■小夜曲 ■
☆ クラウスは、先ほどからずっと湖から視線をそらさない。ほんの少しだけ距離をおいて見る恋人の姿は、夜空の下であまりにも清らかで。なんだか、自分が近づくことが許されないような、ひどく自分が穢れているような気がする。――今更そんなことを考えても、仕方がないじゃろう。 シエラには、はなっから選択肢はなかった。望まぬ紋章を与えられた彼女にとってできる事は、永劫の時間を一人で過ごすか、或いは呪われた運命へと誰かを引き込むか。 一時でも寂しさが癒されれば、それを失ってしまったときは更に孤独になるばかり。それをいやと言うほど味わってきた、それなのに。 シエラに気づかぬ背中は、やはり遠い。つれない相手だ。だけど、どうしようもなく惹かれる。彼の前では、柄にもなく少女の頃の自分を演じてしまうほどに。相手の一挙一動に胸をときめかせ、言いたいことの半分も伝えられなかったかつての自分に戻ってしまう。 愚かで、身勝手な、人間だった頃のシエラへと。 私のことを考えて。私のことだけを思って。私のことを好きだって言って。 何も考えることなく、本当の思いを口に出せたなら、この不安も少しは胸から去ってくれるのだろうか。 ――妾を選んだことを後悔していないか? 何度クラウスにそう尋ねようとしたことか。だが、そのたびにその質問の無意味さに気づく。 後悔したところですでに遅く、していなかったとしても、人の心の移ろいを知る自分が、また疑いに取り付かれてしまえば同じことの繰り返し。 ――妾はなんと贅沢な・・・。クラウスを手に入れてもまだ満足できんとはの。 愛の言葉も口付けも、いくら貰ってもまだ足りない。わが身の欲深さに呆れ返ることもしばしば。まさにこれはシエラにとって”業”だった。相手を想うが故の業、シエラに残された最後の人間らしさ。あの青年を前にすると、心の奥底に封印したはずの思いが動き出す。 ――・・・愚かな・・・同じことを繰り返すなどと。 だが、思いを止めることはできなかったのだ。ばれないはずのない嘘をつき、忘れかけていた昔の自分を演じて。本当の自分を知られるのを恐れた余りの行為だったが、偽りで築いた関係は真実に触れれば崩壊することを知らないわけでもなかったのに。 「クラウス・・・さん?」 呼びかければ、シエラの想像通りの優しい微笑が振り返った。不安も後悔も、それが一瞬で忘れさせてくれる。差し出された手がシエラの体を抱き寄せて、冷たい体が夜に重なった。 「私は、ここにいますよ。」 私の命が続く限りは、貴女の傍に。 胸の中で、夢のようなその言葉を聞いた。それはきっと”ずっと一緒に生きる”という意味ではないけれど。 それでも。そっと目を閉じて、恋人の腕の中。幸せは、きっとここにあるのだ、と。冷たい腕に抱かれながら、シエラはそれだけを考えるように、した。 あなたのことだけを。あなたを好きな、私のことだけを。 |
(2002/06/10)