日本−その台風的性格−


モンスーン的性格

私たちはモンスーン地域における人間の存在の仕方を「モンスーン的」と名づけた。私たちの国民もその特殊な存在の仕方に於いてはまさにモンスーン的である。すなわち受容的・忍従的である。

インドとの相違点

私たちはこれのみよって私たちの国民性を規定する事はできない。風土のみを抽象して考えても、私たちの国土とインドとはきわめて相似しているが、しかしインドが北方は高山の屏風にさえぎられつつインド洋との間に極めて規則的な季節風をもつのとは異なり、日本は蒙古シベリアの漠々たる大陸とそれよりもさらに一掃漠々たる太平洋との間に介在して、極めて変化に富む季節風にもまれているのである。

風土の二重性格

太陽の直中において吸い上げられた豊富な水を真正面から浴びせられるという点において共通であるとしても、その水は一方においては「台風」というごとき季節的ではあっても突発的な、したがってその弁証法的な性格とその猛烈さとにおいて世界にひるいなきかたちを取り、他方においてはその積雪量において世界にまれな大雪の形をとる。このような大雨と大雪との二重の現象において日本はモンスーン域中もっとも特殊な風土をもつのである。それは熱帯的・寒帯的の二重性格と呼ぶ事ができる。

植物における二重性格

この二重性格はまず植物において明白に現れる。強い日光と豊富な湿気を条件とする熱帯的な草木が、ここでは旺盛に繁茂する。姓かの風物は熱帯地方とほとんど変わらない。その代表的なるものは稲である。しかしそれと同時に他方には寒気と少量の湿気とを条件とする寒帯的な草木も、同じく旺盛に繁茂する。麦がその代表である。そうして大地は冬には麦と冬草とに覆われ、夏には稲と夏草とに覆われる。しかしそのように交代し得ない樹木は、それ自身に二重性格を帯びてくる。熱帯的植物としての竹に雪の積もった姿は、しばしばに本の特殊の風物としてあげられるものである。

受容性における二つの特殊形態

モンスーン的な受容性は日本の人間において極めて特殊な形態を取る。

第一にそれは熱帯的・寒帯的である。すなわち単に熱帯的でもなく、また単に寒帯的なものでもなく、豊富にながれいでつつ変化において静かに持久する感情である。四季おりおりの季節季節の変化が著しいように、日本の人間受容性は調子の速い移り変わりを要求する。だからそれは大陸的な落ち着きを持たないとともに、はなはなだしく活発であり敏感である。活発敏感であるがゆえに疲れやすく持久性を持たない。しかもその疲労は無刺激的な休養によって癒されるのではなくして、新しい刺激・気分の転換などの感情の変化によって癒される。癒された時、感情は変化によって全然他の感情となっているのではなく、依然としてもとの感情なのである。だから持久性を持たない事の裏に持久性を隠している。すなわち感情は変化においてひそかに持久するのである。

第二にそれは季節的・突発的である。変化においてひそかに持久する感情は、絶えず他の感情に変転しつつしかも同じ感情として持久するのであるがために、単に季節的・規則的にのみ変化するのでもなければ、また単に突発的・偶然的に変化するのでもなく、変化の各瞬間に突発性を含みつつ前の感情に規定させられたほかの感情に転化するのである。

受容性における二つの特殊形態

第一に熱帯的・寒帯的である。すなわち単に熱帯的な、したがって非戦闘的なあきらめでもなければ、また単に寒帯的な、気の永い辛抱強さでもなくして、あきらめでありつつも反抗において変化を通じて気短に辛抱する忍従である。暴風や豪雨の威力は結局人間をして忍従せしめるのではあるが、しかしその台風的な性格は人間のうちに戦闘的な気分を沸き立たせずにはいない。だから日本の人間は自然を征服しようともせずまた自然に敵対しようともしなかったにもかかわらず、なお戦闘的・反抗的な気分において、持久的ならぬあきらめに達したのである。日本の特殊な現象としてのヤケ(自暴自棄)は、このような忍従性を明白に示している。

