牧場


ヨーロッパの風土

ヨーロッパの風土は湿潤と乾燥との総合として規制される。それはモンスーン地域のごとく暑熱がもたらす湿潤ではない。したがって夏は乾燥期である。が、砂漠地域のごとく乾いてもいない。だから冬は雨季である。この特性は、南と北との著しい相違にもかかわらず、ヨーロッパを通じての特性である。

夏の乾燥・冬の湿潤

夏の乾燥、ここで私たちは牧場的なるものに出会うのである。ヨーロッパには雑草がない。雑草に旺盛な生活力を与えるものは暑熱と湿気との結合である。すなわち梅雨とその後の照り込みとである。しかるに夏の乾燥はちょうど必要な時にこの湿気を与えない。したがって雑草は芽生える事ができない。

十月の雨はちょうど私たちにとっての梅雨であるが、もちろん梅雨ほどに湿潤ではなく、日本の春雨ににた雨が時々降るという程度にすぎない。こういうしずかな秋の雨に恵まれて暑熱を必要としない冬草の類が穏やかに芽生えてくる。そうして驚くべき事には、野原にのみではなく、岩山の岩の間にさえもこういう柔らかい冬草が育つのである。

このように夏の乾燥と、冬の湿潤とは、雑草を駆逐して全土を牧場にしてしまう。

風は一般に極めて弱い。風の弱い事を明らかに示しているのは樹木の形である。それは植物学の標本のように端正で、したがって規則正しい。枝が必ず傾いているのを見慣れている私たちにはこのシンメトリーの形がいかにも人工的にみえる。それは私たちに人工的という感じを与えるのみならず、その規則正しい、理屈に合った形のゆえに、さらに著しく合理的であるという感じをも与える。

規則正しい形は私たちの国においてこそ人工的にしか作りだせない物であるが、しかしそれは植物にとって自然的な形なのであり、したがって不規則な形こそ不自然なのである。そうしてこのような区別が帰するところは風の強弱である。暴風の少ないところでは木の形が合理的になる。すなわち自然が暴威を振るわないところでは自然は合理的な姿におのれを現してくる。

自然が従順である事はかくして自然が合理的であることに連絡している。人は自然の中から容易に規則を見出す事ができる。そうしてこの規則にしたがって自然に臨むと、自然はますます従順になる。この事が人間をしてさらに自然の中に規則を探求せしめるのである。かく見ればヨーロッパの自然科学がまさしく牧場的風土の産物である事も容易に理解する事ができるであろう。

西欧の風土

西欧の風土は地中海沿岸におけるように太陽の光が豊かでなく、したがって温度ははるかに低い。特に冬の寒さは南欧に見られないきびしいものである。第一空気の含む湿気が少ない。だから空気は純粋に冷たいのであって、底冷えのする寒さを感じさせはしない。第二に朝夕の変化が少ない。だから体が寒さに引き回されるという感じがない。第三に寒風の吹きすさぶ事が少ない。だから寒さが目だって攻勢的に人間に迫ってくるという感じがない。

したがって、人はしのぎにくい暑熱と湿気を全然考慮に入れることなく、ただ冷たい空気をのみ目標として家を建てる事ができる。そこでは空気の耐えざる流通によって湿気の定着を防ぐというような必要がない。したがって暖められた空気は乾いた厚い壁によって外界から仕切られ、人為的に室外に追い出されるまでは室内によどんでいる。だから空気の冷たさは湿気を帯びた暑熱よりもはるかに征服しやすいのである。

一言にして言えば西洋の寒さは人間を萎縮させるよりもむしろ溌剌にさせる。それは人間の自発的な力を内より引き出し、寒さに現れた自然の征服に向わしめ、そうしてそれを従順な自然たらしめている。家屋の構造と保温の設備とは、人間から寒さへの恐れを全然洗いさっているのである。

自然の従順

自然の従順は同時に自然の単調を意味する。私たちは通例冬の風情として感じているものはそこには存在しない。たとえば寒風が身にしみるように寒いとともにまたひなたぼっこの楽しみがあり、牡丹雪がふわふわと積もるというような事は、湿気と日光と寒さとの合奏なのであって、ただ寒さからだけでは生じない。

