発見!キリスト教
このページはキリスト教の入門編のような気持ちで記しています。

論文そろそろ完成

9月の教会カレンダーを作成していると、いかに8月が集会が少なかったかがわかります。でもそのおかげで、何とか神学修士論文も完成に近づいています。

今回は何を思ったか、「死者の霊」というテーマで研究をしました。これは、神学校の卒業論文のテーマである「千年王国」に次いで、「終末論」に属するテーマとなります。特に、個人的な終末としての「死」に関するテーマでしたので、研究するうちにいろいろなことに気付かされました。

ひとつは、人間の中にある、「死者にもう一度会いたい」という押さえがたい感情。これは根強いですね。旧約聖書の世界でも、霊媒や口寄せといった、死者の霊との交信を売りにしていた職業がありました。この「会いたい」には、個人を慕うので「会いたい」という場合と、何となく罪責感があるので「会いたい」という場合の2つのケースがあることがわかりました。後者は、もっとお世話してあげれば良かった、もっとこんなことを言ってあげれば良かった、などという不全感が伴います。だから、「会いたい」のです。

このように、押さえがたい感情があるのに、日本では明治以後、「そのようなものは迷信だ」と、科学一本の道をやや強引に進んできました。目に見えないものは信じない、それはそれでいいのですが、祖先との結び付きを失った人生は根無し草のようなもので、そのひずみが今出てきているのではないでしょうか。信仰の範囲内での健全な祖先敬愛が求められています。
2002/09/13


前向きの力

世俗的なことではありますが、ここ何年か、テレビのドラマを見ることがある意味で趣味というか、 息抜きとなっています。いろいろ学ぶことが多いです。その中の印象は、「前向きの力」という ことです。この不況の時代を反映してか、徹底的に明るく、はつらつとして困難をも乗り越えて いく登場人物の姿が描かれることが多いように思われます。悩み多きヒーロー、ヒロインよりも、 前向きにポジティブに生きていくヒーロー、ヒロイン。見ていると、本当に「前向きの力」を感じます。 そのような姿から人生の真理を学ぶ、ということではありませんが、前向きの姿がいかに人に力を与える か、ということを知らされます。

何しろ私たちは、「あなたを愛しているし、決してひとりにしない」という、徹底的にポジティブな ことばを神様からいただいています。喜んで、前向きに生きてまいりましょう。 2002/06/02


べろべろおばけ(?)

 保育所に行っている上の子が、「べろべろおばけ」がどうのこうの、と言い出しました。文面で読むと伝わりにくいのですが、何しろ2歳半でまだまだ発音は不明瞭。独特の、ちょっとおもしろい(「べっろべっろ」あるいは、「べどべど」にも聞こえてしまう…)発音です。

 どうやら保育所のある集まりでべろべろおばけさんが登場したらしいのですが、クリスチャンとしてどう見たらいいのでしょうか。

 日本では、クリスチャンの親はいかにこどもを「世の影響から守ってクリスチャンらしく育てるか」という、大きな使命を担わなくてはなりません。そう考えると、「おばけなんて非現実的なこと(あるいは悪魔的なこと)を言わないでください」とでも言いましょうか。しかし、思うのです。それでいいんだろうか。私は基本的に、人が変わるのは本人が自覚的にそのときの問題に取り組んだときだ、と考えています。もちろんものには限度がありますし、時期や年齢のことも考えないといけないでしょう。しかし、善し悪しの評価は別として、人間にはある時期ある特定のことに興味を持ち、考えてしまう、という傾向があるのです。こどもの「おばけ」への関心もそのひとつです。それを、親が信仰の名のもとに押さえつけ、「そんなものはないんだ、今後そのようなことは言うな」と言えば、もしかしてこどもは一時期それを言わなくなるかもしれませんが、心の中には「何でおばけはないの?」「何で言ってはいけないの?」という疑問ばかりが残ります。またある時期、自覚的に信仰を持って「そのような存在はない」と言える時が来るのですから、それを待ちたいと思います。これはこどものことだけではありません。大人のこともそうです。人が信仰に入るのも、「勧められたから」ではなく、「自覚的に私が決断した」と言える「時」です。そのような「時」を待ちたいものです。 2002/05/25