第二にこの忍従性もまた季節的・突発的である。反抗を含む忍従は、それが反抗をふくむというその理由によって、単に季節的・規則的に忍従を繰り返すのでもなければ、また単に突発的・偶然的に忍従するのでもなく、繰り返し行く忍従の各瞬間に突発的な忍従を保有しているのである。忍従に含まれた反抗はしばしば台風的なる猛烈さをもって突発的に燃え上がるが、しかしこの感情の嵐の後には突如として静寂なあきらめが現れる。受容性における季節的・突発的な性格は、直ちに忍従性におけるそれと関連するのである。反抗や戦闘は猛烈なほど嘆美せられるが、しかしそれは同時に執拗であってはならない。きれいにあきらめるという事は、猛烈な反抗・戦闘をいっそう嘆美すべきものたらしめるのである。すなわち俄然として忍従に転ずる事、言い換えれば思い切りの良い事、淡白に忘れる事は、日本人が美徳としたところであり、今なおするところである。そのもっとも顕著は現れかたは、淡白に生命を捨てるという事であろう。

「間柄」

人間の第一の規定は個人にして社会である事、すなわち「間柄」における人であることである。したがってその特殊な存在の仕方はまずこの間柄、したがって共同態の作り方に現れてくる。人の「間」のもっともてじかなものは「家族」としての人間の共同態である。

牧場的なる間柄

家族としての人の「間」は、牧場的、砂漠的、モンスーン的に明白に相違している。

文化の始まりはギリシア人の海賊的冒険であった。その郷土の牧場を離れた冒険的な男たちが、多島海沿岸の諸地方を征服して原始的ポリスを建設しはじめた時、非征服地の女を取って妻とした。すなわち家族から脱出してきた男と、殺戮によって家族を破壊せられた女とが、ここに新しく家族を形成したのである。ギリシアの古い伝説に残虐な夫殺しの話が多いのは、このような史的背景に基づくといわれている。だからギリシア人間が、もと強い祖先崇拝の上に立ち、またヘスチアの崇拝を根強く保存したにもかかわらず、ポリスの形成以後においては、家の意義はポリスに対してはるかに軽くなっている。家族は夫婦の見地から把握せられ、血統的には某の子としてせいぜい父が挙げられるだけである。

砂漠的なる間柄

砂漠的な家族は、祖先以来の血統をせおった伝統的な存在として把握せられている。しょじょから生まれたイエスさえも「アブラハムの末裔」「ダビデの末裔」である。しかし砂漠的な存在の仕方は、この家族の優位をむしろ「部族」に譲った。遊牧生活の単位は部族であって家族ではない。部族の団結の厳しい制約の下においては、家族的な生活の共同はその意義を弱めてくる。

モンスーン的なる間柄

家族的な生活の共同にもっとも強く重心をおいたのは、モンスーン的な家族である。とくにシナ及び、日本における「家」である。それは砂漠的な家族とおなじく血統的な存在ではあるが、しかし部族に解消し去るということがない。「家」は家族の全体性を意味する。それは家長において代表せられるが、しかし家長をも家長たらしめる全体性であって、ぎゃくに家長の恣意により存在せしめられるのではない。とくに「家」の本質的特徴をなすものは、この全体性が歴史的に把握せられているという点である。したがって過去未来にわたる「家」の全体性に対し責任を負わねばならない。「家名」は家長をも犠牲にし得る。だから家に属する人は親子・夫婦であるのみならずさらに祖先に対する後裔であり後裔に対する祖先である。家族の全体性がここの成因よりも先である事は、この「家」においてもっとも明白に示されている。

日本における「家」

あらゆる時代を通じて日本人は家族的な「間」において利己心を犠牲にする事を目指していた。利己心の犠牲も、単に便宜上必要な程度にとまるのではなくして、あくまでも徹底的に遂行せられようとする。そこで障害に会うごとにしめやかな情愛は激して熱情的になる。それは家の全体性のゆえに個人を圧迫し得るほどの強い力を持っている。だから「曾我物語」に現れているような親の仇討ちの思想がいかに強く日本の民衆の血を沸かせたかがそれを示している。

また人は極めて淡白に己の命をも捨てた。親のためあるいは子のために身命を賭する事、あるいは「家」のために生命を捨てる事、それは私たちの歴史においてもっとも著しい現象である。