このように変化の少ない事がそのまま自然の従順さを示すのである。だから西欧の冬の風情はただ室内に、炉辺に、劇場に、音楽堂に、舞踏室に、すなわちただ人為的なものにのみあると言ってよい。それは冬が人間の自発性を引き出したという事に他ならないのである。

西欧の夏

西欧の夏は南欧の晩春初夏に過ぎぬのである。主観的によほどの暑さを感ずる日でも、気温はせいぜい26、7度にすぎない。このような夏の自然の従順は湿気と暑熱とによる変化のない事に他ならない。それはヨーロッパから雑草を駆逐し全土を牧場的ならしめた根本条件であるが、同時に西欧の夏から私たちが夏の風情と考えるものを駆逐したゆえんである。たとえば夏の朝夕のさわやかさとか、暑さを払って流れていく涼風とか、炎天の後の気持ちのいい夕立とかは存在しない。

空気に湿気が乏しく昼と夜の気温の相違が少ないために、早朝の牧場に出ても草の梅雨に足をぬらすという事がないという事実は、同時に農人が夕暮れにその農具を畑に野ざらしにして家に帰るという事を意味するのである。これは私たち日本人にとってはかなり大きい事実である。

征服される自然

このように温順な自然は、ただその温順さからのみ見れば、人間にとってもっとも都合のよいものである。温順の反面は土地がやせている事であり、したがって一人の支配する土地の面積は広くしなくはならないが、しかし一人の労力をもって何倍もの土地を従えてゆく事のできるのは、自然が温順だからである。むかしゲルマン人が半遊牧的な原始共産主義の社会を作っていた頃には、そこはくらい森に覆われた恐ろしい土地であったかもしれない。しかし一度開墾され、人間の支配の下にもたらされるとともに、それは背く事なくしたがってくる自然となったのである。実際西欧の土地は人間に徹底的に征服されていると言ってよい。

このことは人力をもって容易に支配する事のできない山地に満たされた私たちの国土とは非常な相違を見せている。山が険峻で運搬が困難なのである。のみならず日本の山には植林が容易でなく、ただわずかに薪炭を供給するにとまるものが多い。しかもこのような山地が日本の国土の大部分なのである。だから日本の土地の大部分は今だ十分に人間の支配を受けていないという事がいえる。日本人はただ国土のわずかな部分のみを極度に働かせて生きているのである。そのわずかな部分も決して温順な自然とはいえない。それは隙さえあれば人間の支配を脱しようとする。この事が日本の農人に世界中で最も優れた「技術」を与えた。

ただしかし日本人はこの「技術」のなかから自然の認識を取り出す事ができなかった。そこから生まれてきたものは「理論」ではなくして芭蕉に代表されるような「芸術」であったのである。

これに対し、従順な自然からは比較的容易に法則が見出される。そうして法則の発見は自然をいっそう従順ならしめる。このような事は突発的に人間に襲い掛かる自然に対しては容易でなかった。そこで一方にはあくまでも法則を求めて精進する傾向が生まれ、他方には運を天に委ねるようなあきらめの傾向が支配する。それが合理化の精神を栄えしめるか否かとの分かれ道であった。

西欧の陰鬱さ

西欧の陰鬱さとは直接には日光が乏しい事である。陰鬱な曇りの日においては、すべての物はもうろうとして輪郭を明らかにせず、かかる不分明なものを包む無限の空間がかえって強く己を現してくる。それは同時にまた無限の深さへの指標である。そこに内面性への力強い沈潜が引き起こされる。主観性の強調や精神の力説はそこから出てくるのである。そこでギリシアの古代が静的、ユークリッド幾何学的、彫刻的、儀礼的であるに対して、西欧の近代は、動的、微積分学的、音楽的、意志的であると言われる。西欧の芸術のもっとも代表的なる物はベートーベンの音楽、レンブラントの絵画、ゲーテの詩などである。


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