聖書日課
1999年 1月
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1 マルコ4章 1〜20 |
2 マルコ4章 21〜34 |
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3 マルコ4章 35〜41 |
4 マルコ5章 1〜20 |
5 マルコ5章 21〜34 |
6 マルコ5章 35〜43 |
7 マルコ6章 1〜13 |
8 マルコ6章 14〜29 |
9 マルコ6章 30〜56 |
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10 マルコ7章 1〜23 |
11 マルコ7章 24〜37 |
12 マルコ8章 1〜13 |
13 マルコ8章 14〜26 |
14 マルコ8章 27〜38 |
15 マルコ9章 1〜13 |
16 マルコ9章 14〜32 |
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17 マルコ9章 33〜50 |
18 マルコ10章 1〜16 |
19 マルコ10章 17〜31 |
20 マルコ10章 32〜45 |
21 マルコ10章 46〜52 |
22 マルコ11章 1〜11 |
23 マルコ11章 12〜26 |
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24 マルコ11章 27〜33 |
25 マルコ12章 1〜12 |
26 マルコ12章 13〜17 |
27 マルコ12章 18〜27 |
28 マルコ12章 28〜40 |
29 マルコ12章 41〜44 |
30 マルコ13章 1〜27 |
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31 マルコ13章 28〜37 |
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マルコ四章1〜20節(20)
《「また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」。》
道ばた、石地、いばらの中に種が播かれたものは実が結ばなかった。
石地やいばらのような心を持つ者も「み言葉を聞いて」いるのであるが、「み言葉を受け入れて」いないので信仰が成長しないと主は教えておられる。道、石地、いばらの三者は、主の言葉を聞いてはいるのである。ここに三度も、「み言葉を聞く」とある(15、16、18)。
それにもかかわらず、実を結ばないのはなぜか。それは、聞いても受け入れないからである。良い地の人は「受け入れて」いる(20)。聞くだけの人こそ、道ばた、石地、いばらの人と言えないだろうか。受け入れる人が良い地なのである。
み言葉を受け入れるとは、神が聖書の言葉によって私に何と語りかけておられるのかと耳を傾ける態度である。その時キリストの愛と恵みが私達を包む。また自己中心の考えを捨てて、神の言葉に従おうとする心である。「神がそうは言っても・・」という人は成長しない。しかし受け入れる人は、品性、生活、伝道で実を結ぶ。
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マルコ四章21〜34節(32)
《まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。》
昨日のたとえでは、み言葉を聞いて受け入れる人は百倍の実を結ぶというのであった。
21節以下においては更にそれを発展させ、み言葉に従う者には成長が見られると教えている。「持っている者は、更に与えられ」(25)、種を播くなら寝起きしている間に日毎に成長し(27)、また、からし種ほどの小さい信仰でも大きい木のようになる(32)。
第一コリント三章6、7節には「育てて下さるのは神である」とあるが、私達はキリストにつながっていさえすれば、必ず成長する。しばしば自分の信仰を成長させたいと一生懸命になったり、何か努力が足りないとあせったりするが、それは間違っている。育てなさるのは神であることに心を留めていたい。むしろ、私達は神に依存しなければ生きられない者であるとの自覚をもって、いつも主イエスの所にかくれ込む時、信仰は成長する。
神に祈ることが習慣になり、礼拝することが生活の一部になることによって、成長するのである。
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マルコ四章35〜41節(35)
《さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。》
ガリラヤ湖が突風に見舞われることはしばしばであった。それは漁師のペテロたちがよく知っているた。
夕方になって舟を出し向こう岸に渡りはじめたのだから嵐の来た時は夜になっていただろう。平穏な日であれば静かな気持ちで目的地に着いたであろうが、激しい突風が弟子たちを死の恐怖におとし込んだ。
