「アンドロイドが真夜中に降ってきたら」 第36話 「10秒前」 腕時計の秒針を目で追いつつ、車椅子の細いタイヤに両手を添え、その瞬間に備える。 宇佐美家脱出計画第3弾。 1と2は失敗に終わった。2度の失敗から得た教訓を生かし、新たな計画を立てた。お 手伝いさんは買い物に出かけている。エナは書斎だ。チャンスは今しかない。 「あと3秒……2秒……」 予定通り、屋敷の2階の一室で目覚まし時計が悲鳴を上げる。同時に、私は屋敷の裏門 に向かって車椅子を走らせる。 エナはたぶん、目覚ましが鳴り続けていることを不思議に思って部屋を出る。音を頼り に2階の突き当たりの部屋に向かって歩く。玄関とは対角線上に位置する場所だ。そこか らであればどんなに速く走っても私が裏門を出ることを阻止することはできない。 案の定、易々と裏門から敷地外に出ることができた。 脱出成功。 「勝った」 3度目の挑戦でようやくエナを出し抜くことが叶った──と思った瞬間、車椅子のどこ かから電子音が鳴り響く。 慌てて音源を探る。持ってきた小さなバッグの中に真新しい携帯電話と水筒が入ってい た。こんなものは入れてない。 携帯は1通のメールを受信していた。私は画面に表示されている封筒のアイコンを開く。 携帯電話に触るのははじめてなのに、使い方はなんとなく理解できた。 『コレと水筒は私からのプレゼントよ、大事にしてね。裏門開けておいたから。夕飯まで には帰ってきなさい。理解ある優しいお姉さまより』 「……」 エナの手のひらの上で佇む自分の姿を想像する。でもすぐに思考を切り替えて、そうこ なっくちゃ、と思うことにする。 乾いた風が前髪を揺らす。ゆったりと見慣れない景色が流れていく。 夏の終焉間際の残滓を吸い込み、まとめて吐き出す。草の匂いが鼻孔を抜けていく。ア スファルトから揺らめきながら湧き出る熱。解放感と僅かな不安。首筋にかいた汗をハン カチで拭う。私は麦藁帽子を深く被り直して歩道を進む。 思わず駆け出したい衝動に駆られる。しかし私はまだろくに歩けない。ふらふらと、生 まれたての動物のように頼りなく立ち上がり、十数歩歩くことができる程度だ。 私は走る自分を想像する。 風を切って通りを走り抜ける様は、思いの中でこんなにも自然なこととして受け入れる ことができるのに、体がまだそれを拒絶していることに苛立ちを感じる。 間もなく、外に出てはじめて他人を目にする。 腰の曲がったお爺さんが前方から歩いてくる。お爺さんは私に気づき、遠くからお辞儀 をする。私もつられて頭を下げる。 距離が近くなり挨拶をしてみると「こんにちは」と返ってくる。私は嬉しくなって2回 目の挨拶をした。 この世界には私やエナやお手伝いさん以外にもたくさんの人がいる。そしてこの街のど こかに伊月進が住んでいる。今は夏の終わり。じきに秋が訪れる。 「……」 このまま会いに……いこうか。 でも車椅子の私を見て、伊月はどう思うだろう。驚くだろうか。悲しむだろうか。私に 会えて喜んでくれるだろうか。私は会って嬉しいと感じるのだろうか。最後の問いに、急 に不安になる。 私は、いつ、彼女の最後の言葉を届ければいいのだろうか。 なだらかな下り坂を少しずつ下りていく。来た道を忘れないよう時々止まって周囲を眺 める。スピードを落とし、注意深く進む。なるべく真っ直ぐ、歩道のある大通りを選ぶ。 自動車が何台も黒い煙を引きずりながら走り去っていく。私はそのたびにハンカチで口元 を押さえることになった。 途中で水筒をバッグから出して麦茶を飲む。自動販売機はあるけれど、私はお金を持っ ていない。見たこともない。 しばらくのあいだ黙々と車輪を回す。 携帯電話で確認すると時刻は15時を過ぎていた。2時間以上、ほとんど休むことなく 前に進み続けた。様々なものを見た。多くの人と挨拶を交わし、すれ違った。 後ろを振り返る。当然の如く屋敷は見えない。 ずいぶん遠くまで来てしまったけど不安はなかった。いざというときは、エナに電話を すれば迎えに来てくれる。 私は小さな公園に入り、水道で喉を潤す。 水筒の中身はとっくにカラだ。 車椅子を降りて立ち上がり、ベンチに座る。心地よい風が周囲の木々の枝葉を大きく揺 さぶる。公園の中心に、水の帯を垂直に吹き上げるだけのシンプルな噴水があった。 霧状になった水飛沫が風に乗って次々と頬に当たる。 少し目線を持ち上げると霧の中に虹が見えた。私は両手を合わせ、声に出さずに願い事 を言う。ただなんとなく。その刹那的な光景は、願えばどんな願いでも叶えてしまうよう な、そんな強い力を私に感じさせた。 太陽は輝きを増し、影は逃げるように何かの後ろにそれぞれ隠れている。どこかで犬が 吼えると、鳥たちは一斉に空に帰っていく。笑顔を向け合い、走り回る子どもたち。学生 服を着た女の子が、隣のベンチに座ってカバンから本を出して読みはじめる。 景色は留まることなく絶えず変化して無限の表情を湛える。 やがて空が闇と混ざり青みを失う。 虹はもう見えないし、子どもたちの姿もなかった。水道水を入れた水筒も再びカラにな っていた。 携帯電話でエナに電話をかける。エナは私の居場所も聞かずにすぐ迎えに行くと言って 切ってしまう。 どうして私のいる場所がわかったのか知らないけれど、10分ほどでエナが車でやって 来る。 エナは軽く微笑んだだけで何も言わなかった。私も何も喋らなかった。 今度はエナの目の前で裏門を乗り越えて外に出てやろうと思いながら、私は助手席に腰 を埋め長く深い眠りに落ちた。 呆気なく私の一人旅は終わりを告げ、翌日からまた苦しいリハビリの日々が続く。 【戻る】 |