弟子たちは福音を伝え始めた。救いを完成してくださった主とともに一生懸命福音の証しをしたいものである。

 

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1998年 12月25日(金)

マルコ1章1〜15節(4、5)

バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。 そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。

 

 バプテスマのヨハネはイエスの先駆者であった。メシヤなる主がおいでになるので「主の道を備えよ」と荒野で説教した。やがて主イエスがヨハネのもとに来て、彼を通して人々に紹介された。彼もまた荒野の試練の後、教え始められた。ヨハネも、イエスも、「時は満ちた神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と語った。(15、マタイ三章2節)。ヨハネが語った時、「ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが彼のもとに続々出て行った」(5)。この句の示す地域と人数とは驚くほどのものである。

 彼の語るメッセージは悔い改めである。決して聞いていて心持ちのよいものではない。罪を語られて楽しくない。それなのに何故多くの民衆がぞくぞくと彼のもとに来ただろうか。それは神の国が近づいたと語ったからである。これはユダヤ人の待望するものであった。神の国に入りたいために悔い改めたのである。悔い改めの徹底こそ、堅い信仰の基礎である。

 

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1998年 12月26日(土)

マルコ1章16〜31節(17、18)

イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。

 

 ガリラヤにおいて声を掛け召されたのはシモン(ペテロ)とアンデレであった。ヨハネ福音書一章によれば、彼らはバプテスマのヨハネによってすでにイエスに紹介されていた。だからここは全くの初対面ではないようである。しかし「わたしについて来なさい」と言われた時「すぐ網を捨ててイエスに従った」のは、思い切りの良い服従である。「すぐ…」は本書の特徴であるが、弟子たちの「すぐ…」は彼らの決断を表している。神様を信じることは良いことと思いながら、ぐずる人がいる。思い煩ってどうにもならないのに思案ばかりしている。手に持つ網を捨て、キリストに従えば、主はもっと祝福の道へと導いて下さる。

 24節に「わたしを滅ぼしに来られたのですか」と問うているが、イエスが滅びや災いをもたらしに来たとは、いったいどういう考えだろう。主はそのような考え方をしかられた(25)。滅びをもたらす神、などというのは否定的な考えである。イエスは命を与え生かす方である。今、彼に従え。

 

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1998年 12月27日(日)

マルコ1章32〜45節(35、41)

35 :朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

41: イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。

 

 忙しい日々がイエスを待っていた。その中で彼の力の原動力は父なる神との交わりである。「イエスは起きて寂しい所へ出て行きそこで祈っておられた」(35)。父と交わるとは、父を思い、彼に語り、命に満たされることである。私達はみ言葉を通して、神と交わる訓練をしなければならない。祈るといえば、頼みごとしかないというのは、信仰の初歩であろう。

かくて後、「ガリラヤ全土を巡り歩いて」の活動が始まった(39)。多くの働きの中で、際立ったみ業の一つが、らい病人のきよめであった。らい病は人の近づけない病気である。また人の力では直し得ない病気|罪の型である。罪をむき出しにする時、人は近寄らなくなる。しかし主イエスは近づいて手を伸べて下さった。かくて「きよくなれ」と言って癒して下さる。イエスが十字架の血をもって、「きよくなれ」と言われるからこそ、罪の心はきよめられるのである。

 

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1998年 12月28日(月)

マルコ2章1〜17節(5)

イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。

 

 カペナウムはガリラヤ伝道のイエスの拠点であった。中風のいやしには彼の四人の友人の働きが大きな力になっている。彼らには主のもとに連れていくならば道が開けるという信仰があった。「イエスは彼らの信仰を見て」おられた。信仰は結局本人のものではあるが、そこに至るために側の人々の助けが必要な場合がある。友人に誘われて教会に来る人が非常に多いのは今も昔も同じである。主はこの者に罪の許しを与えられた。これはイエスの権威の証拠である。裁き主なる主が赦されるなら、誰が彼を罪に定めることがあろうか。

 13節以下にはレビ(マタイ)の召命がある。取税人はユダヤ人には嫌われさげすまれていた。主イエスはこの人物をご自分の弟子とされた。キリストは特定のレビのみを召したのではなく、「こんな人が大勢イエスに従った」のである。主は中風の者とか、取税人のような人々を招いて下さる。

 

 

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1998年 12月29日(火)

マルコ2章18〜28節(22)

それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。

 

 断食は悲しみの現われである。ユダヤ人はしばしば断食した。そうすることで罪を悲しみ、懺悔することを表したのである。しかしそれも形式化すると意味は薄れる。罪を悲しむことは大切な要素であろう。しかしいつまでもそこにいるのは真のキリスト教ではない。主イエスは弟子たちとの生活を婚礼に喩えられた。つまり喜びである。 キリストとの生活は喜びである。私達はもっと御霊の実である喜びを自分のものと出来ないものかと思っている。ぶどう酒は喜びの象徴である(詩篇一〇四篇15)。新しいぶどう酒がくると古い皮袋ではなく、新しい皮袋に入れる。主によって福音が心の中に与えられるなら、皮袋とでも言える生活のあり方が変わるのではないか。キリストを信じたなら、生活様式まで変わるのではないか。学生には学生の生活があり、主婦には主婦の生活があるとすれば、キリスト者にはその生活がある。

 

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1998年 12月30日(水)

マルコ3章1〜12節(4)

人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われた。彼らは黙っていた。

 

 安息日を守ることはユダヤ人には命がけであった。しかしそれも形式的になっていた。ここの問題は安息日に片手のなえた人を癒すのがよいか悪いかであった。イエスは人を救うのだから良いとし、パリサイ人は安息日に手を伸ばさせる運動は律法を犯すとした。 その当時でも羊が井戸に落ち込んだ場合、命を救うのだから律法を破らないとパリサイ人も考えていた。イエスにとっては、もし羊のためにそうするなら、人にとって悪いのかが問題であった。

 安息日は今はキリストの復活を記念する日曜日に変わっている。この安息日を守ることはよい。しかしそれを律法的、形式的に守っていることにイエスは怒られたのである。礼拝において人が生かされ、新しい命が与えられて一週を始めるべきなのに、そうでなくなったらイエスは悲しまれるのではなかろうか。しかもそのような気持ちを変えようとしない「かたくなさ」に嘆かれた。安息日の守り方を更に意味あるものに変えたい。

 

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1998年 12月31日(木)

マルコ3章13〜35節(35)

《「神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。

 

 イエスは一二弟子を選ばれた。何のためにそうされたのか。第一の目的は「自分の側に置くため」であり、第二は「宣教のためにつかわす」ことである。

 クリスチャンは証しをすべきである。その機会が与えられたら、自分にとって信仰とはどんな意味があるのか、語るべきである。しかし、もっと根本的なことは、主と共におることである。みそばにいて、弟子たちは何を学んだのか。それは聖書の読み方であった。一般の人でさえイエスのような聖書の捉え方に驚いたのであるが、弟子たちはそれを学んだ。また祈ることを学んだ。そのようにすることによって神と交わり、主を深く知るようになったのである。

 イエスを知らない者は、彼を悪霊の頭だなどと言った(22)。しかし主を知り、彼と交わる者は「神の御心を行う者」となる(35)。私達はもっときちんと、聖書を読み、祈りをする生活を確立しなければ、主の良い弟子にはなれない。彼の兄弟・姉妹としてふさわしくなろう。

 

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