モドル

■境界線
 いつの頃からか、サディクが菊の家に寄ることが多くなった。何かのついでだとか、暇だったからとか、最初の頃はまだなんやかんやと聞いたような気がするが、そのうちその口実すらもなくなった。
「来たかったから、来ちまいました。」
「ああ、そうですか。」
 そんな返事をしてから、どうやらサディクとしては菊のお許しを得たつもりらしい。三日にあけずやってくる、そんな彼をお客様扱いするのもなんだか馬鹿らしくなってきた。
 そもそもいったい何の用でやってくるのか。食材持参でトルコ料理―正直、美味しかった―を作ってもらったり、夜遅いから泊めてくれ、で布団を準備したり、そんなときにふと我に帰るときがある。これではまるで…、と。しかし、そのような感情を抱くこと自体、サディクに対して失礼なような気がするのだ。
 皿を洗う手を少しだけ止めて、菊は畳に座り込んだサディクの背中に声をかけた。
「今夜はどうなさるんですか?」
「そうだなあ、夜も遅いから泊めてもらえるとありがたいんですがね。」
「はい、はい。」
 いつもの会話で。本当に、決まり事のように同じ会話だったので、菊は考えることをやめよう、そう思った。

「この縁側ってのはいいですねぇ。」
「そうですか?」
 涼しいし、気軽にゴロ寝ができるのがいいらしい。
「気楽だし、風が気もちいいねえ……。」
「そうですね。」
 お互い風呂上がりで、少々冷たい夜風がちょうどよい。菊の浴衣はサディクには小さすぎるのだが、つんつるてんなのが、全く気にならないらしい。腹立たしいことに、パジャマでは全くサイズが合わないのである。
 脛が半分見えてる状態で、縁側でゴロゴロ、大の男がみっともないと思わないわけでもないが、気にしないことに決めた。外国人(サディク)の感覚を、日本人(菊)と同じように考えるのは無理が、ある。
 菊はサディクの故郷を知らない。お国事情も知らない。そんなに気に入ったのならば、自分の家にも縁側を作ればいいのに、と思う。だけど、自分よりもずっと大きな彼が、そうやってくつろいでいる姿を眺めているのも、それはそれで最近楽しい、ような気がする。また、ふと我に帰った。なんなのだろう、この感じ。久しく感じることのなかったように思うのだ。
「サディクさん、布団しきましたけど?」
「おう、それはありがたい。」
 二人分の布団を敷いて、一人だと面倒くさくてやらないけれど、久々に蚊帳なんかを釣ってみたりする。一年ぶりに引っ張り出したから、きっとどこかに穴の一つや二つあるだろう。蚊取り線香を焚いておけば大丈夫、そう思うことにした。それにいくら言っても、サディクは寝る前に仮面をとらなかった。だから、少なくとも顔だけは蚊の攻撃から守られる。
 ああ、しかし。誰かの隣に布団を敷いて眠るのも、思えば随分と久しぶりだ。
「電気消してもいいですか?」
「いいですぜぃ。」
 灯りは消えても、真闇にはならない夏の夜だ。布団に入った菊の視界には薄闇に切り取られた夜の庭。囁く虫の声。時々ひどく恐ろしくなるそれが、今は少しも恐いとは思わなかった。何故だろう、わからない、菊にはわからない。

