祈り、義務の表、クリスチャンの問答
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祈り(1) ルターの小教理の学び 「祈りについて」(1)
朝と夕べの祈り

父親が家族に朝と夕べの祈りを教えるには


朝の祈り
朝、起きたらすぐに、聖なる十字架のしるしによって自分自身を祝福し、次のように言いましょう。

父、子、聖霊なる神様の御心がなされますように。アーメン。

それから、ひざまづいても立ったままでもよいですから、使徒信条を述べ、主の祈りを祈りなさい。次の小さな祈りを祈ってもよいでしょう。

天にいらっしゃる、わたしのお父様。あなたの愛する御子(みこ)イエス・キリストを通して、感謝します。昨晩も、あらゆる悪いものや危ないことから私を守ってくださり、ありがとうございます。今日一日もまた、あらゆる悪と罪からわたしをお救いください。そして、私の行動や生活があなたを喜ばせるようにと祈ります。私自身を、すなわち私の体と、私の心と、私の持っているものすべてを、あなたの御手(みて)におゆだねいたします。悪しき敵が私に力を振るうことがないように、聖なる天使を私のところにおつかわし下さい。アーメン。

その後で、喜びをもって仕事をはじめたり、十戒やあなた自身の考えから示された歌を歌ったりしてもよいでしょう。  (ルター『小教理問答書』より)

朝起きたら、「十字架のしるしによって自分自身を祝福」する、すなわち十字を切る。何と敬虔な姿でしょうか。カトリックだけではなく、ルーテル教会でも、十字を切ることが勧められています。私のために十字架にかかってくださったイエス様を信じていることを表す、最も短い信仰の告白(表明)かもしれませんね。

「父、子、聖霊なる神様の御心がなされますように。アーメン。」ということばは、洗礼の恵みを想起させることばですが、十字を切りながら言うことが多いようです。私たちの教会では、「父と子と聖霊の御名によって。アーメン」と言っています。

ここでルターが、目に見えない不思議な存在のように思える「天使」の助けを求めているところが興味深いですね。今日の信仰者にとっても、謙遜に助けを求め、しかも天使の助けを期待することはふさわしいことだと思います。

さて、もっと興味深いのは、そのあとです。「喜びをもって仕事をはじめたり・・・」。どうして喜べるのでしょうか?まだ朝で、一日が始まったばかりだし、何も喜べるようなことは起こっていないのでは?でもルターは言います。「喜びをもって・・・」。これは、感情による喜びではなくて、意志による喜びなのでしょうね。感情的に喜べるようになるのを待っていたら、時間ばかりかかってしまいます。「今日も喜んで一日を送ろう」という意志、あるいは決心。これがたいせつなのです。
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ルターの小教理の学び 「祈りについて」(2)
夕べの祈り
夜、寝床に入るとき、十字架のしるしによって自分自身を祝福し、次のように言いましょう。

父、子、聖霊なる神様の御心がなされますように。アーメン。

それから、ひざまづいても立ったままでも、使徒信条を述べ、主の祈りを祈りなさい。次の小さな祈りを祈ってもよいでしょう。

天にいらっしゃる、わたしのお父様。あなたの愛する御子(みこ)イエス・キリストを通して、感謝します。あなたの恵みによって私を守ってくださり、ありがとうございます。今日私がおかした罪と悪をどうかおゆるし下さい。今晩も、神様のお恵みによって私をお守りください。私自身を、すなわち私の体と、私の心と、私の持っているものすべてを、あなたの御手(みて)におゆだねいたします。悪しき敵が私に力を振るうことがないように、聖なる天使を私のところにおつかわし下さい。アーメン。

その後すぐに、喜びながら眠りましょう。(ルター『小教理問答書』より)

一日が、祈りで終わります。この祈りの特徴は、「ゆるしを求める」ことです。「罪をゆるしてください」。やはり、一日の最後にはこのような悔い改めが不可欠なのでしょうね。具体的でなくとも、神の前に素直に自分の非を認めることは大事です。ただ、罪びとである私が神と距離がある存在なのではなく、「私自身を御手にゆだねます」と祈る、この親しさがポイントですね。赦しを求めながらも、「必ず赦される、いや、もうすでに赦されている」という確信、安心感が根底にあるのです。
また、この祈りの中でも、「天使」の存在は大きいですね。ダニエル6:22も参考までに読んでおきましょう。寝ている間、私は自覚的に自分を守ることはできません。ですからこそ、その自分の限界を認め、超自然的な、神の領域に属する守りを願うのです。
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ルターの小教理の学び 「祈りについて」(3)
食事の祈り

父親が食事の恵みと感謝の祈りを教えるには



子ども達と使用人たちは食卓に集まって慎みつつ両手を組み、次のように言いましょう。

主よ、いまあなたに目を向けます。あなたは皆に食べ物をちょうどよい時に与えてくださいます。 あなたは惜しみなく与えてくださる御手を開き、すべての生きるものの飢えを、望むもので満たしてくださいます。
原注:「望むもの」というのは、すべての生き物がたくさん食べて、 幸福で、喜びにあふれるようなものを意味します。なぜなら、思い悩みや強欲はそのような望みを妨害するからです。

その後で、主の祈りと次のお祈りを祈りましょう。

主なる神様。天のお父様。私たちを祝福し、これらの賜物を祝福してください。 これらは、あなたの惜しみなく与えてくださる御手からいただいたものです。私たちの主、イエスさまを通して祈ります。アーメン。

やはり食事の感謝も、父親が教えることが意図されていたんですね。もちろん、現代の複雑な社会では、 それがどの場合でも可能であるとは言えないでしょう。その家族、あるいは共同体のリーダーが、 食事の感謝をリードしていく、ということでしょうか。
まずルターは、食事を「賜物」として受け止めています。さらに、それを神の「御手」からいただいた、 と理解しています。そればかりではありません。ルターにとって食事を与えてくださる神様は、 「惜しみなく与えてくださる」神様でした。私たちは、「もっと、もっと」と要求します。 何か、まだ神様が出し惜しみしているかのように考えてしまっているようです。しかし、神様は必要なものを、 「ちょうどよい時」に与えてくださいます。「与えられていない!」と感じるなら、それはまだ「ちょうどよい 時」ではないのかもしれませんね。とにかく、徹底して神様を上に立て、自らをしもべとしてへりくだる 姿勢がうかがわれます。いつの間にか、現代において、私たちは神様より上に立っていませんか?点検する 必要があるかもしれませんね。
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本文は
マルチン・ルター 著 結城 浩 訳『マルチン・ルターの小信仰問答書』
Copyright (C) 1999 Hiroshi Yuki (結城 浩)

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