■手紙
手紙を書こう、そう思ったのは何がきっかけだったろうか。コニーがいつものように元気に駆けてきて、郷里からの手紙を見せびらかしてきた時のあの表情。嬉しい、と顔にはっきり書かれていた笑顔を見たときか。それとも、ダズが慌てて隠した手紙が、彼の家族からのものだったと知った時?読み終えた手紙を破り捨てたミーナの横顔のせいなのか?
多分、どれも違う。マルコは思う。手紙を書こうと思ったのはエレンのせいだ。彼が言った、巨人から遠ざかるために巨人を倒す技術を学ぶのはおかしいという指摘は、今もマルコの心のどこかをさざなみだてている。王に仕える憲兵団に入ることはマルコの長年の夢だった。その夢を捨ててしまえないし、己の選択が間違っているとも思ってはいない。ただ、巨人を倒す技術を身に付けた自分が、内地で働くことに何か意味があるのだろうか、ほんの少しだけ、そう思ってしまっただけだ。
「だからって、どうして手紙なんだろうね。」
誰もいない部屋で、たった一人で向かった机には、真っ白な便箋とペンがある。昨日町に出かけた時に購入してきたものだ。ジャンに内緒で買ったのは、ばれたらやれ恋文だのなんだの冷やかされるに決まっているから。天の邪鬼なマルコの親友殿は、思い出したように意地悪なのだ。手紙を書こうと思ったのは、そんな浮ついた気持ちの為ではない。先ほど独り言の答えは、マルコ自身が分かっている。
もうすぐ訓練兵は卒業だ。所属兵団が決まったら、マルコはジャンと一緒に憲兵団に入団するのだ。憧れの紋章を背負い、内地へと赴任する。幾度となく思い描いた夢が、もうマルコの目の前に約束された未来としてあった。それなのに、今、どうして、万一自分がいなくなったときの為に手紙を書こうと思ったのだろう。マルコの望みは、王の御許に剣をささげること。巨人から世界を取り戻すことではないのに。
ふいに思い出すのはエレンの瞳の色だ。強く激しく、貫く意思に燃える緑。思う都度に胸の奥がざわめく、それでいいのか、と。本当にそれがお前の望みか、と。分からない、心の声にそう答えてしまったから、マルコはやはり手紙を書かねば、と思ったのだ。もしかしたら、残していかねばならない人の為に、伝えられない言葉を少しでも残さないために。
さて、誰にと思ったときに、真っ先に浮かんだのは母の顔だ。マルコと同じ瞳と髪の色。優しく笑う母は、とても綺麗な人だった。だが、訓練兵に志願すると告げた時、父と同じように喜んでくれるはずと思っていた母の、その笑顔がみるみるうちに強張るのをマルコは見た。恐らく彼女にはわかっていたのだ。兵士になるという事がどういうことなのか。王に仕える憲兵団になりたいというマルコの夢は、綺麗なだけの理想事だけでは終わらない可能性を秘めている。今まさに、母親が案じた状況に陥りつつあるマルコは、本当にようやくあの時の母の心を知った。
「……。」
だからといって、もうマルコは揺らがない。母を泣かせる選択をするかもしれないけれど、自分が正しいと思った道を選ぶ。父からも母からも、そういう風に育てられている。
机に向かって早十分。ようように宛先を父母へと思い定めて、マルコはペンを走らせる。
「……ご無沙汰をして申し訳、ありま、せん……と。」
久しく里帰りをしていないことをまずは詫びる。訓練兵を卒業して、いよいよ所属兵団を選べる時が来た事。成績優秀者10位以内に入れた事。そして、もしかしたら、調査兵団を選んでしまうかもしれないこと。そう簡単に死ぬつもりはないけれども、壁外に出ればどうなってしまうかわからないこと。でも、巨人を倒す技術に長けた自分たちが、壁外に出ないのはおかしな話ではないかということ。そして、もし万が一、自分が戻らなかったとしても、それは自身が望んだ事だから。
と、ここまで一気に書きあげたマルコのペンが止まった。これではまるで遺書と変わらないのに気付いたのだ。マルコがいなくなった後、この手紙を読んだ父母の気持ちが安らぐはずもなく、かえって悲しみを深めてしまうのではないだろうか。
