「アンドロイドが真夜中に降ってきたら」 〜 Past 11 〜 - Saeko Itsuki - 彼女は、玄関で立ったまま、私のことを見つめていた。 どうしたのと聞いてみる。 「……もう一回言ってもいい?」 今度は、なにをと尋ねる。 彼女は照れたような仕草で答える。 「……ただいまのあいさつ」 私は驚いてしまう。 この子は普段どうやって家に迎えられていたのだろう。 ただいま。おかえり。 こんな普通のやりとりが、彼女にとっては嬉しいことだった。 「ただいま」 私は気持ちを込めて、彼女に贈る。 「おかえりなさい」 それと同時に彼女を憂う。 この子からすべての不幸を取り除いてあげたい、と思った。 ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ 別れの日。 初めてあの子が涙を流したあの日── 私は涙を堪え、ハカナを抱きしめ、それから笑顔で送り出した。 どうして私は、 彼女を引き止めることができなかったのだろう。 エプロンの裾を掴んでいた、小さな手。 震えていることに気がついていた。 全身についた痣や傷やヤケドの痕。 ハカナが誰かから虐待を受けていたのも知っていた。 それなのに、私には何もできなかった。何かをしようともしなかった。 そして。 ハカナは、死んでしまった。 もう一度、彼女の「ただいま」という元気な声を聞くことができるなら。 そのためなら── ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ 月日を費やすにつれて心の傷が癒えていく。 彼女の命日を迎えるたび、苦しみが遠ざかっているような気がする。 目を閉じると、朧気な記憶が蘇る。 彼女を探す日々──瞬く間に過ぎ、最後に彼女の死に辿り着く。 出会いの終着点。 線香の香り。 私は人生の中で一番の悲しみを体験した。 彼女の亡骸は火葬され、小さな骨のカケラと灰になった。 私は、なんて無力なのだろう。 骨と灰が骨壷に収められていく様子を見ながら、泣き崩れることもできず、私はただ自 分の弱さを恨んでいた。 ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ あれから8年。 私たち家族はうまくやってきた。 悲しみを乗り越え、普通の生活を取り戻した。 実篤さんも進も、ハカナのことを口にすることは無くなったけれど、心の奥底には彼女 の存在を大切に残している。 私だってそうだ。 最後の日に感じた、小さな手のひらの感触を忘れることができない。 時折、思い出す。 私たちには家族がもう一人いたのだと。 そして、永遠に、いなくなってしまったのだと。 ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ──お礼を言うのは私のほうです。 ──私は、迷子になったハカナが、あなた方に巡り会うことができたことを、 奇跡に近い幸運だったと思っています。 ──ハカナは、ずっとここで、みなさんのことを待っていました。 ──あの子の人生は短かったかもしれません。子どもにはつらいことが多すぎました。 ──でも、それでも、ハカナは最後に幸せな毎日を送ることができました。 ──あなた方に出会うことができたからです。 片瀬さんは、穏やかな口調で言った。 傘を打つ雨音の中、私は8年ぶりに彼女のために声を出して泣いた。 【戻る】 |