偶像とは何ですか。
ただ一人の本当の神をさしおいて、人間が礼拝したり、畏れ、愛し、信頼したりするものは、すべて偶像です。
どんな時に、神を愛しているのですか。
ほかのものにまさって神が慕わしい時、すなわち、神のうちに本当の喜びを求めようとし、よろこんで神のみこころを行おうとする時に、神を愛しているのです。
このいましめが求めている、本質的なことがらは何ですか。
神を礼拝すること、しかも神だけを礼拝することによって、神への愛をあらわすことです。
(スヴェルドラップ著『神の救いの道』より)
「戒め」と言うと、どうしても厳しい響きがあります。「守らなかったらどうなるのだろう」という罰の方をすぐ考えてしまう方もあるかも知れません。しかし、ルターはこの「他の神を持つな」という排他的な戒めを、いわば「積極的」に解釈しています。この戒めに応答して、神を畏れ、愛し、信頼するのだというのです。スヴェルドラップにしても同様です。普段、「神様を愛する」と言っても漠然としていて何をどうしたらいいのか、わからないのではないでしょうか。しかし、彼は「神を礼拝することで神への愛をあらわすことが出来る」とたいへん積極的にこの戒めを捉えています。私たちは、神様を愛することが出来るのです。感謝の応答として、毎週礼拝に集い、それを通して神様への愛をあらわすことが出来るのです。ますますこの神様を愛し、信頼して参りましょう。この方は、クリスマスに私たちの救いのためにひとり子をお与えになったほど愛の深い方なのですから。
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神のみ名をみだりに唱えるとは、どんなことですか。
敬虔なやり方でも尊重する態度でもなく、神のみ名を、そまつにけがすように用いることです。
このいましめが求めている本質的なことがらは何ですか。
神と、神のみ名と、そのみことばとを尊重することによって、神への愛をあらわすことです。
(スヴェルドラップ著『神の救いの道』より)
この戒めの意味を問われたとき、ルターが最初に答えたのは「わたしたちは神を恐れ、愛すべきです。」ということでした。これはその他の戒めの時も同じなのですが、私たちはただ神をいたずらに恐れるだけなのでもなく、なれなれしく愛するだけでもなく、「恐れ、愛する」ということを考えなければなりません。
また、一見すると禁止だけのようなこの戒めの中に、ルターが本質的な事柄、すなわち、「困った時にはいつでも神を呼び求め、神に祈り、神をほめたたえ、感謝する」という積極的な面を見出していることにも注目すべきです。小教理の解説をしているスヴェルドラップも同様に、この戒めを守ることで神への愛を表すという積極的な解釈をしています。この一年、私たちはいろいろな目標や抱負を胸に歩んでいくわけですが、是非とも神様を大事にして、尊敬して、それによって神様への愛を表していくということ、これも目指すことのひとつとしようではありませんか。(99年年頭にあたって)
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それでは、日曜日にはどんな仕事もゆるされないのですか。
いいえ、本当に必要でのばすことのできない仕事や、隣人のためにする愛の行いはよいのです。
このいましめが求めている本質的なことがらは何ですか。
一週間に一日を神のため、休息のため、礼拝のためにあてることによって、神への愛をあらわすことです。
(スヴェルドラップ著『神の救いの道』より)
安息日は最初は土曜日であったように記されていますが(それでいまだに土曜日に礼拝をしている方々もおられます)、キリスト教の時代になって一般的に日曜日(週の初めの日)が礼拝の日、安息日とされるようになりました。最初は日曜日はお休みではなかったので、初期のクリスチャンたちは苦労したようです。
安息を取ると言っても、礼拝に「行く」ということ、それから「奉仕」などがあり、完全に「休む」というわけにはいかない、そうお思いになることもあろうかと思います。そこでルターは、安息日を大事にするというのは単に何もしない、休養を取る、ということだけではなく、積極的に神の言葉を大事にすることなのだ、と言うのです。確かに労力を使うことはあります。しかし、神の言葉を聞くことが重要なことなのです。そのために何か私たちの方で犠牲を払うことがあったとしても、やはり神の言葉を聞くことを優先させなければならない。それで神への愛を表すのだ、ということです。出来る限り、神の言葉を聞くことを第一として参りましょう。
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両親のほかは、誰を敬い従うことが神のみこころなのですか。
保護者、雇い主、先生、政府など、私共をみちびきおさめるために神がさだめて下さった人たち全部です。
このいましめが求めている本質的なことがらは何ですか。
両親を正しく深く愛することによって、神への愛と隣人への愛とをあらわすことです。
(スヴェルドラップ著『神の救いの道』より)
ルターの生きた15、16世紀には、ペストの流行や戦乱などにより、両親、あるいは一方の親を亡くした人々も多かったことでしょう。そのあたりのことにも配慮して、ルターはこの戒めを「両親」に対するものとしてだけでなく、「めうえの人」への態度をも含んだものとして理解しています。
先月の信徒の学びで取り上げたサムエル記には、父と子の間の複雑な関係に関する記事が幾つか記されていました。3000年近く前から、やはり親子の間には「愛」しか存在しない、というのではなく、「憎しみ」も存在し得たわけです。