「だからって、楽しい話で埋めるわけにもいかないし、な。」
ベルトルトの寝相の話、サシャの狩りの話、コニーと一緒に宿題を仕上げた話、辛いだけの訓練兵生活では決してなかったマルコの数年間。ジャンという親友も出来た。厳しい訓練の中、仲間に恵まれた事はマルコにとって、とても幸運なことだったと思う。今から思えば、辛く厳しく、本当に幸福で充足した時間だった。だが、それを手紙でうまく伝えられるとは思えない。
マルコのペンは、紙の上で動けなくなってしまった。もしかしたら、何も残さず逝った方がいっそ諦めてもらえるのかもしれない。いやしかし。ペン先は迷いに迷って、宙を泳ぐ。迷った挙句、書きかけの手紙のど真ん中にべとりとインクのシミをこしらえてしまったマルコは、ため息とともに家族への手紙を諦めた。
予備の便箋を準備しておいてよかった。書き損じの手紙を屑籠へダイブさせて後、再度机に向かう。もしかしての為に、手紙を書いておかなくちゃ。母への手紙は諦めても、誰かへの手紙を諦めたわけではないのだ。
家族以外に宛てた手紙、だ。そうなると。
「相手はジャンしかいないんだよな。」
手紙を残すほどの仲、となるとやはり彼しかいない。口は悪いが本当は心優しい――と言うほどには優しくないが――、斜に構えた態度の中に、一本しっかりした筋を通している、マルコの親友。ジャンに伝えたい事は山ほどあった。言いたいことは、まず一呼吸置いてから口にすればいたずらに敵を作らないですむだとか、敢えて相手の嫌がる言い方をして楽しむのは悪い癖だとわかってるのならやめた方がいいとか。伝えれば間違いなくジャンを怒らせるであろうそれらを思って、マルコはゆるく笑んだ。
――ジャンへ。
まずはさらりとペンを走らせる。
――お前がこれを読んでいるということは、僕はもうお前と同じ場所にいないということなんだろう。
ジャンが憲兵団以外を選ぶことはあり得ない。マルコとて憲兵団への道に未練がないわけではない。もしどこまでも同じ道を歩いて行けるのならば、この手紙は焼いてしまおう、そんな風に思う。
――隣にいるのが当たり前になっていたお前がいないことが想像できないけれど、でも正直に言うと、僕はこれを書きながらお前がこの手紙を読む機会がない事を祈ってるんだ。
じゃあ何のために書いてるんだ、僕は。失笑しながらもマルコのペンは進む。
――調査兵団を選んだ僕は、きっとお前にとって裏切り者だろうな。あれだけ王のそばで働きたいって言ってたのに、いざ蓋を開けたら。僕はなんていい加減な奴だってお前に思われてると思う。
そのときのことを思うと、マルコの胸は痛むのだ。辛辣で素直でない我が親友は、周りが思っているほど強い人間ではない。マルコが別の道を選べば彼はひどく傷つくだろう。願わくは、いつか彼が信頼できる別の誰かをどこかで見つけてくれんことを。一抹の寂しさとともに、マルコはただ祈るばかりだ。
――憲兵団へ行きたい気持ちがなくなったわけじゃない。ジャンも僕も誰より努力して、それで勝ち取った成績なんだ。とても名誉なことだし、認めてもらえたのは嬉しい。だけど、僕らは必死で訓練をしてきて、巨人を倒す術を身につけて、箱庭の範囲内ではあるけれども他の人たちよりも多くの事を見てきたよね。今迄僕らの世界は巨人に浸食されることはあっても、広がる事はできなかった。このままだといつか、100年先かそれとも10年先か、もしかしたら2年後かもしれないけれど、僕らの世界は無くなってしまう。だから、僕も何か出来る事がしたい、そう思ったんだ。
そうだ、例え蟻の足掻きであろうとも。巨人にとっては虫けらの一刺し程度にしかならなくても、生きている限りは誰もが自分の居場所を勝ち取らなくてはならないんだ。エレンの様に、今まで人がそうしてきたように。
