証 し 〜 主の十字架クリスチャンセンター長岡教会

更新日 2003-12-01

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私たちは永遠に

 「代価を払って買い取られ、与えられた(永遠の)命」
 母の祈りを引き継いでいた私

詩篇78:3−4、6−7
「それは、私たちが聞いて、知っていること、私たちの先祖が語ってくれたこと。
それを私たちは彼らの子孫に隠さず、後の時代に語り告げよう。
主への賛美と御力と、主の行なわれた奇しいわざとを。
・・・後の世代の者、生まれてくる子らが、これを知り、
彼らが興り、 これをその子らにまた語り告げるため、
彼らが神に信頼し、神のみわざを忘れず、その仰せを守るためである。」

ずる休みはやめ

 私は小さい頃から、両親につれられて兄弟そろってプロテスタントの教会に行っていました。本を読むのが好きで、聖書の絵本もよく読みました。日曜日は教会に行くのがあたりまえでした。しかし、無理矢理連れられているといった意識はありませんでした。ただ一度行くのが面倒になり、どんなに母親に呼ばれても布団から出ないで、願い通り置いて行かれたことがありました。そのまま寝ていました。しかし、起きたらもう礼拝の終わる時間になっていて「行かなくてもたいしていいことがあるわけではない」と分かり、ずる休みは一度でやめました。

              
             兄弟、母、親族らと(前列左から三番目・筆者:小学生)

 

選べない

 小学校三、四年生のある日、学校で紙が配られ、クラスメイト一人一人の長所と短所を書くことになりました。そして、自分に書いてもらった紙を受け取ったのですがその書かれた短所の内容がひどく心に留まってしまいました。
 教会でたびたび聞く「信じたい人は手を上げて」の言葉に、パッと手を上げる子がうらやましいなと思いました。信じるという唯一の選択を自分からは選べなかったのです。
 自分が「信じたい」と言ったとして、何か神様のためになることが一つでもあるかな?と考えると、結論は「ひとつもない」だったのです。信じればクリスチャンになれるという意識はあったのですが、自分がクリスチャンになっていいのか?と思うと臆病になってしまうのでした。
 手を上げられないまま「ああまたこのチャンスを失った」という残念な気持ちになりました。
「この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません」 (マタイ18章14節)、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」 (ルカ 15章7節)
 問題はただ一つ、私が信じるか否かでした。神は信じることを望んでおられます。そしてひとりも滅びることを望んでいないのです。

 

その日は突然やってきた

 小学五年生、最後の日曜学校の日。 いつものように担当の先生が聖書の話をしました。ただ内容がいつもと違っ ていました。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」( 第1コリント6章20節 )
自然と耳がダンボになって聞いていました。
「私達は代価を払って買い取られ、その代価とはイエス様の命です」言葉がそのまま私の心に入ってきました。そして、何度も聞いた十字架の話(子なる神であるイエス・キリストが私の罪のために地上に来て代わりに十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえられて、今も生きていること)がはっきりと分かっ たのです。
 だれも必要としていない悪影響しか与えないような私を、わざわざ代価を払って自分の物としてくれた。それも代価とは「命」で、父なる神は最愛の一人子を私なんかの身代わりに捨ててくれた。イエス様は私のかわりに自分の命を捨ててくれた。私のためにそこまでしてくれる方がいたんだ〜、驚きと感激があふれ出しました。
 誰にも必要とされていないと思って閉じていた私の心に、神様のほうから来てくれたのです。あとは「信じたい人は手を上げてください」という言葉を心待ちにし、言われた時に喜んでそっと手を上げました。私はとうとうイエス様を主と信じて受け入れる告白の祈りをし、救われたのです。

 

体験がないまま

 母が、何かを決める時神様に祈って聞いていたのを、姉は小学生の頃から聞いていたようです。しかし、私は全く知りませんでした。神様に、どうしていいか分からないことを祈って聞くことはありませんでした。そのため、個人的な神とのはっきりした体験はなく、確信も揺らいできて自分が変わった感じはしませんでした。
 自分勝手というだけでなく、私には家族への愛情や興味というのが欠落していました。家族に自分のことを話すことはなく、愛されている、という実感がありませんでした。兄弟の中で自分だけ叱られないように感じて、自分はこの家の本当の子ではないのかもしれないと思ったこともありました。その様な私に思わぬ事が起きました。

