洗礼、懺悔、聖餐
洗礼(1) 洗礼(2) 洗礼(3) 洗礼(4) 懺悔(1) 懺悔(2) 聖餐(1) 聖餐(2) 聖餐(3) 聖餐(4)


洗礼(1) ルターの小教理の学び 「洗礼について」(1)
問い 「洗礼とは何ですか。」
答え 洗礼は単なる水ではありません。神の命令に含まれ、神の御言葉と結びついている水なのです。
問い それはどのような御言葉ですか。
答え 私たちの主キリストがマタイによる福音書の最終章で語られた「世界中に行き、すべての異邦の国々に教え、父、子、聖霊の御名によって洗礼を行いなさい」という御言葉です。
 (ルター『小教理問答書』より)

・ だれが洗礼を受けるのですか。
――若い人も、老人も、すべての人がキリストを信じ、洗礼を受けて救われるのが神のみこころです。
(スヴェルドラップ『神の救いの道』より)

小教理の学びも、礼典(洗礼と聖餐)の項に差し掛かりました。
クリスチャンの場合、洗礼の項を学ぶのは、「私にとってあの洗礼は何だったのか」という、過去を振り返っての考察になる場合が多いと思います。しかし、ルターは「洗礼とは何だったか」とは問いません。「洗礼とは何ですか」と問うのです。そうです、洗礼とは、今も私たちのうちに日々起こっている、「現在的な出来事」なのです。だから、私たちにとって重要なのは、洗礼を「今のこと」として捉えることです。日々私たちは洗礼の恵みによって罪の赦しを受け、新しい人へと造り替えられ続けているのです。
ルターはその洗礼が神のみことばと結びついていると説明しますが、ということは、聖霊と結びついていることにもなります。聖霊が確かに私たちを洗いきよめてくださった。だから、私たちは救われたのです。  

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洗礼(2) ルターの小教理の学び 「洗礼について」(2)
問い 「洗礼によって何が与えられるのですか。洗礼にどんなよいことがあるのでしょうか。」
答え 洗礼によって罪が赦され、死と悪魔からあがない出され、信じるものすべてに永遠の救いが与えられます。それは神の御言葉と約束が宣言している通りです。
問い その神の御言葉と約束とは何ですか。
答え 私たちの主キリストがマルコによる福音書の最終章で語られた「信じて、洗礼を受ける者は誰でも救われます。しかし、信じないものは誰でものろわれます」という言葉です。 (ルター『小教理問答書』より)

・ なぜ洗礼は、私共を罪と死と悪魔とから救うのですか。
−−洗礼によって私共がキリストと結びつき、その救いにあずかるようになるからです。
(スヴェルドラップ『神の救いの道』より)

時々、何気なく私たちが手にしているものが実は素晴らしい価値を持っているものだということが分かって驚くことがあります。すでに私たちがいただいている洗礼の恵みも同様で、「私は過去に洗礼を受けました」とさらりと言ってのけてしまうのですが、実はそれが私の人生に大きな大きな変革をもたらしたことにいつも気付いているわけではありません。
洗礼の恵みによって、罪が赦され、死と悪魔からあがない出された。これは私たちに永遠(これまた想像しがたい)のいのちが与えられたことを意味しています。いつも「終わり」というものを一抹の寂しさをもって実感している私たちの人生に突如として終わりのない「永遠」が突入した。これが洗礼の大きな出来事だったのです。

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洗礼(3) ルターの小教理の学び 「洗礼について」(3)
問い 「どうしてそのようなすばらしいこと(罪の赦しや救い)が
水にできるのですか。」
答え もちろん、水にはそのようなことを行う力はありません。水
とともにあり、水のうちに働く神の御言葉がそのようなことをなすのです。なぜなら、神の御言葉がなければ、水はただの水にすぎず、洗礼ではないからです。しかし神の御言葉があるとき、水は洗礼となり、恵みに満ちた命の水、聖霊による新生の洗いとなるのです。それは、聖パウロがテトスへの手紙3章で次のように述べている通りです。「神が私たちの上に救い主イエスキリストを通して豊かに注いで下さった、聖霊による新生と更新の洗いを通して、私たちは同じ恵みによって義とされ、永遠の命という希望によって相続人となったのです。これは信じることができる言葉です」 (ルター『小教理問答書』より)

