なぜ「私の父」と言わないで、「我らの父」と言うのですか。
世界中でキリストを信じる人は、みんな神の家の家族ですから、
「我らの父」と言うのです。ですから、私どもは
お互いに、お互いのために祈らなくてはなりません。(スヴェルドラップ
『神の救いの道』より
今回はほんの短い、「呼びかけ」の部分です。ここでのポイントは、
後の時代のスヴェルドラップも指摘しているように、「我ら」ということばで
あると思います。「人類みな兄弟」ではありませんが、
同じく神を「父」として崇める同信の人々のために、祈る。この主の祈りは、
そういった意味では地球的な規模を持った祈りであることがわかります。
そして、心からの信頼をもって、同じ「我らの父」に祈るのです。
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神の御名が、私共の間であがめられるのはいつですか。
神のみことばが、正しくまじりけなく教えられて、
私共の心の中にはいりこむ時にです。(スヴェルドラップ著『神の救いの道』より)
私たちが祈る前からすでにきよい神の御名のために祈るのはなぜか。
それは、それが「私たちの間で」きよいとされ、あがめられるためである、
とルターは説明しています。神を知らぬ人々も、一人でも多く御名をあがめよ、
というよりはむしろ、既に信じている者の間でどうなのか、神のみことばが、
正しくまじりけなく教えられて、心の中に入り込んでいるのか、
そのことが問われているのです。
願わくは、私たちが主のみことばを血肉として、まさにそれに生きることが
出来ますように。
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神の国は、どんな国でしょうか。その特徴は、何でしょうか。ひとつ挙げるとすれば、それは「目に見えない」ということだと思います。「御国が来ますように」と祈りながら、願い求めているその国は目で見ることが出来ない。となると、信仰によって見るしかありません。従って、神の国は、「すでに来ている」と思う人と、「まだ来ていない」あるいは「そんなものは来るのか」と思う人を、明確に分けてしまう性質も持っているのです。
どのような人が、「神の国」の実現を見るのか。それは、信仰によって、自らが神に受け入れられた者であることを知っている人です。十字架のキリストを信じ、その苦難の影に自らを隠しておられる神に祈っている人々が、神の国に属しています。そのような人々は、目に見える世界で何が起ころうと、右往左往することはありません。決して変わらない神の国を見詰めているのですから。
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ここで明らかになるのは、実は信仰生活を滞りなく送ることが出来るのは、すべて神様のみこころによる、ということです。神様が私たちに「信仰」を与えてくださり、私たちを強めてくださる。同時に神様は、それだけでことをなすことの出来る尊い「みことば」を私たちに与えてくださり、私たちの努力を越えて、人生の終わりに至るまで私たちを信仰深く歩ませてくださる。あとは私たちは心安んじて、ただ神様にまかせるだけです。
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皆さんは、毎週の礼拝の中で、あるいは祈祷会の最後に「われらの日用のかてを今日も与え給え。」と祈るとき、その「日用のかて」ということばで何をイメージされるでしょうか。もとのことばでは、「パン」という意味です。しかしルターが説明するには、このことばはたいへん広い意味があり、「私たちのからだを養い、必要を満たしてくれるすべてのもの」となっています。ただ食べ物だけではない。衣食住のみならず、人間関係や国家まで、「日用のかて」であるのです。これらを、豊かに神は与えてくださいます。神の国発言で揺れている昨今ですが、この国も神が与えてくださったのです。
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この祈りにおいては、すでに「われらに罪を犯すもの」の存在が想定されています。ルターの解説もそれにのっとって行なわれています。
しかし、考えてみてください。私たちに罪を犯す人々とは、いったい誰でしょうか?ひとこと余計なことを言う人でしょうか、私たちの足を引っ張る人々でしょうか。確かにそうかもしれません。
しかし、理想としては、私たちが「私たちに罪を犯している人とは誰だろう」と思うほど、他人の罪に鈍感でありたいと思います。自分の罪に敏感であるなら、それは実現していきます。「あの人が私に罪を犯した」と言う前に、「その私自身が罪人なのだ」と告白するからです。
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私たちは天国に生きているのではなく、この世に生きているのですから、試みにあうことは避けられません。だからと言ってあきらめるのではなく、この主の教えてくださった祈りのように、熱心に「わたしたちを試みにあわせないで下さい」と祈ることが必要になってくるのです。試みを誘惑という意味で理解した場合、悪いこと、危険なことばかりではなく、一見するとよいものも誘惑になり得ますから注意が必要です。キリストによらなくてもわたしたちの心が満足し、キリストのみゆるしによらなくても存在の意味が見出されるほどわたしたちが周囲の人々に認められていく時、それはある意味で誘惑となるかもしれないのです。
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「私たちは心して悪から離れます」と約束するのではなく、神に悪からの救出を願う主の祈り。そうです、悪とは私たちがそうやすやすと離れることの出来るたぐいのものではなく、神に祈ってはじめてそこから抜け出すことの出来るものなのです。その点で私たちは自分たちの弱さを自覚し、常に神に祈る心を持たなければなりません。
また、ルターがこの願いに関して、人生の終わりにまで目を向けていたことも注目に値します。「今」を生きる私たちですが、確かに死は近づいています。悪から救出されることが、現在の私たちだけでなく、将来にも関わっていることを、ここから読み取ることが出来ます。この祈りを積み上げている私たちにとって、やがて来るべき死はその祈りの結果を見る瞬間なのです。
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いよいよ主の祈りも最後になりました。偉大なる頌栄と、祈りの確信に満ちた「アーメン」、これによって主の祈りは閉じられています。
先月まで学んだ「願い」で主の祈りの大部分は終わった、という気分になりがちですが、実はこの最後の部分は重要です。今までいろいろと願ってきたけれども、最終的には神様、すべての決定権はあなたにあるのです。そのように、この頌栄は主張します。祈り願っている私たちが上の立場にあり、その祈りの結果を神に強要するのではない。あくまでも国も力も栄光もただ神のものなのです。そしてそれは口先のことではなく、たましいからそのように納得して祈っているのだ、ということの表れとして、ほんのひとことの言葉ですが、私たちは意味深く、「アーメン」(確かにその通り)と言うのです。
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本文は
マルチン・ルター 著 結城 浩 訳『マルチン・ルターの小信仰問答書』
Copyright (C) 1999 Hiroshi Yuki (結城 浩)