五月晴れ

 10月に行われるディコンリー宣教50周年記念式典のために、賛美の選曲をしていました。すると、宣教師の先生が、「日本人はさびしい感じの曲が好きだ」というような内容のことを指摘しておられて、なるほどと思いました。日本人である私は自覚的に気づいていなくとも、外から見ると、そのような傾向はあるのかもしれません。世の無常をはかなんで、「もののあわれ」の精神で生きてきた日本人は、どこかさびしさを感じさせる曲に自然に引かれてしまうのかもしれません。

 5月に入りますと、よく「五月晴れ」と言いますように、晴れ渡った良い天気の日を経験します。こちらの心も晴れ晴れしてくるようです。そうです。私たちも、五月晴れの心で生きませんか。世の不条理の中で、一筋の光、イエス・キリストを一心に見ながら、歩むことができるのです。晴れ晴れたこころで、毎日を過ごしたいものですね。 2002/05/12


保育所におられるキリスト

最近上の子が保育所に行き始めました。なかなか慣れずに、苦労しています。泣きながら別れる様子は、 なかなか胸の痛むものです。

しかし、その中での唯一の慰めは、「イエス・キリストが保育所にもいてくださる」ということです。つい 最近教会ではイースターをお祝いしました。復活のメッセージは、「主は墓にはおられない」というものです。 すなわち、主は墓の外におられるのです。墓の外とは、すなわち私たちの生きる現場であります。 上の子の行っている保育所もそうです。よみがえって墓から出られたイエス様は、幼いうちの子とも 保育所にてともにいてくださる。これが慰めです。2002/04/09


春の風

 そろそろ4月。いよいよ春です。

 今年はイースターが早いので、4月は教会暦における大きな行事はありません。しかし、私たちの周囲では新しい年度が始まり、ごく自然に希望がわいてきて、何か新しいこと、大きなことが始まりそうな予感がする、そのような季節です。  

最近、とある祈りの本を手にしました。神様は祝福を好まれる祝福の神である、だから大胆に「祝福して下さい」と祈ろう、とありました。  

私たちは誰の祝福を祈るでしょうか。私たちの家族、そして私たちの教会。祝福は必ず何らかの変化をもたらしますから、私たちの家族に、そして教会に変化が訪れるように、「祝福する」との神様の約束に基づいて、祈っていきます。  

もうひとつ、私たちは自分たち自身の祝福のために祈ることが出来ます。「私を祝福して下さい」、との祈りです。周りに祝福をもたらす者として、まず私が大いに祝福されるように、祈っていこうではありませんか。  

そのように祝福をもたらすのは誰か。それは、私たちのもとにつかわされ、まさに私のうちに住んで下さる聖霊のさせるわざであります。あたたかい春の風、あのここちよく頬をなでるあの風のように、実に紳士的に聖霊はやってこられて、やさしく、あたたかく私たちを導き、そして豊かに祝福して下さいます。この祝福体験をあなたもなさいますように。2002/03/27


冬から春へ

寒さの厳しい2月を経て、春の萌しを期待させるような3月に向かおうとしています。まさに冬から春へ、といった今日この頃です。

寒いときは、胸を張って歩けないものです。どうしても寒さに対して縮こまり、背中も丸くなりがちです。信仰の世界でも、同じかもしれません。逆境の中で信仰が育てられる、勿論それも真理ではありますが、あまりにも冷たい風を真正面から受け続けるならば、やっぱり信仰の姿勢だって猫背になってしまうでしょう。

暖かな春の風が吹くと自然に私たちの体も解きほぐされるように、信仰の面でもそこに暖かな春風が吹き込んできたら、もっと前向きになれるし、希望を持って前に進んでいけるような気がします。

