主の祈り
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主の祈り(1) 【呼びかけ】天にまします、われらの父よ。
問い これはどういう意味ですか。
答え この祈りを始めるにあたり、神様が私たちの本当のお父さんであり、私たちが神様の本当の子どもたちであるように信じなさいと神様は私たちを招いていらっしゃるのです。そうして私たちは、神様を信頼し、完全な確信を持って祈るのです。愛する子どもたちが、愛する父へ願いごとを持っていくのと同じように。 (ルター著『小教理問答書』より)

なぜ「私の父」と言わないで、「我らの父」と言うのですか。

世界中でキリストを信じる人は、みんな神の家の家族ですから、 「我らの父」と言うのです。ですから、私どもは お互いに、お互いのために祈らなくてはなりません。(スヴェルドラップ 『神の救いの道』より
今回はほんの短い、「呼びかけ」の部分です。ここでのポイントは、 後の時代のスヴェルドラップも指摘しているように、「我ら」ということばで あると思います。「人類みな兄弟」ではありませんが、 同じく神を「父」として崇める同信の人々のために、祈る。この主の祈りは、 そういった意味では地球的な規模を持った祈りであることがわかります。 そして、心からの信頼をもって、同じ「我らの父」に祈るのです。
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主の祈り(2) 【第一の願い】ねがわくは、御名(みな)をあがめさせたまえ。〔あなたの名前が聖なるものとなりますように。〕
問い これはどういう意味ですか。
答え 言うまでもなく、神様のお名前はそれ自体聖なるものです。でもこの願いを通して、神様が私たちのうちにおいても御名を聖なるものとしてくださるように、と私たちは祈るのです。
問い どうすれば、そのようなことが起こりますか。
答え 神様の御言葉である聖書がはっきりとそのままの形で教えられ、私たちが御言葉を土台として神の子どものように聖い生活をするときにそうなります。天にいらっしゃる お父様、そのように私たちを助けてください。しかし、神の御言葉以外の何かによって教えたり、生活したりする者は、私たちの間に働く神様の御名をけがすのです。天にいらっしゃる お父様、そのようなことから私たちをお守りください。 (ルター著『小教理問答書』より)

神の御名が、私共の間であがめられるのはいつですか。

神のみことばが、正しくまじりけなく教えられて、 私共の心の中にはいりこむ時にです。(スヴェルドラップ著『神の救いの道』より)
私たちが祈る前からすでにきよい神の御名のために祈るのはなぜか。 それは、それが「私たちの間で」きよいとされ、あがめられるためである、 とルターは説明しています。神を知らぬ人々も、一人でも多く御名をあがめよ、 というよりはむしろ、既に信じている者の間でどうなのか、神のみことばが、 正しくまじりけなく教えられて、心の中に入り込んでいるのか、 そのことが問われているのです。

願わくは、私たちが主のみことばを血肉として、まさにそれに生きることが 出来ますように。
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主の祈り(3) 【第二の願い】御国(みくに)を来たらせたまえ。
問い これはどういう意味ですか。
答え もちろん、私たちが祈らなくても、神の御国はやってきます。しかし、私たちはこの願いを通して、神の国が私たちのところにもやってくるようにと祈るのです。
問い どうすれば、そのようなことが起こるのでしょうか。
答え 天の父なる神様は私たちに聖霊を送って下さいますので、私たちは神の恵みによって神の聖なる御言葉を信じることができます。そして私たちは、現在のこの世においても、さらに永遠の命においても、神の御心に従った生活を送ることができるのです。 (ルター著『小教理問答書』より)

神の国は、どんな国でしょうか。その特徴は、何でしょうか。ひとつ挙げるとすれば、それは「目に見えない」ということだと思います。「御国が来ますように」と祈りながら、願い求めているその国は目で見ることが出来ない。となると、信仰によって見るしかありません。従って、神の国は、「すでに来ている」と思う人と、「まだ来ていない」あるいは「そんなものは来るのか」と思う人を、明確に分けてしまう性質も持っているのです。

