モドル

■前夜


 先触れの声が、王宮中に響き渡っていく。それを追うかのように、白狼軍の鎧を纏った兵が皇宮の奥へと走っていた。ハイランドの子供なら一度は憧れるという、ハイランドの第一軍。ハルモニアより授かりし獣の紋章の姿にちなんで白狼軍とよばれているその、剣呑な名前に似合わぬ純白の鎧が目指す先には、皇帝のいる王座の間があった。
 ハイランドの国境を、辺境諸国の連合軍が侵したと知らせがあったのは、ちょうど半月前のことだ。都市同盟との戦争でハイランドの国力が衰えたと読んでの侵略だろうが、ハイランドの対応は思いのほか迅速だった。第一軍と第二軍の半数を直ちに編成され、ルカ皇子が皇王の名によって指揮官に指名された。あわよくば、漁夫の利を得んとした連合軍の予想は、最悪の形で裏切られることになるのであるが、それはさておく。
 王座の間では、かつてハイランドの獅子とも呼ばれた、皇王アガレス――今では、軍の指揮権をすべてルカ皇子に譲り渡し、自ら内政に力を注ぐ日々を送っている―─が皇女ジルと共に、兵士の報告を待っていた。廷臣の大半もまた、そこに集い、兵士の至るのを今や遅しと待ち受けている。先触れよりほどなく、息せき切った兵が皇王の前に跪く。
「謹んで、陛下に申し上げます!」
 アガレスが鷹揚に頷いた。発言を許された兵士が言葉を継ぐ。
「本日未明、ハイランド第一軍、ルルドの西にて、敵軍と交戦!これを打ち破りました!」
 この言葉を合図に、どっとその場がわく。先ほどまでやや硬かったジルの表情も、ほっと和らいだ。
「今回の戦闘において、ルカ様のご活躍めざましく、敵将を単騎にて討ち取られ・・」
 兵士の報告は尚も続いていたが、はやその場にいるものの誰一人として、それを聞くものは無かった。

■□■


 クラウスは、静かに書類から目を上げた。誰もいない執務室で、午前中から食事も取らずにずっと第三軍の資料に目を通していたのだ。三軍の懸案事項である命令系統の整理、それに伴った人事異動。弱冠19のクラウスにはいささか手に余る課題で、この三日間、それに忙殺されていた。とはいえ、皇宮奥より伝わってくるざわめきの理由が分からないほど鈍くはない。
「・・・勝利の凱旋、か・・・これで、また皇子の人気も上がるのでしょうね。」
 ハイランドの凶皇子、他国には恐怖と憎悪を持って囁かれるルカの二つ名も、味方にしてみればこれほど心強いものはない。ルカの武勇は海内に轟き、国内外に勇名をはせている。国民は穏健派の皇王に尊敬を寄せているが、武神の如きルカに期待をかけ、皇王を蔑ろにするような思いを抱くものも多いと聞く。それは、都市同盟との和議を国策としたことが、決して国民に諸手をあげて迎えられているわけではないということの、密かなる証明だった。
 都市同盟との休戦をおもしろく思わぬ輩が、好戦派のルカ皇子をもちあげるのは自明のこと。ましてや、ルカ率いる白狼軍が出陣した戦は、今の今まで負けを知らない。ルカ皇子さえあれば、和議などまどろっこしいことをする必要はない。都市同盟など押し切ってしまえばよいのだ、というのが彼らの意見のようだが、クラウスに言わせればとんでもない話だ。長引く戦で、ハイランド自体が疲弊しているのは識者が見ればすぐわかるではないか。ましてや、元々国土も狭い。兵糧、兵士、何もかもが都市同盟より数が足りないのだ。もし、皇王が戦を収束方向へ持っていってなければ、早晩にハイランドは自滅の道を辿っていただろう。ハルモニアの力に頼るというもっともらしい意見も耳にしたことがあるが、ハルモニアは大国すぎるのだ。あまりにその力に頼りすぎると、ハイランドは国家としての自立が保てない可能性もあった。
 クラウスが見るところ、あらゆる意味で皇王の施策は正しかったのだと思える。せめて、もう少し、皇王と皇子の仲がよければ、こんなことを案じる必要はないはずなのに。
 人々の歓喜の声を聞き流しながら、クラウスは小さくため息をついた。また、一波乱ありそうだ。その予感は遠からず的中することになる。

■□■

 父親のちょうど一歩後ろに付き従いつつ、クラウスは謁見の間へと向かう。自分よりもゆうに頭一つは背が高い父の歩幅についていくのに、クラウスは小走りにならねばならない。父親の背中だけを追いかけながら、彼はふと父の言葉を思い出していた。