そんな季節に、実は私たちは毎年、受難節を迎えています。もし受難節をただ悲しむだけ、悔やむだけで過ごしていたら(「私が悪かったからイエス様を十字架に掛けてしまったんだ」…などなど)、益々私たちは信仰の面で猫背になってしまいます。むしろそれよりも、あの十字架があったから私は解放されたんだ、胸を広げてみてはいかがでしょうか。赦しの恵みを味わう受難節、ということです。 2002/02/17 12:12:19


新年に思う

皆様、主の新年あけましておめでとうございます。この一年、皆様に主の豊かな祝福がありますように。

記念すべき2000年の年末、私たちは輝かしい21世紀の幕開けの年を、大きな期待をもって待ち望みました。しかし、国内を見ても、また海外を見ても、それとは程遠い、まさに「戦」というような年となってしまいました。

そのような一年を後にして、2002年を迎えた私たち。ディコンリー日本宣教50周年を迎える今年、どんなことが私たちを待っているのでしょうか。それはしあわせなことでしょうか、それとも…。

人生はわからない、それがある意味で昨年を通じての私たちの共通の理解でした。今年も、同じような傾向があるかもしれません。思いがけない嬉しいことがあるとすれば、それと同じように、思いがけない悲しいこともある。それがこの2002年でしょう。しかし、私たちはいつも恵み深く向き合って下さる主を信じています。たとえどんな暗闇が私たちを覆うとも、その上には主の光が照っていると知っているのです。目に見える成功や順境にのみ心を奪われることなく、十字架にご自分の栄光を隠された主を仰ぎ、隠された宝を発見する一年でありたいと願います。


クリスマスに思う

私が教会の門を叩いたのは(と言ってもその教会には門はありませんでしたが)11月頃で、もうそろそろアドベント、という頃でした。ですから、私にとってはこのアドベントからクリスマスにかけての時期はたいへん印象深いものがあります。

教会で体験したクリスマスは、たいへん温かいものでした。クリスマスは暖色系の赤色が巷に満ち、それでなくても温かさを感じさせるものですが、それとは違う、人と人との関わりがある、ぬくもりのあるクリスマスだったのです。

クリスマスは、やはり大勢の親しい方々と過ごすのがうれしいものです。その温かい交わりが、なお一層クリスマスの魅力を引き立てます。それでは、どうしてこの交わりがこうもクリスマスを素晴らしいものにするのでしょうか。

それは、クリスマスに私たちのところに来てくださった方が、そもそも交わりの主であるからだと思っています。

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ 1:14)
私たちの救い主としてこの世に来てくださったキリストは、「私たちの間に住まわれた」主です。私たちとともに過ごしてくださるのです。すなわち、交わりを持ち、それを大事にしてくださる。だから、それに倣って私たちもともに交わりを持つ時、クリスマスの喜びは増幅していくのです。今年のクリスマスが、交わりの主とともに、よき交わりを持つ時となりますように。


緊急提言 「対米同時多発テロ事件に思う」

9月11日に起こった対米同時多発テロ事件は、21世紀こそ平和の世紀、特にその最初の年こそは平和にあふれた時であるように、との私たちの願いを一瞬のうちに打ち砕いてしまいました。阪神大震災を経験した方々の中には、事件を報道する映像を見て、再び不安を感じてしまった方もおられたそうで、様々な面で私たちの生活に大きな衝撃を与えた事件でした。

始めの数日こそはほとんどのメディアがこの事件を大きく報道し、私たちもそれに釘付けになっていたのですが、時がたつにつれ、それも少なくなり、同時に新しく得られる情報も格段に少なくなりました。そのわずかな情報をもとに、私たちはこの事件の与える世界経済への影響、またアメリカを中心とする報復行動のゆくえなどをさまざまに思い巡らしています。

