「桜夜」 - sakuya - 第30話 「ざん?」 聞き返すと、お母さんはそうよと言った。 「彩にはまだ難しいのかもしれないわね」 「うん、むずかしい」 お母さんはあたしに難しい話をすることが多かった。 「これを見て頂戴」 「わぁ、指輪」 お母さんは左手の薬指に指輪をみっつ重ねてしていた。ひとつは金色で、もうひとつは 銀色、そして指の根元には茶色い指輪があった。 「きれいだね」 「お父さんにもらったの。ひとつは違うけど」 お父さん… 死んでしまったお父さん… あたしはお父さんのことを何一つ覚えてない… 「じっとこの指輪を見ていて」 「うん…」 「じゃあ、そのまま目を閉じてみて」 あたしは言われたとおりに目を閉じた。 瞼の奥にはまだ輝く指輪の残像が残っていた。でもすぐに淡い闇に塗りつぶされてしま う。何も見えない。 「何か感じないかしら」 「うーん」 お母さんの期待に答えようと集中してみたけど、何も感じなかった。 「うーん」 あたしと一緒になってお母さんも唸っていた。 「今日は終わりにしましょう。もうすぐ沙夜が学校から帰ってくるわ。そうしたら、おや つにしましょうね」 「うんっ」 「今日はクッキーにしましょうか」 「やったー。あたし、お母さんのクッキー大好き」 「もうすこし彩が大きくなったら、作り方を教えてあげるわ」 「ほんとう?」 「ええ、本当よ」 「はやく大きくなりたいな」 お母さんはあたしの頭の上に手を置いて、神様に祈りを捧げた。それから布団から出て、 ゆっくりと立ちあがった。 あたしが物心ついた時には、お母さんは体調を崩していて、年を負うごとにだんだんと 具合は悪くなっていった。 「彩、」 「なーに、お母さん?」 「お父さんはね」 ……。 「絶対に村に帰ってきて、私たちに会うんだって──一生懸命に頑張ったんだけど、辿り つけなかったの」 「…うん」 「村の人たちが色々なことを言うかもしれないけれど」 「…うん」 「お父さんのこと、」 「うん」 「お母さんは今も大好きよ」 言って、笑う。 その微笑は、あたしやお姉ちゃんに向けられるものとは違っていた。笑顔の中には様々 な感情が含まれていた。 「彩にお願いがあるの」 彩── いつか、助けてあげて欲しいの── お母さんは確かにそう言った。 私は満足に歩くこともできなくなってしまったから── あなたが代わりに── あたしはまだ幼くて、本当はお母さんが何を頼んでいるのかさえ分かっていなかった。 ただお母さんが悲しそうな顔をしていたから。 だから、 あたしは返事をしたんだ。 「あたしが──を助けてあげるよ。だから心配しないで」 誰を? あたしがお母さんの代わりに助ける? お父さんを? 死んでしまったお父さんを助ける? それともお姉ちゃんを? わからない。 思い出せない。 ……。 …。 あたしにはお母さんがあの日、誰を助けるのかを話してくれたのかさえ思い出せなかっ た。あたしが思い出せるのはこれだけ。 お母さんから習った切(キリ)や残(ザン)は、すべては、あの時のお母さんの頼みご とに関係しているに違いなかった。 彩「……」 どうして今になってこんな夢を見たのだろう。 あたしは天井を見ながら、夢のことを考えていた。あたしの部屋で唯一綺麗なのは天井 だけだ。 彩「…ん」 左肩から背中にかけてが痛んだ。 彩「お姉ちゃんに…桜居さん」 沙夜「具合はどうかしら、彩」 彩「お姉ちゃん…あたし…」 沙夜「ごめんなさい。私が散歩になんていかなければ…」 彩「お姉ちゃんのせいじゃないよ。夜までは大丈夫だって思ってたんだけどね」 沙夜「あまり心配させないで」 彩「…うん」 彩「そういえば、デート楽しかった?」 沙夜「ばか」 彩「ふふ。お姉ちゃん、顔が真っ赤だよ」 沙夜「そ、そんなことない」 彩「うん。冗談だよ」 沙夜「……」 彩「お姉ちゃん、目が怖いよ…」 沙夜「そう?」 彩「ごめんなさい」 お姉ちゃんは表情を柔らかくして、 沙夜「とにかく良かったわ。ちょっと最近、周期の間隔が不安定ね」 彩「…うん」 沙夜「あ、」 彩「ん?」 沙夜「彩にプレゼントがあるの」 彩「プレゼント?」 沙夜「はい、これ。見覚えがあるでしょう?」 彩「これって…」 沙夜「まだ彩に合いそうにないと思ったから、こうしてみたの。あまり可愛くないかもし れないけど……大切にしてね」 彩「ありがとう、お姉ちゃん。すごく嬉しいよ」 沙夜「うん」 宏則「…んん」 沙夜「一緒に起きてるって言っておいて寝てるし…いい気なものね」 彩「お姉ちゃん、ごめんね」 沙夜「いいのよ。そんなこと言わなくて」 彩「お姉ちゃん…」 沙夜「なに?」 彩「……」 夢を見た後だからかもしれないけど、お姉ちゃんの口調や仕草は夢の中のお母さんにそ っくりだった。 誰がなんと言おうと、お姉ちゃんはお母さんの子どもであたしのお姉ちゃんだ。 沙夜「言っていいわよ」 彩「お母さん…みたい」 お姉ちゃんは優しい目をして、あたしの頭を撫でた。それがまた夢のお母さんと重なっ て見えて、あたしはお姉ちゃんに抱きついた。 お母さんはもういない。 お父さんももういない。 でもあたしには、お姉ちゃんがいる。 こんなにも優しくて温かいお姉ちゃんがいてくれる。そのことが幸せで、同時に、あた しのような妹を持ってしまった、お姉ちゃんのことが可愛そうで悲しくなった。 【戻る】 |