■お風呂な話

「クラウスくーーーん。」
 大統領の馬鹿息子…ならぬトラン共和国大統領の御子息、シーナが猫なで 声を出す時は、用心してかからねばなるまい。クラウスは書類を整理する手を休めて、 身構えた。そもそも、シーナが執務室にやってくること自体、初めてのこと。 何かある、とクラウスでなくとも勘ぐってしまうのは無理もない。 そんなクラウスの気持ちを知るか知らざるか、シーナは母親譲りの 端正な顔に猫めいた微笑を浮かべて、クラウスに近づいた。
「何か用ですか?シーナ。」
「あらら、つれないのね。クラウス君は。」
 シーナ、全くめげた様子がない。クラウスと違い、女性経験豊富な彼は、 素っ気なく扱われるのに耐性がついているのに違いない。
「何故、今日に限って”君”付けなんです?」
 今更、丁寧に呼んだって気持ち悪いだけだ。かえって相手に警戒心 を与えてしまっていることに 気付いたシーナは、即時に軌道修正を行うことにした。
「実は、クラウスに付き合って欲しいところがあってね。」
「そんなことだろうと思いました。」
「そんな言い方するなよ、俺はおまえを頼りにしてるんだからさ。」
 何とも勝手な言いぐさだ。だけど、シーナが言うと何故か憎めない。 人を惹きつける魅力、これもシーナの人徳か。もしかしたらそれは彼が父親 から譲り受けたものなのかもしれない。クラウスはシーナに向き直って、 シーナに詳しく話すように促した。
 シーナが話したそのお願いの内容というのが…

「はい?露天風呂??」
 目の前のシーナ はクラウスの顔を見つつ、にこにこ悪びれずに笑っている。
「だからさ、今日からここのお風呂に露天風呂が増えただろ?」
 シーナの話を要約すると、こういうことになる。
 テツさんの風呂場に今回新しくできた露天風呂は、なんと混浴らしい。 しかも、今日は出来立てほやほやの感謝デーで、今日入浴された方にはもれなく、 美顔セットだの女の子の喜びそうなプレゼントがいっぱい用意されているらしい。 城の女性陣は、今日、こぞって風呂に入ろうとしていることを、シーナは耳にしたらしいのだ。自分も入りに行こうと思っていたのだが、自分一人だけで 行くとよこしまな思いを抱いていると誤解されてしまうかもしれない。だから、 いつも頑張って働いてご苦労様なクラウス も一緒にお風呂に入って、ゆっくりくつろがないか、と。

 呆れて物も言えないとは、きっとこういうことを言うのだろう。 要はシーナは自分一人で行くと覗きかと思われて警戒されてしまうから、 人畜無害と思われているクラウスをつれていって、女性の警戒心を解こう という魂胆なのだ。何が、”いつも頑張って働いてご苦労様”だ。そんなこと を言うくらいなら、ちょっとは仕事を手伝ってくれればよいものを。邪魔こそすれ、 手伝ってくれたことなど今まで一度もなかったではないか。
「クラウス?」
「お断りします。」
 とりつくしまのない言い方になってしまった。シーナが悪いのだ。 だいたい誰が好きこのんで、覗きの片棒を担ぐようなことをするものか。 第一、どう考えたって頼む相手を間違えてる。クラウス はシーナを無視して、また、書類の整理に忙しく働き始めた。
「あーーあ、せっかくクラウスにくつろいで貰おうと思ったのに。」
 背後からシーナのぼやきが聞こえる。無視、無視。クラウスは殊更に 紙の音を響かせた。
「城のほとんどの女性が、今日お風呂に入るんだぜー。」
 …先月の支出における食費の割合表はどこにしまったろうか…
「そういえば、シエラさんも入るって聞いたんだけどなー。」
 !!…む、無視無視。えーーと、明日の軍議のレジュメは…
「シエラさんって綺麗だよなー。小柄だけど、ああいうタイプの子が 意外と着やせするタイプだったりするんだよね、うん。」
…くっ…聞こえない聞こえない。シエラさんがお風呂に入るだなんて …私には聞こえません…え、えっと次の書類は…
「聖人君子なクラウスは、好きな女の子の裸を 見るなんてとんでもない、って思ってるみたいだしなー。」
…そんなことは…いえ、やはり覗きはよくないと…でも… ちょっとくらいなら…
「なら、俺一人で見てこようっと!」
だっ、駄目です!!そ、そんなことは許しません!!
 ばっと振り返ったクラウスを見て、シーナは目を丸くした。
「…クラウス、鼻血でてる。」
「えっ!?」
 慌てて鼻の下を拭うクラウスと爆笑するシーナ。 屈辱に打ち震えるクラウスの肩を、シーナは軽くたたいた。
「一緒に行くよな、クラウス?」
 ああ、どうしてクラウスに拒絶できようか?もし、ここで行かなければ、 恋しい人の裸を他人に見られてしまうかもしれないのである。 クラウスの堅固な道徳心も、恋の前には無力なゴミであった。