どのような人が、「神の国」の実現を見るのか。それは、信仰によって、自らが神に受け入れられた者であることを知っている人です。十字架のキリストを信じ、その苦難の影に自らを隠しておられる神に祈っている人々が、神の国に属しています。そのような人々は、目に見える世界で何が起ころうと、右往左往することはありません。決して変わらない神の国を見詰めているのですから。
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主の祈り(4) 【第三の願い】みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
問い これはどういう意味ですか。
答え もちろん、神の正しく恵み深い御心は、私たちが祈らなくても成就します。しかし、私たちはこの願いを通して、神様の御心が私たちにおいても成就するようにと祈るのです。
問い どのようにしてそれが起こりますか。
答え 神様が、神の国を到来させまいとするすべての悪しき意志、すべての悪しき助言を打ち砕き、阻止するときです。それらの悪しきものとは、悪魔や、この世、それに私たちの肉の欲からでた意志です。また神の御心が私たちの上に成就するのは、神様が信仰と神の御言葉によって私たちを強め、人生の終わりに至るまで私たちを信仰深く生かしてくださるときです。これこそ、正しく、恵みにあふれた神様の御心なのです。 (ルター著『小教理問答書』より)

ここで明らかになるのは、実は信仰生活を滞りなく送ることが出来るのは、すべて神様のみこころによる、ということです。神様が私たちに「信仰」を与えてくださり、私たちを強めてくださる。同時に神様は、それだけでことをなすことの出来る尊い「みことば」を私たちに与えてくださり、私たちの努力を越えて、人生の終わりに至るまで私たちを信仰深く歩ませてくださる。あとは私たちは心安んじて、ただ神様にまかせるだけです。
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主の祈り(5) 【第四の願い】われらの日用(にちよう)の糧(かて)を今日もあたえたまえ。
問い これはどういう意味ですか。
答え もちろん、私たちが祈らなくても、神様は、悪い人間たちに対しても日々の糧をお与えになります。けれども、この願いを通して、日々の糧を神様が与えてくださることを意識し、感謝をもって日々の糧を受け取れるようにと私たちは祈るのです。
問い 「日用の糧」とはどういう意味ですか。
答え 私たちのからだを養い、必要を満たしてくれるすべてのもののことです。例えば、食べ物、飲み物、着る物、靴、家、庭、土地、家畜、金銭、所有物、献身的な配偶者、献身的な子供たち、献身的な雇い人、献身的で信仰深い施政者、よい政府、よい天気、平和、健康、学問、名誉、よい友人、信仰深い隣人、そしてこれに類する他の全てのもののことです。 (ルター著『小教理問答書』より)

皆さんは、毎週の礼拝の中で、あるいは祈祷会の最後に「われらの日用のかてを今日も与え給え。」と祈るとき、その「日用のかて」ということばで何をイメージされるでしょうか。もとのことばでは、「パン」という意味です。しかしルターが説明するには、このことばはたいへん広い意味があり、「私たちのからだを養い、必要を満たしてくれるすべてのもの」となっています。ただ食べ物だけではない。衣食住のみならず、人間関係や国家まで、「日用のかて」であるのです。これらを、豊かに神は与えてくださいます。神の国発言で揺れている昨今ですが、この国も神が与えてくださったのです。
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主の祈り(6) 【第五の願い】われらに罪をおかすものを、われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ。
問い これはどういう意味ですか。
答え 私たちはこの願いを通して、天にいらっしゃる私たちの父なる神様が私たちの罪に目を留めたりなさらず、また私たちが罪深いからとか私たちが祈り求めるものにふさわしくないからということを理由にして、私たちの願いを退けたりしないようにと祈るのです。しかし神様は私たちに、そのすべてのものを恵みによって与えたいと思っています。毎日何度も私たちは罪を犯し、刑罰を受けるのが当然の身でありながら、神様はそうしてくださるのです。だから、私たちも当然のこととして、私たちに罪をおかす人々に心から喜んで良いことをしたいと願うのです。 (ルター著『小教理問答書』より)

この祈りにおいては、すでに「われらに罪を犯すもの」の存在が想定されています。ルターの解説もそれにのっとって行なわれています。

しかし、考えてみてください。私たちに罪を犯す人々とは、いったい誰でしょうか?ひとこと余計なことを言う人でしょうか、私たちの足を引っ張る人々でしょうか。確かにそうかもしれません。