特に平和の主キリストを信じて歩む私たちにしては、この世紀が平和の世紀であって欲しいからだけでなく、これ以上神の愛する人間のいのちがそこなわれないために、この事件の平和的な解決を願います。そして、「主よ、戦争になりませんように。平和でありますように」と祈ります。

ただ、それが行き過ぎるならば、「平和が与えられなければ神様は信じるに値しない」という「信仰的平和絶対主義」となり、残念ながら戦争状態になった場合にそれを受け入れられず、神に大きく失望してしまうことにもなりかねません。平和を祈ることは正しいことですし必要なことですが、それにいつも「神のみこころがなりますように」「このような状況の中で、神の目から見た最善がなされますように」との祈りを加えることが重要です。現状に対抗していくよりも、受け入れがたいような現実を受け入れていくことの方が、弱く受動的に見えて、実は神のゆえに強いのです。(2001/9/22)


対米同時多発テロ事件で被害に遭われた方々に、
主イエス・キリストの助けと慰めがありますように。

弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。(マタイ 14:26-27)

今回の悲しい事件を契機に、人々の心の中には恐れや不安が広がっています。もしかしてその中には、根拠の薄いものもあるかもしれません。そのような状況の中で、イエス・キリストという方は、「恐れることはない」と声をかけて下さいます。2001/09/14 12:23:26


折衷主義

現代は、ポストモダンの時代だと言われます。これはひとことでその特徴を表すとすれば、「折衷の時代」と言えるでしょう。人は物事の価値を、「自分にとって有益かどうか」ということだけで判断します。自分の主義主張や信条にあまりとらわれないのですね。そうすると、はたから見ると、やっていることがばらばら、ということにもなるのです。お互いに矛盾するようなことでも、自分にとって有益だとすれば、両方選んでしまうのです。宗教が異なっても、教会で結婚式をしたい、という考え方に似ています。

それはそれですべてが間違っているということではないのだと思うのですが、それでも、人生の全体像に 首尾一貫性がないというか、統一性がないというのか、自分が何を求めてどこに向かっているのかが わかりにくくなってしまうように思うのです。自らを統合する、自分の依って立つところに照準を 合わせることも人生においては必要なのではないでしょうか。2001/08/26 13:00:24


すべての人を

「というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、・・・」(テトス 2:11)
恵みということばは、日本でも珍しいことばではないでしょう。「大地の恵み」などの使われかた からしても、私たちに何かをもたらすもの、といった印象があるようです。

聖書の中でこの「恵み」ということばについて印象深いのは、上に引用した個所です。ここでは、 恵みが「どんな恵み」なのか、限定しているように見えます。その恵みは、「すべての人を救う」 神の恵みである、と言われています。

人を救う、そのような恵みがあるというのは安心です。それで心に平安が生まれます。しかも もうひとつ大事なのは、それが「すべての人」を救う恵みである、ということです。現代は グローバル化の時代ですが、そうすると、宗教の違いや信条の違いを遥かに越えて、この救いの 恵みは働くのだ、と言ったら言い過ぎでしょうか。ともかく、この救いの恵みは、人生の錨の ように、揺れ動くこの時代において私たちを支えます。(2001/08/05 16:24:05)


みこころはどこに?

「みこころ恐怖症」ということばがあるそうです。クリスチャンは神のみこころを 求めなければならない、と聞く。どうもそれは自分の思い(肉の思いとも言う)とは 違うらしい。そうすると、自分のしたいことをすることが出来ず、いつも「みこころ、 みこころ」と戦々恐々としながら生きていく、ということを表わしているようです。

聖書によれば、むしろみこころは明らかで、それは人を永遠に「救う」ことであり、 私たちが「きよくある」ことです。それに沿って生きていれば、私たちはみこころに 従って生きているのです。イエス様にいただいた救いを大事にして、喜ぶ。自らを みことばに照らしてきよく保つ。その中で、私たちはみこころに生きることが 出来るのです。2001/07/15 12:49:02


ゆだねる=転がす?