突然の悩みが私達を襲うことがある。そして私達は恐れに閉じこめられてしまう。人生の敵は死であり、死は人に恐れを起こさせる。ところが主は眠っておられるのである。困り果ててしまった時、弟子たちはキリストを求めた。そして主は問題を解決された。
私達は最初の主の言葉を思い返したい。それは「向こう岸へ渡ろう」であった。主は向こう岸へ行くつもりで舟を出させたのだから行ける筈である。それなのに途中の困難に遭うと恐れてしまった。私達が主を信じて人生を歩み出したのなら、目的地まで連れていって下さる。主に信頼したい。
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マルコ五章1〜20節(19)
《しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。》
レギオンとあだ名で呼ばれていたこの男はいわば精神的な悩みにおかれた者である。表面的には健康的に見えても、人が罪に縛られているなら、その人は彼と少しも変わらないよおうに思われるのである。
彼は「自らの体を傷つけていた」。それは自己破壊の姿である。自分に失望し、自信を失った人は徐々に自己破壊をしている。それが極度につのると自殺に至る。キリストはこのような人を救われる。
またレギオンは墓場に住まねばならぬ程、また鎖でつなぎ止めねばならぬ程、狂暴で普通の人の家には住めなかった人である。彼は家族や隣人と一緒に生活できないタイプの人である。そのような人は私達の社会に多くいる。いつも不平に満ちている人、愚痴る人、怒りっぽい人は一緒に生活しにくい。 この人が救われたのはイエスが罪やサタンの力から彼を解放したからである。彼は主のそばに座って普通の健康的な人間となった。主の憐れみが彼を生かし健康にした。
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マルコ五章21〜34節(28)
《それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。》
ヤイロの娘のいやしと長血を病む女の話があるが、後者について学びたい。長血を患うというのは婦人の病である。しかしこの病気はその当時の人々には汚れたものと思われていたので、身体的な苦痛だけでなく、社会的にも交わりを拒否されたので孤独の淋しさがあったと思う。おまけに医者の費用のためにお金を費やし、経済的にも困り果てていた。病気をすると二重、三重の苦しみがある。
しかし、この女はイエスに近づいて行った。「み衣にでもさわれれば、なおしていただけると思っていた」のである。この信仰のゆえに婦人は神の栄光を拝した。多くの群衆はイエスにさわったが少しも奇蹟を経験しなかったが、この女は恵みを受けたのである。これはこの人の信仰によう。
主は皆の前で彼女の救いといやしを発表させた。そうさせたのは彼女の社会復帰が容易になるためであった。主の恵みを受けられるとの態度と信仰をもって主に近づきたい。
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マルコ五章35〜43節(36)
《イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。》
イエスが海辺で教えておられる時、ヤイロが自分の娘の病気のことで主の所に来たのである。ところが、彼の家へ行く途中、長血を患った女のために道がふさがれた。その間にヤイロの娘は死んでしまったのである。
イエスがその家に着くと人々は嘆き悲しみ、大騒ぎであった。愛する者が死にることは人々を悲嘆の中に落とし込む。ところがイエスは数人の者と家の中に入り少女の手を取り起き上がらせなさった。
主のわざはあたかも命の付与者そのもののようなわざである。父なる神に懇願して祈るようなわざは見られない。まさに彼は命を与えなさる方である。しかし彼は肉体の命を与えるためではなく、永遠の命を与えるために来られた。ところが周りには肉の命を与えられることを望む者が多くいたので、このわざを他言するのを禁じなさった。
主の十字架の目的は永遠の命であり、肉体のいやしはその予表である。だから主に召されることがあっても、栄化されるのであるから「恐れることはない」。
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マルコ六章1〜13(5,6)
《そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。
そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。それからイエスは、附近の村々を巡りあるいて教えられた。》
イエスは郷里のナザレで教えをし、少しではあるが力あるわざをなさった。人々は奇蹟を見、またよその町でなされたことも知らされて驚いていたので
ある。それなのにナザレの人々はイエスを信じなかった。それは彼の兄弟や姉妹、両親をよく知っていたからである。ユダヤ人はメシヤはエルサレムの神殿に突如現れると信じていた。所が
