■たとえばこんな夜 これでどうだ、といわんばかりに俺はシエラの前にドンとワインを置いた。 その勢いでクラウス父子の部屋のテーブルがぐらぐら揺れる。なんだ、 えらく立て付けの悪い家具を使っているじゃないか。俺は自分の乱暴さを棚に上げて、 テーブル のせいにする。家具はやはり見た目より機能性だな、うん。 何故かクラウスの部屋に居座っているシエラは呆れたように俺を見、 次にワインに視線を向けた。そして、言った。 「…また、安物ワインではあるまいな?わらわはおんしのように 飲めれば何でもいいという安い舌は持っておらんぞ。」 な、なんという可愛げのない吸血鬼だ。おっと、申し遅れたが、 俺の名前はビクトールという。この同盟軍の中で、二番目に頼り 甲斐のある男と自負する三十二歳の男盛りだ。酒にはちょっとうるさい俺は、 このシエラお嬢様の 口に合うような酒を時々調達してきて、プレゼントしている。 …実のところ、彼女を満足させるまでには至っていない。生まれの良さか、 年の功かどっちか知らんが、舌が肥えすぎだ。今までシエラが没にしたワインだって、 俺は結構苦労して手に入れたものなのに。まあ、いい。今日こそはお嬢様の 舌を満足させられるに違いない。なんてったって、超極上のハルモニア産ワイン、 しかもその歴史、品質ともに保証つきの“黒のノワール”だぜ。これを手に入れる ために俺がどんなに苦労したかは、もう聞くも涙、語るも涙の物語なのだが、まあ、 それは後日に譲るとしよう。 今日こそはシエラをぎゃふんと言わせてやる。 俺はおもむろに準備していたワイングラスとコルク抜きを取り出すと、大仰な身振りで グラスの片方をシエラに差し出した。 「よほど今回は自信があるようじゃな?」 「まあな。」 慣れた手つきでコルクを抜き、ソムリエさながらに気取ってシエラのグラスにワインを 注ぐ。無論、俺の分のグラスにも。グラスに揺れるワインは、まるでルビーのごとき 高貴な輝きを放っている。いいワインは色も普通のワインとは違うのか、 と妙に感心する俺である。シエラとテーブルを挟んで向かい合って座り、 お互いのグラスを静かにあわせた。グラスの向こう側に、ワイン色に沈む シエラの姿。こうして見ていると、もう何百年もその生を保っている吸血鬼 にはとても見えない。吹く風にも耐えられないお嬢様に見えるのだが。だが、 彼女の正体は泣く子も黙る月の紋章の継承者、月の光と夜の闇を象徴する吸血鬼 一族の始祖なのである。 人は見かけによらないというかなんというか…いやはや。 シエラがワインを口にするのを見つつ、俺もグラスを口に運んだ。甘い芳香。 自己主張しすぎるほど強くもなく、かといって印象に残らないほど弱くもない。 そして、その味ときたら!俺の貧しい語彙力ではとても説明できない。 いつか、本拠地に来た時にヴァンサンにでも説明してもらってくれ。 自分で持ってきておいてこんなことを言うのもなんだが、こいつは大当たりだ。 これなら、シエラお嬢様も満足するよな? 「これは…」 ほう…とシエラはため息を漏らす。ワインのせいか、それとも興奮の為か、 透けるように白い頬がほのかに桜色に染まる様は、なかなかにして目の保養だ。 よっしゃ、どうやら俺はようやくシエラを満足させたらしいぞ。シエラは俺のほうを見て、 にっこりと笑った。いつもその顔でいれば、 あののんきな軍師との仲も、少しは進展すると思うんだがね。 「ビクトールにしては、上出来じゃな。」 …俺にしては、ねえ…。だが、俺もあんたが喜んでくれて嬉しいよ。 俺はあんたがこの軍に完全に馴染んでいる訳じゃないと分かるから、 どんな形でも喜ばせてやりたいと思ってるんだぜ。それに、中身はともかく 見た目は俺より年下に見えるから、ついつい構ってやりたくなっちまうんだよな。 幸せになってくれっていうか…うまく言えないんだが。 美少女と酒を酌み交わしつつ、静かな一時が流れていく。