あなたのクリスチャンの友人が、また家族が、「ゆだねたらいいのよ」と言うのを 聞くことがあるかもしれません。それは、「抱えている重荷や問題を神様にゆだね る」のを勧めていることばです。

この「ゆだねる」ということは、時々「心の中だけのこと」と思われがちです。 そうすると、「心のことだから自分ではどうしようもない」とも思ってしまいます。

しかし、旧約聖書を読んでみると面白いのは、「ゆだねる」と日本語に訳されている ことば、もとをたどれば「投げる」とか「転がす」ということばである場合が あるのです。おもしろいですね。それが転じて、「ゆだねる」という意味を表わす ようになったのです。

そう考えると、「ゆだねる」とは何らかの動作のように思えてきます。抱え込んで しまっている重荷や問題をまさに神様の方に投げつける、転がすようにする。この 動作のポイントは、「手放す」ということです。投げつけたり、転がしたりして、 自分の手から離すのです。そうすると、神様が受け取って、解決へと導いて下さる のです。2001/07/01 15:26:58


悲しみの意味

世の中には、わかることとわからないことがあります。近代、すなわちモダンの 時代には、理性によって真理が分かると強調していたのですから、勿論こんな ことは言えなかったでしょう。しかし、その時代を過ぎた、ポストモダンの時代 に生きる私たちには、言わばどうしようもない現実として、「世の中にはわからん ことがある」と認めざるを得ないのです。

たとえば、ついこの間(と私には思える)の池田市の児童が犠牲になった事件。隣 の市での事件だから、というだけでなく、「どうしてこのような悲しいことが起こる のか」と心を痛めました。それは、単に未来ある子どもたちが亡くなって悲しい、 というだけでなく、「このような悲しい現実があるのに、何も出来ない」という もどかしさでもあったのです。

出来れば、「悲しみの意味」を知りたい。「そうか、このためにあの悲しみがあった のか」といつか納得できれば、まだ楽になります。しかし、現実にはなかなかそうは いかない。そうするとこのポストモダンの時代、「わからないけど信じる」という 姿勢がこの世を生き抜くひとつの鍵となるのではないか、と思えてきます。

旧約聖書の人物に、アブラハムがいます。彼がまだアブラムと名乗っていた頃、 主なる神が顕われ、「わたしの示す地へ行きなさい」と言われました。聖書にある のはそれだけです。住所も大体どの辺り、という情報もない。それでも、このアブラム、 のちのアブラハムは、自分がどこに行くのか知らないまま、主なる神の命に従って、 旅立っていったのです。私たちも、「知らずに」この世に出て行きます。悲しい 出来事がなぜ起こるか、それを知らないまま、私たちは生きていくのです。だから こそ、神を信頼するという意味での「信仰」が必要となってくるのです。2001/06/27 11:32:45


飢餓のために

豊かな生活をしていると、気が付かない現実。それが、飢餓の問題かも知れません。 6月3日の礼拝に日本国際飢餓対策機構のスタッフに来ていただき、いろいろと お話をうかがいました。

その中で印象的だったのは、「私たちの出来ることをする」というお話でした。 「私たちの力で飢餓はなくせる」というのはある意味で人間の傲慢だと 思います。しかし、だからと言って「もう何も出来ないし何をやっても無駄だ」 とあきらめて、手を引っ込めてしまうのもフェアではないと思います。

私たちに出来ること。まず、祈り。そして、シンプルな生き方。考えてみれば、 出来ることがあるはずです。その背後には、「私たちと世界とは関係がある」と いう意識があると思います。私たちと世界は別個にあるのではなく、深いつながり がある。私たちがすることで明日の世界が幾ばくか変わるかもしれない。その 希望をもって、飢餓の問題に取り組みたいものです。(2001/06/05 12:26:52)
是非以下のリンクのページをご覧ください。英語ですが、黄色いボタンを押すことで、 飢餓の解決のためにささげものをすることが出来ます。
The Hunger Site Donate Food for Free to Hungry People in the World


