説教バックナンバー
ここには2001年の「今週の礼拝説教より」のバックナンバーを収録します。

2001年1月から6月までの説教のバックナンバーは こちら
それ以降、2001年の説教は こちら
2002年3月までの説教は こちら
2002年4月から11月までの説教は こちら
2002年12月から2003年2月までの説教は こちら
2003年4月から2003年6月までの説教は こちら
それ以降の2003年度の説教は こちら
2008年6月8日 聖霊降臨後第4主日 礼拝説教 「驚くべき愛」
マタイ5:38-48
5:45 天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:44,45)
愛に関して、イエス様は、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と高い基準を示されました。 実は「あなたをのろう者を祝福する、あなたを嫌う者によいことをする」を加える場合もあります。 いずれにせよ、この基準を守って神様に認められたいと思いながら、それが出来ない現実があります。 それで罪悪感を持ち、恐れながら生きることになってしまいますが、そのような私たち、もしかして 「悪い人」に属するかもしれないのに、その私たちにも何の区別なく太陽を昇らせてくださるのは、 神様の驚くべき愛です。私たちがそれを感じられなくても、事実です。私たちはもうびくびくしながら生きる必要がないので、 人生に対してある意味自身を持って向かっていくことが出来ます。私たちを愛してやまない神様は、 この世を生き抜く力を存分に与えてくださいます。



2008年4月27日 復活後第5主日 礼拝説教 「一緒にいて下さる方」
ヨハネ14:15-21
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。(ヨハネ14:18)
イエス様は自信を持って、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」と堅く約束して下さいました。 「捨てる」とは「去る・離れる」ということですから、「捨てない」という約束は、イエス様が私たちから離れない、 という意味ですし、「孤児」とは導き手、守り手のない存在ですから、そのようにはしない、 との約束は、イエス様が常に私たちの導き手として一緒にいて下さることを意味しています。 ここで世を去ることを予告しておられるイエス様は、聖霊が来られて、この聖霊が、 あたかも地上でイエス様であるかのように、信仰者の内側にいて下さるとお話しになります。そ して、イエス様を愛する者は父なる神に愛され、そのような者にイエス様は現れて下さる、 というのですから、私たちがうちにおられる聖霊の姿のイエス様を愛していくとき、私たちにはいつも、 イエス様ご自身が現れて下さるのです。



2007年5月6日 復活後第4主日
礼拝説教 「復活後の時代に生きる」

ヨハネ13:31-35
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい (ヨハネ13:34)
13:34 新しい戒め
黙示録21:1 新しい天と新しい地
 イエス様の復活後の時代のキーワード=「新しい」
例)新しい私、新しい世界

「新しい」戒めの内容はシンプル
=「愛し合いなさい」
◎これには効果がある。
→愛があれば、私たちがイエス様の弟子であることが「明らかになる」
 口で言わなくても、クリスチャンであることがわかる。→世に影響を

私たちの目標は、世が変えられること
 イエス様に変えられた世界=復活後の時代


2007年4月8日 復活祭(イースター)
礼拝説教 「身代わりの復活」

ヨハネ20:1-18
マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。」 (ヨハネ20:18)
受難週=イエス様の身代わりの「死」を意識した。
 本当は私たちが罪の罰を受けて死ななければならないのに・・・

☆イースター=イエス様の身代わりの「復活」を意識する。
 古い自分との葛藤の中にいる私たちに代わって、
 まったく新しいいのちを示された。=私たちの代わりの復活
→私たちは義と認められ、日ごとの洗礼への道が開かれた。

古い人が日々悔い改め(方向転換)によって滅び、
新しい人が日々よみがえる。

◎復活とは?
義と認めるための復活=私たちが神の前に正しいことが証明された。(復活がなかったら、その点があやふやになる)

☆復活には、「イエス様にまた会う」、という要素があった。
イエス様との喜びの再会を経験した弟子たち。
→私たちも、洗礼と聖さんによってイエス様に出会う。

※からだを持って復活し、からだを持ったイエス様に出会う。
⇒出会いの望み、望みとしての復活
※この希望が毎日を支える!



2007年3月25日 四旬節第5主日
礼拝説教 「今日、パラダイスに」

ルカ15:11-32
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あ なたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」 (ルカ23:43)
今日は受難主日。受難週が始まる。聖金曜日が受苦日、イエス 様が十字架にかかられた日。
十字架にともにかけられた犯罪人の一人に投げかけられた、イ エス様からの福音(良い知らせ)
「あなたはパラダイスに!」

パラダイス←ペルシャ語から。囲まれた園=守られた園。
※エデンの園のことではない。→希望の楽園のこと。

細かい要素:
「きょう」―明日を待たなくていい。今日。「今、ここに」あ る楽園。

「わたしとともに」
―1)イエス様は死んで終わる方ではない。十字架にかけられ ても、「きょう」楽園におられる方。
―2)イエス様は私と一緒におられる。イエス様から片時も離 れることなく、楽園へ!

理想の環境にいるわけではない私たち。でも、イエス様がそこ を楽園にしてくださる!