確かに、授けていただいたあの洗礼は、少々の水を注がれただけの、特別なことのない、簡素なものでした。それなのに、その洗礼こそが、私たちに罪の赦しと救いを与える。これは驚きであり、「どうしてそんなことが出来るのか」と尋ねたくなるのも無理はありません。
そんな時、ルターはあくまで聖書を使います。理性を用いて議論によって納得させるのではなく、聖書のことばから、答えようとしています。それは「立証」ではありません。科学的な思考においては、ある現象の「立証」をすることがありますが、ルターのしていることは、ただ単に関連するみことばを私たちの前に提示しているだけです。ここで聖霊の働きによって、水の洗礼が罪の赦しと救いを与えるという霊的な真理が、私たちの「心」に深く「浸透」していくことを願わずにはいられません。これは言い換えれば、洗礼の出来事を信仰をもって受け止めることなのです。

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洗礼(4) ルターの小教理の学び 「洗礼について」(4)
問い 水による洗礼にはどんな意味があるのですか。
答え 私たちの内なる古いアダムは、日々の悲しみと悔い改めによって、すべての罪と邪な欲望とともに溺れ死に、そして、その反対に、新しい人間が日々生まれ、死から再び復活する、という意味があります。その新しい人間は神の御前で、正しく聖い者として永遠に生きるのです。
問い どこにそれが書いてありますか。
答え 聖パウロがローマ人への手紙6章で次のように言っています。「私たちは洗礼を通してキリストといっしょに死へと葬られました。ですからキリストが父の栄光によって死から復活したのと同じように、私たちも新しい命のうちに歩むのです」(ローマ6:4)
 (ルター『小教理問答書』より)

「どこにそれが書いてありますか」。これはいつも、私たちが問わなければならない問いです。どんなに耳に心地よくても、素晴らしい響きを持っていても、それが聖書に書かれていないことであれば、参考にすることはあっても、それを「信仰と生活の規範」として受け入れることはないでしょう。ルターは「洗礼の意味」という重要なテーマにおいて、「聖書に洗礼の意味が記されている」という立場を取っており、しかもそれを、洗礼を大切にする根拠としているのです。
私たちのうちには2つの存在がある。不思議な言い方ですが、古い人と新しい人、この2人の存在を、日常生活の中でいやと言うほど実感しているのではないでしょうか。みことばを喜んで聞く新しい人の存在もわかるし、いざ行うとなると、しようとする善が出来ず、却ってしたくないことをしてしまう、ということから、古い人の存在にも気付く。その折り合いは、洗礼によってつくのです。洗礼は一回限りのものではなく、日々その効力が続くものです。毎日毎日、繰り返し私たちのうちの古い人は洗礼の恵みによって滅び、代わりに新しい人が形成されていく。このみことばの事実に立脚して、確かな信仰の歩みを積み重ねたいものです。

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懺悔(1) ルターの小教理の学び 「罪の告白について」(1)
問い 懺悔(ざんげ)とは何ですか。
答え 懺悔は二つの部分からなっています。一つ目は、自分の罪を認めることです。二つ目は、神ご自身から受け取るように、懺悔師(confessor)から滅罪(absolution)すなわち罪の赦しを受け取ることです。自分の罪が天の神様によって赦されたということを、疑わずに堅く信じて受け取るのです。 (ルター『小教理問答書』より)

この懺悔の項は省略されることも多いのですが、大事な内容を含んでいますので今回と次回、取り上げることにいたします。
病の人は、はたから見てどんなに苦しそうでも、本人がそれを自覚しない限り、病院に行くなどのいやしの方向には向かっていきません。同様に、人間も自らの罪人であることを認めなければ、そのいやしを求めようとはしないのです。まず懺悔、私たちのことばでは「悔い改め」に近いのかもしれませんが、それにおいては、自らを罪人と認めることが大事となります。
ルターの説明の第二の部分、罪の赦しを受け取ることですが、プロテスタントの場合、ここで言われているような懺悔師の存在がないので、理解しにくい面があります。ルターに染み付いたカトリックの伝統だと割り切ってしまってもよいのですが、現にルーテル教会において、礼拝の中で罪の告白をし(式文にのっとって)、司式者がその赦しの宣言をする(これも式文にのっとって)ことを大事にしている団体もあります。重要なのは、形式よりも、「自分の罪が天の神様によって赦されたということを、疑わずに堅く信じて受け取る」ことです。どんな立派な儀式があり、仰々しく罪の赦しが宣言されても、誰一人としてそれを真正に受け止めなかったら、まったく意味がありません。逆に、ただひとりのひっそりとした神との交わりであっても、その中でみことばに基づいてしっかりと罪の赦しを「自分のものとする」ならば、そこには立派な懺悔が生まれます。懺悔あるいは悔い改めは、罪の赦しをしっかり握ることなのです。