ナザレの者達はその両親を知り、彼の系図を知っているので、メシヤではないと思ったのである。それにしても、イエスの教えやみわざによって、彼がいかなる人であるかを知り得ないこと
は残念である。信仰がなかったために、主はみわざをほとんどなさらなかった。
さて、十二弟子は派遣されたが、杖一本しか持たずに伝道に出かけた。彼らは神を信じてでかけたので、不足なものはなく、必要なものを皆与えられ、よい働きをした。なくてならなぬものは信仰である。
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マルコ六章14〜29(20)
《それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。》
バプテスマのヨハネの回顧がここに記されている。ヨハネはヘロデがヘロデヤと結婚するのに反対した。それは姦淫の罪を犯す事になるからである。
彼の勇気のある言葉はヘロデを怒らせ、ヨハネは投獄されたが、処刑されないままになっていた。それはヘロデがヨハネは民衆に支持されていると知っていたからである(マタイ十四章5)。
ヘロデは自分の行為が間違っている事を知っており、ヨハネの教えが正しいことも分かっていた。だから投獄しながらも「彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教えを聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていた」(20)。矛盾した心を持ちながらの求道である。
しかしヘロデは自分の立場や面子を考えて神の前にへりくだることが出来なかった。そんな状態でズルズル引き延ばしている間に取り返しのつかない所まで来てしまい、ヨハネの首を斬る罪を犯すに至った。ダビデは王であるが、罪を悔い改めたので救われ祝福された。へりくだる者が恵まれる。
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マルコ六章30〜56(41)
《それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。》
神の国の経済は不思議である。五つのパンと三つの魚で五千人以上のものが養われるというのであるから。しかしこの奇蹟を行われる前にイエスは弟子たちをためして「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言われたのである。弟子の考えは、手元には何も無いから食物はあげられない、であった。
愛がないわけではないが、できないことは出来ない、であった。しかしその時、主は五つのパンと魚二匹を少年から受け取り(ヨハネ六9)、それを祝福してみんなに与えなさった。私たちのどんな小さい才能でもそれが主の手の中に渡されると、何百倍になって人々を養う。問題は、いろいろな理由をつけて渡さないから祝福されない。嵐の中を渡って来られる主を見ても助け手としてでなく幽霊のように見るから恐れる。小さい才能を主に献げるとき主はそれを祝し人々の恵みとなるようにお用い下さる。
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マルコ七章1〜23(9)
《あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している。》
ここでは「神のいましめ」あるいは「神の言」に対して「人の言伝え」が対照されている。神の言は聖書の言のことであるが、人の言伝えは神の言の解釈として人間が付加したものである。
例えば清くなるために、彼らは儀式的に念入りに手を洗った。また神にささげ物をすべきだと聖書によって教えられると、神にささげるのだという大義名分を持ち出して、神にささげるのだから親にでさえも何もしてあげられない、お金がたりないからという(12)。
主が問題にしておられるのは、形式的に神に仕えるのは人の言伝えに従っているからであって、真に神に仕えるのは御言に心から従うことによってなし得るのだということである。だから「口先では、わたしを敬うがその心はわたしから遠く離れている」と主は警告された。礼拝をささげる時、心からの礼拝をしたい。献げ物をする時、精一杯のものをしたい。人の言伝えのような礼拝ではなく、霊とまことの礼拝をしたいものである。
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マルコ七章24〜37(28)
《そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった。》
イエスの地上における目的は十字架によるあがないにあった。そして救いは、旧約に約束されている救いの成就であった。だからユダヤ人の間に留まり、彼らに救いの到来を告げる事を彼の使命とした。そうでないと異端者としか受けとめられなかっただろう。だからスロ・フェニキヤの女の問題の場合イエスにとっては番外の仕事であった。それにもかかわらず主が彼女の願いに答えなさったのは、小犬のようだと言われてもへりくだり、娘の問題を自分の問題として受けとめて主に近づいたからである。「小犬も子供のパンくずはいただきます」と求めて恵まれないはずはない。31節以下には耳口の不自由な人がいやされている。神に話す事ができないのは神の言を聞けないからである。エパタと言って耳が開けると、神に向かっていのれるようになる。神の声を聞く耳を開いていただきたい。