イエス様の断言の力。「パラダイスに《います》」
 私たちも断言しよう。「今日、私は、イエス様とともに楽園 にいます!」

☆イエス様が十字架にかかってくださったからこそ、楽園への 道が開かれた。



2007年3月18日 四旬節第4主日
礼拝説教 「ゆだねましょう」

ルカ15:11-32
我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』 (ルカ15:17-19)
放蕩息子は、苦難を通して、考え方が変わって来ました。最初は、お父さんの財産の分け前と、自分の力があれば、人生渡って行けると思っていました。しかし、お金が無くなれば人も去る。そのとき、彼は自分に魅力がなかったことに気が付くのです。それでも、困窮の中でもはじめは何とか自分の力でやっていこうとするのですが、最後に我に返り、お父さんのもとに帰ろうとする。自分の力に頼ることをやめ、ゆだねる思いに達したのです。そのように、ゆだねるとは、頼ることです。もちろん、全能の父なる神に頼るのです。


2007年3月11日 四旬節第3主日
礼拝説教 「方向を転換しなさい」

ルカ13:1-9
わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。 (ルカ13:3)
四旬節=悔い改めの季節
私たちのためのイエス様の十字架
※日本人にとっては、ただ「後悔する」だけになりやすい・・・
イエス様が悔い改めを勧める=方向転換を勧めておられる

◎イエス様が悔い改めをお勧めになった状況
 自分は悪くない、あの人たちが悪いのだ・・・(自分を省みていない)
→自らを省み、心の方向を変える

※それだけではない。

「悔い改めの実を結ぶ」
いちじくの実のたとえ
→しかし、実を結ぼうと思っても、思い通りにならない私たち
10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
本当は実も結ばず、切り倒されてもおかしくないような私たちの間に入って、イエス様は十字架にかかってくださった
→悔い改めの実を結びきれない私たちに、脱出の道(=救い)がある!


2007年3月4日 四旬節第2主日
礼拝説教 「信じましょう」(創立者Sr.フリーダメモリアル礼拝にて)

ルカ18:31-43
イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。 (ルカ18:42-43)
「わたしに何をしてほしいのか」
→自分に必要なことさえはっきり自覚できない私たち。
何が必要なのか、はっきり口で言うことをうながされる。

口で告白すること≒信じること

見えると告白すれば、見えるようになる。
「信じましょう」:当教会の創立者、Sr.フリーダのことば。

「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰のみによるというのが、私たちの考えです。」ローマ3:28
Sr.フリーダの心に繰り返し迫ったみことば。
信仰に生きたSr.フリーダの足跡を私たちもたどっていこう!


2007年2月25日 四旬節第一主日
礼拝説教 「悪魔の誘惑に対処する」(希望の丘キリスト教会での説教)

ルカ4:1-13
イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。(ルカ4:4)
<大前提>
悪魔は現実の存在である
悪魔は、
1)空腹のときに(=私たちが弱いときに)
2)荒野で(=私たちの理想の状況ではない所で)
誘惑してくる(=悪にいざなう)。
イエス様は、悪魔の誘惑に対して、すべて「神のみことば」によって対処された。

<悪魔の3つの誘惑>
[1]「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 (3節)

→自分の「操作」によって「状況」「結果」を変えようとする努力
=神のみこころ、ご計画を無視した人間的知恵
祈るにしても、「主のみこころがなりますように」と祈る。

[2]「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 (6―7節)

→権力欲へのいざない
権力=何でも自分の思い通りにできる力
「上に立ちたい」という欲求がなくても、人生思い通りにいきたい、という願いが心の底にあるなら、あなたもこの悪魔の誘惑と無関係ではない。

☆「認識の誤り」からの脱却
認識の誤りは、悪魔の誘惑の思うつぼである。
そもそも、悪魔が認識の誤りを犯していた。「自分はすべてを握っている!」
⇔本当は神様が握っている。

認識の誤りの例)メールの返事がない=相手は私を嫌っている(現代人を襲いやすい悩み)

「私を嫌っているから返事が来ない」はあくまでいくつもある返事が来ない理由の中の一つに過ぎないのであり、相手が病気だったり、急な海外出張中かもしれない。
→認識の誤りから脱却することが、悩みだけではなく、悪魔の誘惑から離れる鍵となる。

[3]「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』 また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」(9-11節)

※悪魔ですら、神のことばである聖書のことばを引用する!
⇔みことばの誤った理解、行過ぎた理解は悪魔のいざないに乗ってしまう可能性がある。

→聖書のことばの正しい理解の必要。

・ポイント:「神はどんなときでも私を愛しておられる。イエス様の十字架で、私は救われた」という意識を持って聖書を読むことが、どんな優れた聖書辞典・聖書解説を用いて聖書を読むことよりも尊い。


私たちを信仰の道から離れさせ、悪の世界へいざなう悪魔の働きを禁じます!私たちの弱いときに、その弱さに乗じて私たちを陥れようとする悪魔の力にみことばによって対抗し、幸いな一週間を過ごしましょう!


2004年2月29日 四旬(受難)節第一主日
礼拝説教 「ヨルダンから荒野へ」

ルカ4:1-13
さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。(ルカ4:1,2)
父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

○四旬節=受難節
今日から教会の暦では四旬節に入りました。古くは受難節と言われた季節です。イエス様の受難、そのお苦しみを思う季節です。私たちはこのように教会の暦にしたがって、リズムを持った信仰生活を送らせていただいております。

四旬節のはじめには、イエス様が荒野にて悪魔の誘惑に会った、という、物質主義の現代ではどのように理解したらいいのか、と思われるような記事を読むことになっています。確かに神話的、しかしそのような衣の中に、今日の私たちに重要なみことばの真理が隠されていますので、それを味わってまいりましょう。今日は、主に二つのことをお話します。ひとつは「ヨルダンから荒野へ」ということで、ヨルダンと荒野の違いに注目し、まさに荒野に生きているような私たちのための手がかりを探ります。もうひとつは13節の言葉、意味ありげな言葉ですが、悪魔が「しばらくの間」イエス様から離れたとは、イエス様の受難とどんな関係があるのか、ということに少し触れておきたいと思っております。

