「桜夜」 - sakuya -





 第36話





 かすかに川の流れる音がする。


 俺は彩を背負い、暗い山の中を進む。


 隣には沙夜がいて、


 弱音ひとつ吐かず、重い荷物を持って黙々と歩いている。


彩「ん…う…」


 不意に彩が目を覚ます。


沙夜「どうしたの彩。眠ってていいのよ」


 彩はまだ眠そうな両目を擦り、


彩「下ろして、桜居さん」


宏則「いいのか?」


 俺は膝を曲げて彩を背中から下ろしてやる。


 彩は周囲を見回す。


 そして暗闇の一点を見つめ、そのままその方向に歩きはじめる。


沙夜「どこに行くの、彩?」


彩「こっちにいるんだよ」


宏則「いる? 何がだ?」


彩「…お父さん」


 俺はそれを聞いて彩が寝ぼけているのだと思った。


 でも、口調はしっかりしている。


 見た目もいつもの彩だ。


沙夜「彩、お父さんの夢を見ていたの?」


彩「違うよ」


 そう言って彩は奥へと歩いていく。


 水の流れる音が大きくなってくる。


彩「あたし、思い出したんだ」


彩「お母さんは、あたしにお父さんを助けて欲しいって言ったの」


沙夜「お父さんを…助ける?」


彩「ようやくわかったの。この日の為にお母さんは、残(ザン)と切(キリ)のことを教
  えてくれたんだって」


宏則「どういうことだ?」


彩「見えるはずだよ、お姉ちゃんにも桜居さんにも」


彩「残(ザン)は思念のかたまり。悔しいとか、悲しいとか、痛いとか、そういう気持ち
  が何かに移ったもの」


 それは前に彩から聞いて知っている。


 沙夜は、わからないという顔をしている。


彩「あそこに橋があるよね」


 彩は指で示す。


 歩く先に橋が見えた。


 橋があるということは、当然道路がある。


 ようやく森を抜けることができたのだと分かり、俺は安堵する。


宏則「……」


 この景色、見覚えがある。


 アイツの墓参りに行く途中の道だ…。


沙夜「明かりがあるわ」


 橋の上に光が見える。


彩「あれは明かりじゃないよ」


 彩はそう言うが、どう見ても外灯の明かりにしか見えない。


 俺たちは木々のあいだを抜け、道路に出る。


 ついに外の世界に戻ってきた。


 アスファルトの地面を踏みしめ、それを実感する。


彩「やっぱり…」


 早足で歩き出した彩の後ろを、俺と沙夜はついていく。


 橋の上に着くと、彩は空を眺める。


 どんよりとした雲が月を覆い隠そうとしていた。


 しかし、橋の真ん中あたりに外灯が立っているので明るい。弱々しいけれど確かな光が
橋とその周囲を照らしている。


宏則「ここは…」


彩「桜居さんが川に落ちた場所だよね、多分」


 そうだ。


 間違いない、俺が原付もろとも川に落ちた場所だ。


沙夜「どうしてわかるの、彩」


 村を出たことのない彩がこの場所を知っているはずがないし、この道路には橋なんて幾
つもある。


彩「桜居さんは、落とされたんだよ」


沙夜「ねえ…」


沙夜「その外灯、何か変よ…」


 沙夜が恐れを露にして俺の腕にしがみついてくる。


 俺は外灯を見る。


 どこにでもある外灯だ。


 だが──


 その不自然さに気づき、俺は唖然とする。


 外灯の蛍光灯カバーは割れていて、蛍光灯も取り付けられていない。


 この状態で光を放つはずが無いのだが、モヤのようなものが蛍光灯の部分に集まり、鈍
い光を放っている。


 途端に背筋が冷たくなる。


宏則「なんだよ…これは」


 俺は後ずさる。


彩「『残』だよ。それも、もの凄く強い『残』。沢山の負の気持ちを取り込んで、目に見
  えるほど大きくなったみたい」


宏則「これが…」


彩「この中にお父さんがいるんだよ…」


沙夜「…気持ち…悪い」


 そう言って、沙夜はしゃがみ込んでしまう。


彩「桜居さん、お姉ちゃんをこの場所から遠ざけて」


 俺は言われたとおりに、沙夜の体を支えて橋から離れた場所に連れて行く。


 荷物を置く。


沙夜「…少し…楽になったわ」


宏則「彩のところに行くけど、いいか?」


沙夜「嫌」


