「アンドロイドが真夜中に降ってきたら」 第34話










 おはようは、朝の挨拶。


 一日を楽しく送るための合言葉みたいなものだと先生が教えてくれた。


 だからわたしは──







「おはよう、お母さん」


「……」







 毎朝、言い続けた。


 わたしはあのとき、おはようという言葉が、閉ざされた扉を開けるための唯一の鍵だと
真っ直ぐに信じていた。


 わたしには5つ歳の離れた兄がいた。


 優しくて、頭が良くて、面白くて、強い兄。そんな兄は、とてもお母さんに可愛がられ
ていた。わたしは頭も良くなかったし体も弱くて可愛くもなかった。


 だから仕方ないと思っていた。


 ご飯が少ないのも、新しい服を買ってもらえないのも、誕生日にケーキが食べられない
のも、怒鳴られ、叩かれるのも……。






 オマエ ガ ワルイ






 お母さんの言うことは正しい。


 わたしが悪い。わたしが。みんなわたしが悪いんだ。なぜなら、優秀な兄にはすべてが
与えられていたから。いい子にならなきゃ。兄やお母さんに自慢されるくらい。勉強も頑
張って、運動も頑張って、可愛く……これは難しいけれど、せめて上の二つは。努力すれ
ばいいことだし。わたしは頑張った。懸命に。


 百点満点。


 兄に毎日勉強を教わって、ようやく取れた点数。兄と同じ百点。これで褒めて貰える。
頑張ったな。兄はわたしのことを褒めてくれた。きっとお母さんも。わたしを見直してく
れる。きっと。






「ただいまお母さん! 今日はね、テストがあったんだ」


「……そう」


「百点だったんだよ! 頑張ったんだよ!」


「……」


「お母さん……?」






 いつからだろう、世界が壊れ始めたのは。


 それまでわたしを包んでいた温かいものが、温度を無くしてしまったのは。


 わたしはよく泣いていた。痛かったからでも辛かったからでもない。ひとりになるのが
怖かったからだ。孤独は幼いわたしにとって死と同じだった。捨てないで。お願いします。
ごめんなさい。わたしが悪いの。お母さん。お兄ちゃん、助けて。わたしを……ひとりに
しないで。


 やがて、涙は枯れた。


 泣けば叩かれ、叩かれると余計に涙が溢れる、そんな日々が続くうちに、どんな目に遭
っても涙は流れなくなっていた。


 求めるほどに拒絶される。わたしはしがみつく。


 兄だけがわたしの味方だった。お母さんは兄の頼みだけは聞いてくれた。

 お母さんがあんな風になってしまったのは、いつからだろう。昔は、お父さんがいた頃
は、わたしも愛されていたような気がする。体が痛い、心が痛い。お腹、すいた……。






「おはよう、お母さん」


「……」






 わたしのノックは続いた。

























 ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆
























「エナ、起きてる?」


「いま起きたわ。こんなに早くからどうしたの?」


 背伸びをしてベッドの上で半身を起こすエナ。


「私は、誰なの?」


「……は?」


「過去よ。私の両親は誰で、いまどこにいるの? どうして私はこの家にいるの? エナ
と私の両親は知り合いなの? 私の本当の家はどこにあるの?」


「まー落ち着きなさい」


「……話して」


「ついにこの日がやってきたのね」


「……」


「実を言うと、あなたはね、ある王国のお姫様なの」


「いい加減なこと言うと怒るわよ」


「聞かなきゃよかったって思うわよ。それでも知りたい?」


「ええ」


「んー。どうやって誤魔化そうかしら」


「……」


「そんな怖い目で見ないで頂戴。私だってどう話せばいいのか悩んでるんだから。上手く
話さないと嘘だとか言われそうだし」


「騙したら一生許さないから」


「……とりあえず、朝ご飯食べてからでいい?」


「ダメ」


「じゃあひとつ質問。どうして『今』なの?」


「夢を見たの」


「どんな?」


「言いたくない」


「ふぅん。それなら私からも何も話さないけど」


「……たぶん、私が小さな頃の夢」


「なるほどね。それで急に過去が知りたくなった。ちなみにどんな内容の夢だったのかし
ら?」


「酷い夢。思い出したくもない」


「現実にあったことを夢で見ることって皆無よ。ただの悪夢だと思うけどね。私は」


「うん、そう思う。だって私は、」


「……?」


「……夢の最後に」


「最後に?」


「お母さんに……殺されたのよ」

























 ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆

























「母さん、香奈は? 香奈はどこに行ったの?」


 ココ


「……」


「ねえ、母さん?」


 ココ ニ


「知らないわ。それより──、夕食にしましょう。今夜は──の大好きなビーフシチュー
よ」


「母さん!」


 ワタシ ハ


「なあに?」


「香奈はどこに行ったんだって聞いてるんだ!」


 ココ ニ イル ノ


「知らないって言ってるでしょう。そのうち帰ってくるわよ」


 オシイレ ノ ……。


「さ、早く食べましょう。冷めちゃうわ」


「いらない」


 タス ケテ ……。


「え?」


「香奈が帰ってくるまで食べない」


「──、どうしてあんな子のことをそんなに気にするの?」


「香奈は僕の妹だ」


「優しいわね、──。でもね、あなたは私のことだけを思っていればいいの。あんな子の
ことは考えないで。お願い」


「……母さん」


「私には、あなただけがいればいいの。あなたしか残っていないの、もう……」


「……」


「あんな出来の悪い子は、いなくなってしまえばいいのよ」


「探してくる。香奈に何かあったら僕は母さんを絶対に許さないから」


 イカナイ デ ……。


「……」

































「……そう。やっとわかったわ」


 タス ケテ


「お前がいるから……──は、私のことを見てくれないのね」


 コワ イ


「お前が!!」


 オニイ ……。


「そうよ。お前さえ……いなければ……」




















 ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆




















 そこに扉なんてなかった。わたしは壁にノックしていたんだ。


 テストの点でも、かけっこの速さでも、容姿でもなかった。


 わたしの存在そのものが母さんにとって憎悪の対象だったんだと、そのことに気づいた
のは、この世界からいなくなる直前だった。


 兄は間に合わなかった。


 優しくて、頭が良くて、面白くて、強い兄。わたしのことをいつも心配してくれた──
わたしは頼るばかりで兄のために何かをしてあげることはできなかった。


 ごめんなさい。血の泡とともに言葉がこぼれ落ちる。


 紅色にまみれ床を這い回っていた私を、母さんは包丁で何度も刺した。ズタズタに切り
刻まれ、血と肉片が辺りに飛び散っていた。


 目に映るものすべてが、紅く、彩られていく。痛みはなかった。ただ、体が酷く熱かっ
たことを覚えている。


 遠のく意識の中、兄の声を聞いたような気がする。けれど、空耳かもしれない。










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