○ヨルダンと荒野の違い
さて、「ヨルダンと荒野の違い」ということですが、まず先の「ヨルダン」の方を特定しておきましょう。「ヨルダン」はご存知のとおり川の名前ですが、同時にその川がある地方のことも指したようです。ですから、1節の「ヨルダンから帰られた」は、ヨルダン川地方から帰られた、ということでしょう。このヨルダン川地方では何があったのでしょうか。そう、まさにイエス様はそのヨルダン川でバブテスマ(洗礼)のヨハネと言う人物から、洗礼をお受けになっていたのです。神の子であるイエス様。その方が、人間に過ぎないヨハネから洗礼を受ける。ある意味でヨルダンとは、イエス様にとっては謙遜の場でした。

しかしそれよりも大事なのは、そこで天からの声が聞こえたことでした。

天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(3:22)
「天から」としか書いてありませんが、神様の声、ということでしょう。イエス様は、このヨルダンにて、神様の声を聞くことができたのです。しかも、ただの声ではありません。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」というのですから、手放しでうれしい言葉ですね。このようなことばをかけられたことがあるでしょうか。あるいは、誰かにこのような言葉をかけたことがおありですか?拒絶を恐れ、甘えてでも受容を求める現代にあって、このような100パーセントの受容の言葉、愛の言葉は大事です。2000年前のイエス様にとっても、「このように身を低くして洗礼を受けたのはよかったんだ」とほっとして、うれしくなることばだったのでしょう。

そう考えると、普通はヨルダンにとどまりたいと思うはずです。私だったら、そのような場にずっといたい。でもイエス様は、そこから帰られ、荒野へと行かれた。これは御霊の導きであった、とも記されています。

さて、それでは今度は、荒野とはどんなところなのか、ということを見ていきましょう。もちろん、乾燥しているところ、食べ物のあまりないようなところ、人気もないところ、というような説明を過去にしてまいりましたが、今日は、ヨルダンとの比較で見ていきたいと思います。ヨルダンと荒野の決定的な違いは何でしょうか。神の子がひもじい思いをする、と言うのですから、身を低くする、と言う意味では共通点があるかもしれません。しかし、大事なのは違いです。何でしょうか。それは、「声」だと思います。どうでしょうか。先ほどのヨルダンでは、麗しい神様の声が聞こえてきたのです。この荒野では、聞こえてくるのは悪魔の声だけ。神様の声は、聞こえてこないのです。通俗的な言葉を使えば、ここでイエス様はピンチなのです。そのようなときなのだから、しかも、ヨルダンでは「あなたは愛する子だよ」とまで言っておられたのだから、この絶体絶命のようなときにも、「悪魔よ、いい加減にしなさい」とか、「出直しなさい」とか、そんな神様の声があって、イエス様を助けてもよかったのではないでしょうか。しかし、沈黙。ここが、決定的な違いです。

その代わり、イエス様はご自分で聖書のことばを口にされました。すべて申命記からなのですが、イエス様は悪魔の誘惑に対し、ご自分で聖書のことばを口に出されたのです。ここが大事なところです。

私たちは、理想どおりでない、どこか荒野のような環境の中に置かれているように思うことがあります。しばしばピンチに陥ります。絶体絶命、と覚悟することもしばしばです。そんなとき、天から声が聞こえて、すばらしい助けがくるでしょうか?ほとんどの場合、それはありません。悲しいことですが、これが現実です。聖書を読むと、ほっとします。神様のことばが天から聞こえたことがある、などと書いてあると、聖書の時代はいいな、とうらやましく思います。ずっと聖書の物語に浸っていたい、そこから出たくない、そのように思うこともしばしばです。しかし、半ば無理やりに、私たちは現実の生活に引き戻される。その現実の世界では、何一つ、天からの声は聞こえてこない。やはり私たちはイエス様じゃない、聖書の中の登場人物じゃない。神もいない、物質だけのこの世に生きているのだ、とあきらめてしまいたくなります。

しかし、よく聖書の物語を振り返ってみますと、イエス様も同じ経験をしているのです。「なんだ。さっきは愛してる、とか言っといて、今この誘惑のさなかには、何もおことばなしか」。そのような思いが、ふとイエス様の胸に去来したかもしれない。イエス様も、「神の声が聞こえない」という荒野に身を置かれたことがあったのです。私たちと同じではないでしょうか。

そこで、私たちはイエス様を参考にしましょう。その通りできるわけではないかもしれないけれど、チャレンジしてみましょう。どうやらイエス様が荒野を乗り切ったコツは、聖書のことばにあるようです。イエス様は聖書のことばをどうしましたか。ご自分で口にされましたね。ここが手がかりではないでしょうか。ピンチになって、萎縮して、何も出てこない、ではなく、その危機の状態にあって、覚えているみことばを実際に口に出して、それを武器のようにして悪魔に立ち向かった。それがイエス様でした。私たちも、悪魔がいろいろな姿でうようよしているようなこの現世にあって、短くてもいいからみことばを覚えて、それを日常生活のさまざまな局面で、実際に口に出してみてはいかがでしょうか。それが荒野を乗り越えるコツなのではないでしょうか。