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懺悔(2) ルターの小教理の学び「罪の告白について」(2)
問い どのような罪を懺悔しなければならないのでしようか。
答え 神様に話すときは、たとえ自分が知らない罪であっても、私た ちはすべての罪を、負っていることを認めなくてはなりません。それ はちようど「私たちの父」に対してするのと同じです。でも、懺悔師 (confessor)に対して話すときは、私たちが知っている罪、心に覚え、 感じている罪だけを告白するのです。
問い それはどのような罪ですか。
答え ここで、十戒に照らして自分の生活の中での立場を考えてみま しょう。あなたは父ですか。母ですか。息子ですか。娘ですか。夫で すか。妻ですか。召使ですか。あなたは不従順、不信仰、不熱心だっ たりしませんか。言葉や行動で人を傷つけたことはありませんか。盗 んだり、義務を怠ったり、物事をほったらかしにしたり、誰かを傷っ けたりしたことはありませんか。(ルタ―『小教理問答書』より)

クリスチャンとして悩むのは、福音によって律法の束縛から解放さ れたと言うなら、それからのち律法とどのように関わっていったらよ いのか、ということです。もうまったく無視して生活してよいものか、 それとも、やはりクリスチャンとして、それを守っていくべきなのか。
ルターはこの懺悔の項の解説の中で、ひとつのヒントを与えていま す。「十戒に照らして…」という表現にあるように、律法を罪を知る ための光として用いるのです。そう言えばパウロも、律法によっては じめて罪を知った、というようなことを述べています。律法はクリス チャンにとって、罪を知るための手がかりとなるのです。そしてそれ は勿論、福音による赦しへと私たちを駆り立てます。あくまでも最終 目的は福音であるのです。福音へといたらないような律法の用い方は、 再検討の必要があるでしょう。

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聖餐(1) ルターの小教理の学び 「聖餐式について」(1)
問い 聖餐式とは何ですか。
答え 聖餐式は、私たちの主、イエス・キリストのまことの体と血潮であり、パンとぶどう酒によって私たちクリスチャンが食べそして飲むようにとキリストご自身によって制定されたものです。
問い どこにそのことが書いてありますか。
答え 聖なる使徒マタイ、マルコ、ルカ、そして聖パウロが書いています。
「私たちの主イエスキリストは、売られていく夜、パンを取り、感謝をささげてから裂いて弟子たちに渡してこう言いました。「これを取りなさい。これを食べなさい。これは私のからだであり、あなたたちのために与えられるものです。私を忘れないように取って食べなさい」同じようにして食後の杯も取り、感謝をささげてから弟子たちに渡してこう言いました。「みんな、この杯を取って飲みなさい。この杯は私の血による新しい契約〔新約〕です。あなたたちの罪を赦すために流されるものです。これを飲むたびに、私を忘れないようにこれを行いなさい」(ルター『小教理問答書』より)

小教理の学びもいよいよ大詰め、聖餐式の学びに入りました。
ところが、ルターが私たちをはぐらかすのは、「聖餐式とは何ですか」との私たちの聖餐式の深い意味を問うその問いに対し、「それはキリストのからだと血だ」という外面的なことしか答えていないのです。もっと本質的なことを聞きたいのに、と私たちは思うのですが…(勿論そのようなことには後で答えています)。
しかし、実はこの「聖餐式とはキリストのまことのからだと血なのだ」という説明は大事であり、これが私たちの熱心や行動とは関係ないことが明らかになっているのです。たとえ私たちがその深い意味を十分に理解できなくとも、キリストはその式の中にまさにおいでになり、まことのからだと血による赦しの恵みを一方的に、存分に注いでくださるのです。

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聖餐(2) ルターの小教理の学び 「聖餐式について」(2)
問い 食べたり飲んだりすることがどんなよいことをなすのでしょう。
答え 「あなたたちのために与えられる」および「あなたたちの罪を赦すために流される」という言葉が示しています。すなわち聖餐式のこれらの言葉を通して、罪の赦し、命と救いが私たちに与えられます。なぜならば罪が赦されるところでは、命と救いも同じようにあるからです。(ルター『小教理問答書』より)

