モドル
■暗夜

 氷雨がクリフトの頬を打つ。見渡す限り延々と続く枯れた大地の真中で、彼は一人立ち尽くしていた。その手に握られた抜き身の剣は、モンスターの血潮で濡れている。清らかであるはずの法衣も、彼の体も、みな血まみれだ。サントハイムから旅立ち、ここまで来るのに一体幾たび血を浴び、命を奪ったことか。己の罪深さを悔いる余裕はなかった。やらねば、こちらがやられてしまう。
 彼の周りに転がるモンスターは歴戦の戦士でも苦戦するような凶悪な輩ばかり。到底、一神官が一人で片付けたものとは。それらがようよう死体になったことを確認すると、クリフトはふらりと大地にしゃがみこむ。アークデーモンの最期の一撃は、彼のわき腹を鎧ごと抉り取っていたのだ。ベホイミで出血は止めたものの、体力の消耗も著しい。早く離れ離れになった勇者たちと合流せねばならない。MPも先だっての戦いのせいでロクに残ってもいない。次にモンスターに遭遇したなら、今度はこちらが死体になる番だ。
 
 物言わぬ骸となって、獣たちに食荒らされる自分が脳裏に横切る。このままここにいれば、一時の後にはその想像は現実になるだろう。

 だが、こんな神から見捨てられた大地で、誰にも知られず死を迎えたくない。どうせ死ぬのなら、神官として、クリフトという人間として意味のある死を迎えたい。それに、自分にはまだやらねばならぬことがある。
「アリーナ様…。」
 剣を支えに立ち上がる。神に仕える身にはあまりに禍々しい血塗られた剣。本来なら彼が触れることすら許されぬ刃。それを手にしたのも、誰よりも護りたいものがあるから。彼の人を護る事、遠い昔からそれだけが彼の全てだったのに。
 闇の世界には光はない。あるのは、絶望と呪いのみ。愛する乙女を失った魔王子の憎しみ。それをクリフトは知っている。決して手に入らぬものに焦がれるやるせなさを、彼は判っている。魔族とエルフの禁じられた恋の行方は、それはそのまま彼の思いの行方であるようにも思えたからだ。
 彼とて大切な人を誰かのせいで失ってしまったとしたら、神への誓いを捨て、人としての心を捨ててしまっていたかもしれない。
 だからといって、彼が進化の秘法の力を使い、世界を滅ぼそうとすることを容認することはできないが。

 ゆっくりと息を吸い、そして吐き出す。それだけで、胸に刺すような痛みが走った。あまりよくない兆候だ。どうやら肺をやられたらしい。
 神聖魔法の弱さを、薄々察してはいた。光の力とどかぬ闇の底では、神の恩寵もまた、弱い。
 ひどくのどが渇く。呼吸をするのにも、体力を奪われているような気がする。まだ死にたくはなかった。だけど、その欲望をも闇の瘴気にじわじわと削り取られていく。

 諦めてしまえ、と闇が言う。選ばれし者などという戯言に踊らされて、こんなところまで来てはみたものの、お前に一体何ができる?勇者の血を引くわけでも、王君諸侯でもない、たかが一介の神官ではないか。ここまでこれただけで十分じゃあないのか。もう、これ以上はお前の手には余る。さあ、諦めてしまうがいい。

 剣を握る手に力がはいった。諦める?何を?生きることを?それとも、もっと他の何かを?

 だが、ほんの一瞬だけ、気持ちが挫けた。もういいかもしれない、そんな思いが頭をかすめたその時。

 背後で、何かが動いた。

 硬質の毛皮に包まれた異形のモノの姿が、振り返ったクリフトの目に映る。その凶器が自分の上に振り下ろされるのが、まるで悪い冗談のようで。
 ああ、と思った。あっけなくも簡単に訪れる死は、神職の身にありながら余りにも迷い多き我が身に下されたせめてもの神の慈悲なのか、と。