しかし、理想としては、私たちが「私たちに罪を犯している人とは誰だろう」と思うほど、他人の罪に鈍感でありたいと思います。自分の罪に敏感であるなら、それは実現していきます。「あの人が私に罪を犯した」と言う前に、「その私自身が罪人なのだ」と告白するからです。
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主の祈り(7) 【第六の願い】われらを試みにあわせず、
問い これはどういう意味ですか。
答え もちろん、神様は誰も誘惑したりはしません。でも、私たちはこの願いを通して、神様が私たちを守り、救ってくださるようにと祈るのです。そして、悪魔・この世・私たちの肉の欲が、私たちを欺いたり、異教や異端・絶望・他の恐ろしい不品行・悪徳へ誘い込んだりすることのないように。また、たとえそれらが私たちを攻撃してきても、私たちはそれらに打ち勝ち、最後には勝利するようにと祈るのです。 (ルター著『小教理問答書』より)

私たちは天国に生きているのではなく、この世に生きているのですから、試みにあうことは避けられません。だからと言ってあきらめるのではなく、この主の教えてくださった祈りのように、熱心に「わたしたちを試みにあわせないで下さい」と祈ることが必要になってくるのです。試みを誘惑という意味で理解した場合、悪いこと、危険なことばかりではなく、一見するとよいものも誘惑になり得ますから注意が必要です。キリストによらなくてもわたしたちの心が満足し、キリストのみゆるしによらなくても存在の意味が見出されるほどわたしたちが周囲の人々に認められていく時、それはある意味で誘惑となるかもしれないのです。
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主の祈り(8) 【第七の願い】悪より救い出だしたまえ。
問い これはどういう意味ですか。
答え 全体の結びとして、私たちはこの願いを通して、天にいらっしゃる私たちの父なる神様が、私たちの肉体・魂・財産・名誉を脅かす全ての悪しきものから私たちを守ってくださるようにと祈ります。そして、ついに最後の時がやってきたとき、祝福のうちに死を迎えることを神様がおゆるしになり、主の恵みのうちに、涙の谷から神様のみもとへ連れて行ってくださるようにと、私たちは祈るのです。 (ルター著『小教理問答書』より)

「私たちは心して悪から離れます」と約束するのではなく、神に悪からの救出を願う主の祈り。そうです、悪とは私たちがそうやすやすと離れることの出来るたぐいのものではなく、神に祈ってはじめてそこから抜け出すことの出来るものなのです。その点で私たちは自分たちの弱さを自覚し、常に神に祈る心を持たなければなりません。

また、ルターがこの願いに関して、人生の終わりにまで目を向けていたことも注目に値します。「今」を生きる私たちですが、確かに死は近づいています。悪から救出されることが、現在の私たちだけでなく、将来にも関わっていることを、ここから読み取ることが出来ます。この祈りを積み上げている私たちにとって、やがて来るべき死はその祈りの結果を見る瞬間なのです。
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主の祈り(9) 【結びとアーメン】国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン
問い これはどういう意味ですか。
答え 天にいらっしゃる父なる神様が、この祈りを受け入れてくださり、聞き入れてくださるのを、私は確信しています。また、このように祈りなさいと私たちにお命じになったのは神様ご自身であり、神様が私たちの祈りにこたえると約束しておられることを、私は確信しています。アーメン。アーメン。これは「そうです、そうです。このようになります」という意味です。(ルター著『小教理問答書』より)

いよいよ主の祈りも最後になりました。偉大なる頌栄と、祈りの確信に満ちた「アーメン」、これによって主の祈りは閉じられています。

先月まで学んだ「願い」で主の祈りの大部分は終わった、という気分になりがちですが、実はこの最後の部分は重要です。今までいろいろと願ってきたけれども、最終的には神様、すべての決定権はあなたにあるのです。そのように、この頌栄は主張します。祈り願っている私たちが上の立場にあり、その祈りの結果を神に強要するのではない。あくまでも国も力も栄光もただ神のものなのです。そしてそれは口先のことではなく、たましいからそのように納得して祈っているのだ、ということの表れとして、ほんのひとことの言葉ですが、私たちは意味深く、「アーメン」(確かにその通り)と言うのです。
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本文は
マルチン・ルター 著 結城 浩 訳『マルチン・ルターの小信仰問答書』
Copyright (C) 1999 Hiroshi Yuki (結城 浩)

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