モドル

■小夜曲 ■

 夜のデュナン湖を月が横切る。ノースウインドゥの城壁に腰掛け、ぼんやりと湖水を眺めていた青年の横顔を、真円の月は銀色に際立たせていた。空の月と大地の月。その二つを視界に宿すクラウスの、黒く濡れた前髪を夜風は楽しげにもてあそぶ。季節は四月に入ったばかり。花はそろそろほころびかけていても、夜には未だ冬が立ち止まっている。寒さに身をすくめた青年は、身に纏う厚いマントをさらに体にひきつけた。

 昔からクラウスはここから見える景色が好きだった。冴え渡る湖と、彼方に霞む街。ミューズ市のずっと向こうにあるはずのハイランドは、クラウスの故郷であった国だ。そこで生まれ、軍人としてハイランドで生き、それ以外の道なぞ思いも寄らず。皇帝に忠誠を誓い、国のために戦場に身を置いていたかつての自分の故郷。今となっては、あの頃はまるで夢だ。いや、実のところ、クラウスは、ここでこうしていることさえも、夢のように感じていた。

 父がいて、使えるべき主がいて、友がいて、進むべき道はまっすぐにクラウスの前に示されていたのだ。父と共に捕虜となった、あの瞬間までは。

 眺める者が変わろうとも、月は変わらずそこにある。

 ああ、なるほど。これが感傷というものか、と。

 月を眺める青年は、ぼんやりとそう思う。

 もう、誰もいない。父も、かつてのハイランドの皇帝も。



 ここにいることを後悔しているわけでは決してない。だが、時折思うことがあるのだ。 あのとき、と。もし、あのとき、自分が違う選択をしていたら?と。

 埒もない思いが浮かんでは消える。きっと夜のせいだ。今宵の月は、あまりに懐かしい色をしている。同じ月でなど、あるはずもないというのに。

 風が、夜に鳴る。

 風が夜空を横切れば、あっけなく雲間に隠れてしまう銀の面。だが、いずれまた静かな光を取り戻し、湖に投げかけるだろう。

 そんなものなのだ。この世の全ても、月と同じ。満ちては欠け、そしてまた満ちていく。何もかもが、須らくその理のままに。

「クラウス・・・さん?」

 振り返れば、シエラがそこにいた。幾年を経ようとも変わらぬ姿、微笑みも初めて会った時のままだ。微笑が初々しくみえればみえるほど、冥い瞳が彼女自身を裏切っていて。そのわけを知ったときには、もう彼女に心を奪われてしまっていた。

 めまぐるしく変わっていく環境に、窒息してしまいそうになっていたクラウスを、いつも、いつでも傍で見守ってくれていたことに気がついたのはいつだったろうか。

 不安そうにこちらを伺っている少女に、クラウスはそっと手を伸ばした。

 クラウスは、先ほどからずっと湖から視線をそらさない。ほんの少しだけ距離をおいて見る恋人の姿は、夜空の下であまりにも清らかで。なんだか、自分が近づくことが許されないような、ひどく自分が穢れているような気がする。

――今更そんなことを考えても、仕方がないじゃろう。

 シエラには、はなっから選択肢はなかった。望まぬ紋章を与えられた彼女にとってできる事は、永劫の時間を一人で過ごすか、或いは呪われた運命へと誰かを引き込むか。

 一時でも寂しさが癒されれば、それを失ってしまったときは更に孤独になるばかり。それをいやと言うほど味わってきた、それなのに。

 シエラに気づかぬ背中は、やはり遠い。つれない相手だ。だけど、どうしようもなく惹かれる。彼の前では、柄にもなく少女の頃の自分を演じてしまうほどに。相手の一挙一動に胸をときめかせ、言いたいことの半分も伝えられなかったかつての自分に戻ってしまう。

 愚かで、身勝手な、人間だった頃のシエラへと。

   私のことを考えて。私のことだけを思って。私のことを好きだって言って。

 何も考えることなく、本当の思いを口に出せたなら、この不安も少しは胸から去ってくれるのだろうか。

――妾を選んだことを後悔していないか?

 何度クラウスにそう尋ねようとしたことか。だが、そのたびにその質問の無意味さに気づく。
 後悔したところですでに遅く、していなかったとしても、人の心の移ろいを知る自分が、また疑いに取り付かれてしまえば同じことの繰り返し。

――妾はなんと贅沢な・・・。クラウスを手に入れてもまだ満足できんとはの。

 愛の言葉も口付けも、いくら貰ってもまだ足りない。わが身の欲深さに呆れ返ることもしばしば。まさにこれはシエラにとって”業”だった。相手を想うが故の業、シエラに残された最後の人間らしさ。あの青年を前にすると、心の奥底に封印したはずの思いが動き出す。

――・・・愚かな・・・同じことを繰り返すなどと。

 だが、思いを止めることはできなかったのだ。ばれないはずのない嘘をつき、忘れかけていた昔の自分を演じて。本当の自分を知られるのを恐れた余りの行為だったが、偽りで築いた関係は真実に触れれば崩壊することを知らないわけでもなかったのに。

「クラウス・・・さん?」

 呼びかければ、シエラの想像通りの優しい微笑が振り返った。不安も後悔も、それが一瞬で忘れさせてくれる。差し出された手がシエラの体を抱き寄せて、冷たい体が夜に重なった。

「私は、ここにいますよ。」

 私の命が続く限りは、貴女の傍に。
 胸の中で、夢のようなその言葉を聞いた。それはきっと”ずっと一緒に生きる”という意味ではないけれど。  

それでも。そっと目を閉じて、恋人の腕の中。幸せは、きっとここにあるのだ、と。冷たい腕に抱かれながら、シエラはそれだけを考えるように、した。

 あなたのことだけを。あなたを好きな、私のことだけを。

(2002/06/10)


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