■トウメイ
アリーナは、黙って枕元の椅子に腰掛けた。ベッドの中のクリフトは、ひどく小さく見える。サントハイムを旅立ったときの彼は、臆病で気弱だったけど、それでも背丈は彼女よりもずっと高かったので、こんな風に感じたことはなかったのに。痩けた頬の幼なじみを見守っているうちに、アリーナは不意に涙がこぼれそうになった。
どうしてクリフトなんだろう。我が儘でサントハイムを飛び出したのは私。父親をいつも心配させたのは私だ。クリフトは何もしてないのに、悪いのは私なのに。
突然の病に、クリフトが倒れてから二週間。パデキアの根っこが病の唯一の薬と聞き、アリーナとブライはどれだけそれを探しただろうか。だが、種が保存されているという洞窟を探索したアリーナが見たものは、空っぽになった宝箱一つ。モンスターに持ち去られたか、誰かに盗まれたか、それを知る方法も時間も、彼女には残されていなかった。
種は見つからない。クリフトの病気を治す手だても、もうないのだ。
「…姫様、ご無事だったんですね。」
「クリフト…。」
青年が目を開けて、彼女を見ていた。熱に潤んだ目が痛々しい。微熱がずっと続いていて、ロクに食事もとっていないのだ。元々体力もないので、病に浸食されているのが目に見えて判る。
「よかった、姫様は無茶をなさるから、私はいつも気が気でなくて。」
「馬鹿ね、そんな簡単にやられないわよ。」
アリーナがそういうと、クリフトはふ、と笑う。
「そうですね。」
「そうよ。」
パデキアはなくなってしまった。クリフトの病気は治らない。青年の体は何れ病に食い尽くされてしまうだろう。
クリフトが死んでしまうかもしれない。幼い頃からずっと一緒だった彼が。私があのとき城を抜け出さなかったら、こんなことにはならなかったのに。
神様、神様。どうして私じゃなくて、クリフトなの?どうしてこんなことになってしまったんだろう?
もう手の施しようがない、と医者は言った。どうしてもそれを受け入れることが出来ず、パデキアに一縷の望みをかけていたのに。
――あ、もう駄目だ。
じわりと目が熱くなって、慌てて俯いた。膝小僧で握りしめた両手がぼやけてにじんで見える。
どうしたらいいのかわからない。
こんな時はいつも、己の無力さばかりを思い知らされる。神も祈りも無力だ。母が亡くなったときもそうだった。だけど、例え無駄だと判っていても、起こるはずのない奇跡を信じている。祈らずにはいられない。
「姫様?」
「…あ、ごめん。何?」
「あの、申し訳ないのですが、そこにある林檎をいただけませんか?」
ブライが街で買ってきたのだろう。窓際におかれた果物籠には、林檎が盛られていた。鮮やかな赤色。収穫されてから、さほど時間はたってないようだ。
「いいわよ。」
サントハイムでもよく食べたっけ、とアリーナはその一つを手にし、次の瞬間、なんとも情けない顔をした。
「…もしかして、私がむくの?」
「はい、お願いします。」
「判ってて言ってるんでしょ?」
自慢ではないが、アリーナの包丁捌きときたら。皮をむいたら原型をとどめないし、千切りは百切りになる荒っぽさ。クリフトがそれを知らないわけはない。
「姫様にむいていただきたいんです。」
駄目ですか?と悪戯っぽく付け加える。申し訳なさそうにしてるけど、”お願い”を撤回するつもりはないに違いない。
「…。」
はぐれメタルから、幸せの靴を百足奪ってきてください、とお願いされたほうがまだ楽だ。だが、こういう素直なお願いは、一番断りにくい。一緒に過ごした時間の長さは伊達ではなくて、彼は彼女に物を頼むときのコツをちゃんと心得ている。
渋々ナイフを手にし、爆弾でも扱うような手つきで皮むきに挑むアリーナを見守る青年の目はとても優しかった。
「姫様に林檎をむいてもらえるなんて、夢みたいです。」
「大げさね。」
「でも、私が病気じゃなかったら、してくれなかったでしょう?」
「それはそうだけど。」
細心の注意を払って、ナイフを進める。力を込めすぎないように、ゆっくりと。せめて、まともな形になるように。
「姫様。」
「なあに、クリフト?」
林檎は、今のところ、まだ丸い。もう少し、もう少し。このもう少しのところが一番大事なのだ。
「もういいです、私のことは。」
その言葉は、あまりにもさり気なく吐かれたので、アリーナがそれに気付くのには、たっぷり十秒は必要だった。
ぎこちない動きで顔を上げれば、クリフトと目が合う。
「もういいんですよ。」
もう一度、同じ言葉を繰り返す。目を離せばとけて消えてしまいそうな、透き通った笑顔を浮かべて。
「だから、私のために姫様が危険なことをする必要はないんです。」
モウイイノヨ、アリーナ。アリガトウ。
よく似た言葉をきいた覚えがあった。そう。それは母親が亡くなる前だ。病床の母に、とアリーナは毎日花を摘み、果物を持っていき。病というものを理解できないほど幼かった少女の思いつくことは、それくらいしかなかったのだ。母の部屋には、毎朝アリーナの摘んだ花が咲き、果物は一つずつ増えていったけれど、彼女の病が癒えることはなく。アリーナがその言葉を聞いた次の日に、母は不帰の人になった。
同じ言葉を、彼が言う。あの時と同じように、何もできない自分がいる。
大切で、なくしたくないものから先に奪われてしまうのが、世の中の決まり事というのなら、神様なんてきっとどこにもいやしないのだ。でも、もしどこかにいるのなら、世界の平和も、魔族の侵攻もどうなったっていい。どうか、クリフトを助けて欲しい。他には何もいらない。いつか、本当の自由を手に入れたとしても、隣にクリフトが、ブライがいなければ意味がない。
ベッドから伸びた手が、頬に触れる。その暖かい感触に、アリーナは泣いた。サントハイムを旅立ってから半年、それは初めて彼女が誰かに見せた涙だった。
|