名選手の驕り (00/01/30)
作・つめきり
今の野球ファンは松坂や上原程度で驚いている。
私が対戦した投手と比べてもせいぜい4番手か5番手の投手だ。
先日購入した「プロ野球戦国志99年度版」に掲載されている名球会・張本勲氏のコラムの1文である。
コラムを一通り読んだ後、私は猛烈な怒りを感じた。
全文を引用することはとても出来ないが、張本氏の持論は結局最後の締めに凝縮される。
プロ野球選手としての練習不足とハングリー精神の欠如、過保護に甘えていることが、昔と比べてプロ野球の魅力を半減させ、傑出した選手が出てこない大きな要因となっている。
要するに氏が言いたいのは、
「俺達は寝る間も惜しんで毎日練習をし、常に野球のことを考えて生活していたのに、今の選手は昔に比べて野球に対して真摯に取り組んでいない。だから大した成績も残せないのだ。」
ということである。
はっきり言って昔の選手と今の選手を比べることは何の意味も無いことであり、全くのナンセンスである。今と昔では選手を取り巻く環境があまりにも違うからだ。
ここで誤解しがちなのだが、「今の選手は子供の頃から恵まれていて、努力をしたことがあまりないからしょうがない」ということでは全く無い。
仮にそういう理由だったら私は張本氏の意見に全面賛同する。
ナンセンスを承知であえて、私なりに氏の言うところの往年の名選手がその全盛期に現在のプロ野球の現役の一員だったとしたら。
私は張本氏の意見とは全く逆で、せいぜい今の選手と同等にやれる程度であろう。
何故か。研究力の違いである。体力や精神力を今と昔と比べてどちらが優れているか、ということは計る術は無い。その上数十年で人間がそれ程飛躍的に体力が劣化するとは考え難い。
しかし研究力、言わばコンピューター等を駆使した相手選手の研究する手段と言うのは、昔よりも明らかに向上している。
アソボウズ等がそのような研究していることは有名だが、それによって打者は苦手なコースを徹底的に明かされ、投手は球種によるわずかなフォームの違いを丸裸にされる。
そんな中で往年の名選手は昔と同等の成績を上げることができるであろうか?
その現役時代の努力でコンピュータを凌駕するほどの鑑識眼を持って弱点を克服できていたのであろうか?
その有り様を張本氏は「そんな力と力の勝負でない状況は本来のプロ野球の姿ではない。」逆に非難するかもしれない。
しかし、考えてもらいたい。夜も眠らずに相手を研究しその挙句に選んだ手段がコンピュータ等科学を使った手法ではなかったのか?
私が知っている中では例えば世界の盗塁王福本豊は自分の盗塁力を高める為に投手のビデオを集めそれを何度も見ることにより投手のクセを見抜く研究を日夜していたという。
そして現在の選手が使っているコンピュータ解析にしろ、張本氏と同世代の監督やコーチが取り入れたものであるのだ。
このように野球に関する環境が明らかに昔と今では違う中で比較するのはナンセンスであると私は言いたいのである。
また張本氏は現在の選手の練習不足などを
野球を3時間だけやってあとの時間は自分の
リクレーションだといって時間を自由に使っている
と嘆く。
確かに今の選手の中で野球観の甘い選手はいるかもしれない。
しかし、それは昔であろうと人間の集団である以上同様の選手は居たはずである。但し、それでも張本氏が目に余るように感じるのにもそれなりの理由があると私は考える。
現在プロ野球事業は年々拡大し、社会的影響も昔に比べ強くなっている。昔のほうが熱狂していたと考えもあろうが少なくともプロ野球を中心に動くお金は間違い無く昔に比べて多くなっている。
当然スポーツ紙を始めとするマスコミの力は強大になり、プロ野球ファンへ入ってくる情報も格段に増えている。当然そうなると選手一人一人はその一挙一動を注目されることになる。
冒頭の引用で張本氏は現在のプロ野球ファンのレベルの低下を嘲笑するようなことを述べているが、先程も述べたようにファンといえども昔と比べて遥かに情報量を持っている。それはインターネットを始めとする情報社会の賜物でもあるし、張本氏を始めとする往年の名選手の数々の名プレーの蓄積を伝聞で我々は聞いてきたからである。今や解説者並の意見を述べられる野球経験の無いファンが大勢いる。
そんな目の肥えた人々の中でプレーする選手は、少しでも気を抜けば重箱の隅をつつくように容赦なく叩かれ、気分転換をたまにすればそれをマスコミに大袈裟に取り上げられる。
マスコミ力や世論が弱い昔であればそれは闇に葬られたであろうことであってもだ。
張本氏はその辺りをすこし鵜呑みにし過ぎているのではないか?
さらに、氏は今と昔を比べる際に成績を持ち出す場面が何度か見られたが、その手法にしても少々疑問を感じる。
確かに昔の選手の成績には今の常識から考えたら驚くばかりの数字が並んでいる。
しかし、プロ野球選手の本業はファンを集めることである。ファンを集めるのに最も有効なのは優勝することである。
優勝するためには、自分の成績を捨てなくてはいけない場面も多数存在する。
だから成績が悪くてもしょうがない、とは言わないが、張本氏と同世代の元名選手はどうも、成績至上主義者が多いように感じる。
その理由に私は一つ思う所がある。
張本氏達が名を馳せた時代、昭和40年代。当時優勝を目指すことが非常に困難だった時代である。
つまり巨人V9時代である。
もちろん張本氏は当時パリーグの東映フライヤーズ(現日ハム)の選手であり、巨人とはリーグが違う。
但し、あまりにも巨人が強い為、当時絶対的強者が居なかったパリーグ全体も常に巨人を意識していた。
だからリーグ優勝しても巨人に勝たなければ意味がないという雰囲気がパリーグにあったはずだ。
それでも、巨人には勝てない。何せ9年連続日本一になるくらいだったからその強さは他球団の選手に「優勝は幻想である」、と思わせるのに十分な強さだったのであろう。私が肌で感じている西武黄金時代とは比べ物にならないほどであったと想像できる。
失礼を承知で言うならば、張本氏を始めとする巨人以外の選手は負け犬根性が染み付いて個人成績にこだわっていったのではないだろうか?
現在のプロ野球の状況は当時と全く違う。
巨人が絶対的な強さを持たなくなり、さもすればどこの球団が優勝してもおかしくない時代である。パリーグにしても強者巨人が無くなり、そして王者西武の時代も終わった。
その中で、選手個人が自分の成績よりも優勝を目指すようになるのは至極当然なのである。
逆に現在の景気状態の中でチーム成績が良くないのにも関わらず自分の成績だけが良くなっても、下手をすればリストラの対象にだってなりかねない。
そんな中で選手は時代時代に合わせた処世術でプロ野球生活を全うしようとそれなりに必死なのである。
最後に、私が何故張本氏のコラムを読んで怒りを覚え、そしてこの様に反論するのか。
何も揚げ足を取るつもりはさらさら無い。
過去に栄光を残し、そして球界を成功の元に去り、今現在も解説等で少なからずも球界から禄をもらっている以上、彼らは球界のご意見番としてプロ野球の発展に貢献しなくてはならない。
もちろん厳しい言葉も必要だ。
しかし、時には暖かく現役選手や現場に今も残る首脳陣を見守ることも必要なのではなかろうか?選手たちを理解する努力が必要なのではないだろうか。
張本氏の言う
「もう王貞治や、江夏のような選手は二度と出てこないであろう」
とはとてもプロ野球界の発展を望んでいる者の言う言葉ではない。
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