「桜夜」 - sakuya -





 - Another Story C/C -





 犬の鳴き声がした方に歩いてきて、冴子は御神木の前に着いた。しかしそこにいたのは

犬ではなく白い猫だった。彩たちが飼っていた猫だ。

「……」

 白猫は冴子の足下にやってきて顔をなすりつけ、喉を鳴らす。

「こんな私に、まだ懐いてくれるのね」

 どうしてこの場所に。

 ということは、さっき吠えたのは、この白猫と一緒に詠が引き取った500円という名

の犬だろうか。ふと思う。

 しかし、冴子のそんな思考は、目の前の現実によって停止した。

 御神木にもたれかかるようにして詠が倒れていた。白い巫女装束は、血と水が混ざった

せいか薄ピンク色に変色している。

「どうして……」

 顔から生気は失われていた。紫色の唇の間から吐息は感じられない。首筋には不自然な

ほどの多くの血管が、蜘蛛の巣のように青白く浮き出ている。

 詠の体は冷たくなっていた。まるで御神木に吸い寄せられ、そのまま幹の一部になった

ように見える。

「詠……」

 そっと手を握る。

 ひやりとしたがまだ少し温かかった。呼吸はしていない。

「そんなに苦しそうな顔をして……ここに何を求めてやってきたの……」

 にゃー。

 白猫が鳴く。

 冴子のことを見上げる。

『どうしてこの人は眠っているの?』

 大きな瞳でそう問いかけてくる。

 冴子は白猫を抱きかかえ、うつむき、嗚咽を漏らす。腕の中の白猫が冴子の頬を舐める

と、堰を切ったように涙が流れた。

 復讐は果たした。

 蓄積された憎悪は、喜びや幸せなどには変わらなかった。わかっていた。なのに。耐え

難い不快さと心細さで体の震えが止まらない。

 自分の娘までも殺めてしまった。

 どんな形で生まれてきた子であれ、詠は間違いなく冴子の子どもだった。優しく、純粋

で、素直な子だった。

 その子の未来を奪ってしまった。この手で。

 にゃー。

 猫が鳴く。

 頬を嘗める舌が温かい。

「私、」

 にゃー。

「私は……なんてこと……」

 白猫は冴子の手を離れ、詠のもとに歩き、飛び上がって胸の上に乗った。そして冴子の

方を見ながら、また鳴いた。

 村にあるすべての家が燃えていた。既に燃え尽きた家もある。御神木のある川原周辺ま

で灰色の煙が流れてきている。空には無数の星々が望めた。

 詠の胸の上で白猫は丸くなる。大きな欠伸をして、冴子のことをしばらく眺めてから眠

ってしまう。

 冴子は両膝をついて、額を冷たい地面につけた。

 どれだけ時間がたったのかはわからない。

 いつのまにか夜が明けていた。

 眠っていたのか。

 それとも泣き続けていたのか。

 冴子にはわからなかった。ただただ、苦しかった。たとえようの無い苦しみ。それは、

今まで味わったことのない、絶望的でありながら静かな苦痛──

 にゃー。

 白猫が鳴いた。

 冴子の地面についた腕に頭を、次にしっぽをなすり付けてくる。その小さな頭の上には、

桜の花びらが一枚乗っていた。

 桜……?