戦も今は小康状態を保っている ようだし、 のんびりと会話を楽しむ余裕はあった。 「しかしなんだな…おまえさんがここにいつくとはねえ。」 「わらわも宿星の一人なれば、当然のことではないのか。」 「……本当にそれだけかい?」 俺は意地悪く聞いてみた。勿論、俺はこのお嬢さんがここにいる理由っていうのが、 そんなかたっくるしいものだけじゃないことをちゃんと知っている。 案の定、俺がそう聞くと、 たちまちシエラは言葉に詰まって俺を睨み付けた。 「何が言いたいのじゃ?」 「いえいえ。別に何も〜。ただちょっと気になって〜。」 「おんし、まさかクラウスに余計なことを言うつもりではなかろうな?」 「俺は、別にクラウスのことだなんてひとっことも言ってねえぞ?」 グッと黙り込むシエラ。俺はなんだか楽しい気分になってきた。ワインのせいか? いや、それだけではあるまい。目の前で俺を恨めしげにみているシエラが、 あまりに可愛らしくも悩んでいたから。誰だろうが、何だろうが、 恋する乙女はいじらしくも愛おしいものだ。 いじめるのは、もうやめておこう。 「まあ、飲もうや。おまえさんを満足させられる酒なんて、早々手にはいらんしな。」 シエラと俺の空いたグラスに、ワインを注ぐ。カチンと勝手にグラスをあわせると、 仲直りとばかりにシエラに笑いかけた。憮然とした面もちではあったが、 シエラも俺に賛成のようだ。喧嘩は酒を不味くするってもんだ。 俺がシエラをからかったのが、そもそも のきっかけだったことは脇に置いておくことにしよう。 お互い、ワインを飲み干そうとぐいっと杯を傾ける。 その時、まさにナイスタイミングで声が降ってきた。 「珍しい組み合わせですね?ビクトールさんがシエラさんと飲んでいらっしゃるなんて。」 俺の背後からてくてくと近づいてきたのは、紛うことないクラウスだった。 い、いつの間に、こいつは部屋に戻ってきたんだ!?この俺に気配を感じさせないなんて、 見かけによらずできる奴なのかもしれん。 喉を通過中のアルコールが、驚いた拍子に逆流したシエラは、 机に突っ伏してむせかえっている。ワインを吹き出さなかっただけ、 マシってか。クラウスの前では可憐な美少女を完璧に演じきっていた シエラであるからして、ワインを飲み干す姿なんぞ惚れた男に見せる わけにはいかないんだろう。 女っていうのは、因果な生き物だとつくづく思うね、俺は。 「シ、シエラさん。だ、大丈夫ですか??どうされたんですか??」 そんなことは露とも知らないクラウスは、いきなり突っ伏してしまったシエラのそば でおろおろしだしす。俺は、おまえのせいだよ、と突っ込んでやりたくなるのを堪えつつ、 「飲み慣れないない酒で、気分が悪くなったみたいだな。」 「ええ…なんだか酔ってしまったみたいで…ごめんなさい、ビクトールさん。」 シエラは顔を上げて、弱々しげに謝ってみせた。俺のフォローにちゃんと乗った上に、 自分の印象を崩さないよう 努力も忘れないところは見事としか言いようがない。 「私、先に休ませてもらいます…」 よろよろと席を立つと、シエラはクラウスの寝室に向かって歩いていった。 ちょっとよろけてみたり、芸が細かい。クラウスはいつも一体どこで寝てる んだろうな?という素朴な疑問を俺の胸に残しつつ、彼女は隣の寝室に姿を消した。 後に残されたのは、俺とクラウスの二人だけ。なんとなく、 手持ちぶさたな雰囲気になってしまった。相変わらず、何を考えているのか 読めない軍師殿は、 机上の酒瓶に目をとめたらしい。 「黒のノワールですか?通ですね。」 「へえ、酒のことがわかるのか?」 「父が好きですから。」 クラウスは婉然と笑ってみせた。笑うと、いつもの他人を寄せ付けない雰囲気が 一気に崩れる。 クールな軍師ではなくて、年相応の青年がそこにいた。 「私でよければ、お相手いたしましょうか?」 シエラのグラスをさりげに手にして、いたずらっぽく微笑みかけるクラウスの申し出に、 俺は異論のあろう筈もなかった。 