■求めても得られないもの
ヒールを響かせて、わき目も振らずに真っ直ぐにゆく女。ゆるい足取り、真面目そうな眼鏡の男性。抱えている荷物は、家族へのプレゼントだろうか。初老の男は、路地の奥へ静かに消えていく。店の前で、にぎやかしく客をひく男。酔客の笑い声。音楽。繁華街のいつもの風景、いつもの夜。今の自分もその一つ。その中の一つのピースなのだ。まじりあわない、きっと染まらない。そう考えていた、あの頃は。だが、あがかなくなったあの日から。悔しさで胸を焼くこともなく、魂をそげとられるような勝負の場に立つこともなくなった今では。そんな思いを抱いていたことすら、夢であったかのように思える。
「井川、ぼーっとしてんなよ、ちゃんとついてこい。」
「すいません。」
背中に目でもあるのかと思うくらい絶妙のタイミングで、振り返りもしないで上司がひろゆきを呼んだ。体が縮んだのは、心ここにあらずがきまり悪いのではなく。自分が酒場のネオンだけでなくて、雀荘の灯りをも追っていたのに気づいたからだ。ひろゆきの上司は勘が鋭い。もしや密かな自分の思いもばれてしまったのかと、そう思った。よくよく考えれば、そんなはずはない。彼らと別れてから、ひろゆきは一度も自分の麻雀を打っていない。それどころか牌を手にすることすらまれになっていた。
「はぐれたら置いていくからな。迷子にならんでくれよ。」
「あはは。ちゃんと課長の背中を追いかけますから、大丈夫ですよ。」
たわいもない会話を交わしながら、人ごみを歩く。喧騒から目をそらして、上司の背中だけを見つめるようにした。この界隈に来るのは、正直苦手だった。油断すれば過去が袖を引く。捨てた道を顧みるのは、不毛だ。切り捨てた思いの欠片を探すのは、未練以外の何物でもない。だから、ここには来たくなかったのに。
しかし、サラリーマン生活を全うするためには、こだわりがむしろ邪魔になることくらい、流石のひろゆきにもわかっているのだ。
こうして自分は赤木から遠ざかっていく。いっそ忘れてしまえれば、とも思う。だが、忘れきってしまうにはあまりにも色鮮やかなあの男。自分の名を呼ぶ、声。
「ひろ。」
ひろゆきの足が止まった。追いかける背中はあっという間に見えなくなる。呼び止めようにも声が出ない。目を閉じ、そしてまた開く。急に立ち止まったひろゆきにぶつかった男が、舌打ちしながら脇をすり抜けた。
幻聴だ。幻聴に決まっているのだ。こんな人ごみの中で、あんなにはっきりと聞こえるわけがない。振り返ったって、そこに彼がいるはずもない。
――赤木さん。
それでもやはり、振り返ってしまう。一縷の望みをかけて、その姿を求めて。
「……そんなわけないよな。」
振り返ってみても、当然のようにそこには人の壁しかなかった。ひろゆきの緊張が解ける。肩の力も抜けてしまった。何を期待してたんだか、都合よくこの場所に赤木がいるわけがないだろう。よしんばいたとしても、自分に声をかけてくれるわけがない。自分から背を向けたのに、今更女々しく気をとられるなんてどうかしてる。
「でも…これから、どうしよう。」
この人ごみの中、はぐれた相手を探すのも骨だ。月曜日のお小言覚悟で、今日はこのまま帰ってしまおうか。それとも、足の向くままに任せてどこかの飲み屋に落ち着いてもいい。なんともサラリーマンらしいじゃないか。それこそ、今の自分にふさわしい。
ひどく自虐的な気分に陥ったひろゆきが、またゆっくりと人波の中に戻ろうと、そこに背を向けようとした瞬間に。
「え…?」
ほんの一瞬、見えたのはネオンの下で鈍く光る誰かの後ろ姿だった。カメラのピント合わせのように、その姿が視界にクリアになる。まっとうな人間なら絶対に身に付けなさそうな、いわゆる堅気じゃない人間が纏うスーツが見えた。白い髪が見えた。くわえた煙草の銘柄―マルボロだった―すら見えたような気がした。
「あか、ぎ、さん?」
届かないから忘れようとした。度胸がなくて目をそらした。ちゃちなプライドにしがみついて、自分を試すのをあきらめた。このまま人生に埋没してもいい、と自分がそれを望んでいるとひろゆき自身が信じていた。だが、それがいかに口先だけの覚悟だったかということが、赤木の後ろ姿にこんなにも動揺してる自分が証明してしまっている。覚悟したなんて嘘だ。諦めたのも、忘れたのも全部嘘なのだ。そう思わないと自分が窒息してしまうから、そうだと思い込もうとしているだけだったのだ。思い知らされる、沢田のところで代うちのマネごとをしたこと、ハワイへ赤木を探しに行ったこと、天たちと一緒に東西戦に参加したこと、若気の至りだったと、忘れてしまいたい過去だと思っていたそれらが、自分の足かせどころか、なくしてしまいそうな自分自身を保つものだったということが。
赤木にあわなくてはならない。それは理解というよりも、確信だった。今のままじゃあ駄目なのだ、何故?それはひろゆきにもわからないけれども、赤木に会えば、彼に会えさえすればきっとわかるはずだ。
「・・・・・・っ!赤木さん、赤木さん!」
赤木の姿は、もう見えなくなっていた。流れに逆らうのもかまわず、ひろゆきは駆け出す。押しのけられた誰かの非難のなかには、剣呑なものもあったが構わない。というよりも、全く耳に入ってなかった。赤木に会わなくてはならないのだ。
彼の姿を求めて、雀荘の階段を駆け上がる。飛び込んできたサラリーマン―勿論、自分のことだ―に店員が、客が胡乱な眼を向けてくる。求める姿がないのがわかると、次の店へ。また次の店へ。二軒目、三軒目、四軒、五軒・・・。七軒目を出たところでひろゆきの気力が尽きた。赤木はいない。雀荘には向かってなかったのかもしれないし、そもそも最初に見かけた男が赤木だったかどうかも今となってはわからない。
雑居ビルの階段に、頭を抱えて座り込む。傍目から見れば、みっともない姿に映るだろうがそんなことはもうどうでもよかった。ただ、ただ赤木に会いたい。声が聞きたい。名前を呼んでほしい。
赤木さん。赤木さん。赤木さん、赤木さん。赤木さんに。
「会いたいよう。」
声に出してしまえば、もう止められなかった。気づいてしまったら、もう忘れたふりなどできやしない。会いたくても、追いかけても会えないということは、つまりはそういう風に決まっていることなのだ。それに、会ってどうなるものでもない。今の自分を赤木に見られば、惨めさが増すばかりだ。何のために、天たちのアパートから遠く居を移して、誰も自分を知らない場所で暮らし始めた?忘れるため、あの世界から離れるため。自分の限界から目をそらすため。赤木に会えば、その現実と対峙しなければならないというのに。
それなのに。
それでも。
思い出すのは、自分の名を呼ぶあの声と。時折見せるやさしい笑顔と。追いかけても追いつけない背中と。
思いは次から次へと、止まることなく溢れ出す。たまらなくなって、ついにひろゆきは眼を閉じてしまった。
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