ひきこもりが長すぎたせいでしょうかねえ、と菊は心中溜息をついた。目の前に並ぶアルファベットの羅列は、意味不明の記号にしか見えないし、傍らで英文を読み上げてくれるアーサーの声も、右から左へ流れていくばかりなのだ。
――せっかく忙しい時間をぬって、アーサーさんが英語を教えてくださっているのに…。
個人授業も今日で三日目。なのに、アーサーが読み上げている部分がどこかすら、菊には分からないのだ。アーサーのリーディングは続いている。菊は、恨めしげに外国の本眺めつつ、それでも頑張ってアーサーの声についていこうとはしてみた。
―駄目です、お経にしか聞こえない…。
語学は昔から不得意だったが、これほどとは我ながら情けない。自己嫌悪で煩悶している菊に、アーサーは全く気付いていないようだ。全然ついていけていないことが、彼にばれていないだけまだよかった。菊はそう思いつつ、朗読を続けるアーサーにちらりと目を走らせる。
窓辺からはいつの間にか、柔らかな午後の光。密かに菊が憧れている彼の髪が光に揺れてる。伸びた背筋や、文章を追って上下する緑の目、低い声。
―アーサーさんって綺麗だなあ。
勉強タイムの苦痛から逃れたさに、つい現実逃避で埒もないことを考えてしまう。年を食ってから引きこもりに突入したせいで、他人と付き合うすべを忘れかけてた自分。さらには世界に置いて行かれることを恐れるあまり、なりふり構わず行動した自分。しかも、アーサーと比べれば、もはや老境にいる自分と、どうして彼のような人が同盟してくれたのか。役に立てるとは思わないけど、せめて迷惑だけはかけたくないのに。
―嫌われたくないです、こんなきれいな人に。
「おい、菊。」
「は、はいっ!?」
「ちゃんと聞いているのか?」
「聞いてます…。」
嘘だった。アーサーにもそれはすぐにわかったのだと思う。本の閉じる音に、菊の体が縮こまる。
「今日はこれで終わりにする。」
やる気のないやつには、何をやっても無駄だからな、そんな捨て台詞が菊の背中に突き刺さる。違うんです、そうじゃないんです、私はただ。そう言いたくて、顔をあげた時には、部屋を出ていくアーサーの背中が見えた。声をかける間もなく、ドアの向こうに消えた姿に菊は今度こそ本当に溜息をついた。
ふらふらと部屋を出たものの、他に行く場所があるわけでもないのだ。庭に木陰に座り込んでから、菊は自分が本を手にしたままだと気づいた。ページをめくれば、スーツを着た卵、はばたく鳥たち、バラの花束、大きな橋の絵。
人差し指でたどりながら、たどたどしく文章を追いかけてみた。辞書もないので、危ういことこのうえない。マザーグースだとアーサーは言っていた。昔からイギリスにある童謡を集めた本だと。ならば、そんなに難しくないはず、たぶん。
「ええっと…ろんどん、ぶりっげ?いず ふぁっりんぐ ど、??」
アーサーの声を思い出してはまねをしようと努力はしているのだ。が、こぼれおちたのは英語とはお世辞にも言えないたどたどしい言葉。当然だ。ローマ字読みが菊の限界なのだから。あまりにも無様なフレーズに、スタート地点から蹴躓いた気分になる。
「いや…読書百篇、意自ずからと言いますしね…。」
一見無駄に思えるこの行為も、百回繰り返せばきっとアーサーのようにしゃべれるようになる、はずだ。
「ふぁっりんぐ、どん、ふぁっりんぐ、どん。ろんどん…」
「あーーもぅっっ!!聞いてられっか!!お前、俺の読んでんの、本当にちゃんと聞いてたのかよ?!」
突然、言葉と共に、菊の隣に誰かが乱暴に腰を下ろした。緑色の瞳がぐいっと菊を睨みつけている。
「あ、アーサーさん、えーっと、えーっとですね。」
アーサーの乱入に菊が慌てる暇もあればこそ、アーサーは菊の手から本を奪い去った。
「いいから!俺が今から読むから、そのあとでお前も同じように読め!訳も言うから覚えろよ、いいな!」
「は、はい…。」
「俺と同盟を結んだ奴が、英語くらい話せないなんて、俺が恥ずかしい。」
「す、すいません。」
菊の膝の上に、再び本が戻ってきた。大きな橋の絵のページ、アーサーが身を乗り出して文章を指し示して読み上げる。
London Bridge is falling down,
Falling down, falling down,
London Bridge is falling down,
My fair lady.