私はときどきみことばをふと思い出すことがあります。そのときに同時に思い出すのは、

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ14:26)
というみことばです。そうすると、「目に見えないけれど、聖霊がみことばを思い起こさせてくださっているんだな」と安心します。また、
あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。(イザヤ43:2)
というみことばも、「神がともにおられる」ということでの救いを思い起こさせる、すばらしいみことばで、最近よく思い起こしています。 私の場合は、まだ「思い起こす」という程度のことですが、これはこれで大事なことだと思います。もう少し発展して、実際に声に出す、ということも大事ですね。たとえば、お祈りの中で、みことばを織り交ぜながら祈ることも、たいへんよいことだと思います。特に、「自己宣言」の祈りと言いましょうか、モデルとなる、自らが目標とするようなみことばを繰り返し、自分に宣言するように祈る、ということも提唱されることがあります。たとえば、このようなみことばはいかがでしょうか。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)
どうしても、「洗礼を受けてもあまり変わっていない」とか、「古い自分のままだ」と思ってしまうことがあります。それが、現代における悪魔の誘惑と言えなくもありません。そのようなときこそ、本当に口に出して、「私は新しく造られた者です。すべてが新しくなりました」と自らに宣言するように、みことばを言ってみるといいでしょう。神の声が聞こえない荒野で、それならばということで自ら神のことば、聖書のことばを口にされたイエス様。それにならって私たちも、同じようにみことばを口にしたいものです。自らでみことばを唱え、それが自己に対する宣言のようになって、自らが変えられていく。そのような努力なしに、「私は変わらない」と言うのはフェアではありませんし、また、そのような努力は十分する価値があると思います。

○悪魔は「しばらくの間」イエスから離れた
さて、最後に短く、悪魔が「しばらくの間」イエス様から離れた、という点に触れて、閉じることにしたいと思います。特にこれは、イエス様の受難と、どんな関係があるのでしょうか。結論から言えば、悪魔はまた戻ってきた、ということです。いつでしょうか。イエス様の十字架のときです。あの時、悪魔はまた戻ってきたのです。だから、イエス様にはあの十字架の死の苦しみがあったのです。そう考えると、イエス様の活動の最初のころにも悪魔の出現があり、その最後と思われたあの十字架のときにも悪魔の表れがあった、なんだかイエス様の公のご生涯は悪魔の出現にサンドイッチになっているようですが、そうまでして私たちの救いをなしてくださったことに感謝をささげたいと思います。さて、悪魔はどうなったか。イエス様を十字架につけ、これは勝利したのだと浮かれていたところ、イエス様は悪魔や死の力一切を捕まえて死の世界に赴き、それらに対して徹底的な勝利を収められた。勝った、勝ったと浮かれて油断していた悪魔は、結局イエス様に滅ぼされたのです。私たちは、そのように勝利のイエス様をいただいて生きるのです。

人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださいますように。



2004年2月22日 変容主日
礼拝説教 「三人からひとりへ」

ルカ9:28-36
この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった。(ルカ9:36)
父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

いつから私たちにとって数が大事になったのでしょうか。毎日新聞の投書欄に、「偏差値に縛られないで」という投書がありました。割と若い方、20代の男性からの投書でした。勉強をしている子どももまたそれを見守っている親も、偏差値という数字が気になります。ではそのような人たちだけが数字を気にしているのかと言えば、そんなことはありません。ご家庭の主婦の方々は、家計のやりくりのために、日夜気にするのはやはり数字です。先月はガス代が高過ぎた、電話代がかかり過ぎた、などと、数字に取り組みます。仕事を持っておられる方は、成果は数字で計られる。売り上げ、達成目標、などなど、数字は付きまといます。引退しておられる方は、今度は自分の年齢という数字が気になります。それでは教会は数とは無縁かと言えば、残念ながらそうではありません。ご存知のように、それが本当に必要かどうかはわからないのですが、総会の時期になると、礼拝や集会の出席人数や、決算の状況など、すべて数字で出してきます。どうしてもそのようなもので一喜一憂してしまう。

どうして数字はここまで重要なものになってしまったのでしょうか。異論はあるかもしれませんが、西洋において、数を真理として受け取る姿勢が始まったようです。その影響は、日本にも入ってきました。陰陽五行のように、日本でも数字のことを言わないわけではありませんでしたが、西洋ほどには、数を真理として考えてはいなかったようです。しかし戦後の経済成長も後押ししたのか、今の日本では、数字なしには私たちの生活はない、と言うぐらい、数字は私たちの生活になくてはならないものになっています。

今日の聖書の箇所を見ますと、数字が出てきています。イエス様は、そのお姿が変わることによって、ご自分が神であることを表わされました。このように、イエス様のお姿が変わったこと、すなわち別な言葉では「変容した」ことを忘れないようにするために、イエス様の十字架での苦しみを思う四旬節、古くは受難節と言いましたが、その季節の前に、「変容主日」があるのです。その出来事の中で、イエス様に従っていた者のひとり、弟子のペテロは、三人の人を見ました。一緒に山に登ってきたイエス様は当然として、あとのふたりは、モーセとエリヤ。二人とも、旧約聖書を代表する人物です。旧約聖書の権威がそこに現れた、と言うことも出来るでしょう。

物語はその状況のまま終わりません。雲が立ち込め、天から何やら声がしたと思うと、雲が晴れて後はそこにイエス様しかおられない。まさに、「三人からひとりへ」という鮮やかな転換です。

とかく数を気にせざるを得ない状況で生きている私たち。数が減るということはあまりうれしいことではありません。しかし、不思議なことに、この物語の中では、数が減っているのです。三人もいたら、安心なのではないでしょうか。私も、この教会に牧師が三人いたら心強いです。しかし、ひとりになるのです。イエス様ひとり。この出来事には、どんな意味があるのでしょうか。

ここで私たちは、やはり三人からひとりへ、しかもイエス様おひとりへと減っていったことに注目したいのです。イエス様だけ。ここで私たちは、「イエス様だけを見る信仰」を学びたいのです。