しかし、それよりも更に200〜400年前に、神様は親子の間の問題に関して、「両親を敬いなさい」と戒めをお与えになることを通して、すでに介入しておられたのです。私たちの力だけではどうにもならないような複雑な感情を伴う親子の関係、またルターの言うようにめうえの人との関係に、神様は直接働きかけて下さいます。「私が間に入るから、安心していなさい」とばかりに、「両親を敬うなら、あなたに祝福を与えよう」と主は言われる。その約束に信頼して、私たちも両親、まためうえの人々を敬って歩みたいものです。
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隣人のたましいを殺すこともありますか。
あります。隣人をわざと迷いの道へさそいこんだり、よくない手本を示したりして、罪をおかさせる時がそうです。
神は第五のいましめで私共に何をいいつけておられるのですか。
隣人のよき共となって、そのからだとたましいの必要をたすけ、愛と柔和とをもって、いっしょに歩いてやることです。
(スヴェルドラップ著『神の救いの道』より)
積極的な律法の解釈、これがルターの律法理解の特徴だと思いますが、それはここにも表れています。ただ否定的に、「殺してはいけないんだ」とこのいましめを捉えるだけでなく、「殺してはいけないのだから、むしろ生かしていくんだ」と律法を読むわけです。
小教理の解説をするスヴェルドラップもまた、このいましめにおける本来の神のいいつけ、すなわち真意を、「隣人を助け、ともに歩む」こととしています。これは、「ともに生きる」と言い換えても構わないでしょう。
キリスト教の中心は何か、と問われると少々迷いますが、しかし、この「生きる」ということ、これはキリスト教の中でもたいへん重要な教えではないかと思います。しかも、「ともに」生きるということ。ひとりよがりになって、「自分しか生きていない」というような状態ではない。隣人と、「ともに生きる」ということ。これは、いわば「キリストを死なせて」生きている私たちにとって、神様からの使命であるのです。
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クリスチャンの家庭とはどんなものですか。
1 キリスト中心の家庭です。
スヴェルドラップは、この「姦淫」にまつわる戒めを、家庭に関する事柄にまで発展させています。ルターにしても、「男は清く生きよ」「女も貞潔を保て」と命じるのではなく、夫婦の間柄に関して、「互いに愛し、敬い合う」のだと、この律法を解釈しています。夫婦が互いに愛し合う、これはそう問題のないことかもしれません。「私たちは愛し合っています」と告白する、仲の良いご夫婦は少なくありません。しかし、それでは「敬い合っているか」ということになると、どうでしょうか。仲が良過ぎても、お互いの距離が狭まり過ぎて、かえって「尊敬し合う」ということは難しいかも知れません。また、妻が夫を尊敬することは易しいことかも知れませんが、夫が妻を敬うことは少し難しい・・・などなど。
2 神のみことばと祈りとをもって、家庭礼拝が守られる家庭です。
3 両親と子どもとが、お互いに愛し合い尊敬し合う家庭です。
4 ですから、いつも喜びと幸福とに満ちていて、社会に向かって強い証をする家庭です。
(スヴェルドラップ著『神の救いの道』より)
私たちは普段、「姦淫するな」と言われても、「それに当てはまるようなことは無論していない」と思うものです。しかし、夫婦が「互いに愛し合い、尊敬し合う」こと。また、隣人同士、「互いに愛し合い、尊敬し合う」こと。これが常に出来ているか。この問いに答えることは簡単ではありません。その意味では、もしかして、私たちは「姦淫するな」という戒めを守りきっていないのかも知れません。
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神は第七のいましめで、私共に何をいいつけておられるのですか。
私共が、あらゆることについて正直で、利己的な心を持たないこと、隣人の財産や生活を、すすんでまもり、助長してやることです。
このいましめが求めている本質的なことがらは何ですか。
隣人を助け、その持ち物をまもってやろうとすることによって、神への愛と隣人への愛とをあらわすことです。
(スヴェルドラップ著『神の救いの道』より)
「盗むな」という厳しいいましめから、「助け合い」の精神をくみ取ってくるのは、まるっきりルター的な発想とも言えるかも知れません。スヴェルドラップもそれにならい、その精神によって、神への愛と隣人への愛とをあらわすこと、それこそがこのいましめの本質だ、とします。時には、それは「読み込み」に思えるかも知れません。「神様は、とにかく『盗むな』と言われたんだ。盗んでさえいなければ、律法を守ったことになるんだ」。そうも言えるでしょう。それであれば、私たちは「律法を守れる」ということになります。
しかし、このいましめの背後に「助け合いの精神」を見て取るのはあながち読み込みとも言えないかも知れません。なぜなら、そもそも神様は、私たち人間を愛し、そのさいわいのために、これらの律法をお与えになられたからです。決してこれらのいましめによって人間をがんじがらめにし、束縛しようとされたのではなかったのです。その神様のお心を拝察するとき、「盗むな」→「助け合う」という流れは理解し易くなります。それと同時に、今度はこの律法を守っている、と簡単に言い切れなくなって参ります。いつも隣人と助け合いの精神で接しているとは言い切れない私たち。ここに、キリストの赦しを仰がなければならない私たちの姿があるのです。