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マルコ八章1〜13(2、3)
《「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。
もし、彼らを空腹のまま家に帰らせるなら、途中で弱り切ってしまうであろう。それに、なかには遠くからきている者もある」。》
パンの奇蹟はメシヤの時代の幕開けを示す予表的なわざであった。それは聖書にメシヤの時代がくると「メシヤの晩餐」があると、あるからである。
晩餐は言わば大いなる祝福である。ユダヤ人はその祝福を地上的、物質的に考えたが、イエスは霊的、天的なものとした。さて四千人の給食は民衆に対する主のあわれみによって始まったものである。「この群集がかわいそうだ」(2)とある。イエスの目には人々の心は飢えているとうつったのである。
飢え乾いた心をもって人生の道を歩くなら必ず「途中で弱りきってしまうであろう」。そのような思いからイエスは彼らにパンを与えられた。荒野で飢えたイエスは魂の飢えをよく知っておられた。これほどの事を見ていながら、パリサイ人たちは、しるしを求めた(11)。しるしとは、イエスが救い主かどうかの証拠である。信じようとする者には、証拠は不要である。イエスの御手から心のパンを受け取り、心満ちる者とされたい。
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マルコ八章14〜26(17)
《イエスはそれと知って、彼らに言われた、「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。》
パリサイ人のパン種とは律法を形式的に守る形式主義、一方ヘロデのパン種とは世俗主義のこと。これら二つは人間に起こりがちな両面であろう。前者は非常に宗教的に見えはするが、実はその反対で信仰の形式化である。形式化は礼拝に儀式的要素があってはならないというのではない。食事の時にマナーが必要なように大切な要素である。形式化は内容の欠乏である。礼拝をしているのに居眠りをして真の献身がないとか、祈ってはいても涙が出るほどに祈る事もないとは形式化ではないか。またこの反対に後者は世俗化である。世俗の関心のみが先行する。そこで主は、真のパンは彼自身であり、心のかては彼の供給するものにある事を示唆している。それなのに彼らはそれを悟っていない(21)。22節以下には目を開かれた人のことがあるが、私たちも真のパンなるイエスに目を開かれたい(エペソ一章16節)。パンなるイエスから命をいただきたい。
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マルコ八章27〜38(34)
《それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。》
ペテロの信仰告白は弟子にとっては大転機であった。この直後ペテロは主の十字架はあってはならないと述べたため、サタン呼ばわりをされた。ユダヤ人がメシヤはこの地上の王として黄金時代を築く者として考えていたのだから、十字架などはもっての他と言うのは自然なことであった。ペテロには十字架のメシヤは分からなかった。しかしやがて復活の後にそれが分かってくる。イエスにとっては十字架なしには救いはなかった。それゆえ受難を語られた。そして彼に従う者にも「自分の十字架を負うてわたしに従ってきなさい」と命じなさった。十字架がなければ冠ははい、とよく言われることである。イエスは「わたしのため、福音のために」十字架を負って従えといわれる。キリストを信じる事によって平安と喜びが与えられるのは、すばらしい。しかしそこに留まってキリストのために、主と共に苦しもうとしない者がいるなら、主は嘆かれる。自己中心の考えを捨て、主に奉仕しようではないか。
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マルコ九章1〜13節(8)
《彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。》
ペトロの信仰告白が人間の側のイエスに対する言葉であるとすれば、変貌山での主の姿かわりの出来事は、信仰告白を裏うちするような神の側のあかしである。即ちイエスは神からつかわされた救い主だということである。ペテロはこの出来事を生涯忘れることができず、Uペテロ一章17、18節で「ご威光の目撃者」であるといっている。そして「父なる神からほまれと栄光をおうけになった」ともいう。