 かっぽーーーーーーん…かっぽーーーーん…
 なんとも、気の抜けるBGMだなぁ、と一人露天風呂でくつろぐ クラウスの述懐である。シーナは露天風呂に入って早々、 他のお風呂に女の子ウォッチングに行ってしまった。
「シエラさんを見つけたら、呼んでやるよ。」
 これが捨てゼリフである。
「シエラさんの裸を見たら許しませんからね!」
 クラウスの返事も、なかなかどうしてたいしたものだ。まあともあれ、 クラウスはいつもの 激務から解放されて、くつろぎの時間を手に入れたのだった。
 クラウスは、デュナン湖に目をやった。この露天風呂は本拠地の 壁をぶち抜いて、デュナン湖を望めるようにしてある。湖の水かさが 増したら一気に浸水することになるだろうが、露天風呂が室内では 話にならんというテツの職人気質によって半強制的に実行されたのだ。後でやばいことに なるかもしれないが、湖を眺めつつのお風呂はやはりいい。
「うーーーーーーん、こうやってゆっくりするのも久しぶり…」
 お湯の中でのびをしてみたり、クラウス君、すっかりくつろぎモード。 仕事時間中、でいささかの罪悪感もあったが、クラウスにも同情の余地はある。 シュウの人使いの荒さと本拠地における事務員の少なさがあいあまって、 クラウスの近頃のスケジュールはほとんど殺人的だった。それにシュウ という人は、文字通り”休む間もなく”他人を使うのである。これで本人が 他人の倍以上働いていなかったら、事務員 こぞってのストライキ問題にまで発展してもおかしくない。

 肩までお湯に浸かって、お湯の中で腕を伸ばしてみた。男にしては線の細くて、 白い腕。ハイランドでは習慣的にやっていた 剣の稽古も、ここにきてからはご無沙汰なのを思い出す。

 そういえば、軍に入隊したばかりの頃は、将軍の息子が剣一つ満足に振るえぬと思われたくなくて、 自分の力量も考えずに父の剣を持ち出したこともあったっけ。
 剣を振るうどころか、振り回されて息切れていた自分。 その時、誰かが剣を差し出して。
「これを使え。」
 それは、新兵用のショートソードで。黙ってそれを受け取ったクラウスに、
「なれるまで、こっちを使った方がいいと思ったんだ。」
 言い訳するみたいに、そう言ってた。
「まあ、おまえみたいのが前線に出て戦うなんてことは、 俺が絶対にさせねぇけどな。」
 血の臭いをいつも体に張り付かせているような青年だったのに、 その時クラウスに見せたとびきり無邪気な笑顔が忘れられない。 燃えるような紅い髪の、それだのにどこかしら子供みたいな、 ハイランドの火炎将。常に彼と共にあった思慮深い軍師や、 いずれは主君となっていたであろう、ハイランドの皇太子・・・。 おそらくもう二度と会うこともないであろう人たち。
 過去というものは、一度振り返ってしまうと止めどがない。 皇都ルルノイエの町並みや、キャロの町の活気、次から次へと クラウスを誘い出す。懐かしくも、 戻れない過ぎた日々の残滓が呼んでいる。だけど、もう過去の話だ。
 自分は、ハイランドで決して不幸ではなかった。それだけでいい。 もう、それだけが分かっていれば、何もいらない。