先週私は、「神を信じてシンプルに生きる」ということをお話しました。それは今日のこの聖書の物語にもつながるところがあると思います。私たちは両手に抱えきれないほどのものを手にして生きていきたい。そう思ってしまうことがあります。あれもこれも手に入れたいと思うときがあるのです。物が回りにあると、人が回りにいると、何か安心する、という気持ちになるのです。しかし、私たちは、そのような気持ちがあることを認めた上で、神を信じてシンプルに生きる。イエス様のほかに、あれもこれも持っていれば、なんだか豊かな感じはするし、安心するかもしれない。しかし、旧約の権威として、イエス様の最期、すなわち十字架のことを話し合うために、確かに一時期モーセとエリヤは現れなければならなかったにしろ、すぐに彼らは消えていったのです。ほんの少しの間だけ、彼らは現れていたに過ぎない。ペテロは気を利かせて、「モーセのためにも、エリヤのためにもお宿を」と口走りましたけれども、それを作るまもなく、彼らは消えうせ、そこにはイエス様だけが立っておられた。それは、私たちが信じ、一心に見つめるべき存在を示しているのではないでしょうか。世の中にはいろいろなものがあるけれども、シンプルに、イエス様だけを見つめて生きよ。それが、今日の物語のメッセージではないでしょうか。

そのようにシンプルに、イエス様だけを仰いで生きていくところに、自由と解放があります。しかし、この自由と解放は、私をここまで自由にしてくださり、救いの恵みを与えていてくださるイエス様への献身的な信仰へと進んでいくはずです。今年25周年のこのときわ台キリスト教会。25歳と見れば、20歳ではまだ成人と言っても自立しているとはなかなか言えないものの、もう25歳であれば、自立した立派な大人です。教会も、現在自立して自分たちの教会のことは自分たちで支えられるようになりました。しかし、それだけでいいのでしょうか。現在教会の予算のうち人件費の占める割合は非常に大きい。それを私は、比率としてもっと減らしたいのです。もっと宣教のためにまわしたい。私たちが喜んでもっとささげていけば、それは出来るはずです。私たちは目標を持たずにクリスチャン生活を送るわけではありません。新しいクリスチャンを生み出し、ほかの教会を支えるために、25歳になった私たちは、もっともっと財を用いたいのです。イエス様以外にとらわれているものがあると、何となくイエス様にささげていくのは惜しい、と思うかもしれない。しかし、大人とは、他者とかかわり、他者を支えていく存在だとすれば、25歳になって大人となっているときわ台キリスト教会も、新しいクリスチャンが生み出され、また、教会同士支えあっていくために、ささげる喜びを知っていきたいものです。

しかし、それにしても私たちは減ること、また言葉を変えれば、負けることに慣れていないと思います。二つのクリスチャンの野球チームが、サッカーのチームでもいいのですけれども、試合をしたら、必ずどちらかは負けるのです。どんなに祈っていても、です。どこかに私たちは、一生懸命やったら、必ずうまくいく、という神話を持っているようです。一生懸命接したら、必ず相手は心を開く。人間関係は何とかなる。がむしゃらに何とかやっていけば、経済的にもうまくいく。本当にそうでしょうか。こちらの努力ではどうにもならない人間関係、どうにもならない経済状態、どうにもならない社会の仕組みがあるのではないでしょうか。私たちは幸いを神様から受けるのですが、ヨブの言葉どおり、災いをも神様から受けるのです。

今日の聖書の箇所で言うなら、ペテロがいくら真剣でも、三人からひとりへ減少するのです。これを私たちは知らなければならない。減ること、負けることに慣れる必要があります。減るのが怖い、負けるのがいや、という思いの背後には、減ってしまったら、負けてしまったらどうなってしまうかわからない、という恐怖があります。しかし、私たちの神はともにおられる。神がともにおられる、というのは、旧約聖書の時代の言葉でインマヌエルと言います。神様はインマヌエルの神様。一緒にいてくださる神ですから、何かが減ったとしても、負けても、大丈夫なのです。日々体は衰えていく。去年できたことが、今年できない。すぐ忘れてしまう。そのように、私たちは日々何かを失っていくのですが、それでも神はともにおられるのです。いつも成功ばかりではない。あれはうまくなかった。あのときああすればよかった。そのような、右肩上がりとはまったく反対のこと、進歩どころか退歩しているような、そのようなことがあっても、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である」と全能の神様がお呼びになるイエス様が、いつも一緒におられるのです。

さて、この「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である」という神様のことばは、旧約イザヤ書の42章、主のしもべについて歌われている主のしもべの歌と関係があります。イエス様は旧約聖書から約束されていた主のしもべ、別な言葉で言えばメシヤである、というルカの主張が読み取れます。そのように、メシヤは旧約から言われてきた存在でしたが、もうひとつ大事なことは、旧約の権威のようにして現れたモーセもエリヤも、あっという間に消えてしまった、ということです。イエス様はその実に旧約的な人物たちを超えている、ということでしょう。旧約で約束されていながら、そのスケールにおいて実に旧約を超えていた。それが、ルカが捉えたイエス様の姿でした。私たちも、この方だけを見て、歩んでいくのです。

さあ、まとめに入ってまいりましょう。イエス様の姿が変わるという不思議な出来事に直面して、ペテロたちにしてみれば、モーセやエリヤも含め、三人いた方が心強かったのではないでしょうか。しかし、雲の中からの声の後、そこに見えたのはイエス様おひとりだった。数が減ったのです。私たちは数が減ることに対して本能的に危機感を覚えます。しかし、ここでは「イエス様おひとりだけに頼るようにと、三人からひとりへと数が減ったのです。私たちも減ることを恐れず、イエス様だけに頼っていきましょう。

人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださいますように。



2004年2月15日 顕現節第7主日
礼拝説教 「さばきから赦しへ」

ルカ6:37-49
「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」(ルカ6:37)
父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

痛ましい新聞の記事を見つけました。関西のある小学校の先生が、障害を持っておられる方に対する差別発言をしたとのこと。その発言を聞いた小学生はショックで学校に行くことが出来なくなってしまったそうです。

