モドル

■仮面

雨の日も風の日も、暑い日も寒い日も、彼はいつでも仮面を外して自分の前にあらわれたことがない。
「サディクさんは、どうして仮面を外さないんですか?」
 畳に胡坐で座り込んだサディクは、仮面を付けたまま、器用に汗をふいている。日本の習慣に彼もだいぶ慣れたようだ。胡坐に団扇で、残暑厳しい日本の夏にいる彼の存在に違和感はない、仮面以外は。
「いや、まぁ、一応礼儀といいますか。遠慮してるつもり、なんですがね。」
 ポチ君がなつくくらい頻繁に遊びに来ておいてよくも言えたものだ。呆れつつ軽く睨みつけてやると、自覚があったらしくサディクも顔を俯けた。
礼儀云々の話になるなら、まずは胡坐だの言葉づかいだのそっちのほうがよっぽど先ではないか。
「今の季節、仮面をつけたままじゃあ暑いでしょう?服がTシャツなのに、どうしてその仮面だけは変わらないんですか?」
「い、いや、いや、この仮面は俺のアイデンティティといいやすか、俺の一部といいやすか…それに別にそんなに暑くないですぜぃ。」
 菊は黙って、先程からサディクの手でフル活動している団扇を見、彼の汗を見るに見かねて手渡した手拭いを見、もう一度サディクの顔に目を移す。またもやサディクは俯いてしまった。
「……まあ、とりたくないものを無理にとれとはいいませんけど。嘘はやめてくださいね。」
 昨日や今日に始まった友達づきあいではないのに、なんだかわけ隔てをされているみたいではないか。ちゃんと言ってくれれば、扇風機だって準備しておくし、頑張ってクーラーを買ったっていい。お財布は軽くなるけれども、友達に嘘をつかれるよりもずっとマシだ、多分。
 サディクは未だ俯いている。なんだか菊は自分が悪人になってしまった気分になった。途端にいつもの弱気が顔を出す。
「べ、別にサディクさんの素顔が見たいとか…そういう興味本位でいっているわけじゃないんです。その…ちょっと寂しいといいますか、ヘラクレスさんやアーサーさんから見たことあるってお聞きしたので…その、すいません。」
 ヘラクレスはとにかく、アーサーはサディクと会議でしか会わないような間柄だと聞く。その彼すら見たことがあるサディクの素顔を、プライベートでの付き合いもある自分が見たことないなんて寂しいと思っただけなのだ。
 二人して俯いてしまったら、ひぐらしの声ばかりが耳についてしまう。言葉の接ぎ穂も飲み込まれて、何を話したらいいかわからない。
「………………菊さんが…思い出してくれるまで……。」
 そんな空気を破ったのは、サディクの押し出すようなこの一言で。え、と思わず顔を上げる菊の前。サディクの団扇は止まっていた。
「…俺のことを思い出してくれるまでは、仮面はとらない、素顔を見せない…とか勝手にですねぃ…」
「……」
「いやっいやいやいや!!!な、別に特にあれってわけじゃないんですぜ!!!あてつけとか、そーいうんじゃなくっ!!!ただ、俺のプライドていいやすか、ちょっとした意地っていいやすか…そーいうなんていうか下らないことなんで…!!」
 サディクの顔が赤くなり、また青くなって赤くなった。言うだけ言ってしまうと、またもや菊から目をそらしてしまう。勢い余ってまずいことを言ってしまった、ああどうしよう、そんな声が聞こえてくるようだ。しかし。
「思い出してほしい…って…」
 猛暑だろうが、熱帯夜だろうが絶対に仮面を外さないぞと願掛けさせるくらい、菊に思い出してほしかったことがあると、サディクはそう言っている。
「…………………………」
「そこまでいってだんまりはずるいと思いますよ、サディクさん。」
 こんな中途半端なまま、なかったことにはできない。サディクだってわかっているはずだ。明後日のほうを見たまま、こっちを見ないサディクを菊は見つめる。ただ黙って待っている。