――憲兵団へ行きたかった、お前と一緒に憧れの紋章を背負う日を夢見てきた。お前と一緒ならどこにいてもきっと僕は幸せで、どこまででも行けるんだろう。それを知っているのに、僕はそれでもこのまま憲兵団になったなら、いつか後悔しそうな気がしている。僕はエレンやミカサのように強くなんてなれないし、巨人と戦って死なずに帰ってくる自信なんてないのにね。
それでも。例え、死ぬかもしれなくても。
ペンを握る右手にギュッと力が入る。
兵士になると決めたとき、死を覚悟してないわけじゃなかった。でも、どこかしら自分の現実だと思ってはいなかったのだろう。何故なら今、マルコは愈々迫る選択の時に怯えている。本当は巨人と戦うのが怖い、壁の外に出るのが怖い、死ぬのは怖い。その時を、マルコが思い描くように潔く迎え入れることができるだろうか。その時きっとそばにジャンはいないのに。それを思えば、足元からずるりと地の底に沈んでいきそうな心持に襲われる。自分がこんなに心弱いと認めたくなかったが、ジャンが調査兵団を選んでくれないだろうかと、その弱さがそう思わせるのだ。心底身勝手な思いだと自覚しているから、口には出せない、だけどこの手紙の中でならば。
――本当のことを言うと、今この時も迷ってる。憲兵団に入りたくて、今までずっと頑張ってきたんだ。僕だって簡単には諦めきれない。それに僕は誰かを裏切ることはしたくない、お前に嫌われたくない、傷つけたくないよ、それなのに、もうあの時のように無心に王のために体を捧げるとは言えないんだ。勝手なことばかり書いて、きっとお前は怒るだろうけれども、怒られついでに面と向かって言えないことを書いておくよ。本当は、僕はジャンが一緒に調査兵団に来てくれないかと思ってる。怒るなよ、ちょっとだけ思っただけなんだ。ただ、どんなに恐ろしい場所でも隣にお前がいてくれれば、どれだけ心強いだろうと夢見てただけ。ごめん。今書いたことは忘れて欲しい。憲兵団の紋章はどんなにかお前の背中に似合うだろう。僕の分まで王に仕えて、僕が憧れていたような憲兵になってほしい。そうして、時々は僕のことを思い出してくれれば、それだけで僕は幸せだ。僕もきっと、たとえどこにいてもジャンのことを忘れない。だから、またいつかきっと、どこか別の場所で必ず会おう。
一気に書き上げた手紙は、便箋2枚程度の長さだった。書き上げてみれば意外と短い。封筒に入れても、心もとないほどの薄っぺらさだったが、マルコの思いはすべてこの中に入っている。満足だった。右の胸ポケットに手紙を滑り込ませると、マルコは立ち上がって大きく伸びをする。開け放たれた窓から滑り込んでくる風が頬っぺたに心地よく、一仕事終えた充足感も相まって彼を笑ませた。偶さかの休日に揃って街へ出かけていた同期生たちもそろそろ戻ってくるだろう。みんなが帰ってくる前に書き終えられてよかった、こんな手紙をみられるわけにはいかない。マルコの迷いでジャンを傷つけたくはなかった。見せかけの平穏だとしても仲間たちとの時間を大事にしたい、今はまだ伝えられない。
風に乗って、マルコの名を呼ぶ声がする。笑いさざめきながらこちらに近づいてくる仲間たちを、マルコも笑顔で彼らを迎えた。いつもと変わらぬ、気の知れた同期生たちだ。でももうマルコの右ポケットには彼の嘘が入ってしまっている。だけど、それは言わないでおこうと思った。少なくとも訓練兵である間は、皆の道が分かれてしまうまでは。いや、そうではなく。
――僕がジャンに嫌われてもいいって思えるまでは、かな。
そんな日はきっと来ない。だから、マルコの心臓はその時が来るまでは軋んで痛むだろう。叶うならば、笑顔の後ろでジャンに嘘をついていた自分に、彼が気付かないでほしい。その時が来るまでの僅かな時間だけでも。
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