肉体的な飲食が罪の赦しや救いの恵みという霊的なものを担えるはずがない、というのが近代的な合理主義の考え方でした。しかし昨今はこのような考え方への反省の気運が高まっています。肉の目では、確かに身体的な飲食にしか見えないのだけれども、実はその背後に何か溢れる霊的な恵みがある。そのように考える傾向が強まってきています。
それを先取りしていたのが、このルターであったのかもしれません。いや、むしろ現代の方がルターの思想に戻った、ということでしょうか。いずれにせよ、私たちの毎月受けている聖餐式は、単なる交わりの食卓を超えた、私たちに救いといのちをもたらす恵みの場なのです。それを受け取るのは、超自然的な研ぎ澄まされた感性と言うよりは、みことばにしっかりと裏打ちされた信仰であります。実は信仰こそが、聖餐式において供与される諸々の恵みを両手でしっかりと受け止めるのです。

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聖餐(3) ルターの小教理の学び 「聖餐式について」(3)
問い どうして物理的な食べたり飲んだりすることがそんなにすばらしいことをなすのでしょうか。
答え もちろん、食べたり飲んだりすることがそのようなことをなすわけではありません。ここに書かれている「あなたたちのために与えられる」および「あなたたちの罪を赦すために流される」という言葉が、それらのよいことをなすのです。これらの言葉は、物理的な食べたり飲んだりすることとともに聖餐式の重要な部分を占めているのです。これらの言葉を信じる人は、ここで述べている通りのもの、ここに記されている通りのものを得るのです。すなわち、罪の赦しを得るのです。(ルター『小教理問答書』より)

確かに聖餐式は飲食の式です。その点は、洗礼式とは趣が異なるかもしれません。もっと洗礼式の方が緊張感があるでしょうか。
しかし、聖餐式の重要性は、そこに飲食があるからとて少しも変わりません。身体的な飲食は神ご自身のみことばに結びつき、絶大なる霊的な効果を生み出すのです。それが、「罪の赦し」です。
ここで、ルターが「これらの言葉を信じる人は、ここで述べている通りのもの、ここに記されている通りのものを得るのです」と意味深長に述べていることに注目してください。「信じていれば、みことばの約束通りのものがもらえる」。これは当たり前のことだったのです。しかし現今はどうでしょうか。「信じてたって…」というある意味での近代的な「疑い」がないでしょうか。そのような文明的罪をかなぐり捨て、私たちは純に信じ、そして罪の赦しをいただくのです。たとえ聖餐式が、パンとぶどう酒の飲食の式にしか見えなかったとしても。

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聖餐(4) ルターの小教理の学び 「聖餐式について」(4)
問い それでは誰がこのような聖餐にあずかることができるのでしょうか。
答え もちろん、断食やそのほかの物理的な準備というのは、体にとってすばらしい訓練となるでしょう。しかし、「あなたたちのために与えられる」および「あなたたちの罪を赦すために流される」という言葉を信じる人なら誰でも、聖餐にあずかる十分な資格があり、準備ができているのです。しかしながら、これらの言葉を疑ったり信じなかったりする人は聖餐にあずかる資格がないのであり、準備ができていないのです。なぜなら「あなたたちのために」という言葉は、完全に信ずる心を求めるからです。(ルター『小教理問答書』より)

いよいよ聖餐式の項も最後となりました。
聖餐の恵みにあずかる資格。もしかしてこれは、聖餐式でどんな恵みをいただけるか、ということよりも、ずっと気になることかもしれないですね。教会に行くために家を出る前に家族とうまくいかなかったから、そんな私は今日はふさわしくないとか、聖餐式の前の晩に思い付く限りのすべての罪を告白していたのでもう大丈夫とか、そのようなことなのでしょうか。
ルターが聖書全体からのメッセージとして受け止めたのは、「みことばを信じる者が、聖餐式の恵みを受けるにふさわしい」ということでした。特にそのみことばは、パンとぶどう酒が「あなたたちのために与えられる」および「あなたたちの罪を赦すために流される」ことを告げるもので、それさえしっかり心に受け止めていれば、誰でも聖餐式にふさわしいのだ、と言うのです。
むしろ私たちは、自分がふさわしいかどうか疑心暗鬼になるより、罪の赦しを求めて、率直に主の食卓の前に出るべきです。求める者には、与えられる。これは、罪の赦しも同じことです。 TOP

本文は
マルチン・ルター 著 結城 浩 訳『マルチン・ルターの小信仰問答書』
Copyright (C) 1999 Hiroshi Yuki (結城 浩)

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