変貌山の経験というのは、わたしたちにとって魂が恵まれ高揚される経験とも言えるであろう。そうれはすばらしいことであるが、しばしば現象や讃美や人間などが印象に残って大切な「主ご自身」がみ言葉と共に残らないことがある。大切なのは説教ではなく、それによって表されるキリストご自身である。8節に「もはやだれも見えず、ただイエスだけ・・・」とあるところに意味がある。イエスを見つめるような礼拝を守りたいものである。
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マルコ九章14〜32節(29)
《すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。》
変貌山の直後、四人が下山をするとそこには弟子たちと律法学者とが、おしの子をかこんで論争していた。主イエスは「何を論じているのか」とおたずねになった。山の上ではすばらしい経験をもったが山のふもとでは論争である。恐らく律法学者はなぜこの子がおしであるのか、因果関係はどうか、などと話していたのではないだろうか。
弟子達は、この少年をいやそうといろいろ努力したと思われるが、できなかった(18)。恐らく少年の父親にも、弟子達にも信仰がなかったのだろう。主が「ああ、不信仰な時代」といわれたし、「不信仰なわたしをお助け下さい」という言葉によっても分かる。そして結論的に「このたぐいは、祈りによらなければ・・・」と主は教えられた。
この物語は信仰があればどんな病気もいやされると教えるのではあるまい。困難な問題の解決は祈りによるのであって論議をしても始まらない、ということである。信仰の小さい者であるが、祈りによって信仰を与えられ、問題に対処したい。
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マルコ九章33〜50節(35)
《そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。》
カペナウムはガリラヤでの伝道拠点である。ここへの途中、弟子は「だれが一番偉いか」の論争をしていた。弟子たちは、これまでの期間、主と共にすごし、ペテロのように信仰の告白までしたのである。そして主はここから数ヶ月後には十字架につけられると語っておられるのである(31、32)。しかるに弟子たちは順位争いをしている。
弟子たちはイエスがメシヤと分かってきた。それを主は喜ばれた。とすると、主がエルサレムに行けば地上天国をつくり、王になられるだろう。その時の大臣はだれなのかが、順位争いの論争の原因であった。イエスはそのような王国は望まない。それで幼子を連れ出し、天国における「真に偉大な者」について教えられた。
「幼子」は当時は小さくつまらない者である。つまらないと見えることがらや人にも仕えることを大切なこと、と教えたのである。「水一杯」でも差し上げるようなことを一生懸命する者を真の偉い人と主は言われる。
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マルコ十章1〜16節(15)
《「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。》
パリサイ人は「離婚はよいか悪いか」とたずねた。イエスは「二人は一体だから離れてはならない」と言われた。ところで、もし主がこのように教えるのであれば、離婚者は神のもとに来れないか、というと、主はそうは言われないと思う。ただしその場合は、本当にえりを正して神のみもとに帰って来なければならない。ヨハネ八章の姦淫の女へのゆるしのことを見ても分かる。「再び罪を犯すな」と言われている通りである。
さてこのような話がなされている時、幼子が主のもとに連れられて来た。弟子たちはこれらを追い返そうとしたが、イエスは幼子を引き寄せられた。主は子供を見てホッとされたのではなかろうか。わがままな大人が離婚の問題をもってきて議論して、イエスは楽しい思いを失ってしまっただろう。しかし子供の出現は主の喜びとなった。子供は率直である。手をおいて祝福されるなら、それをそのまま受け入れる(16)。しかし離婚間際の大人は祝福などされたがらない。子供の率直さを持ちたい。
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999年 1月19日(火)
マルコ十章17〜31節(29、30)
《イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。」》
まじめな青年は人にかかわる律法を守っていた。「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」と。彼は小さい時からこれらを守っていた。それにもかかわらずイエスは「足りないことが一つある」と一番大切な点を指摘された。この人にとっては、お金の問題であった。その後「富んでいる者が神の国に入ることはむずかしい」と教えた(25)。 ここで問題なのは、金持ち、貧乏人のことではない。お金にどれほど強く執着しているかである。貧乏な人の方がかえってお金に執着して振り回されているかも知れない。教訓の要点は神よりももっと大切なものが私たちの心を支配していないかどうかである。家、兄弟、姉妹、等々は大切である。だからしっかり握っていようというのは間違っている。 神から与えられ、託された物や人として受ける時それらは祝福となる。全く主にささげ、自分自身をさえ捧げる時、万物は神の恵みとして与えられる。