「菊さん。もう寝ておいでですかい?」
「いいえ。どうかなさいましたか?」
 寝入ったとばかり思っていたサディクが話しかけてきた。
「ちょっと話してもいいですかね?いや、別に聞いてもらえなくてもいいんです、俺が話したいだけなんでね。」
「いいですよ。私もすぐには眠れそうにないですし。」
 サディクに体を向ければ、彼もすでに同じ体勢で、肘をついて寝ころんでいる。菊と目があうとにやりと笑った。
「菊さん、なんで俺がいつも泊まりに来るんだろうとか思ってますね?」
「……」
 暗がりの中で、真っ白な仮面が楽しそうに揺らぐ。隠していたつもりが、見透かされていたのだ。夜でよかった。図星を指された表情を、相手にみられなくてすんだ。
「俺も国に帰れば、菊さんと同じようにずっと一人で暮してるんでね。菊さんは、俺の国に来たことがありますかい?」
 菊は黙って首を振る。
「からっからに乾いてましてね、何もかもがぎらぎらしてるっつーか、空も海も突き抜ける位に鮮やかなんです。町は賑やかだけど、それなりにのんびりしててですね。住んでるやつらも…そりゃズルイのも多少いるけれども、根っこはみぃーんな正直もんばかりで。…っと、こんな話はつまらないですかね?」
 いいえ、と首を振った。気をつかったからではない。滅多にないサディクの饒舌に、故郷への思いを感じ取ったからだった。正直うらやましい。自分は胸を張って他人に祖国が好きだとは言えない。
「俺は自分の国が好きでね、正直なところ、あんまり他の国で暮すのは好きじゃあありません。」
 ま、侵略するなら別ですなんですがね、平然と物騒なことをサディクは口にした。
「ましてや、菊さんの国は俺の国とは、全く正反対。菊さん、俺があんたを見つけた時、あからさまに避けてやしたでしょ。ああいうのが俺には考えられないんでね。」
「日本では顔を隠して歩く人は、後ろ暗いところのある人と決まっているんです。」
「そうなんですかい?」
「そうなんです。」
 布団を隔てたサディクが笑いをこらえているのが、夜を隔ててもわかった。人見知りは自認していたけれども、そんな風に言われてしまうと菊だって少々傷つく。反論したい。だけど、きっとこちらを楽しそうに見つめているであろう青年に、真っ向からぶつかり合う気持ちには何故だかなれなかった。
「まあ、そういうことにしておきやしょうか。で、俺が故郷と全く違うってわかってるのに、何故ここにくるのかというと。」
 今の話からすると、この国ときたら、人見知りが多いし、奥手で、じめじめしてて、空も海も曖昧で、 いつもせかせかしていて、家は狭くて、サディクの国と比べて、いいところなんて何もない。少々卑屈すぎるとも思わないでもないが、 実際、自国の長所なんてまるで思いつかない。そう思うから、菊だってサディクの理由が知りたい。
「菊さんに、会いに来てるんですよ。」
 和食が気に入ったからでしょうかね?とのんびり推測していたが、予想外のサディクの言葉に菊の目が点になる。
「例えば、昼食を菊さんと一緒に食べるだけ、枕を並べて眠るだけでもね……俺も最近気づいたんですがね、その菊さんがいると ……それだけで、世界の色が全然違って見えるんでさ。」
 それは、例えば、夜の庭が怖くなくなったり。手の込んだ料理に挑戦したくなったり?
「俺も一人が長かったんでねぇ。こう、慣れちまってたんですがね。いざ、こう菊さんと一緒に過ごす時間ができると、逆に一人の時間が際立っちまって。何もなくても、一緒にいてるだけでも楽しいんですよ、俺としては。」
「わかるような気がします。」
 そうだ。自分も同じように感じていたのだ。ぼんやりと過ぎていく日々に慣れて、一人になれて。サディクがやってくるまでは、そうだった。
「私もこんな性格ですから、なかなか知り合いもできなくて、だから、友達が来てくれるなんて、あまり経験がないんです。でも、こんなに楽しいことだったとは知りませんでした。」
「はは、俺みたいなのがいつも入り浸って、嫌われてたらどうしようと思ってましたよ。俺としては、菊さんに嫌がられてなくて、一安心ってとこですかね。」
「嫌がってなんて……ただ、私みたいなののところへ、どうしてサディクさんが遊びに来てくださるのかがわからないので、ちょっと戸惑っていたんです。」
 何気なく口にしたその言葉が、実は核心だったことに、菊は全く気付かない。自分の次の言葉が、サディクの言いたいことを封じ込めてしまったことにも。
「でも、サディクさんは私のことを友達だと思ってくださってるんですよね、それがとても嬉しいです。」
「………………」
「サディクさん、もう寝ちゃいましたか?」
「………あー、そう、ですね。…………海をこえる友情ってのも、なかなか乙なもんじゃないですかい?」
「ええ、私もそう思います。」

 

 深更。世にも幸せな顔で眠りにつく菊を見下ろすサディクは、夜よりも深く溜息をついた。遠い昔に、菊が自分の命を救ってくれてからの長い年月が思い浮かぶ。
「いつまでもお待ちするつもりでしたけどね、菊さん。あんたが俺に気づいてくれるまで。」
 菊のお国柄に合わせて、さりげないアプローチを心掛けてきたのが裏目にでたのだろう、と。さらには、対人経験が少ない彼の、あり得ないほどの鈍感さも計算外だった。先ほどの会話を思い出す。長年の努力の結果が”友達”とは…。 多少なりとも、自分を意識してくれていればと思って仕掛けた会話が明らかにしたものは、自分が菊にとってはそれ以下ではないものの、 それ以上の対象にもなっていないという気の滅入るような現実だけなのだ。
 これからの道のりの長さを思うと、目眩がしそうだ。夜がみちても、サディクはとても眠れそうになかった。


いくら外交スキル0でも、鈍すぎるんじゃないだろうか。

アップ日08/12/15
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