■神官の後悔
青い空、白い雲、大通りを行き交う人々の顔も、みな晴れやかだ。サントハイムは今日も平和である。敢えて平和でない人を上げるなら、真面目一徹なサントハイムの若き神官、クリフトぐらいだろう。アリーナ姫に仕えて十数年。麗しき姫君が引き起こす騒動ときたら、一般人である彼の常識を遥かに超えた破天荒なものばかり。シクシク痛む胃を抱えて帰宅するのはいつものことで、アリーナ騒ぎに巻き込まれて、生傷が絶えないのもまた、彼の日常であった。
いっそ病にでも倒れることができれば、どんなに楽だろうか。少なくとも、入院している間はアリーナ様のお世話から解放されるだろうに。
常識人たる神官殿は、己のつとめを放棄することなど思いもよらず。当然、彼の望みもとことん後ろ向きである。サントハイムの姫君の傍仕え、などという微妙な地位など捨ててしまって、信仰を深めるために聖地へ赴いた方がよいと、訳知り顔で忠告する同僚もいた。教会へ働きかけて、配置変更をしてもらえばよいというものもいる。
クリフトとて馬鹿ではない。それくらいのことは今まで死ぬほど考えてきた。辞表をポケットに、ロザリオを胸にして職場へと出かけたことは何度となく。だが、ほぼ毎日の如くしでかされる想像を絶する姫君の行状にフォローを入れているうちに、辞表はいつのまにかポケットの肥やしに成り下がり、気がつけば例によってぼろぼろの体を引きずって帰宅する羽目に相成るのだ。
できることならクリフトも職を辞したい。後任者が見つかればすぐにでもそうしたかった。が、姫君の英雄的行動の数々は既にサントハイムの全土に知れ渡っており、辞職を勧める同僚も、「代わってくれ」とのクリフトの仄めかしには、黙って目を逸らすばかり。同僚を責めるなかれ。誰だって、自分の身は可愛いのだ。
見上げる青空には、雲一点の曇りなく。
「あ〜あ。」
爽快そのものの空の下、重たい足を引きづりつつ、サントハイムの神官は呟く。
「せめて、雨でも降ってくれたら…。」
そうすれば、姫様が表に遊びにいく可能性が少なくなるのに。
限りなく、消極的な希望を胸に秘め、クリフトは一人サントハイムの城へと向かうのであった。
■□■
「退屈ね。」
「……。」
アリーナの自室で、向かい合って机に向かっている二人。であるからして、アリーナの言葉はクリフトに向けられたものであることは明らかだった。が、彼は読書に没頭しているふりをする。ちなみにアリーナ姫様は傍仕えの神官殿と道徳の授業であった。
「退屈だわ。」
「……。」
ここで下手に同意してしまうと、今日もまたアリーナの巻き添えを食ってしまうことは目に見えている。アリーナの視線を受け流しつつ、クリフトは過去の哲人の英知の世界に心をやっていた。その、静かでありながらも、情熱を含んだ言葉の果実。かの人たちに比べ、自分はなんと矮小であることか。
「クリフト、退屈じゃあない?」
「………。」
”名指し”で同意を求めるということはそろそろボーダーラインだ。観念して、なにか返事をするべきか?
「クリフト、退屈よね?」
「ええ、退屈ですね!」
「最初から素直にそうおっしゃいな。」
がくがくと首を振って同意を示せば、喉元の鉄の爪はようやくにひいた。恐るべき姫君だ。クリフトがそのまま無視していたならば、切っ先は情け容赦なくクリフトにヒットしていたに違いない。
下手をすれば、死ぬ。
己の人権は一体どこにいってしまったのか。この世には神も仏もないのか。いや、そんなはずはない。もし神が存在しないとすると、神官たる自分の存在意義はどうなる。神は存在するのだ。己の心の中に常にあり続けるのだ。
とまあ、クリフトが教義と現実の乖離を是正するために、無駄に精神をすり減らしている間に、アリーナはまた何か思いついたようだった。
「どうしてこんなに退屈なのか、ようやく気がついたわ。」
アリーナはうんうんと頷く。腕組みをしつつ、自信ありげな笑顔を浮かべたその姿は、残念ながらクリフトの100倍は凛々しかった。
「だいたい、世界を救った勇者がどうしてサントハイムで親の言うがままに部屋に籠もってなければならないっていうの。」
世界を救った直後、仲間達を故郷へ送りがてら世界を周遊していたとき、自分が何をしでかしたか、すっかり忘れたかの如くのアリーナのセリフだった。無論、クリフトはちゃんと覚えている。それは、できることならば忘れてしまいたい悪夢のような出来事だった。
「私には選ばれしものとしての、立派な使命があるのだし。」
その使命は、つい最近やりとげたではないですか、とのツッコミを寸前でこらえたクリフトである。今、つっこめば命が危ない。アリーナ姫とは、かくも部下に厳しい人なのである。ことに自分の行動を妨げようとするものには、敵だろうが味方だろうが容赦がない。
彼女とは付き合いの長いクリフトは、強張った微笑を浮かべつつ、アリーナの思考の行き着く先を見守ることにした。とはいうものの、彼女の結論がどこに行き着くか、彼には既に予想済みであったが。
「こんなところで地味に勉強しているよりも、やっぱり実地で、体で、自分で、見聞を広めた方が効率的よね、うん。」
つまる話が、もう勉強に飽きたから、外に遊びに行きたいわ、を理論で飾っているだけなのだ。その理論のメッキとて、十円玉でこすれば地肌が露出するような幼稚な代物。
−−実地で見聞を深める前に、せめて相手になめられない程度の教養を身につけて欲しいんですけどね。
と、口にすれば即刻不敬罪で死刑、しかもアリーナ姫様自らのお手討ち確定の冷静な意見を胸に秘め、やれやれとクリフトは本を閉じた。いつものことだが、またもやアリーナ姫様とのお付き合いで、城下へと出張勤務である。出張手当を支給してくれとは言わないが、せめて危険手当とか生命保険とか、それくらいは職場で何とかして欲しいな〜と思うクリフト、26歳の春であった。
「……って、姫様!!」
やる気満々の腕まくりに、いつの間にやら旅装に着替えたアリーナが、いつになく気合いの入った眼差しで見つめているのが、初めて彼女が世界に飛び出した記念すべきあの入り口であることに気がついたときには、彼女の一蹴りが壁に叩き込まれていた。
「…チっ、さすがに一撃でとはいかないのね。」
「ひ、ひ、姫様〜〜〜〜〜!!」
ああ、初めてお会いしたときには、多少粗暴なところもあったけれども、心の優しく可憐な……とは言い難いが、年相応の少女であらせられたというのに…。
彼女の前では、神の慈愛も寛容もあまりに無力である。サントハイムの左官屋ドギ親方の苦心の作であった壁の、四方に走ったひび割れを前に前途有望な青年神官は、為す術もなく口をぱくぱくとさせるだけであった。
彼の、長い長い一日はこれから始まるのである。
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