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マルコ十章32〜45節(43、44)
《しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。》
「誰が一番偉いか」の論争はすでに九章34節で始っていた。イエスがいよいよエルサレムに近くなるにつれて、地上天国の夢はユダヤ人のメシヤ思想と共に弟子の間にも強くなっていた。それ故、エルサレムで神の国の政府が成立したなら、私こそよい地位に座らせて下さいと、ヤコブ、ヨハネ、が願った。またこんな願いをしたことで他の十人も憤慨した。
まことに主イエスの十字架と彼のなそうとする救いの御業を理解せぬ弟子たちのやりとりである。だから主は「自分が何を求めているのか、分っていない」と言われた(38)。私たちもしばしば何のためにクリスチャンになっているのか、また十字架とは何のためなのか、分っていないのではないだろうか。こんな状態の弟子にもかかわらず「備えられている人に」よい座が与えられると言われた。準備される人とは、仕える人であると教えられている様に、イエスの御座の右、左に座し、彼のみ声を聞きうるのは、僕のわざをする人である。イエスで自身、そのように歩まれたのである。
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マルコ十章46〜52節(51)
《イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。》
十字架のあるエルサレム入城の前の出来事、それはエリコの町の出来事である。ザアカイの回心とバルテマイの回心である。
ザアカイの場合(ルカ一九章)はイエスの方から近づかれたが、盲人の場合は、彼自身がイエスを追い求めている。彼が主に近づくにはいくつかの障害があった。一つは彼の目が見えないことであり、手探りで近づくことに多くの困難を覚えたに違いない。もう一つは、まわりの多くの人々である。彼らはこの人をしかりつけ黙らせようとし、イエスの所へ行くのを妨害したのである。
私達が神に近づこうとするのに人間が障害になる。これはよくあることである。それにもかかわらず、彼は「ますます楽しく叫びつづけ」、「上着を脱ぎ捨て」主に近づいた。神を求める者にとって障害は問題ではない。ヤコブは「あなたがたは、求めないから得られないのだ」(四章2節)という。「求める者に聖霊を賜わざらんや」(ルカ十一章13節)。
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マルコ十一章1〜11節(3)
《「もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいますと、言いなさい」。》
イエスがメシヤであることは弟子たちには分っていた。またかなりの民衆にもそのように伝わっていたようである。所が人々の考えは、すでに学んだように地上的王国の建設者なるメシヤである。だから人々は「ダビデの国に祝福あれ」といって、ダビデの再現を願ったのである。
このような弟子たちや民衆の偏見を変えようとして、ろばに乗って入城された。馬に乗るのは軍人である。しかしろばは平和の象徴である。このようなイエスの行動にもかかわらず、人々は大騒ぎをしたのである。
イエスはろば、特に子ろばを選ばれたことに深い意義を感じる。それはローマ政府を打破るためのものではないというだけでなく、現在の私達の働きについてもまことに平凡な、小さくつまらない者をも主のために用いて下さるという励ましを与えて下さるということである。「主がお入り用なのです」と私達に呼びかけて下さる。私たちの生活時間の一部でも主のために用いられるとは何という栄光であろう。
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マルコ十一章12〜26節(24)
《そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。》
二つの物語がある。一つは宮きよめ、もう一つはいちじくの木の枯死である。イエスの宮きよめの行為は民衆が支持していたようである(18)。実際、イエスは礼拝の場が汚されているのを嘆かれたので、このようなきよめのわざをなされたのである。私たちは、いつも精一杯の礼拝を神にささげたいものである。さて、いちじくの枯死について。季節でないのに実がないのを見てのろったことに、イエスらしからぬ面を見る。しかしこれは次のように説明される。いちじくは、収穫期の二、三ヶ月前に、一つだけ初なりの実がつく。それがないと、この木は今後実を結ばない。この木は葉はあるが実がない木となる。それゆえイエスはのろわれた。実のない木は当時のユダヤ人であった。しかしイエスはこの事を通して信仰を教えられた。信仰と祈りがあるならば、必ず困難の山は除かれ、実を結ぶようになるというのである。そして信仰は祈りになって表われる。