テレビショッピング

私にとって印象的なのは、関西のとあるテレビ局などで時に放映されている、 アメリカのテレビショッピングの映像です。化粧品とか健康器具とか、 それを宣伝するわけですが、何人もの「証人」が現れて、 入れ替わり立ち替わりその商品がどんなによいものか、 それでどれだけ私が変わったかを、本当に楽しそうに、嬉しそうに語るのです。 思わず、本当に「買いたい」と思ってしまうほどです。

勿論それには演出もあろうかと思いますが、願わくは私たちクリスチャンもあの ようでありたい。そう思います。考えてみれば、私たちクリスチャンは、イエス様が 天に昇られたことによって、実は霊の面では天に引き上げられて、天の所に座らせて いただいているのです(エペソ2:6)。現実にはいろいろな困難に呻吟することも あるのですが、それでも天国を生きているような私たち。喜んで「キリストによって 私はこう変わりました」「こんなよいことがありました」と証しするものでありたい ものです。(2001/05/27 21:54:56)


成長

1歳5ヶ月になる長男は、最近ははいはいよりも歩く姿がすっかり板につくように なりました。まだよたよたの歩き方ですが、私のあとをちょこちょことついてくる 姿はかわいらしく、幸せを感じます。こどもの成長は早い、これが実感です。

成長するのはこどもだけではありません。大人も、さまざまな意味で成長しますし、 それが求められているように思います。特に、人間性の面での成長は重要でしょう。

イエス様のたとえ話に出てくる放蕩息子は、父親の身代を食いつぶし、切羽詰まって また家に戻ってきます。しかし、そのとき彼は言いました。

「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」(ルカ15:21)。
彼は、自分の非を認めたのです。これが出来ない大人が何と多いことでしょう。 ですから、「私が悪かった」と言えれば、大人であるのかもしれません。 自分を守ろうとする心の鎧を脱ぎ捨てて、心開いて生きたいものです。(2001/03/25 13:46:33)


救われていると「感じる」!?

時々教会で、「救いの確信」ということばを聞くことがあります。イエス・キリスト が十字架でいのちを投げ出してくださり、代わりに私たちにいのちが与えられた。 このことを信じて「救われる」と言うのに、わざわざその「確信」と言うのは どうしてなのでしょう。

これは恐らく、 「頭でわかる」ことと「心に感じる」こととの間に開きがあるからでは ないでしょうか。「信じたら救われるんだ」ということはわかって、それで 信じるのだけれど、私は救われたんだ、ということを「心に感じる」のは、信じた 後すぐなのではなく、それよりも後にあることも多いのです。 ですから、「確信がない」「そう感じない」ということであきらめてしまわずに、 「信じている私は確かに救われている」と自信をもっていきましょう。2001/03/04 13:09:59


神秘的

現代を「ポスト・モダンの時代」と呼ぶ人々があります。大雑把に 言ってしまえば、合理的・理性的な「モダン」(近代)に対して、それに 続く、その後の(ポスト)時代、ということでしょう。

そうすると、むしろ理性で捉え切れないものに心を向けるのがこの時代の 特徴となってきます。昨今のオカルトブームの一因はここにあるとも言えましょう。

そのような傾向に対して、キリスト教はどうなのか。私自身の印象では、 特にプロテスタント教会においては、礼拝の簡素さを追求し、聖書のことばを 重視するあまり、神秘的な事柄を二の次にしてきた傾向があるように思えます。

例えば、日本の教会では、説教の前に聖書を朗読するとき、司会者や朗読者だけ でなく、教会に来ておられる人々ほとんどすべてが聖書を一斉に開き、「読んで」 います。これが単なる「読書」につながらないと、誰が言い切ることが出来るでしょうか。 そこでは、その聖書のことばのダイナミックさ、それの持つ不思議な力を全身で 受け取るよりも、むしろ目で読み、知識的に理解しようとする傾向が主流では ないでしょうか。

