「アンドロイドが真夜中に降ってきたら」 第27話 宇佐美先生の代わりに、臨時で古文の教師がやってきた。 先生は夏休み明けまで休暇を取るらしい。 担任は一身上の都合だとみんなに伝えたけれど……本当の理由を知っているのは、学校 内でオレだけなのかもしれない。 最近、時間の流れを早く感じる。 期末テストも終わり、夏休み気分で毎日のんびり──と、いきたいところだが、高3の この時期なので、受験勉強してるやつの姿をちらほら見かける。 「うぉぉーっ! わかんねーっ!」 自習だというのに、多川ですら、勉強っぽいことをしている。 うちは進学校ではないけれど、先日行われた進路希望調査で、第一希望に進学と書いた 生徒がほとんどだったらしい。 「……」 配られた用紙を前に、考えた。 オレは、将来、何がしたいのだろう。 今、何ができるのだろう。 自分自身の問いに、答えることはできなかった。 親父があんな特殊な仕事をしているから、働くってことがどういうことかいまいちわか らない。 考える時間が欲しい、そう思い、とりあえず進学と書いた。 「……ふぁ」 眠い。 陽射しは強いけれど、窓からいい風が入ってくる。 「……」 ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ その猫は、半年ほど前、過って水の枯れた古井戸に落ちてしまった。 古井戸の底に閉じ込められた猫の毛の色はわからない。 暗闇が猫を真っ黒に染め上げていた。 2つの瞳だけが、闇に反抗するかのように輝いていた。 闇色の猫は、8メートルの高さから落ち、底の石にぶつかった拍子に後ろ足を骨折した。 もう完治したので痛みはないが、左足は、少し変な角度に曲がっている。 猫は毎日、丸い形をした空を眺める。 井戸に落ちたばかりのころは、助けを求め鳴いていたけれど、今はやせ細り、鳴き声を 上げることはできなくなっていた。 井戸の底に、食べるものは、ほとんどなかった。 何日、経ったのだろうか。 何十日、経ったのだろうか。 何百日、経ったのだろうか。 空腹が意識をぐちゃぐちゃにかき混ぜ、時間の感覚を麻痺させていた。 闇色の猫は、井戸の底に生えた草や、奇跡的に井戸に落ちてきたカエルやコオロギなど を食べ、窪みに溜まった雨水を飲み、どうにか生き長らえていた。 大雨の日、首のあたりまで水が溜まり、死を覚悟したこともあった。 雨の振らない日が続き、指一本動かせなくなったこともあった。 幸運だったのだろうか。 不運というべきだろうか。 猫はどうにか今日まで生きることができた。 しかし。 死の影は、ついに、猫の四肢に絡みつきはじめていた。 飢えと乾きは、猫からあらゆる感覚を奪い取り、生きようとする気力さえ削り取ろうと していた。 石の壁に爪を立てても、その音に力はない。 猫は、思う。 最後にもう一度── 一度だけ、試してみよう、と。 持てる力の限りを尽くし、自分と外の世界を隔てる、垂直の壁をよじ登ってみようと。 過去に二度、猫は壁を登ることを試みた。 一度目は、爪が三本、折れ落ちた。 二度目は、七分ほどまで一気に駆け上ることができたが、壁に生えた苔で滑り落ちて、 背中と頭を打った。 井戸の底で、血がはじけた。 そして。 三度目──満月の夜。 痩せた猫は、 尻尾が壁につくほど助走をとり、 伏せるように全身を屈ませ、 意を決し、 勢いよく駆け出した。 硬い石の壁に爪を立て、 登り、 登る。 あと三歩、 二歩、 一歩── 黒猫は、空に浮かぶ月を引っかくように、前足を伸ばす。 赤く染まった爪先に力を込める。 最後は、 その身を放り出すようにして、 猫は、古井戸の縁から、外の世界にどさりとこぼれ落ちた。 猫は、右前足を襲った激痛で、目を覚ました。 ばさばさという大きな音がした。 目を開けると、視線の先の木の枝にカラスが止まっていた。 カラスは、口ばしに何かを銜えていた。 赤い。 雫が、滴っている。 それは。 猫の肉片だった。 井戸の底から抜け出した猫を待っていたのは、新たな絶望だった。 そのとき初めて、 猫の視界が、深い哀しみで滲んだ。 猫は、声を聞いた。 「こらー、あっちいけーっ!」 猫は、声を聞いた。 それがニンゲンのものであることを思い出したのは、助けられた後のことだった。 「詠、何があったの?」 「う”うっ……沙夜ちゃ……ん……」 「かわいそうに……」 「……え”うっ…」 「待って、詠。その子……まだ生きてる」 「……でも、こんなにいっぱい……血が出たら、死んじゃうよぉ……」 「泣かないで、大丈夫だから。お母さんに看てもらえば、きっと助かるから」 「……え”うっ…」 「さあ立って。早く連れて帰ろう?」 「……う”……ん」 ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ 「おはよう、カナ」 覚醒は、優しげな女性の声によってもたらされた。 『…………し、ろ』 「え、何? あなた、大丈夫?」 見知らぬ女性が心配そうに顔を覗き込んでくる。 私は、ベッドの上に寝かされていた。 『……夢を、見ました』 答えると、女性は緊張した表情を和らげて、 「そう。楽しい夢だったのかしら?」 『いえ、とても可哀想な……でも、最後に、その子は幸せになれたんです』 「それはよかったわね」 『……はい』 「話を変えて悪いけど、聞いて頂戴。手術は終了したわ。やれることは、みんなやったつ もり」 シュジュツ? 一体どういうことなのか、状況が飲み込めなかった。 まずは、 目の前にいる女性が誰かを思い出してみる。 ……。 何も思い出せない。 分からない。 しかし、分からないのは、それだけではなくて、 『わたしは、だれ?』 私は自分のことも記憶から見つけ出すことができなかった。 「あなたは、」 女性が答えようとした瞬間── 私は、咄嗟に、 『わたしは、にんげんです』 そんなことを口にしていた。 私は過去に、今と同じ状況を経験したことが……ある。 そう、直感した。 「ええ。あなたは、人間よ。でもね、ちょっと複雑な事情があって、長い間、眠っていた の」 『……眠っ……て?』 「そのせいで、体調はとても悪いと思うし、記憶に錯誤があるでしょうし、ろくに身体を 動かすこともできないの。体のどこかに痛みはない?」 言われてみて、具合の悪さに気づく。 まるで、誰かの生を途中から引き継いだような──空っぽの体に用意されていた心を放 り込まれたような、違和感。 そして、これは、既視感……? 『少し、頭が痛いです』 「……そう」 『どうされました?』 「本当に、忘れて……しまったのね」 『……』 どうしてだろう。 私は、このときの彼女の言葉が、とても哀しかったのだ。 『……あの』 「何?」 『お名前を、教えてくださいませんか?』 「エナよ。宇佐美、エナ」 『エナさん、ですね』 「<さん>はいらないわ」 『でも……』 「呼び捨てでいいの。私たちは、家族になるのだから」 【戻る】 |