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神は第八のいましめで、私共に何をいいつけておられるのですか。
私共が、いつも真実でなければならないこと、そして、真理がゆるすかぎり、隣人をゆるしてやり、隣人についてよいことを話してやり、隣人の行いをできるだけよくとってやらなくてはならないことです。
このいましめが求めている本質的なことがらは何ですか。
私共の言葉でも行いでも、すべて隣人のすることを、できるだけよくとってやろうとすることによって、神への愛と隣人への愛とをあらわすことです。
(スヴェルドラップ著『神の救いの道』より)
厳しいビジネスの社会などでは、いちいち「裏切る」などということを気にしていては仕事にならない、ということがあるかもしれません。しかしルターの聖書理解は、このいましめが、私たちにあくまでも裏切りや悪口などの卑劣な行いをしないように求めている、というものです。
裏切りも悪口も、非常に冷静に、客観的に相手を見ているか、あるいは相手を非常に憎んでいるか、そのようなときに初めて可能なことであって、もし相手に何らかの情を感じている場合は、出来ないことです。ということは、やはり先立つのは「愛」であって、それ抜きで「裏切るな、悪口を言うな」と命じられても、根本的には何も変わらないわけです。
現代はもしかして人を愛することがなくても生き延びていける時代なのかも知れません。お互いに助け合うようなことがなくても、ひとりで何とかやっていける、というような。しかし、それでは裏切りや悪口が増長していくだけです。人間同士の基本的な愛の復権が求められるのではないでしょうか。それにはまず、私たちが神を愛することです。神を愛する者は、人をも愛するのですから。
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なぜむさぼりは罪なのですか。
むさぼりは私共の心を支配して、その結果、むさぼることにいそがしくて、神のことを考えたり、神のために生き、神のためにはたらいたりする時間をなくしてしまうからです。
神は第九のいましめで、私共に何をいいつけておられるのですか。
私共の心が、きよいねがいによってのみみたされて、その結果、私共がすすんで隣人をたすけ、隣人につかえて、その遺産と家とをまもってやることです。
(スヴェルドラップ著『神の救いの道』より)
スヴェルドラップは「なぜむさぼりは罪なのか」という問いに対して、非常に印象的な答えをしております。「むさぼりが心を支配し、むさぼることにいそがしくなる」。私たちはつい「忙しい」と言ってしまうのですが、これが「むさぼること」に忙しいならばたいへんです。そのようにしていると、「神のために生き、働く時間がなくなる」と言うのですから、なお問題は大きくなります。聖書は私たちに、「神のために生きること」を勧めます。それを神様が望んでおられるからです。しかし、この「むさぼり」によって、その人間にとって大事な使命が果たせなくなる。だからむさぼりは大きな罪と言われるのです。
むさぼりの場合、だいたいにおいて「自分」しか見えていません。「私がもっと満たされること」ばかり求めます。しかし、そのむさぼりの特効薬としてルターたちが聖書から学びとってきたのが、「隣人に仕える」ということです。こうするとき、もはや私たちは「他者」を見ています。そして、このように他者を視野の中に入れていくとき、私たちは徐々にむさぼりから解放されていくのです。
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第十のいましめで、神は何を禁じておられるのですか。
神は第十のいましめでも、むさぼりの罪を禁じておられます。特に、隣人の妻やしもべや家畜などを引きはなそうとするむさぼりを禁じておられるのです。
第九、第十のいましめが求めている、本質的なことがらは何ですか。
この世のものでなく、神についてのことがらを考えることによって、神への愛と隣人への愛とをあらわすことです。
(スヴェルドラップ著『神の救いの道』より)
十の戒めは、このように第九の戒めで禁じられていたことを繰り返して終わります。先述のように、それは「むさぼり」であります。
ただ、第十のいましめで語られているのは、「所有」あるいは「所属」ということに関係するむさぼりであることがわかります。ルターはその説明の中で、「そむかせたりしないで」「引きとめる」のだ、と勧めています。
私たちが何に、あるいはどこに所属しているか、ということはたいへん重要なことです。帰属意識と言うこともありますが、ただ何かに「属している」というだけでなく、一体「何に」属しているか、ということです。
この戒めでは、夫婦、あるいは主従関係にことばが及んでいます。夫婦においては、お互いがお互いに所属しています。しもべは、その主人に従っています。当たり前のようなことですが、これがその機能を果たしていくために大事なのであり、もし誰かがむさぼりの心を起こして、本来の所属関係を壊していくならば、それはただ「むさぼりの心が悪かった」ということを越えて、夫婦、あるいは主従関係が神の前で果たすべき機能、働きを妨害した、ということになるのです。
最終的に私たちは、それぞれが「神に」属しています。それを忘れるならば、所属関係を破壊するむさぼりに心を奪われてしまうことでしょう。
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本文は
マルチン・ルター 著 結城 浩 訳『マルチン・ルターの小信仰問答書』
Copyright (C) 1999 Hiroshi Yuki (結城 浩)