「しかし、なんだな…おまえさんがこんなにいける口だったとはねえ。」 シエラにかわり、俺の酒の相手になったクラウスと酌み交わしながら、 俺は極々正直な感想を口にした。そうなのだ、クラウスと一刻ほど杯を重ねているが、 青年には酔っている様子がほとんど見受けられない。男にしては端正な顔をしている クラウスは、頬をうっすらと朱に染めているだけだ。流石、酒豪のキバ将軍の息子 だけのことはある。いかん、このままでは 俺の方が先につぶれちまうぞ、なんとかしなければ。 「ところで、クラウス?シエラはなんでおまえさんの部屋にいつもいるんだよ?」 俺はとりあえず、相手の動揺を誘う作戦に出てみることにした。よくよく考えてみるに、 この手の質問はさっきシエラにもしたような気が…。俺ってやっぱり結構オヤジなのかも しれない…。 突然の俺の質問に、クラウスは少しとまどったようだった。 「さあ…でも、シエラさんがいたいとおっしゃるのですから。」 「で、同じ部屋にいる…と。」 ええ、とにこにこ笑いながらグラスを空け、クラウスはぬけぬけと言い放った。 ハイランドには、結婚前の男女が同室に寝泊まりするなんて!!などという 一般道徳はないのだろうか。なんて羨ましい国なんだろう。 「おまえ、シエラが昼間はほとんど寝てるだけっていうとか、 言葉遣いとかに不審を感じたりしないのかよ?」 やばい…俺はどうやら悪酔いに入りつつあるらしい。三十過ぎの俺が、十代のクラウスに絡み酒なんて、どう考えてもあまりかっこいい図とは…。 酔眼で絡んでくるオヤジに、クラウスは少し困った顔を見せた。眉を寄せて、 曖昧な表情を浮かべる青年は、妙に色っぽい。こいつがもし女だったら、 俺は間違いなく押し倒してるだろうな、と不埒な考えが頭をかすめる。 ああ、やっぱり俺は完璧に酔っている…。 「…どうなんだ?」 クラウスは、やはり答えない。苦笑いのまま、俺のことを見つめていた。 なんで答えないんだろう?肯定にしろ、否定にしろ何らかの考えがあると思うんだが。 それに、なんでこいつは笑っているんだ?? 「もしかして…おまえ実はちゃんと分かってるとか?」 沈黙は何よりも肯定の言葉、ってやつだ。クラウスは小さく肩をすくめる。 「分かってんならなんで…」 思わず、声が大きくなる。シエラの秘密を知っていて、それでもあいつを 受け入れているのなら、なんでそれを言ってやらないのだ。シエラが無理 してることくらい分からないクラウスではないはずなのに。 クラウスは、俺の思いを読みとったかのように、 「シエラさんが、私に知られたくないと思っていらっしゃるから。」 と、静かにそう言う。 「だから、知らないふりをして待っているんです。それに…」 女性には一つや二つ秘密があった方が魅力的でしょう、と俺に目で問いかける。 恋愛経験が豊富なわけではないくせに、何、生意気言ってんだか。 女の魅力の何たるかを本当に分かってるのかね、こいつは。 しかし、きっぱりと俺の前でそう言い放ったクラウスに、俺は何を言えただろうか。 シエラが誰なのかを、紋章を持つ者の宿命を、クラウスはちゃんと知っているのだろう。 それでも、この 青年はシエラを待つと、彼女を受け入れられると言っている。 なんて奴だ?感情を伺わせないこの軍師殿が、こんなにも優しくあの少女のこと を思っているなんて、情けないことに俺には少しも分からなかった。 あのお嬢さんの男を見る目は確かだったって訳だ。 これじゃあ、本当に何も言えやしないじゃないか。 「そうか、頑張れよ。」 俺の言った言葉は、ただこれだけだ。お世辞にも気の利いた言葉とは言えない。 それでも、クラウスは嬉しげに笑ってくれた。鮮やかな、陰のない微笑みは、 なんだか俺をとても安心させてくれる。もしかしたら、二人は幸せになれるかもしれない。 そう俺に思わせてくれるような、クラウスの笑顔。 今夜はいい夢が見られそうな気がする。 モドル |