沙夜「と言いたいけど、彩が心配だから行って」


宏則「何かあったらすぐに呼べよ」


沙夜「…うん」


 彩のもとに走る。


彩「お姉ちゃんは、大丈夫?」


宏則「ああ」


彩「桜居さんは?」


宏則「問題ない」


 強がって笑って見せるが、正直なところ気分が悪い。


 胃の中をスプーンか何かでかき混ぜられているような不快さだ。


 酷い吐き気がする。


 だが、彩を一人にするわけにはいかない。


宏則「彩、さっき『残』が俺を川に落としたって言ったよな。どういうことだ」


彩「多分、最初は事故か何かだったと思うんだけど…」


彩「この橋で、人が亡くなってるんだよ」


彩「痛くて、苦しくて、とても悔いの残る死に方で──それが原因で、この場所に強い『
  残』が生まれたの。『残』は、橋を通る人たちに影響を与えながら、力を増していっ
  て、今の状態になったんだよ」


宏則「影響?」


彩「ここを通る人を嫌な気分にさせたり、傷つけたり、場合によっては死に追い込んだり
  ということ。そのせいで、さらにこの場所に『残』が溜まっていって…こんな風にな
  ったんだよ」


 白いモヤを見上げながら、言う。


彩「きっと、」


彩「お父さんは…村に帰ってくる途中で、この『残』に橋から落とされたんだよ。すごく
  悔いを残して死んでしまったから、そのまま『残』に取り込まれて…」


彩「お母さんはそれを知ってて…」


彩「お父さんを助けて欲しいって、あたしに言ったの。お父さんの魂は死ねずに今もここ
  にいるの…お母さんに会うこともできないで…」


 これが元凶なのか。


 二人の父親を殺し、俺を川に落とした。


 もしかしたら。


宏則「その『残』の中にアイツは…いないのか」


彩「アイツ…? あ、黒川さんのことだね」


 彩は目を閉じて頭を下げ、真っ直ぐモヤのほうを向く。


彩「いない…と思う。たくさんの思念が混ざってるから、その中でも強いものしかわから
  ないんだよ」


宏則「そうか」


彩「ごめんなさい、桜居さん」


宏則「謝ることじゃない。ありがとう、彩」


 彩は照れくさそうに微笑み、それから表情を引き締め、壊れた外灯の下に立つ。


 いつだったか彩は、





 『たとえばね、さっきみたいに石で転ぶとするでしょ。転んだ人が痛いと思うと、その
  瞬間の気持ちがその人から抜け出して、石に入っちゃうことがあるの』

 『石だけじゃなくて人形でも木でも、どんなものにでもそう。お母さんは人から人以外
  のものへと移った気持ちのことを『残』(ザン)って呼んでた。マイナスの気持ち…
  …痛いとか苦しいとかのほうが純粋で強いから、周囲のものに入り込みやすいんだよ。
  だから『切』をして『残』を散らす必要があるの』





 キリをして、ザンを散らす…。


彩「……」


 じっと『残』を見つめ、呟く。




彩「つらかったよね」


彩「くるしかったよね」


彩「いたかったよね」




 優しい口調で言う。


 慈しみに満ちた、心のこもった言葉で。




彩「もう、大丈夫だから」


彩「あたしが助けてあげるよ。みんなを、助けてあげる」


 彩は、両手を合わせ、意味の理解できない呪文のような言葉を紡ぐ。


宏則「…あ」


 空気に溶けていく感じで、『残』の光が急速に弱まっていく…。


 小さな光の塊がひとつ、中空に残される。







 ── おかえりなさい、お父さん ──







 その一言を最後に、辺りは本来あるべき暗闇に戻った。


 『残』は消え、それに伴い、不快さもなくなった。


 月明かりの下、彩は俺に抱きつき、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくる。


宏則「…沙夜のところに戻ろうな」


 かけてやる言葉なんて、何も無いような気がした。


 彩の体を支え、歩き出そうとした時──急に意識が揺らいだ。全身の力が抜け、懐中電
灯を手から離してしまう。


 俺は、気を失った。










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