 高校に入学してすぐに母が胃の手術をし、その年の冬召天したのです。母の入院の時、一度目は姉が夏休み返上で付き添い、再入院の時は私が学校帰りに毎日病院に行きました。
 召天するまでの二週間、母がどうだったかというと、時々「痛いからさすって」と言うものの、あとはいつもの母と変わりありませんでした。悲しむ姿も怒りも恐怖もありませんでした。私も治ると思っていたので、何も心配せずに宿題をしたりしていました。
 二週間たった土曜日に、叔母と二人で泊まりました。私はベットの横に椅子を置いてすわり母の手に触っていました。何の気無しにちょっと握ると、寝ていると思っていた母が握り返してきました。何度か繰り返しました。こんなささいなことですが、普段感じてなかった母の愛を感じて、うれしさが込み上げました。
 翌朝、同じように手を握っても返事がないのです。看護婦さんが来て医者が来て、最後の処置が始まりました。
 その時、急に母がすごいうれしい顔をして、満面の笑みで、天井を見ながらペラペラペラ〜と何か言ったのです。私は直感しました。母にはイエス様が見えて、そのイエス様に向かって「ハレルヤ!イエス様。やっとあなたの所に行けるんですね!」と喜び叫んだんだと。
 その後、母は静かに息をひきとりました。涙はとまりませんでしたが、母はイエス様のいる天国に行ったと分かり、安心でした。母の信じていた神様って本当の神で、本当にいるんだと泣きながら思っていました。
 同時に、今私が死んだら天国に行けるのだろうか、と考えていました。不安で、その不安はなかなか消えませんでした。

 

このままの自分を

 山形の大学に入ったので、牧師に紹介していただいた教会に行きました。喜んで受け入れてくれました。少しして大学生以上対象の集会に参加しました。そこでのメッセージで、私が知りたかったことを教えられたのです。それは「自分は何の役にもたたないと思っても、自分をそのまま神に差し出せばいい。そうすれば神にはどんな人でもどうにでもすることができ、神がやろうとしていることに用いることができる」ということでした。
 目からウロコが落ちるようでした。神に不可能はないから当然と言えば当然だと思いました。 「とにかくこのままの自分を神様に差し出せばいいんだ」とわかると、幼い頃から持っていた「私は役に立たないからクリスチャンになってはいけない」という思いから解放され、楽になりました。
「本当に私は洗礼を受けていいのですか?」と祈り聞きだすと、すごい平安が流れてきました。 「いいんだよ」と言われた気がしました。牧師に話し、教会で洗礼を受けました。
 その頃からなぜか乗り物酔いがなくなりました。
 家族とのつながりも与えられたのです。洗礼のことで、家族に初めて手紙を出しました。父や姉から真剣な返事をもらい、びっくりしました。家族が私をこんなに思っていたことをそこで初めて知りました。夏休みに家に帰ると、家族のことを素直に思いやる気持ちが与えられていました。

 

主の手がある

 私が就職して実家に戻ってからしばらくすると、姉が新しい教会に導かれました。聖書を土台として神に聞いて行うことを中心にした教会でした。確かめに行った妹も、教会から離れていた弟も行くようになりました。神が生きていることを体験し、三人とも神に呼ばれて仕事をやめて直接献身していきました。
 私も神のみこころを行ないたいという願いが与えられて、とにかく聞くことを始めました。
 初めての海外派遣、アメリカ子供チームに加えさせてもらった時のことです。集会後自分の方が祈ってもらいたかったのですが、子供達の為に手を置いて祈ることになりました。私も人の後ろで心を込めて祈りました。すると私の口から異言らしき言葉が出てきたので驚きました。又、御言葉(詩篇 78篇3ー4、6ー7)によって姉たちと同じ教会に導かれていると確認できました。すべてを知っている全能の神に、従うこともその結果も信頼することにしましたが、これはすごい変化だなと後で思いました。
 神学校をできるだけ聴講し、礼拝や祈祷会など出られるものはすべて出ました。すると、毎週毎週神を知り、聖書を知り、祈りを知り、元気になりました。「自分は本当に救われているのかな」と不安に思いながら、人には言えないでいたのでした。礼拝で「どんな人間でも信じるなら救われている」と聖書から語られ、救いの確信が持てました。
 祈祷会では、自分や家族に対して預言が語られました。後で振り返ると、そういえば預言で語られていた通りになってるな〜ということがいくつかあります。目には見えない主の手があることを感じました。教会を通して神についての真実を知り始め、それに伴い個人的な神との交わりと体験も持ち始めたのでした。

 

母の日記

 自分の性格、教会に行っていてもなかなか神が分からなかったこと、神様が必ず治すと思っていた母の死等。色々な疑問が、今は、神を知るためのであり、神は最善をされていたと分かります。永遠の命を失うことほど恐ろしいことはありません。この家に生まれなかったら、母の死を見なかったら、今頃私はどうなっていたか分かりません。
 数年前に母の日記の中に「 聞き従いたいけどできない。御心に従わせてください。」 という悔い改めと祈り願う文を見つけた時は驚きました。 「子供達全員が献身するように」と母が祈っていたなんて、一昨年父から聞くまで知りませんでした。
今は喘息だった父はいやされ献身し家族全員が献身しています。
 神に祈って聞くことを知っていた、元気で一番健康だった母が先に天に召されたことも神の計画の内にありました。私達はまだ使命があって生かされています。そしてもし今死んでも天国です。神の計画は神が実現されるし、私達は永遠に神とともに生きるのです。神様に心から感謝します。

(谷口真理子)  

『み声新聞』98号 2001/3/11号掲載   


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