■花 詞 夜風に花の香りを感じる季節になると、いつもあの人が思い起こされる。降る雪のような、白い花が好きだと言った彼の人の記憶は、若かりし頃の情熱と一緒に、胸の奥底でたゆたっているのだ。時折、気紛れに扉を叩いて、私を驚かせることはあったとしても、それはもう過去の話で。私の若さも、情熱も、みんなあの人に捧げてしまった。 だから、今の私には、何も残っていない。 頼久の鋼の如き忠誠も、天真の情熱も、何もかも。かつての私が持っていたものは、みんなみんな大昔に置いてきてしまった。脂粉の香りが骨の髄まで染み付いて、爛惰な男になってしまった。守れないのを承知で心地よい言葉を紡ぎ、心のない睦言など当たり前。私だけじゃない、みんなやっているじゃないか。 ねぇ、本当の心を隠すのに、これほど便利なものはないと、君は思わないかい?本当だらけの世界なんて、人を傷つけてしまう厄介な代物に決まっているのに。 それなのに、あの少女はなんと臆面もなく、まっすぐな視線で私を射抜くのだろう。その視線がいつも私を戸惑わせる。忘れていた自分が、胸の奥底から掘り起こされてしまう。彼女を見ていると心が騒ぐ。でも、私は知っているのだ。この思いは恋ではないということを。 黄昏せまる随心院の境内で、花の色だけが仄かに匂いたつ。盛りは足早に通り過ぎていく梅花であれば、その美しさは一層心に迫るというものだ。この花を愛でたという彼の麗人も、私と同じ思いを抱いたことはなかっただろうか。 このような時間に…と渋る藤姫を説き伏せても、どうしてもここに神子殿に来て欲しかった。私同様に梅花に目を取られている彼女に、私は聞きたいことがある。鬼との最後の戦いが始まってしまう。全てが終わってしまう、その前に。 以前、私は深草少将の話をした。 千夜通いの恋の話を。恋に生き、恋に死んだ男の話を神子殿にした。 覚えているか、と尋ねると躊躇いなく、はいと答える。だから、私はようよう彼女に聞いてみたかった問いを口にした。 「神子殿は、あの話をどう思う?」 そういうと、神子殿は困ったように目を伏せる。身を滅ぼすほどの激しい恋慕は、彼女には理解しにくいものであったに違いない。 だが、本当のところ、返ってくる答えの否応はどうでもよかった。答えが合っているかどうかよりも、神子殿の答えが知りたかった。彼女の一途さは、かつて私やあの人が持っていたもので、もう二度と私には戻ってこないものだから。肯定でも否定でも構わない。今はない自分の声を、もう一度だけ聞かせて欲しかった。 たどたどしく言葉をのぼせる彼女の答え。それは、昔の私の答えと同じはずだ。 彼女の答えに、私は微笑む。 「そうだね。」 この答えに正誤はいらない。私がしゃがめば、神子殿と視線が交わる。私は彼女に触れた。親が子を励ますように触れた、彼女の髪は優しく温かい。 「それでいいと、私は思うよ。」 愚かにもそのとき初めて、私は神子殿の眼差しが、あの人に似ていることに気がついたのだ。 「友雅殿は、神子様をお引止めしなかったことを後悔なさってますの?」 何時の間にか、傍らに星視の姫君がたっていた。幼い横顔は憂いに縁取られ、その貌を大人のそれに変えている。 四、五年もすれば、この姫君も都の公達の言の葉に、憧憬と共にその名をのぼせられるようになるだろう。 こんなときでもそんなことを考える自分を、私は嫌いではない。 「…人には、それぞれのあるべき場所、というものがあるのですよ。藤姫。」 天真や詩紋、神子殿のいた時間は、何より心楽しいものだったが。だが、乾いた土を割って咲く野花でさえ、居場所を移されれば時をおかずに枯れてしまう。風を溜めてはおけないように、彼らもまた立ち止まらざる者なのだ。 「それに、失うことで、より輝きを増すものもありますから。」 心から望むものなど何もない、と。世の中の全てに飽いていた自分を、確かにあの少女は変えてくれた。例え、自分の手に入らなくても、それでも構わない。かつての自分であるなら、きっとそうは考えなかったろうけども。 「輝きをます…?それは…神子様のこと?」 藤姫の問いに私は答えない。ただ 新緑を精一杯、青空へと差し伸べる橘枝に視線を寄せて、思い出へと心を向けた。 純粋であることは、決して間違いではないことを思い出させてくれた、彼女の言葉を思い出す。 もう二度と会えぬと知る少女の面影が、私の中で色鮮やかにあるのだ。その名前が浮かべば、それだけで私の背中に彼女の声が届く。 幸せな、経験をしたのだ、と思う。悲しみや怒りからではなく、素直にそう思える。それがあるだけで、私は幸せだった。満ち足りている、それが判る。 もしかしたら、世にいう恋とは、かくあるものなのかもしれぬ、私は今更のようにそう思った。 |
(2002/04/17)
※七良海久亮さんからのキリ番リクエストで、遥かなる時空の中での友雅さんとあかねちゃんです。
心苦しい出来になってしまい、申し訳ない…。友雅さんへの愛が足りない、のが原因と思われますので、精進させていただきます。ありがとうございました。