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マルコ十一章27〜33節(28)
《「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。》
火曜日はイエスが律法学者らによって質問ぜめに会った日である。しかしそれがまた主の教えの機会ともなった。第一は「権威」の問題である。28節には「何の権威によって、これらのことをするのか」と問うているが、これらの事とは宮きよめである。つまり、誰の許可を受けて宮きよめのようなことをするのか、ということである。祭司長は神殿管理の責任者だから、彼らのいい分は、そんなことをしてもらっては困る、ということであった。所がイエスはバプテスマのヨハネのことをもち出し、彼の教えの出所は何かと逆に質問した。当然、彼らはその教えが神からのものであると知っていたのである。同様に、主の宮きよめも神の教えに基づくものだ、と理解することができたはずである。なぜなら両替だとか、供え物のはとを売るとかで暴利をむさぼるのを是正しようとしたのだから。私たちは神から魂に向かって語られる権威ある語りかけに、正直に答える者でありたいと思う。
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マルコ十二章1〜12節(1)
《そこでイエスは譬で彼らに語り出された、「ある人がぶどう園を造り、垣をめぐらし、また酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。》
ある人がぶどう園をつくり農夫にあずけたというのは、神がユダヤ人にカナンの地をあずけ、神の恵みを与えたということを意味している。彼らが得た恵みの数々はロマ九章1〜5節に述べられている。神は彼らから良い実を期待したが、それは得られず、使いの僕を殺した。つまり旧約の預言者たちを迫害したのである。そして遂に愛する子を殺してしまった。神は私たちに救いの恵みをお与えになった。それが良い実を結ぶようにと願っておられる。ところが実がくさったり、駄目になったらどれ程失望するだろう。実を結ぶとは何だろう。それは何よりも、与えられた救いを全うすることである。事情が悪いとか、ひとがどうであるとかいって祈りを止め、礼拝をやめ、神を離れることがある。私たちはどんなことをしてでも永遠の救いを全うしなければならない。そしてできるなら、誰かを天国まで導きたいものである。与えられたぶどう園を大切にしたい。
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マルコ十二章13〜17節(17)
《するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。》
パリサイ人やヘロデ党から税金についての質問が提出された。パリサイ人は反ローマ、ヘロデ党は親ローマである。だからイエスがローマへ税金を納めるべきだといっても、それに反対してもどちらかにひっかけられる。普段は仲の悪い同志がイエスをおとしいれる為には同盟を組む。彼らの質問に対するイエスの答えは明快であった。「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返せ」である。カイザルとはこの世の政府のことである。イエスはこの答えによって、人間は神に対する義務とこの世に対する義務とがあり、両者とも誠実に果たすべきだと教えられたのである。ところでカイザルの要求するもであるが、それはこまかく計算されてとどけられる。例えば税金である。違反すると罰金までとる。これに対して、神の要求はカイザルのようには求めては来ない。個人の信仰によるのである。私たちはいつも、神に返すべき財や時を、正当に返しているかどうか、問いつつ、生活すべきである。
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マルコ十二章18〜27節(27)
《神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。》
サドカイ人は復活を信じなかった。彼らは有産階級の者でこの世的な世俗主義であった。すでにイエスはラザロの復活などを通して、キリスト御自身の復活及びキリスト者の栄化を話しておられた。それで彼らはイエスに反対の意見を持って来たのである。次々と夫と死別した妻は天国においては誰の妻となるのかという質問である。これに対してイエスは天国の存在を明言された。まずそこではこの世のように結婚などはないと教えた。そして「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である…神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と言われた。この言葉の意味するのは、「アブラハムの神…であった」と過去形ではなく、「…である」と現在形、つまり今も生きておられる方だということである。父祖たちは今も神と共にかしこに於て生きている。私たちは今の生活を大切にしながらも、来るべきみ国のために備えるべきである。
