蝶々はひらひら、風がゆらゆら、青年のアホ毛もそれに合わせてふわふわ揺れている。膝を抱え込んで、土手に座り込むヘラクレスの姿を目にして、声をかけたのはサディクのお節介なのだ。好き嫌いはとにかく、ヘラクレスともかなり長い付き合いだ。お互いの機嫌はなんとなく読めてしまうから、怒っている青年の背中を放っておけなかった。
「で、今日は何に拗ねてんだぁ?」
座り込むヘラクレスの顔を背後から覗き込む。と、黙って顔を背けられた。今に始まったことではないとはいえ、非常に可愛くない。
「アーサーの野郎がまた酔っ払って乱入してきたのか?」
ぷい。
「まさか、猫が相手してくれないとかじゃあねぇだろうなぁ?」
ぷい。取りつくしまもない。慣れてはいるのだけれども、なんだか腹が立ってきた。
「人生の先輩に対して、いい態度じゃねぇか?」
羽交い絞めにして、軽く肘を首に回してやれば、腕の中でじたばた暴れている。
「ううーっ!サディク、死ね、放せっ!」
声が聞けただけましとはいえ、第一声がこれとはあんまりだ。殺したいほど憎まれるようなことをした覚えはない、と思う。
「なんでお前に毎回毎回死ね死ね言われなきゃなんねぇんだ、ったく。」
サディクの手を振り切って、ヘラクレスはこっちを睨みつけている。どうしたもこうしたも、ヘラクレスはサディクのことが嫌いらしい。こんなことで傷ついてしまうほど若くもないが、かといってグプタのように受け流せるほどサディクは人間が出来てなかった。
「お前なあ、いい加減、大人な態度の一つや二つはできるようになっていい年ごろだろうが?えぇ?」
「サディクに対しては、無理……やりたくない。」
「…なんだとこのやろう、喧嘩売ってんのかよ、てめぇは?」
「売ってる。サディク、死ね。」
「く、ぐ、ぐぐ、この、なんつー生意気な…。」
今まで色々面倒見てやったし、可愛がりもした。なのに育つだけ育ったらこの態度。なんだか段々腹が立ってきたサディクである。そもそもの発端は、よせばいいのに自分がヘラクレスに声をかけたことであるのだが、そんなことは彼の頭の中からすっぽり抜け落ちていた。売られた喧嘩を買わないのは男ではない。
サディクのこぶしにぐぐっと力が入ったところで、ふと菊の言葉が、彼には聞えたような気がしたのだ。
――好き勝手なことをいうのは、相手なら許してくれるだろうって思ってるからですよ。
ヘラクレスは顔を合わせればいつも、こっちに喧嘩を吹っ掛けてくるのだと。憎まれ口ばかり叩いてくるのだと、珍しくもサディクが菊に愚痴ったある日のことだ。菊はサディクの話を、いつものように微笑みながら聞いてくれていた。
「大体、あいつは人の顔みりゃ死ね死ね死ね死ねって、失礼にもほどがあると思いやせんか?」
「そうですねぇ。」
「匂いが移るとかなんとか、俺が風呂に入ってないみたいな言い方しやがって。」
「おやまあ。」
「俺が何をしたっていうんですかい?近づいただけで嫌みって、いじめられてるのはむしろこっちだと思うんですがねぇ。」
最後は本当に愚痴になった。そりゃあ、お互い長い間生きてきている。しかもずっと隣合わせで、時には喧嘩もするだろう。それはそういうもんなのだと、サディクとしてはいいたいのだ。とはいうものの、サディクにも負い目があるから、とことん強気にも出られない。ヘラクレスの気持もわかる。彼にひどいことをしてきた自覚はある。自分のほうが年上だし、我慢するべきなのだ。大きな心で受け止め、許すべきなのだ。
だが。こうも顔を合わせるたびに死ね死ねでは、いくらなんでもストレスがたまってしょうがない。サディクだって木石ではないのだ。正直、傷つくし腹も立つ。グプタに愚痴を言おうにも、立場が近すぎて憚られて、で、結局菊が相手になったというわけだ。菊になら弱みを見せても、それをネタにサディクに不利を図ったりはしない、はずだ。
サディクの一連の愚痴を、短い相槌を打つ以外はただ黙って聞いていた菊が、ふと微笑む。
「…羨ましい。」
「はい?」
”大変ですね”でも、”気を落とさないで下さいね”でもない。”羨ましい”?あまりにも予想外の菊の言葉にサディクの目−仮面の下で菊には見えなかったが−丸くなる。菊の真意がわからない。百歩譲って、誰かと喧嘩をしてみたいとか?それならば分からなくもないけれど。サディクは、怒りに震える彼の姿を思い描こうとして、努力して、無駄な努力を重ねた結果、諦めることにした。
「変ですか?私が羨ましいって思うのは。」
「変、っていいやすか…俺にゃ理解できませんや。」
「ヘラクレスさんとサディクさんは、よく喧嘩をなさるでしょう?」
よく、どころか、顔をあわせれば喧嘩するような仲なのだが、そこはサディクも敢えて言わない。
「どうして喧嘩になるんだと思いますか?」
「そ、そりゃあ、あれですぜ。ヘラクレスが、俺を嫌っているからじゃないですかい?」