「うち」と「そと」

資本主義を取り入れた日本人は「家」において個人を見ず、個人の集合において家を見るようになったようである。そのもっとも日常的な現象として、日本人は「家」を「うち」として把握している。家の外の世間が「そと」である。そうしてその「内」においては個人の区別は消滅する。妻にとっては夫は「内の人」であり、夫にとっては妻は「家内」である。家族もまた「うちの者」であって、外のものとの区別は顕著であるが内部の区別は無視せられる。すなわち「内」としてはまさに「へだてなき間柄」としての家族の全体性が把握せられ、それが「そと」なる世間と隔てられるのである。このような「うち」と「そと」の区別は、ヨーロッパの言語には見出す事ができない。

日本語のうち・そとに対応するほどの重大な意味を持つのは、第一に個人の心の内と外であり、第二に家屋の内外であり、第三に国あるいは町の内外である。すなわち精神と肉体、人生と自然、及び大きい人間の共同体の対立が主として注意せられるのであって、家族の間柄を標準とする見方はそこには存在しない。

国民の全体性

日本においても国民の全体性はまず宗教的に把握せられた。それは神話を通じてのみ理解し得られる原始社会の事実である。そこでは人はまだ個人としてものを感じ考えるという事がなかった。人間の意識は団体の意識であり、団体の生活にとって不利な事はタブーとしてここの人を束縛した。かかる社会において人間の全体性が神秘的な力として自覚せられたのである。だから神秘的な力への帰属は全体性への帰属に他ならず、宗教的に何かを祭る事はその祭儀において全体性を現す事にほかならなかった。そしてこの教団的な人間の共同態が、ちょうど家としての共同態とおなじく、個人の自覚を必要としない感情融合的な共同態であり、そうしてそのゆえに日本の人間の存在の仕方を顕著にあらわしめているのである。

教団的な国民の結合

日本における教団的な国民の結合は、家のアナロジーによって解せられ得るような特殊性を持っているのである。それは激情的出会ってもしめやから結合を含むのであり、戦闘的ではあっても恬淡に融合するのである。このような特性は、たとい激しい争闘の中に対立していてもなお敵手を同胞として感ずるというごとき、極めて人道的な人間の態度を可能にする。敵を徹底的に憎むという事は日本的ではなかった。ここに我々は、日本人の道徳思想の生み出されてくる生きた地盤を見る事ができる。そこでは道徳はいまだ「思想」として形成せられてはいないが、しかし人間の行為と心情は「貴し」「明し」あるいは「きたなし」「卑し」として評価せられる。かかる評価のうちにすでに国民の特殊性が反映しているのである。

日本人の三大特徴

第一は国民としての存在を教団としての存在たらしめた宗教的な信念である。貴さはまず第一に祭りごとをつかさどる神において認められる。それは国民の全体性への帰依があらゆる価値の根源である事を意味する。

第二は人間のへだてなき結合の尊重である。和やかな心情、しめやかな情愛は、すべての英雄の欠くべからざる資格であった。だからそれは一方において人間の尊重であり、他方において社会的正義の尊重となる。

第三は戦闘的恬淡に根ざした「貴さ」の尊重である。勇気は貴く美しく、怯えは卑しくきたない。しかし単なる強剛は醜く、残虐は極度に醜い。なぜならそこには勇気のみならず執拗な利己的欲望が存在するからである。勇気の貴さは自己を空しゅうするところに存在する。勇壮な戦闘的性格は同時に恬淡な自己放下を伴わねばならぬ。かかる意味において貴さと卑しさとは生命よりも重大な価値であった。

武士道

武士道の根本精神は恥じをしること、すなわち卑しさを恥ずる事である。ここに善悪ではなくして尊卑の道徳が模範的に現れる。さらに古代における人間の自愛の尊重は、第三の鎌倉幕府の時代に、力強い鎌倉仏教の勃興において、慈悲の道徳として現れた。へだてなき結合は絶対的な自他不二の実現として把握せられ、生命をも恬淡に捨てるような慈悲の実行が実践の目標となった。自愛の尊重と根を同じくする社会正義の尊重は、第二の大化の改新において土地公有主義として現れている。それは教団としての国民の全体性を、新しく受け入れた仏教と儒教の思想によって裏付け、この理想を現実的に国民において実現しようとしたものである。


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