 あるとき、クラウスは父に問うた。
「父上は、ルカ皇子のことをいかが思われますか?」
 クラウスが尊敬する人物である一人、ハイランドのキバ将軍は突然の質問にも戸惑いはしなかった。
「武人として、あれほど優れている方はいまいよ。ハルモニアより獣の紋章を授けられたというマウロ王と比肩できるのは、私の知る限りではルカ皇子だけだ。」
 その言葉は、皇子への賞賛であろう。が、それを口にする父の表情は、その言葉を裏切っていた。何故?武に優れたるは、ハイランドの民としてもっとも称えられるべき資質ではなかったか?ハルモニアの盾、ハルモニアの牙たるハイランドの民は、力無き王を抱かぬことが誇りではなかったのか?
 その思いを顔に出すほどにクラウスは愚か者ではなかったが、息子の考えは父親にはお見通しらしかった。
「優れた知力、武力、胆力。それ自体は決して間違いではないのだ。」
 ”判るか?”との父の問いに控えめに頷くクラウス。父の意を、未だくみかねていた。
「ルカ皇子が、王として稀にみる資質を備えたお方なのは認める。だが、鞘のない剣は危険だ。それが鋭利であればあるほどに、恐るべき凶器となりうる。今の我が国にあのお方を止められるものは誰もいない。ルカ皇子の連戦連勝の知らせに、国民はすっかり戦の興奮に巻き込まれてしまっているではないか。アガレス陛下の意思とは関係なしに。」
 国王が和平を唱えたときに、それを受け入れる条件として統帥権をルカ皇子に渡さねばならなかったほどに。
 都市同盟との和平に対する反感は、国中のあちこちで未だくすぶっている。それはきっとルカ皇子のせいだ。それなのに、和平を黙って受け入れるのだろうか。あの人は。
「ルカ皇子は、戦争の継続を望んでいらっしゃいます。」
 あの人は戦が終わることを、きっと望まない。獣の紋章の真なる継承者、ハイランドの兇王子。直接皇子に触れたことはなかったが、クラウスは確信のようにそう思う。
「私もそう思うのだよ、クラウス。」
 息子の顔を見つめた武人の顔には、何の表情も浮かんではいなかったが。
「そして、それが恐ろしいとも思う。」
 聞きたくなかったその言葉に、青年はそっと目を伏せた。


 白亜の壁に蒼青の毛氈が、真っ直ぐに謁見の間へとキバ親子を導く。相変わらず、早足で父を追わねばならないクラウスに、父の”恐怖”の言葉が、ふいによぎった。

”恐怖”

 ハイランドの武人たるキバ将軍なれば、その言葉の意味は、死を恐れるものではない。ハイランドのために戦い、祖国のために死ぬ。武人としてそれは栄誉だ。だが、戦いのための戦いは悪戯に国を弱め、武人の名誉を削ぐ。ルカ皇子の戦を好む性癖が、ハイランドを何処へと導くのか、それを父は案じているのだと、聡い彼は気がついていた。
 
──……父上のご心配が杞憂に終わってよかった。

 都市同盟との休戦協定が正式になったのは、つい先日。ハイランド軍の中核たる第2軍、ハイランドの紋章を冠した白狼軍から始まって、国境の駐屯部隊や少年兵たちで組織されているユニコーン隊、続々と帰郷の途につきつつある。惰性になりつつあった戦争は、ようやく泥沼から抜け出した。つかの間であるかもしれないが、それでも非生産的な戦争をお互いが自滅するまで続けるよりはマシだ。
 今から始まる御前会議の内容も、今までのものとは違う。戦争にかまけて、ハイランドが後回しにしてきた諸々の問題の方策を練ることになるだろう。若いクラウスの目から見ても、それはかなり手の掛かりそうな代物に思えた。だが、それでもやはり、自ら何も生み出すことのない戦に力を尽くすことよりは、クラウスにとってはやりがいのあることのように思えたのだ。

 父に続いて謁見の間への扉をくぐったクラウスの視線の先に、皇王と皇女ジルの姿がある。もう老年の域に達しようとしている皇王の面差しから、苦渋の色が薄れているのをクラウスは見て取っていた。皇王へ礼をとった目の端に、王のそばに付き従うジル皇女の姿を捕らえつつ、いつもの如くに父とともに彼の場所へと向かう。
 僅かにざわめく広間に集う廷臣の中には、皇王の弱腰を嘆く者もいるだろうが、その決断に反するようなものはいない。現に広間に集まる面々には、不満の色を浮かべた者は一人といなかった。
「父上。」
「うん?」
 ルカ皇子の姿が見えないのは、傭兵隊の砦を警戒しているからだという。ぽっかりと空いた皇子の席は、形にならない不安をクラウスに与えた。
 口にしてしまえば、それはリアルと一緒にここへとやってくるような気がして、次の言葉を上せられない。
 廷臣らの目の前で皇王アガレスが立ち上がる。最初に口にする一言は、戦争の終結を宣言するものであり、それこそ、皇王が最も待望していたものであるはずだった。
「…!」
 前触れもなにもなく、それは突然訪れた。
 広間の扉が開く。飛び込んできた兵士のただならぬ様相に、その場がしんと静まり返る。まろぶようにして皇王の前へと走り込んだ兵士は、許しを得ることもなく叫ぶ。
「帰還途中のユニコーン部隊が、都市同盟の奇襲にあい全滅しました!」
 広間にその声が響いたときに。空気がぞわりと揺れたときに。クラウスにははっきりと見えた気がしたのだ。
 炎と、同じ色をした血と、はじまり。
 ルカ皇子の面貌が、脳裏をよぎったのは彼の直感だった。タイミングの良すぎる事態に不信感を抱いたのは、もっと時を経てからの話。そのときは、彼も多くの軍人と同じように悲壮な決意を固めるしかなかった。
 我らの皇子とともに、最早行き着くところまで行くしかないのだ、と。

(2003/05/19)


※極々普通で、穏健派の軍人クラウス…という設定で、ほかのハイランドキャラが全く絡まない話…というのが最初のコンセプトだったのですが、なんだかつまらない話になりました(涙)例によって最後が薄くなってるのが…辛い。(;;)
モドル