「初めて会った時のことを、思い出して欲しかったんでさぁ。」

 たぶん、たっぷり三分は黙ったままだった。もしかしたらもっと時間がかかっていたかもしれない。サディクが重たい口をようようにあけた。

「初めて、会った時のこと?……。」

 初めて会った時のこと、を。それが、遠い昔の―菊の生きてきた時間から考えればほんの少し前の―あの、嵐の夜のことなのだと気づくのに数秒かかった。そして、何故に今更のようにサディクがこんなことを訴えてくるのかに思い当たるのにも、さらに数秒。
 思い当たった途端、居たたまれなくなったのは実は菊のほうだ。
 つまりは、サディクが借りを返しにと訪ねてきたときに、自分がすっかり彼を見忘れていたことはばれていたのだ。無論、何度かサディクが訪ねてくるうちに、ちゃんと思い出したのだけれども、今更そんなことを言えるわけもないわけで。
 騙したくて騙したわけではないとはいえ、友だちに嘘をついたことには違いない。
 さらにはこのまま誤魔化せるかも、と思うどころか、嘘をついていたことすらすっかり忘れていたのだ。

「……サディクさん」
 サディクの前で、菊は居住まいを正す。膝に手を載せ、正座のまま深々と頭を下げた。
「本当にごめんなさい。」
「はぇ?」
「訪ねてきてくださったときに、あなたの事を思い出せなくてごめんなさい。思い出してからも、ちゃんと思い出しましたって言えなくてごめんなさい。」
 一気にそう言ってしまうと、畳に頭がつきそうなくらいさらに頭を下げる。事なかれ主義の自分が恥ずかしい。忘れ去られてしまっていることは、きっとサディクを傷つけたに違いないのだ。
「菊さん。菊さん。」
 下げた頭のつむじに、温かく大きな手のひらがおかれる。
「俺の事、思い出してくれたんですねぃ?」
 恐る恐る顔を上げる菊を、サディクの笑顔が覗き込む。褐色の肌に菊と同じ黒い瞳。なのに、アジア人種とは違う彫の深さが、彼を異国の人間だと教えている。仮面を外したサディクの顔、そう、嵐の夜に、この人を助けた。彼の顔を見て、よりはっきり記憶がよみがえる。
「思い、だしました。今、はっきり。いえ、だいぶ前から思い出してはいたんですが…。」
 ああ、未だに言い訳めいたことをいってしまう自分の性格が、今日は本当に恨めしい。
「……く、くく、やっと思い出してくれた、菊さん、俺は、俺は今とてもうれしいんですぜい!」
「わぁっ!!」
 サディクの体は、菊のそれの一回り以上大きい。笑顔のサディクが菊を抱き締めれば、腕の中にすっぽり収まって埋もれてしまう。
「ちょ、ちょ、ちょっと!サディクさん!苦しいですっ、放して下さい!」
「…このまま思い出してもらえないままかと思ってやした。俺は、あんたにとってその程度の存在だったのかって。」
「え?」
 サディクが菊の体を放す。笑顔のままだ。悲しげな先程の言葉がまるで空耳だったかのように。
「ようやく菊さんに恩返しできるってことでさ。」
「あ…。」
 そういう、意味だったのかと何故か菊は少しほっとしたのだ。サディクの言いたいことが、もっと別にあるような気はする。でもそれは、今のこの居心地の良さを一瞬にして何か別のものに変えてしまいそうな、そんな爆弾のようなもので、触れるのが怖かった。
 だから、膝を払って勢いよく立ちあげるサディクを見上げて、菊は己の疑問を追及するのをやめた。だって、サディクは笑っていたのだから。

「では、菊さん、恩返しの手始めに、今日の晩御飯は俺が作るっていうのはどうですかい?」
「あ、ありがとうございます。助かります。」
「なんの、菊さんのためだったら、お安いご用ですぜ。」
 
 再び仮面を身につけて、何でも言って下さいよ、とサディクは笑っている。いつものように、明るい笑顔で。だから菊は安心する。仮面に隠れ、見えないはずなのに笑顔なのだと思いこんでいる自分に、少しも気づかずに。



 サディクが好きとか嫌いとか以前に、居心地のよい関係を続けていたいと思っていることを意識してない…そんな感じ。とことん報われないサディクさんですが、これでも私にとっては好きキャラです。

09/12/15
 
モドル