本来キリスト教には、理性では捉え切れない不思議な力、あるいは効力があるはず です。あなたもそれを味わう旅に一緒に出ませんか。2001/02/25 13:07:02


好き嫌い

好き嫌いはあまりよいことではないと言われます。食べ物でも、人付き合いでも。 ところが、無理に感情を押し殺すことが、本当によいことなのか、考えてしまいます。

例えば、クリスチャンになると、特に人間関係において、一切の好き嫌いをもっては ならない、とプレッシャーに思ってしまうことがあります。確かに、隣人を出来るだけ 愛しようと努めるのは尊いことです。しかし、それで自分の素直な感情を必要以上に 抑圧させてしまうなら、いつか爆発してしまうでしょう。

むしろ、「苦手だな」「好きになれないな」と思うような人がたとえいたとしても (そういう人がいること自体が問題なのではありません!)、そのような人々を 人間として尊重するということが大事なのであって、無理にそのような人々と仲良く なろう、そのような人々を好きになろうとすることは、かえって人間関係を 難しくしてしまうことにつながります。無理をせずに、もっと人間関係を楽しんで いきましょう。(2001/02/18 15:40:33)


排他的?

「キリスト教は排他的だ」という言葉をしばしば耳にします。そういうことを 言っている人々自体が非寛容だ、という論議は別として、キリスト教は本当に 排他的なのでしょうか。

答えは「はい」であり、また「いいえ」であると思います。「キリスト教」には、 確かに排他的な側面があります。つい「救い主はキリストおひとりです」と 主張してしまうのですから。その一方で、「キリスト」ご自身は、非常に心の 広い、寛容な方です。勿論この同じ方が、「わたしを通してしか神を見ることは 出来ない」とおっしゃる傍らで、わけへだてなく人々に関わられる姿をも 私たちの前にお見せになるのです。ルカの福音書6章17節以降で、キリストの周り に大勢の人々が集まるのですが、その中には、言葉は悪いですが社会的な弱者あり、 周囲から見れば価値のない者と目されていた者あり、でもそのような人々をも主は 温かく包み込み、来る者を拒まなかった。ここには、「排他的」とはまったく 逆のキリストの姿を見るのです。私たちもこのキリストの広い心の恩恵を受けています。(2001/02/04 13:39:32)


「美」ということ

最近、「美人は徳」というような内容の本が出たようです。やはり人は美しい方が いいのでしょうか。
不思議なことに、教会ではあまり「美」ということが取り上げられないようです。 しかし、考えてみますと、聖書の中には、神様に仕える者の装束が美しくあるようにとか、 神様のなさることは美しいとか、そのような「美」に関することばがあるのです。
ある人が美しい香りの定義として言うのは、「拡散性」「持続性」「オリジナリティー」 などがあります。そのまま教会に当てはめられるような気がしませんか? 教会のメッセージ、すなわち愛のメッセージ、救いのメッセージに拡散性があって 教会の周りに良い香りのように広がり、そのメッセージが時代を問わず持続し、 しかも教会が教会らしくあるなら、その教会に「美」がある、と言えるように思います。 美しい教会でありたいと願います。(2001/01/28 14:19:34)


結婚します!

 明日は教会で結婚式があります。4年前の自分の結婚式の時のことを思い出します。 私と家内の結婚式の時は、2月の末の神戸でしたが、雪が降りました。 明日の天気はどうでしょうか。
 そもそも、結婚とは、何でしょうか。そして、何が大事なのでしょうか。 人によってその答えは違うでしょうね。私にも、これといったはっきりした答えが あるわけではありません。ですが、ひとつ言えることは、人間に対して関心を寄せている 神なる存在が、その益となるために、結婚を定めてくださった、ということです。 神の深いご配慮と言えましょう。神と人との関係、と言っても、漠然としています。 しかし、具体的に二人の人が一緒になってともに歩んでいくこと、これは神と人との 調和の素晴らしい象徴ではないでしょうか。
 明日の結婚式に、祝福があるように祈っているところです。

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