 目を閉じ、その瞬間を待つ。が、死は、いつまでたっても訪れなかった。

「クリフト!!」

 断末魔の声を上げたのは、クリフトではなくて。 


「姫様!?」

 歓喜を顔に張り付かせたモンスターの体が、ありえぬ方向に折れ曲がる。血潮が雨に飛び散った。

「クリフト、やっと見つけた!」

 クリフトの目の前にアリーナがいる。

「ったく!戦闘が終わって、気がついたら姿が見えない!ブライがどれだけ心配したと思ってるんだ?!」

 アリーナがいる。ただそれだけのことで、全てが一瞬にして変わってしまうように感じる。

「大体、クリフトは弱いんだから、はぐれないようにしなきゃ駄目だろ?」
 モンスターの血を浴びた頬をぐいと拭う。乱暴な仕草や男言葉、深窓の姫君に相応しからぬ凛々しい容貌。でも、誰よりも大切な彼の守るべき人だ。死を覚悟し、望みを捨て、ようやく神の御手に自分を委ねる覚悟ができた途端にこうなるとは。神はとことんクリフトに対して試練を課してくれる。これでは諦めようにも諦めきれない。
「何を笑ってるんだ、今はそれどころじゃないのに。」
「申し訳ありません。」
 でも、頬が緩むのをとめられないのだ。さっきまであれほどクリフトを支配していた死への恐怖も絶望も、彼女の前では何の力もない幻だった。彼女のためなら何でもできる気がする。己の命を投げ出すことも、厭いはしないだろう。

 子供のように唇を引き結んで、アリーナはそれでもクリフトに手を差し出す。ひどく満たされた気分で、クリフトは剣を握る腕に力を込め、彼女の方に歩み寄ろうとし。そして、もう自分の足が動かないことに気付く。

「?クリフト。」
「大丈夫です、ちょっと待ってください。」
 ありがたいことに、動揺は声にはでなかった。

 もうこれでおしまいだと判っても、悲しみや恐怖は感じない。ただ、自分が目の前で倒れれば、彼女はどんなに驚くだろうかと、そればかりが気にかかる。

 終わりが避けられないのならば、せめて最後の祈りを彼女のためだけに。
「ホイミ。」
 神の祝福が彼女の体に降りかかる。それは光の粒となって、あらゆるいきとしいけるものに癒しの力を分け与えるのだ。神の力によって、アリーナの傷口が塞がるのをクリフトはみた。でも、もうそれが本当に最後の最後だった。色をなくしていく世界、断片化された思考が止め処なく零れ落ちる。神の名を呼ぶ。

 アリーナ様をお守りしなければ、ならない。

それが、彼の役目だからだ。

だけど、もう。

 立っていられない。

神様、あんなに祈ったのに。

 アリーナ様をこんな危険なところに一人にしてはおけないのに。神様。

 ため息と一緒に、クリフトの体から力が抜けた。声もなく大地に崩れ落ちていく彼に駆け寄るアリーナの姿も、もう彼の瞳に映らない。彼の名を呼ぶ叫び声も、その耳に届くことはなかった。





 平和を喜ぶ人々の歓喜の声も、アリーナの耳にはひどく遠くに感じられる。素っ気ない石畳の、誰もいない教会で跪く。日頃の不信心の賜物で。かつて幼なじみの青年がしていた祈りの仕草を、彼女は遠い記憶から掘り起こさねばならなかった。
 数知れぬ人々の祈りに満ちているこの場所では、アリーナのそれなど神の目に留まらぬちっぽけなものであろうが、やらねばならない。世界が彼の望んだように善き方向へと進みつつある今、彼の分まで祈るのは自分の役目だと思う。
 闇の王子を倒し、世界は平和を取り戻したけれど、幼なじみの青年は戻ってこない。そこにあって当然のものが失われて初めて、彼女は自分にとって居心地のよい場所がもう二度と得られないことに気がついた。
 あの青年神官の手に、どれだけ自分が守られていたか。自分が当たり前の如く享受していたそれが、どれだけ得難いものであったのか。判っているつもりで、何も判っていなかった自分が悔やまれて、どうしようもなくて。だから、ここへきた。クリフトに代わって、祈るために。答えぬ神に、それでも虚しい祈りを捧げるために。

 世界が平和になっても、王女という名の牢獄から解放されても、武道家としての地位を得ても、ちっとも嬉しくないのだと。かつて自分があれほど望んでいた物は、すべて手の中にあるというのに、幸せだとは思えない。本当は神の声ではなく、クリフトの声が聞きたい。

「馬鹿みたいだ。」

 叶うはずのない望みを願う。祈りでは何も変わらない。欲しい物は、自分の努力で、自分の力で勝ち取るもの。神様に与えられるものではない。だとすれば、彼女の行為は無駄なのだ。神様は何もしてくれないのだから。
 それでも、アリーナはまたここに来るだろう。答えなど最初から知っている問いを繰り返し、後悔が思い出に変わるまで。 

 

(2002/05/25)


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