■後悔と酒の味
今夜は酒場に珍しい顔が見える。レオナの酒場のいつもの場所、いつもの酒を片手にビクトールはさり気に視線を向けた。時刻は23時を回ったばかり。大人の男にとってはまだまだ宵の口で、酔っ払うにもまだ早すぎる。それにしたってどういうことだろう?ビクトールの視線の先には、クラウスの姿が在った。この真面目一辺倒な副軍師殿が夜の酒場に顔を見せるなんて、どういう風の吹き回しなのやら。
「キバ殿を探しておるのじゃよ。」
疑問の答えが降ってきた。白いワンピースが目の前をふわりと横切って、向かいの席につく。そして、然も当然と言わんばかりに、ビクトールにシエラは空のグラスを差し出した。
「ブランデーだぞ?」
「構わん、わらわにのめん酒はない。」
苦笑を浮かべつつ、ビクトールは酒を少女のグラスに注ぐ。実年齢は自分よりも遥かに年上だと分かってはいても、見た目は吹く風にも耐えないお嬢様に見えてしまうんだから困ったものだ。ついつい、要らぬお節介をやいてしまいたくなる。放っておけばいいものを、彼女と奥手の軍師殿との恋路に首を突っ込みたくなるのもそのせいだ。
「傍に行かなくてもいいのかよ?」
ビクトールはまた、向こうにいるクラウスに目をやった。どうやら、ようやく父親を見つけたらしい。まだ飲み足りないキバを、帰るように説得しているのが見て取れた。
「うむ…。」
返ってきた生返事に、思わず振りかえる。注がれたブランデーを一気に飲み干すシエラの様子は、いつもと変わりがない。
「どうしたんだよ、おい?」
「何がじゃ?」
「だから…」
だから。そう言いかけて、やっと気がついた。いつもならクラウスの姿があるところで、シエラがビクトールに声をかけてくることはなかったのだ。こんな風に、酒を飲むことも。
目の前の少女は、空になったグラスを所在なげに玩びながら、どこか物憂げな顔をしてビクトールを見つめている。その唇がゆっくりと動いた。
「…何が言いたいのじゃ?」
「いや…別に。」
聞きたいことは山ほどある。だが、無理に聞き出すのはビクトールの主義に反する。聞いて欲しくなったら、シエラの方から口火を切るはずだ。
「最近、傍にいるのが怖いと感じるようになってな。」
彼女のグラスに残り少ない酒を注いだビクトールに気付かぬ様子で、シエラは呟いた。
「興味…ですんでいるうちはまだよかったのじゃが…。」
思いつめたようにブランデーを飲み干す、彼女にいつもの余裕はない。
「本当に欲しいと思ってしまうと、かえって簡単に近付けなくなってしまうとはな。」
その言葉に、ビクトールの胸が痛んだのは何故だろう?同じ思いを、かつて自分は味わったことがある。本当に欲しかったのに、大切すぎて、いつも何も言えないままに、取り逃がしてしまっていた苦い記憶。ならば、シエラの気持ちは分かりすぎるほど分かる。目を伏せ、沈みがちな彼女にビクトールはなにか、上手い慰めの言葉を言おうとはしてみた。だが、無理だった。
「……」
「言っておくが、諦めるつもりは全くないのじゃぞ。」
「へ?」
先ほどまでの物憂い様子はどこへやら、一転して元に戻ってしまった彼女に、ビクトールの俯きがちだった頭も思わず上がる。シエラは笑っていたのだ。
「なにせ、初めて妾が思いをかけた相手。これを逃せば、次はいつになるか分からん。」
さらりとそう言ってのけたシエラを、ビクトールは心の底から羨ましいと思った。失うのが怖くて、いつも何も出来なかった自分と、この少女とはなんと違うことか。戦での勇気と、それは根本的に違うものではあるけれど、シエラもまた勇敢なる者なのだ。
「シエラさん。」
聞きなれた声に呼びかけられて、シエラはゆっくりと立ちあがった。
「あまり、飲みすぎるでないぞ?」
そう小さく言い残すと、ふわりと身を翻す。父親を酒場から連れ出すのを断念したらしい青年が、こちらを見つめて笑いかけるのが、ビクトールにも分かった。
行ってしまう。何もかもが、俺の前から消えてなくなる。そう考えて、たまらなくなって。
「なあ、俺にしとかないか?」
言った端から後悔の嵐。歩き出しかけたシエラの足がぴたりと止まって、ビクトールを見下ろした。さぞや呆れた様子をしているだろう。それを見るのが怖くて、ビクトールは視線を逸らした。
「誰も代りにはなれんよ、ビクトール。妾が欲しいのがおんしではないように、おんしが欲しいのも妾ではないじゃろう?」
まるで何事もなかったかのように、シエラは踵を返すと、ビクトールの傍から離れた。もう振りかえらない。彼女を待っている、大切な人がそこにいる。
残されたビクトールは一人、テーブルに視線を落すしかなかった。
「誰も代りにはならない…ね。」
仕方がないじゃないか。思いを口にしてしまえば、相手を困らせるだけだと分かっていたのだ。口にしてしまえば、今の幸せな関係を壊してしまいそうな気がしていたのだ。何も言わなくてもわかってくれるなんて、自分への言い訳だ。本当は、はっきりさせるのが怖かった。軽口で誤魔化してしまっていたのも、自分への逃げ道を作っておいただけだったと、誰よりも彼自身が知っていた。
そして、そのツケを払わされる羽目になる。いつもいつも失ってしまってから、自分の不甲斐なさを思い知らされる。
シエラに多少はおすそわけをしたとはいえ、まだまだ酒は残っていた。大の男が一夜を飲み明かすには充分足りる。否が応でも耳に届く恋人達の囁きから、少しでも遠ざかる為に、今夜は酔いつぶれてしまおう。今夜の酒は、やけに胸に痛い。
|