使徒信条
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使徒信条(1) 【第一の記事】創造について
われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
問い これはどういう意味ですか。
答え 私は、神様が他の被造物とともに私を作ったということを信じています。神様は私に、肉体と魂、目と耳と体のすべて、心と全感覚をお与えになりました。そしてそれらを保っていてくださいます。また神様は、衣服と靴、食べ物と飲み物、家と土地、妻と子、田畑と家畜と私の所有物すべてを与えてくださいます。神様は、毎日絶えることなく、私の体と命を養うために必要なすべてを与えてくださいます。神様はすべての危険から私を守り、すべての邪悪なものから守ってくださいます。神様がこれらのことを行うのは、父なる神様の、純粋で聖なる義と恵みのためであり、私が自分の力で得たわけでもなく、私にその資格があるからでもありません。これらのすべてのことのゆえに、私は神様に感謝し、神様を賛美し、神様に仕え、神様に従わなければなりません。はい、そうです。このことは真実です。 (ルター著『小教理問答書』より)

すべてのめぐみにたいして、あなたは何をしなければなりませんか。

神にたいして、感謝、賛美、奉仕、服従をしなくてはなりません。 (スヴェルドラップ著『神の救いの道』より)
ほんの一行しかないこの条項から、ルターはこれだけ豊かな内容を読み取っています。特に、世界の創造と、自らの創造を結び合わせて考えているところが大事だと思います。これで、天地創造の出来事は個人化され、ひとりひとりの存在と大きく関わっている出来事になるからです。

さて、神様は信仰に関わることのみならず、日常生活に関わることにも目を向けていて下さり、豊かに満たして下さいます。しかもそれらの恵みとは、私たちの方にそれにふさわしい何かがあるからもたらされるのではなく、一方的に神様の側からのあわれみだと言うのです。そこで何が起こってくるのかというと、それは感謝に基づく奉仕と服従なのです。「服従」というと、普通は恐怖から来るものの方が多いのではないでしょうか。暴君に服従する。それはその力が恐ろしいからです。そのようなイメージがあるから、「奉仕」はまだしも、「服従」ということばにはどうも慣れない、好きになれない、という思いがつきまとうかも知れません。しかしここに描かれているのは、恐怖からではない、感謝からくる奉仕と服従なのです。そこには、自由と喜びがあります。 
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使徒信条(2) 【第二の記事】あがないについて
われはその独り子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、黄泉(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり天に上り、父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生けるものと死にたるものとをさばきたまわん。
問い これはどういう意味ですか。
答え 私はイエス・キリストがとこしえの父なる神により生まれたまことの神であることを信じます。私はまた、イエス・キリストが処女マリアから生まれたまことの人間であることを信じます。イエス・キリストこそ私の主です。イエスは私をあがないました。私は道に迷い、呪われた人間でした。すべての罪、死、悪魔の支配下から、イエスは、私を買い取り、私を勝ち取りました。それは金や銀で買い取ったのではありません。イエスさまの聖なる貴い血潮、イエスさまの無実の体 ―― イエスさまの死によってです。このようにして、私はイエスさまのものとなり、イエスさまの王国でイエスさまの元で暮らし、義とされ、罪ゆるされ、祝福をうけて、永遠にイエスさまに仕えるのです。イエスさまが死から復活し、永遠に治めるのと同じように。はい、そうです。このことは真実です。 (ルター著『小教理問答書』より)

あなたがイエス・キリストを信じるとは、どういう意味ですか。   

私の心からの信頼をもって、イエス・キリストこそ、罪と死と悪魔の力からの ただ一人の救い主であるとして、自分自身をすっかりおまかせすることです。 (スヴェルドラップ著『神の救いの道』より)
信仰とは信頼である。これがルターの理解でした。キリストを信じるとは、キリストを信頼することであり、彼にまったく任せてしまうことだと、スヴェルドラップもルターに倣って告白しています。

それでは、どうして彼に任せることが出来るか。それは、主がその貴い血と御苦しみによって私たちの受けなければならない罪の罰を「身代わりに」受けて下さったからであり、また、律法を守った良い生活も、彼が「身代わりに」生きて下さったからです。良い面でも悪い面でも、私たちの主は完全に私たちの身代わりになって下さった。もう改めて私たちの方で罪の赦しのために、良い生活のために何かをしなくとも、もうすでにイエス様の方で全部成し遂げて下さっているのです。まさに「至れり尽くせり」といった感じです。この身代わりの主によって、私たちは生きるのです。
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使徒信条(3) 【第三の記事】聖めについて
われは聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒のまじわり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン。
問い これはどういう意味ですか。
答え 私は、私の主であるイエス・キリストのもとへ自分自身の知性や力で向かうことはできません。しかし聖霊様が福音によって私を召してくださり、聖霊の賜物によって私の目を開かせてくださり、まことの信仰のうちにあって私を聖なるものにし、保ってくださるのです。それはちょうど、聖霊が地上の全教会を召してくださり、一つに集めてくださり、目を開かせてくださり、イエスとともに唯一のまことの信仰のうちにあって聖なるものとし、保ってくださるのと同じです。この教会において、神様は毎日、私やすべての信仰者がおかした罪をすべてゆるしてくださいます。そして終わりの日に神様は、私とすべての死んだ人を墓から引き上げてくださいます。神様は、私と、キリストを信じるすべての人に永遠の命を与えてくださいます。はい、そうです。このことは真実です。 (ルター著『小教理問答書』より)

聖霊は、何によって人を(神に)まねかれるのですか。   

神のみことばによってです。律法によって私共を罪に目覚めさせ、それから福音によってキリストへとまねいて下さいます。(スヴェルドラップ著『神の救いの道』より)
ルターは、「聖霊とは何か」(あるいは、どんな方か)という神学的・哲学的解説よりも、単純に「聖霊が何を私たちにして下さるか」ということに焦点を当てているように見えます。聖霊は私たちを「福音をとおして召し」、「照らし」、「きよめ」(だからこの条項が「きよめについて」と呼ばれています)、「すべての罪をゆたかにゆるし」、「よみがえらせ」、「永遠の生命を与えてくださいます」。勿論、聖霊のお働きを「これだけだ」と限定するのは正しくないでしょう。聖霊は神ですから、私たちの考えをはるかに超えて働かれます。しかし、私たちの理解は有限ですから、ルターの整理にならい、以上の働きを聖霊のお働きとして、感謝して受け止めるのが良いと思います。

「わたしは信じます」との使徒信条。「わたしたち」ではないところに、意味があります。そう、「あなた」が、父なる神を、救い主なるキリストを、きよめ主である聖霊を、自分自身でしっかりと信じるのです。
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本文は
マルチン・ルター 著 結城 浩 訳『マルチン・ルターの小信仰問答書』
Copyright (C) 1999 Hiroshi Yuki (結城 浩)

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