「さてと。」
 もう十分に休養させてもらった。今から仕事に戻れば、 今日の分の仕事を明日にまわさずに済みそうだ。風呂から上がる瞬間に、 シーナのことが頭をかすめる。結局、シーナは 今一人で行動しているわけだから、 女性に見つかったらよろしくない事態になるのではないだろうか。
「まあ、自分でなんとかするでしょう。」
 クラウスは風呂上がりのいい気分のまま、お風呂の扉に手をかけ。
 そして、勢いよくそれを開けた。

    …………………………

 ああ、白い。白くて、綺麗だな。どこか見覚えがあるような気がする。 声も聞いたことがあるような気がする。 誰だっけ?どこで見たんだろう?あれあれあれ?
 そうか、混浴だから女の人も、同じ入り口から入って来るんだ… 私としたことが…すっかり忘れて…。
 一体何が起きたのか?自分は一体どうなってしまうのか?何もかも 分からないまま、クラウスの意識はブラックアウト……。

 そして、再びクラウスが目を開けたとき、不安げに自分を覗き込んでいる 二人の姿を認めた。シエラとシーナ。いつもなら滅多に話もしないような 二人の組み合わせがおかしくて、口元がほころぶ。すると、何故かシエラが頬を染め、クラウスから目を背けた。
「おい、クラウス。いつもみたいに目、伏せてろ。」
 耳元に口を近づけて、囁いたのはシーナだ。
「そうでないと、どっかの傭兵さんみたいに行く先々で女に追っかけまわされるぞ。」
 本拠地にこれ以上ハンサムはいらねぇの、 とシーナは嘯いてる。相変わらず、勝手なシーナだ。
 クラウスはシーナに助けられて、ゆっくり半身を起こした。 風呂場の脱衣場だ。背の高い扇風機が、場違いにのんきな音を 響かせて首を振っている。バスタオル一枚かけられた自分の身体を見、クラウスは目を瞬かせた。
「私は?」
「ごめんなさい、クラウスさん。私のせいで…。」
 傍らでシエラが、俯いて身を縮めていた。 お風呂上がりの気安さか、タイツもマントもなく、 いつもの完全ガードな格好からブラウス、スカートだけのシエラは、 いつにもまして女の子っぽく見える。
「あっ、シ、シエラさんが謝らなくても…私が、急に 扉を開けてしまったせいですから…吃驚されたでしょう?」
「いえ…でも、クラウスさんを突き飛ばしてしまうなんて…本当にごめんなさい…。」
 クラウスが扉を開けたときに鉢合わせしたのは、混浴露天風呂なら人も少なかろう と踏んだシエラだったのだ。ああ、もっとよく見ておくべきだったなあ。 クラウスがそう思うことを誰も責められまい。残念ながら、クラウスには あの一瞬の記憶が殆どなかった。実は、それはとても幸運なことだったりする。 何故って、クラウスと鉢合わせしたシエラは、驚いた拍子にクラウスを月の紋章で攻撃した上に、コウモリに変身して体当たりまでやっているのだ。クラウスが無傷でいられたのは、まさに愛の奇跡といえる…かもしれない。
「ま、もう大丈夫みたいだし、服着たら?」
 お互い下を向いてもじもじと、訳の分からないいいわけをいいあう二人に、 シーナは極当然のことを口にした。放っておいたら、 何時までたっても二人は謝り合戦を繰り広げていそうだ。
「あ…じゃあ私は外に出ています。」
 いそいそと立ち上がって、脱衣場から出ようとするシエラの背に、シーナが声をかけた。
「いいじゃない、シエラさん。さっき見たんでしょ?」
 ほどよく温まっていたクラウスの体温が、一気に冷めた。 返事もをせず足早に脱衣場から出ていく シエラの足音。それは、最早クラウスの耳には入っていない。
 み、見られた?見られた??それって、それって!?まさか!!!
「みっ、見たって?シーナ、見たって何を?!」
 元々色の白い顔立ちのクラウス、顔色は白を通り越して青い。 シーナは平然として、あっけらかんと笑った。
「いいじゃないかー。シエラさんにお婿さんに貰ってもらえば、万事解決。 裸を見られたことなんて小さなことじゃん。」
「ちっ…」
 本拠地いっぱいに、クラウスの叫びがこだまする。
「小さなことじゃなーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!」


モドル