どうしてこのようなことが起こるのか。なぜ人がお互いを大事にしながら生きていくことが出来ないのか。私自身、東北の福島から東京の大学に出てきましたときに、そのことばのなまりのことでずいぶんと馬鹿にされました。茨城の出身の学生は、同じようななまりがあるのに、関東だからということで馬鹿にされないのです。これは明らかに東北に対する差別です。いまだに、文学の中で、アフリカ系アメリカ人、あるいは少し未開の民族のことばを東北のことばのように訳すことは続いています。これは映画やドラマの吹き替えでもそうです。このようなことばかりでなくても、男女差別、学歴による差別、年齢による差別など、この世界には差別というものが渦巻いています。

しかし、かく言う私は今何をしているのか。ふと、これはもしかして、今日の聖書の箇所で言うところの「さばき」なのではないか、という気もしてきます。どうでしょう。私はここに立って、さきほどの差別発言をした小学校の先生を前に、公然とその人を非難することが出来るか。それは無理だと思います。私だって、「さばくな」というイエス様のことばを知っています。しかし、事が公になり、新聞やその他のメディアで取り上げられると、人格性を失うと言うか、その人自身がここにいるわけではないし、公になっているのだから、と平気でその問題を取り上げ、大胆にも非難し始める。これは、とある議員が、大臣や総理大臣になったとたんに、それまでなかったような非難を浴びせはじめるようになる、という集団の心理と共通するものがあるかもしれません。

今まで話してきたことが、イエス様がとがめておられる「さばく」ということにあたるのかどうか、実際は微妙なところがあると思いますが、そもそもこの「さばく」ということばはどのようないみのことばなのでしょうか。今日の聖書の箇所で使われている「さばく」ということばは、どこかしら「非難する」という意味合いを感じますが、もともとは「分ける」「判断する」という意味のことばです。「非難する」と言うと、その背後に何か感情的なことがあるように思います。たとえば、怒り。私はさきほど差別、ということについて触れていたのですが、ある意味でこれは差別があるこの世の中を非難していたのであり、その背後にある感情といえば、勿論のことながら、「怒り」であったわけです。しかし、確かに聖書で使われている「さばく」ということばにも、だいぶ後の方に「非難する」に近いような意味も出ては来るのですが、それも「法に訴える」ぐらいのことで、全体的に、理性的な意味なんですね。怒りとか、そのような「感情」に基づくものはほとんどない。大体が、「分ける」「判断する」と言ったような、理性の働きの意味なのです。

しかし、考えて見ますと、私たちは自分の尺度で物事を「これは良いこと」「あれは悪いこと」と分類し、他人のことも、「この人はこういう人だ」「あの人はいつもこうする」と判断してしまっています。その分類基準、判断基準たるや本当に曖昧であるのに。このような意味で、実は私たちは、容易に人をさばいてしまっているのです。

また私の冒頭の発言に戻りますが、私は差別発言をした、と言われる小学校の先生から、詳しい事情を聞いていません。もしかして、何か報道では伝わっていない、やむにやまれぬ事情があったのかもしれません。勿論なかったかもしれませんが。しかしたいへん乏しい知識で、あるいは、だいたい新聞は斜め読みすることが多いですから、読み飛ばしていることがあるかもしれない、そのようなあやふやな状態で、簡単に「この人は差別発言をした人だ、悪い人だ」と簡単に分類し、判断してしまっている。それに、私がかつて悩んだ自分のことばのなまりのこと。人はだいたい被害者意識になり、過剰に受け取ることが多いですから、もしかして私は自分が思っているほど馬鹿にされていなかったかもしれない。自分で「馬鹿にされた」と思い込んでいるだけだったかもしれない。それに、茨城の人はそのなまりのことで馬鹿にされていなかった、というのも、これもまた実にあやふやで、その人が茨城という関東の出身であることを知らず、そのことばのなまりだけ聞いた人に、もしかしてことばの面でばかにされたことがあったかもしれない。だいたい、「過去に私はこんなにつらい思いをした」という記憶自体があやふやで、人間には自分で自分のストーリーを作ることも出来ますから、実はそんなに言うほどつらいことでもなかったのを、後で「つらかった、つらかった」と、つらいストーリーに仕立てているだけなのかもしれない。そう思うと、「分ける」「判断する」という意味での「さばき」を、実に簡単にしてしまっていることがわかってきます。

そのような私たちに対してイエス様から求められていることは、「自分の尺度で分けない」「曖昧な基準で判断しない」ということでしょう。それが、「赦す」ということです。「赦す」には、「自由にしてやる」という意味があります。具体的には、捕虜を解放すること、負債ある者を免除してやることなども含みます。自由、そして解放。人を自由にし、解放する。これが「赦す」ことです。

ところが、だいたいにおいて私たちが「赦せない」と思うのは、自分に関係することですよね。そんなことは私には関係ない、と思うことは、まったく気になりませんし、赦すも何も、さばき、非難する気持ちなどまったく起こらない。私たちは、何か自分の中に赦せない心があることを知ると、自分が何と愛のない、人や出来事を赦せない人物であることか、と思い込んでしまいます。しかし、まったく何もかも赦せない人などこの世にいないのであって、比較的赦しの心が少ないと思い込んでしまっている人でも、ちゃんと赦している分野があるのです。私でしたら、福島にいる親戚がどうこうしても、別に気になりません。あるとき、いとこの娘が少し障害があるのではないか、ということで、近くの神社かどこかにお払いに行ってもらったそうです。だからと言って、「何で私に言わなかったのか、私がいくらでも祈ってあげたのに」というような心にはなりませんでした。これは距離の離れている場合ですが、距離が近くても、身近なことでも、気にならないことはたくさんあるはずです。同じ新聞の記事でも、野球の記事はすぐ目に飛び込んできて気になりますが、サッカーの記事など「あったのか」という感じです。