菊は、アーサーの声を追いかける。まるで歌のような青年の声に合わせて。さっきまでの無様な音読は、彼の人の声とまじると別の物のごとくに響く。声を追うのに夢中で、あっという間に1Pを読み上げていた。
「……やればできるじゃないか。」
「はい、いえ、きっと……」
アーサーさんの教え方が上手だから…。うつむきかけた菊の肩がぐいと掴まれた。
「お前、その癖やめろ。」
「え……」
「弱気を他人に見せたら負けだ。つけこまれる。」
こんな風に。と。さほど力を込めたようにも見えないのに、菊の体はあっという間に、アーサーの方に引き寄せられる。
「目を伏せるな。俯くな。」
腕の中で、ただただ菊は目を白黒させた。アーサーの腕にさらに力がこもる。
「できるって信じろ。諦めるな。負けるもんかって思え。少なくとも……。」
呼吸が止まってしまいそうだ。いや、もうきっと止まっている。アーサーの腕に抱かれて。耳元で彼の声がする。
「俺は今までずっとそうしてきたんだ。」
熱を帯びた言葉に、体を動かすことすらできない。これはいったいどうなっている?
「あ。ア、アーサーさん?」
「さっきは俺が言いすぎた。すまん。」
「いえ、そんな…ことはありません。」
悪いのはアーサーではなくて、期待にこたえられない自分なのだ。アーサーが謝る必要など、どこにもないのに。いや、それ以前に。
「アーサーさん、あの、ですね・・・。」
この体勢はいったい何なのだ?アーサーに抱きしめられている。いや、それこそ自意識過剰…だ。わかってはいても顔が熱くなる。アーサーにはそのつもりはない、きっとない、に決まっているのに。
「あー…。」
妙な期待をしないためにも、己の感情の処理に四苦八苦していた菊は、アーサーの声に気づくのに一瞬遅れた。
「………。」
「えーと、菊?」
「はい?」
アーサーにぎゅっと抱きしめられたまま、未だに菊は動けない。アーサーの背中は見えても、表情まではわからない。まさか、まさか、まさか。妙なフラグがたってしまったのではないだろうか?
「こんなにがちがちになられちゃ、俺も逆にどうしたらいいのかわからなくなるんだが。」
「え?わ!はいっ、すいません!!」
アーサーの体を突き飛ばさん勢いで、互いの体をひきはがすと目を丸くしているアーサーの顔が見えた。そして、それがすぐに笑顔に変わるのも見えた。とても優しい、その笑顔、今まで見たこともないような、それ。
いや、そうではなくて。何なんだ、一体このおかしな雰囲気は?!もしかして、もしかして?
「あ、あの。」
「俺は、お前にもっと強くなってほしい。そして同じ強さで俺の隣に並んでほしい。」
「……」
「俺たちは同盟を結んだんだ、だから二人でもっと大きくなろう。な?」
アーサーが笑う。まっすぐなそれが菊を射抜く。励ましと期待、それだけの意味しかない笑顔を見て、膨らんだ期待が大きな音を立ててしぼんでいくのを、菊は確かに心の中で感じていた。同時にわかってしまう。期待していたのが自分自身だったことにも。アーサーの行動一つ一つを勝手に自己解釈してただけだったのだ。彼にはそんなつもりは、毛頭なかったというのに。
「菊?」
ひきこもりすぎたのだ。気付かぬうちに、人恋しくて、人寂しくて、誰かの優しさに飢えていたに違いない。偶々差し出された優しい手に、過剰にすがってしまうほどにそうだったのだ。そんな自分を菊は恥じる。こんなことでは、大英帝国の同盟国を語るなど、おこがましいにもほどがある。
「おーい、菊?」
アーサーが菊を見ている。綺麗な人、だ。菊が今まで出会った人たちの中で、きっと一番綺麗。こんな綺麗な人が隣に立ってくれるのだから、頑張らねば。彼に認めてもらうために。そう思うと、自然、笑みがこぼれた。
「アーサーさん、私、がんばります。」
「あ?ああ、そうだな。」
何故か赤面するアーサーに、もう一度笑いかけた。同盟相手として選んでくれた、そのことを絶対に彼に後悔させない。久々にできた盟友、友達だ。大切にしなければ。たとえ、同じ思いを抱けなかったとしても。
菊は気付かなかった。彼曰くの”友達”が頬を明らめた理由や、対等の関係を気付いたうえで、その後何を望んでいるかも。とはいえ、まだまだ国際社会に出てきたばかりの菊にとっては、彼の思惑も今後の予定もまだまだ未分化の未来の話だ。
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