 冴子は、花びらを手にとる。

 神事のときには満開だった桜の花も、みな落ちてしまった。風であおられた花びらが猫

の頭の上に乗ったのだろうか。

 手のひらに置いた桜の花びらは瑞々しく、今の今まで咲いていたもののように思えた。

 御神木を見る。

 当然ながら枝葉しかない。葉が少ないので、枝と枝の隙間から空が見える。しかしそれ

でも御神木は十分に存在感があった。

 冴子は視線をまた手のひらに戻した。

 だが。

 花びらはなくなっていた。






 突然──冴子の周りは、巨大な影に包まれた。






 再び御神木を見上げる冴子。緑の葉と枝だけとなっていた桜の木には、満開の桜の花が

色づいていた。

 信じられないといった表情で冴子は御神木を眺める。

 花びらが舞っていた。

 視界一面の桜。

 ざわざわと枝が揺れ音を立てる。

 その圧倒的な景色は、冴子の苦痛を一瞬で奪い去った。御神木の下から詠の亡骸はなく

なっていたが、冴子はそれを不思議なことだとは思わなかった。

 どこかで猫が鳴いた。

 夢。

 これは夢だ。

 なぜなら冴子の前に、さらに目を疑う者が現れたから。

 何度、夢に見ただろう。

 何度、共に過ごした瞬間を思い出しただろう。

 何度、

 何度も、

 冴子を勇気づけ、励ましてくれた存在──死んでしまったはずの男が立っていた。男は

何も言わず、冴子のことを見ている。

 思い出が溢れてくる。

 言葉が出ない。

 様々な思いが喉の奥でつかえ、声にならない。

 男は、ただ一度、冴子に向かって微笑んだ。

 冴子は泣き崩れた。心から素直に泣くことができた、子どもの頃のように。










 ◇ ◆ ◇




















 その日は快晴だった。

 桜の巨木はいつもと同じ場所で、いつもと同じように佇んでいる。

 枝に止まった野鳥が機嫌良さそうに囀っている。

 木の下に、女がひとり倒れていた。女は、村の神主である沢角冴子だった。顔を横に向

け、うつ伏せに倒れたまま動かない。

 柔らかな表情からは、眠っているようにしか見えない。眠る女の隣には、真っ白い猫が

丸くなって眠っていた。




 強い風が吹いても、

 日が暮れても、

 女と白猫が再び目を覚ますことはなかった。










 ◇ ◆ ◇







































 街に帰ってきて、1ヶ月が経った。


 なんてことはない。


 俺がこの街で一人暮らしをしながら築いてきた生活のサイクルに戻っただけだ。


 村での生活が特殊だったんだ。


 あそこには2週間もいなかったのに、ずいぶん居たような気がする。


 ひとりの生活にまだ違和感を感じる。


「……」


 こうして一人で飯を食うのも、なんだか寂しい。


「しっかりしろ、俺」


 独り言を呟く。


 じきに慣れる。


 別に、一生の別れになった訳じゃない。


 沙夜と彩は、父親の母親、つまり祖母の家に住んでいる。


 2人を送り届けるときに行ったきりだが、これがまたド田舎で、住所は町となっている
のにコンビニすらない。


 でもまあ、


 あの村での暮らししか知らない彩には丁度いいのかもしれない。


 長峰姉妹の婆さんは、今も現役の産婦人科医だった。


 違法じゃないのかと訊いたら、耳が聞こえないフリをして誤魔化していたくらいだから、
それなりに元気みたいだ。


 婆さんは、2人の孫を見てとても嬉しそうだった。


 一緒に暮らすことを快く承諾してくれた。


 そこで俺たちは、2人の父親が一度だけ村を抜け出してやってきて、彩の出生届を出し
て欲しいと婆さんのところに頼みに来たことを話してくれた。


 沙夜が両親の死を伝えると、婆さんは、母親より先に死ぬバカがいるかと怒ってから、
しばらく言葉を詰まらせた。


 俺は婆さんに何度も礼を言って、自分の街に帰った。ちなみに、婆さんの家までは電車
を4回乗り継いで片道5時間かかる。


 こうして、


 俺は元の生活に戻った。


 たまにかかってくる二人からの電話が、村での出来事を思い出させる。


 それと玄関に立てかけてある金属バット。


 沙夜が黒マジックで『護身用』と書いて、俺の部屋に置いていったものだ。


 これも俺にあの村のことを思い出させる。


 詠のこと。


 神主さんのこと。


 大きな桜の木のこと。


 シロシロのこと。


 神事のこと──


 先週、夜中に彩から電話がかかってきて、村で飼っていた犬──500円が彩たちのと
ころに来たという話を聞いて驚かされた。


 興奮した彩の声の向こうで犬が吠えていた。


 実際に見たわけじゃないから絶対とは言い切れないけれど、それは確かにあの犬の声の
ようだった。


 まあ、元飼い主が500円と言ってるのだから、本当なのだろう。


 シロシロもいつか二人のところに戻ってくるのだろうか。


「……」


 とりあえず。


「バイト、行くか……」


 彩と沙夜は、3日ほどこの部屋にいた。


 その間、色々と出費がかさんだ。


 金欠で、今は、2人に会いに行くこともできない。


 でも、なんとか今月中に金を貯めて、2人がこっちに遊びに来る前に、こっそり俺のほ
うから会いに行こうと思っている。


 俺には、沙夜に対して、まだ伝えてない、伝えたい言葉がある。


 それを届けに行きたい。










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