そうすると、いかに私たちが、健全な意味で、「これは私の人生にさほど関係がない」と思えるか、これが「赦し」の心に関係してくることがわかります。これには、次の二つが関係してくると思います。

1)私は、私の幸せを、神との相談の上、自分自身で決定します。
2)私は、神を信じて、シンプルに生きます。
1)のことですが、私が自分で幸せを決められなくて、いつも周りの人、周りの事柄に自分を幸せにしてもらおうとするから、その期待通りにいかなかったときに、さばきの心、赦しのない心がむくむくと湧き上がってくるのです。2)のことですが、あまりに私たちはこの豊かな世界で手を広げすぎ、あれもほしい、これも私には必要だ、とほしがっているので、それが得られなかったり、何かのことで失われるときに、失望して非難の心、赦せない心へと向かっていってしまう、ということです。実は私たち、少ないものでも満足できるんですね。そのように、いったん整理して、周りのの人間関係や物事に距離を置くと、また別の視点が与えられるはずです。今まで以上に、人間関係がスムーズになるはずです。そのようにして、私たちは、自由のある人間関係を築くのです。

私たちが自分の曖昧な尺度で人や物事を分類したり判断せず、むしろ自由と解放をモットーとして歩んでいくと、そこには素晴らしい約束があります。

その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。 (6:48)
堅固な生活、安定した人生は、実はこのあたりにヒントがあるのです。何にも縛られない、自由で解放された心。あえて言うならば、神様にだけしっかり結びついている心。それをもって歩むなら、周りの人間関係で一喜一憂したり、周囲の出来事に右往左往したりしない、まことに安定した人生を送ることが出来るのです。

人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださいますように。



2004年2月1日 顕現節第五主日
礼拝説教 「涙から笑顔へ」

ルカ6:17-26
「いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。」(ルカ6:21)
父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

『涙が出るほどいい話―あのときは、ありがとう』(「小さな親切」運動本部)という本があるそうです。本の内容の説明には、「本書は、一九八五年の「第一回『小さな親切』はがきキャンペーン」から、一九九五年の第一一回までに応募のあった、およそ五万四千通のはがきのなかから、一二三篇を収載したものです。」またあるいは、「85年から始まった「小さな親切はがきキャンペーン」に寄せられたはがきの中から123篇を収載。一つ一つの話は短いが、人間が持つ優しさ、温かさ、生きることの素晴らしさが凝縮されている。胸がいっぱいになる本。」などと書かれていました。この本を読んだ人の感想には、このようなものがありました。

「まあこ   神奈川県 Japan 勤務先の学校の図書室で読んだのですが、司書の先生がいるにもかかわらず、涙が出てきてどうしようもありませんでした。ハガキ1枚で応募したものを集めて載せてあるので、1篇1篇が短く、読みやすいです。全て実話なので道徳の時間にはうってつけでしょうし、できれば朝の会の時間に毎日1つずつ生徒に読んであげたいと思いました。でも読み上げる私のほうが泣いちゃいそう・・・。本当に心の温まる本です。 」
なぜこの本のことを知ったかといいますと、何とインターネットで調べますと、「泣ける本」ということでほかのいくつかの本とともに紹介されているのです。ほかには、たとえば吉元 由美さんの「あなたがそこにいるだけで」、同じ著者の「ひとり、思いきり泣ける言葉―泣きたい分だけ、涙が流せる本」などが一緒に紹介されていました。そのホームページではほかにも、「泣く」にこだわっているんですね。たとえば「泣いた失恋」「泣いた映画」などが紹介されています。「泣いた映画」では、なぜかETが入っていました。それから、私が好きで、昨年少し紹介した梶尾真治の「黄泉がえり」の映画もそこに紹介されていました。 なぜこのホームページは、泣ける本や泣ける映画を紹介しているのか。ホームページの冒頭には、製作者のこのようなことばが見られます。
「人間はなぜ、泣くと涙が出るのでしょうか。 涙を研究した人がいます。その人は、女の子を泣かせてその涙を採取し、その成分を分析して涙にはストレスの成分が多量に含まれていました。 人間はストレスを感じると、それを何らかの方法で体外に排出しなければいけません。 それが「涙」なのです。 実際に健康な人は病気の人に比べ、涙を流す機会が多いことも分かりました。 泣いたあとにすっきりとした気分になるのは、そのためです。 人間は泣いて涙を流すことでストレスを発散しているのです。 泣くことはストレスの解放のためには良いということです。」
なるほど、一理あるかもしれません。一億総ストレス社会とも呼べるような今の日本で、人々は泣くことを求めている。だから、泣ける本、泣ける映画を探している。そして、それを見つけては、涙をほろほろとこぼして、ストレスを発散し、明日へ向かっていく。このようなことでしょうか。

この泣くということ、実際は人間のひとつの行動ですよね。それで現代の私たちは、その「泣く」という行動の背後に、泣くに至る「感情」がある、と考えます。例えば、「悲しい」とか、「つらい」とか、「うれしい」とか、そのような感情です。

しかし、この「感情」、実はまだよくわかっていないのです。調べてみますと、「研究は遅れている」とまで言われています。感情のことは、あまりよくわからない、ということです。泣く、笑う、といった行動は、目に見えるもので観察、研究できます。しかし、私たちが持っていると思っている「感情」、泣く、あるいは笑うといった行動を引き起こすと言われる「感情」は、実のところそれが何であるか、なかなか研究が進んでいないのです。