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マルコ十二章28〜40節(30、31)
《『心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない。》
何が一番大切ないましめであるかという質問はいかにも律法学者らしい質問である。これに対して主は、第一に、神を愛せよ、そして第二に隣人を愛せよと言われた。神を愛せよとは、神に従えということである。このことが心の根底にないと、隣人を愛することなどはできない。神の言にきき従い、神を敬う生活をしないで他人を愛することはできない。それは毎日の神への祈りまた礼拝の生活で養われていく。その結果、他者への愛が生まれる。隣人を愛することと、好きになることとは別のことである。「自分を愛するように…」とあるが、自分の容姿や性格をことごとく好きな人はあるまい。しかし自分を愛している。それと同様に、隣人にも対していくべきなのである。好きになれない所があっても。好きになれる所があっても、神からいただいた愛があるので他者を愛することができる。きよめとは、私たちの魂が、神の愛で満たされることである。
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マルコ十二章41〜44節(44)
《みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。》
レプタ二つをささげた婦人のことで論争の部分がまとめられている。カイザルに納めるか、神に献げるべきかなど議論はいくらでもすることができる。しかし実際にささげ物をする時になると引込み思案で何もしないとするなら、それはパリサイ人である。彼女はレプタ二つをささげた。普通の人の一日の賃金は一デナリであったが、二つのレプタとは1/64デナリだという。何とわずかのお金であろう。しかしそれしか彼女のふところになかった。貧しい貧しいやもめである。彼女はそれを全部ささげた。このやもめは精一杯をささげた。それを主は喜ばれた。ある人が時間の使い方と、お金の使い方でその人柄が分かるといった。私たちは多くのものを与えられている。それを家族のために用いる。大切なことである。しかし神のためにささげる思いがどれほどあろうか。神第一の生活はこの点で量られるものではあるまいか。
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マルコ十三章1〜27節(27)
《そのとき、彼は御使たちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。》
終末のことが主によって語られたが、その中には二つの内容が混在している。一つはエルサレムの滅亡のことであり、もう一つは世の終わり、即ち再臨のことである。主として14〜23節にはエルセル滅亡に関して述べられており、その他の箇所には世の終わりについて語られている。
さて、5〜8節は世の終わりの前兆である。戦争、大地震、ききん等である。これらは、しるしではあるが、「終わりではなく」(7)、むしろ「始めである」(8)。9〜13節には弟子たちの苦難について書いている。「私の名のゆえに憎まれる」とある(13)。24〜27節には天地の大異変があり、キリストが再臨される。復活し昇天したキリストは、復活したと同じような姿で再び来られると教えられた(一四章62、使徒一章11)。
主が再び来られる時、何があるのか。神の民のためには、全き救いがなされる。即ち栄光があり、天に召されていく。そのことを27節には「四方からその選民を呼び集める」と言う。これがキリスト者の希望の根源である。
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マルコ十三章28〜37節(35)
《だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。》
いちじくの芽がではじめると夏の近さを知れと言われている。いちじくはしばしばユダヤ人のことを意味するので、終末期のユダヤ人の動きに注意せよとのことだと言う人がいる。また、「これらのことが起こるのを見たなら」(29)とは5〜8節のことを指しており、様々のしるしに注目せよという意味だと解する人もいる。
しかし終末がどれほど近いものであるとしても、「その日、その時は誰も知らない」。ものみの塔などは再臨の日を決定するので、異端だと言われている。
さて、ここで主が教えなさるのは、「目を覚ましていなさい」である。それが三度も繰り返し言われている。それは心配していなさいと言う意味ではない。主を信じ救われている者は、いつでも再臨の主の前に恐れなく立てるのだから感謝すればよい。ただ眠ったり、主のことを忘れてしまってはならないと言う注意である。最後の栄冠を得る者は、喜びをもって主を待ち望む者である。
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