「桜夜」 - sakuya -





 第29話





沙夜「寝たほうがいいわよ」


宏則「……」


 彩を抱いて部屋に運んで、


 沙夜が彩を着替えさせている間に、医者を呼びに行こうとした。


 だが。


 この村に医者はいないわ、と沙夜は言った。


 「詠を呼んできて」という言葉に、ようやく俺は混乱して散らばっていた気持ちをひと
つにまとめることができた。


 全力で神社まで走り、詠を呼んできた。


 なぜ神主さんじゃなくて詠なのか。そんなことを考えている余裕はなかった。ただ言わ
れた通りに、詠を長峰家に連れてきた。


沙夜「聞いてる? 寝たほうがいいわ」


宏則「…お前もな」


沙夜「私はいい」


宏則「なら、俺も起きてる」


沙夜「…あれくらいの吐血なら、前にも何度かあったから平気よ」


宏則「……」


沙夜「……」


 俺たちが長峰家に帰って来たのが午後2時過ぎで、今は午前3時ちょっと前。2人とも
夕飯も食ってない。


 彩は静かな寝息を立てている。


 寝顔も安らかだ。


 詠は「問題ありません」と落ちついた口調で言ったが、俺には信じられない。あんなに
血を吐いて、苦しそうで──それで問題がない?


 俺は自分の服についた血を見つめる。


 真っ赤だった血は服に染みこんで乾き、赤茶色っぽく変色していた。


 呪い…


 こんな風に彩はずっと痛み苦しんできたのか。


宏則「なあ、」


沙夜「なに?」


宏則「この部屋…」


沙夜「彩の部屋よ。そういえば初めてよね、入るの」


宏則「……」


 これが彩の…。


 14歳の女の子の部屋とは思えなかった。


 普段の明るく元気な彩からは想像できない部屋。


 廃屋の一室のような…壁紙はぼろぼろで、タンスや襖も異常と思わずにはいられないほ
ど傷つけられていた。


 そしてそれらはきっと…爪の痕…


 一人ぼっちで部屋に監禁され、食べ物も与えられず、渇きと餓えに耐えながら懸命にこ
こを出ようともがき苦しんだ痕のように見えた。


沙夜「綺麗にしても無駄だから…この部屋はこうしてあるの」


 俺は黒川葉子の日記のことを思い出す。


 病の痛みと苦しみを綴った日記──この部屋とあの日記は同じなんだと思った。


宏則「……」


 沙夜は彩の頭を撫でる。


沙夜「昔…」


沙夜「まだ彩が小さくて、お父さんもお母さんもいた時…よくこうしてお母さんが彩の頭
   を撫でていたの」


沙夜「するとね、彩はすぐに泣き止むのよ。私がいくらあやしても泣いていたのに、お母
   さんが額に手を置くだけで彩は泣き止んじゃうの」


沙夜「それが羨ましくて、どうやったら彩を泣きやますことができるんだろうって、撫で
   方を真似したりしたんだけど、できなくて…」


沙夜「お母さんに聞いたら、教えてくれたの」


宏則「なんて?」


 沙夜は俺の質問を無視して、


沙夜「もしかしたら、彩は大丈夫かもしれない…そう思うの」


 話題を変えた。


 幼かったころの彩を泣きやます話と、彩が大丈夫(村を出ても平気ということだろう)
という予測がどう繋がっているのだろう。


宏則「理由は?」


沙夜「まだ言えないわ」


沙夜「…桜居さん……きっと怒るから。村には村の、意思というものがあるのよ。流れと
   言ったほうがいいかしら」


宏則「わからない」


沙夜「村を出ることができたら、教えてあげるわ。全部」


宏則「……」


沙夜「桜居さん、」


宏則「なんだ?」


沙夜「…ごめんなさい」


沙夜「私には、皆を救うことはできないわ。あの子を犠牲にしてしまうことを…」


沙夜「許して欲しい…」


宏則「あの子?」


沙夜「……」


宏則「一体、何をしようとしているんだ?」


 まったく話が見えてこない。


 彩が村を出ても大丈夫?


 理由を今は話せなくて、それを話すと俺が怒る?


 あの子を犠牲に…? 誰のことだ? 彩か? それとも詠か?


沙夜「ううん、私は何もしないの。今更、救いの手を差し伸べても、意味を為さないのよ。
   誰も喜ばない」


宏則「……」


 沙夜の悲痛に満ちた表情を見ていると、何も言うことができなかった。


宏則「…今は何も聞かないことにする」


宏則「お前が、それが正しいと思うならそうすればいい」


沙夜「何が正しいかなんて分からないわ。ただ私は、彩のことを一番に考えたいの。それ
   だけ」


宏則「わかった…」


 いつしか俺は座ったまま寝てしまっていた。


 台所から流れてくる味噌汁の匂いで目が覚めた。隣には、タンスに寄りかかって眠る沙
夜の姿があった。


 沙夜を起こさないように部屋を出て台所に行くと、


 倒れる前と変わらない彩がいて、


 朝食を作っていて、


 何事もなかったかのように、元気な声で「おはよう、桜居さん」と言った。










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