聖書の中に、「感情」のようなものが言われていないわけではありません。ご存知のように、今年の教会のサブテーマ、「喜びをもって主に仕えよ」、これは来週の説教で触れるのですが、このみことばの中には「喜び」という、私たちからすると「感情」と呼ぶようなものが示されていますし、そのほか、「悲しみ」「恐れ」そのようなものがちらほら見えないことはありません。しかし、ある心の動きが聖書の時代には内臓の動きと関連付けられていたように、私たちが「感情」と思っていることが、わりと行動に直結している面があるようです。私たちは、「悲しみの感情」と「泣くという行動」を分離して考えます。だからそこには、「泣く」などの具体的な行動に至らない、何か「悲しみの感情」だけで独立して存在するようなものを想定します。しかし、聖書の時代はそうではなかったかもしれません。何しろ研究が進んでいないので一概には言えないのですが、「泣く」「胸を打つ」「衣を引き裂く」などの具体的な行動を伴わない悲しみの感情などありえない、むしろそれらは別々なのではなくてひとつなのだ、といったことだったのではないでしょうか。日本にありがちな「顔で笑って心で泣いて」というのは、ありえなかった、とも考えられるのです。

私たちは感情をコントロール不可能なやっかいもののように思うことがあります。やろうと思っても気持ちがついていかない、怒りの感情がどうしても抑えられない、などなど。そのようなときに、もっとシンプルに、感情と行動をなるべくひとつにして考えてみてはいかがでしょうか。やる気がなくても、とにかく黙々と体を動かしてみる。勿論これは本当に体調が悪いときには勧められないことですが、まず体を動かしてみると、気分の方が後でついてくる、ということを何度も経験しています。また、怒りが抑えられないのは、「怒り」という感情が独立して暴れているのではなくて、やはり何か怒りを引きずる行動をしてしまっているのです。知らず知らずのうちに。嫌だったことを思い出す、それについて誰かに語る、抗議文を書く、などなど。感情はそのままにしておけば自然に減少していく、という説もあると聞きました。怒りだってそうなのです。しかし、結婚生活において、ほうっておけば少なくなっていくお互いへの愛を維持するために、あるいは高めるためにいろいろと努力をしなければならないのとまったく同様に、怒りが燃え続けるというのは、やはりどこかでその努力を、何らかの行動によってしてしまっている、ということです。感情と行動をひとつと考える。このストレスの多い社会において、それは何かの手がかりになることでしょう。 さて、長い前置きになってしまいましたが、そのように感情、ということについてそれに振り回され、悩まされることの多い私たちに、「いま泣いている者は幸いです。」とのイエス様のことばが響いてまいります。単純に、「泣いていい」ということでしょうか。こんな文章を見つけました。

「悲しい時には悲しんでいいんだよ、と言われて育った子供は、おとなになったとき、悲しみは健全だと考える。だから、とても早く悲しみから抜け出せる。『こらこら、泣いてはいけません』といわれた子供は、おとなになって泣きたいとき、苦しい思いをする。だって、泣くなと言われて育ったのだからね。だから悲しみを抑圧する。」 「怒ることを許されて育った子供は、おとなになったときも怒りに対して健全な態度でいられる。だから、とても早く怒りから抜け出せる。怒りはよくないものだと教えられて育った子供、怒りを表してはいけない、それどころか怒りを感じることすらいけないと言われて育った子供は、成人後、怒りをうまく処理するのに苦労する。」(『神との対話』より)
勿論、このようなある意味でカウンセリング的な考え方をイエス様はご存じなかったわけですが、見事に「泣く」ということを肯定的に受け止めておられます。いま泣いているものは幸い。どうでしょうか。私たちは自然に泣くということをしているでしょうか。あるいは、泣いてはいけない、と自分の中で抑圧しているでしょうか。イエス様は、泣いているものは幸い、とおっしゃっておられます。

また感情の話に戻るのですが、このイエス様のみことばに照らし合わせて考えると、「マイナスの感情をどう扱うか」が大事であることがわかってきます。抑圧せず、泣くままにするのが、イエス様の言われるように、笑顔への道。現代、悲しみという感情と泣くという行動を分離して考える社会では、深い悲しみをもってもその感情のままに泣くことができない。人間が、高度に社会性を帯びてしまって、社会の役割柄、あまり泣いていられないとか、社会通念に反するとか、人間がいろいろと気を遣わなければならないところが増えてしまいました。社会に生きる以上、泣くに泣けない、という抑圧が、ある意味で一億総ストレス時代に拍車をかけている、とも言えましょう。

そうは言っても、もともとそう涙が流れない人もおられるでしょうから、今日は「みんなで存分に泣きましょう」と勧めるわけではありません。ただ、自分の中の悲しみ、怒り、恐れ、そのようなマイナスの感情と分類されてしまうような感情を、しっかり受け止めていく、ということはお勧めしたいと思います。それをないものとして押さえつける、例えば、「クリスチャンなんだから悲しんではいけないんだ、怒ってはいけないんだ、恐れはないはずだ」と押さえつけないで、いったんそれを受容してから、健全にそれを扱っていく、ということが必要ではないかと思います。

それにしても、泣くということばは、幸いということばとは容易に結び付きそうもありません。しかも、笑うようになるとまで言われている。そうすると、私たち人間には天と地ほどにも離れているように思われる泣くと幸い、また笑いも、思っているほど違いはないのかもしれません。無から有を生み出される方は、涙に代えて幸いを与えることがおできになるのです。

人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださいますように。


今週のメッセージへ

へ戻る

フェローシップ・ディコンリー福音教団 ときわ台キリスト教会
563-0104 大阪府豊能郡豊能町光風台5-737-17
TEL 0727-38-3130 FAX 0727-38-3138