そうでしょうか?と菊が微笑む。
「私は違うと思いますよ。喧嘩になるのは、ヘラクレスさんもサディクさんもお互いに遠慮せず、思ったことをおっしゃるからではないかと思うんです。」
私にはヘラクレスさんもサディクさんもとても気を使って話しかけてくださるでしょう?と菊は言うのだ。いや、それは俺があんたに下心があるからです、といいたいところだが、サディクはぐっと我慢した。
「好き勝手なことを言えるのは、相手が許してくれるだろうとどこかで思っているから。」
そんなこと、あるわけない。自分はとにかく、ヘラクレスはそんな風に思ってはくれてはいまい。喧嘩するほど仲が良い、などとのんきな言葉を冠するには色々ありすぎた仲なのだ。サディクが手を差し伸べても、きっと彼はその手を振り払う。そんなことを何度も何度も、いやになるほど繰り返してきたのだ。菊が思っているような、そんな関係ではない。
「お二人とも相手に気を許していらっしゃるのです。だから、そんな相手がいるお二人が羨ましいと、そう申し上げました。」
そういってふわりと微笑む菊の前に、サディクは言葉をなくしてしまう。気を許しあう仲になるなら、ヘラクレスみたいな生意気な坊主よりも、菊とそうなりたいと言おうと思ってはいた。が、目の前の菊が、珍しくも固く信じ込んでいる様を見ているととても言い出せない。さらには、もしかして菊の言うことが当たってるのではないかとすら思えてくるのだ。
お互いに気を許している?本当に??
こぶしが飛んでくるのを予測して、ヘラクレスはすっかり戦闘体勢に入っている。いつもなら、望むところと応戦するのだが、サディクの心に聞こえたのは、菊の言葉とその笑顔。喧嘩する気もうせてしまう。お互いに気を許している?なんて、100%サディクは信じたわけではないのだけれども、それでも、やっぱり、どうなんだろう。
「あー、まあ、なんだ。今日はやりあおうのはなしにしようや」
「……?」
「この間、菊さんに会ったときに、喧嘩するのは仲がいい証拠だとかなんとか。思い出しちまってよう。菊さんの顔を思い出したら、なんだか気がうせたちうか…へへ…」
菊の微笑みを思い浮かべつつ、サディクも苦笑する。あの笑顔を思えば、ヘラクレスの不快な態度がなんだというのか。一度や二度の悪口など、笑って受け流してみせよう。
「……。」
「まあ、そういうこった。お前ももうちっと大人になれやぃ。」
「…」
菊との思い出に心をはせるサディクには、目の前のヘラクレスがどんどん剣呑な雰囲気を増していくのに気づかない。のんきに菊の所作を思い出したりしているわけだ。
菊の話のおかげで、ヘラクレスと仲良くできそうだなどと伝えたら、きっと彼は喜ぶに違いない。次に会うときが楽しみだ。今度は何をお土産に持っていこうか・・・。幸せな予感が、サディクをよぎったその時に。
「サディク、死ね。いや、殺す。」
間違いなく殺意を持ってふりおろされたそれ。間一髪でよけた自分をほめてやりたい。サディクの脳天をロックオンしているのは十字架だ。ギリシャのアトス山を象徴する、聖なるアイテム。武器でないとはいえ、いくらサディクでも当たったら痛いどころの話ではない。
「お、おいおいおいおいっ!!」
「気安く、菊の…名前を呼ぶな…死ね、サディク。」
「な、なんで菊さんの話をしたら、お前に命を狙われないといけねえんでい!!」
わけがわからない。わけがわからないが、間違いなく目の前の相手は本気で怒っている。
「サディクに…菊は、渡さない…。においうつる、から。」
「はぁ?!」
「菊は、渡さ…ない。」
ぶんっ。再度振り下ろされたヘラクレスの武器が空を切る。間髪いれず、横ないでくるそれをサディクは難なくよけた。隙さえつかれなければ、サディクの戦闘能力はヘラクレスの数倍以上、かすりもしないのは当然だ。
なるほど、なるほど。そんな理由でそんな理由でこの所業か。
「わっけのわからん理由でぇ…てめぇは何言ってんだよっ!」
「菊は、渡さない、絶対…。」
「渡すとか渡さないとか、なんでお前が決めてんだっ!」
決めるのは菊だろう。いや、そもそもなんでそんな話になるのか。ヘラクレスも菊が好きなのだ。それはなんとなく感じていた。好戦的になる気持ちもわかる、わかるがそこを押さえるのが大人の対応というもので。
ほんの一瞬、菊の困ったような笑顔が浮かんで、それはそれでサディクのやる気をそいではくれたのではあるが。こぶしを固めて、もはややる気満々状態になってしまった今となっては焼け石に水であった。
菊さんになんて言い訳しようかねえ、とまるで人事のような感想を抱いたサディク。後はいつもの、嫌になるほど繰り返してきたヘラクレスとサディクの、喧嘩の幕が開く。
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